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本記事では医学(いがく、medicine, medical science)について解説する。
医学とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である[1]。
「醫學」という言葉は、中国では明の政権が安定する15世紀頃から、よく用いられるようになり、「醫學○○」という書物が多数見られるようになった。
仏教圏において、「医」の象徴として薬師如来が知られていることからも判るように、「医」は元々は漢方等の「薬」を扱っていた者によって行われていた。古代中国においては、「医」は主に道士や法師等によって営まれ、宗教と密接に繋がっている。伝統中国医学は、単に「医」または「医方」と呼ばれており、勘と経験に頼る部分が非常に大きかったが、明時代になると、鍼灸だけでなく、漢方薬においても、中国の根本的な理論である陰陽五行思想や経絡理論など、理で固めるようになり、理論的・学問的な色彩が強くなった。それを強調するために、あえて「醫學」という言葉が用いられるようになったのである。
また、「医学(醫學)」という言葉は、「哲学(哲學)」「民主主義」「社会(社會)」などと同じように、明治時代に英語・ドイツ語・フランス語などの「medicine(英語)」や「Medizin(ドイツ語)」などを翻訳する時に作られた造語(新漢語)のひとつ、とする説もある。
まず世界全体の医学を概観すると、世界各国には様々な医学があり[2]、例えば、中国伝統医学、イスラーム医学、西洋医学 等々がある。
ギリシャ医学 、ユナニ医学(イスラム医学) 、中国医学 、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)、チベット医学など、歴史が長い医学を、まとめて伝統医学と呼ぶことがある。なおこれらの伝統医学は各地で現在でも用いられており、現役の医学である。
医学における実践とは、ある考えに基づいて病気の状態を判断し治療方法を決定することなので、医学の相違は、治療方法の違いよりも、考え方の違いで判断されるべき[3]と三浦於菟は説明した。
世界各地にはいろいろな医学があるが、これらの違いは、生命や病気に対する考え方の違い、つまり理論の相違と言える[3]。病気の症状の解釈の相違によって、異なった病気の姿がそこに出現することになる[3]。医学が異なるということは、症状が同じであっても、別の病気の実体をそこに見ている、ということなのである[3]とし、これは、同じ風景を見て描いたのに描く人によって全く異なった絵画になる、ということに似ていると言える[3]、と三浦於菟は述べた。
(西洋医学しか知らない者にとっては)まず、ものの見方・考え方により森羅万象が違った姿に見えてくる、ということに気づくことが東洋医学(や他の医学)を理解するための第一歩となる[3]と三浦は解説した。[4]。
からだを見る観点には、《関連する一連の構造物》と見なす観点と、《相互に依存しあう一連の機能》と見なす観点があるが、その違いは西洋医学と東洋医学を対比してみるとよくわかる[5]とアンドルー・ワイルは解説する。中国の医学は、(かつて死体解剖が禁忌であったなどの文化的理由により)、人体内部の構造に関しては詳細な知識なしに発展したのだが、そのかわりに(そのおかげで)、からだの諸機能同士の関係を明らかにしてきたのである。中医学の医師は、あまり身体の防衛機能(自然治癒力、免疫)と、個々の内臓器官とを関連づけて解剖学的に説明しようとはしない。だが、解剖学的な知識をもたなくても、(あるいはむしろそのほうが)患者の健康を増進させることはできたのである[6]。
それに対して西洋医学の医師たちは、扁桃、アデノイド、虫垂、胸腺、脾臓などの構造物が体内にあることは一応知ってはいたが、その機能のことは最近まで全然理解していなかった。20世紀になっても、まだ最近まで、西洋医学の医師らは、扁桃、アデノイド、リンパ節、虫垂、胸腺、脾臓などの、(現在では非常に重要だと判明している)免疫器官の大半に、こともあろうに「機能が無い」「退化したもの」「瑣末(さまつ)」などといった、とんでもなく誤ったレッテルを貼ってしまうという過ちを続けてきた[7]という。
1950年代には、一流病院の西洋医学の医師らが、ひどいことに、X線で子供たちの大切な胸腺を損傷・破壊していた。本当は、子供というのは、活発に免疫系を発達させる時期にあたり、リンパ球に抗原を認識させる際などに胸腺が重要なはたらきをしており、そのため子供の胸腺は、どんな子供でも、もともと肥大しているものなのである。それは通常の生理現象なのである。ところが、西洋医学の医師らは、どんな子供にもある胸腺肥大という生理現象を、愚かにもそして傲慢にも、「病気」と考えてしまい、大切な胸腺をX線で破壊・退縮させてしまい、そうした自らの加害行為を「治療」と呼んでいたのである。1950年代の西洋医学の医師たちは、胸腺の機能を理解しておらず、それを「役立たずの器官」などと誤って見なし、幼児期における肥大を「なんらかの病気の兆候に違いない」などと誤って判断し、加害していた[8]という。
1960年代の後半でさえ、西洋医学の医学校では(例えばハーバード大学医学校などでも)外科医たちが、扁桃炎を起こす子供の、大切な扁桃やアデノイドを摘出してしまうという誤った行為を日常的に繰り返していた[9]。
つい最近まで、何らかの手術(例えば、胆のう切除や子宮摘出など)を受ける患者たちが、しばしば本人に事前に知らされることもなく、また同意も無いままに、西洋医学の医師たちによって 「ついでに」という誤った判断で、勝手に虫垂を切除されてしまい、手術後に請求書の明細を見てはじめて、自分自身の器官が無断で切除されてしまったという事実を知った、ということが後を絶たなかった[10]という。
(関連: → 医原病、偽医療 )
こうした出来事に、《からだを構造的に見る観点》と《からだを機能的に見る観点》とのあざやかな対比が見られる、とワイルは言う。西洋医学の、構造物に固執する者たちは、無思慮にも、大切な免疫器官を破壊してしまったのであり、東洋医学の機能重視の人たちは、それらの器官の有益な働きを増強する具体的な方法を開発したのである[11]とワイルは述べた。
エジプトのパピルスの中に「現存する最古の医学書」と言われているものがあり、そこには紀元前3世紀のエジプトにおいてすでに「外傷者に対しては、まず質問検査、機能試験、診断、治療」と記述されており、現代と変わらない診療手順を行ったことが明らかになっている[12]。
医学は歴史をふりかえると経験医療(経験的医療)として存在していた。他の各学問が成熟してゆく中で医学も独自性を持った学問として発展し、(西洋では)「人体の研究と疾病の治療・予防を研究する学問」とされた[12]。
(西洋医学は20世紀に医学を「人間の疾病に関することを取り扱う学問」などとしつつ疾病にばかり着目し他の面を見落としたり、人間をただの物体のように扱う傾向があり、それが諸問題を引き起こす結果を招いたが、反省が始まり)、近年では(西洋医学も)「人間を生理的・心理的かつ社会的に能動的ならしめ、できるかぎり快適な状態を保たせる研究」として機能や社会的な面についても見落とさないようにする立場に変わりつつある[12]。
詳細は「医学史」を参照
詳細は「東洋医学」を参照
現在日本で「東洋医学」と呼ばれるものは、おおむね伝統中国医学に相当している[3] 西洋医学とは異なる理論・治療体系をもつ医学である。「東洋医学」と言う以上、きちんとした論理の上に成立している[3]。 そしてそれは、日本人が持つ生命観や自然観に近いものである[3]。
中国伝統医学は民間療法とは区別されている[3]。 東洋医学(伝統中国医学)は、民間療法とは異なった考え方に基づいて運用されている[3]。
一例として、生姜の使い方を見ると、どちらも風邪の時に使うことはあるものの、民間療法では風邪の時に何の考えもなしにそれを機械的に与えるのに対し、中国伝統医学では、寒気(さむけ)が強い時のみに使用され、反対に熱感が強い時には使用しないのである。なぜなら、中国伝統医学では、生姜は体を温める作用がある、と考えているからである[3]。
日本でも古代より「医」は巫女、陰陽師、僧侶によって中国から伝えられた呪術、医療が行われていた。室町時代以降は中国大陸との交易も盛んとなり、漢方が積極的に伝わっていった。江戸時代以降は、日本は独自の漢方医学を発展させ、薬学である本草学を中心に診療が行われていった。華岡青洲によって記録上世界最初となる麻酔による乳癌手術が行われたりした。また、幕末には国学の影響を受けて漢方伝来以前の医学(「和方」)を探求する動きも現われた。
現在は中華人民共和国に中医学、朝鮮民主主義人民共和国では東医学、大韓民国では韓医学として実践されている。
詳細は「西洋医学」を参照
ヨーロッパ世界においては、「医」の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされている。その後古代ローマのガレノスがアリストテレスの自然学を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、学問としての医学が確立されたと言われている。ガレノスはその後、数百年ものあいだ権威とされた。
古代ギリシャの医学知識は、イスラム世界のイブン・スィーナーやイブン・ルシュドなどに継承された。 (→イスラム科学)
ヨーロッパ中世においては、内科学のみが医学とされ、外科学は医学と見なされていなかった。外科医療は理容師(理容外科医(英語版)とも言われた)によって施術され、外科手術や瀉血治療などが行われていた。(内科学、外科学の記事を参照)
「ウィトルウィウス、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの『ウィトルウィウス的人体図』(15世紀)に象徴されるように、のちに西洋医学を支えることになる解剖学の発展は、臨床医学よりも美術解剖学における人体比率概念の追及など、美学的傾きおいて進展した。ダ・ヴィンチの人体図は現代においても医学・解剖学の象徴的図案である。[要出典]」[誰?]
日本では安土桃山時代に本格的な西洋医学が伝えられ始めたといわれており、幕末に蘭学とともに西洋医学書の翻訳などが行なわれた。著名な蘭方医学者には『解体新書』で知られる杉田玄白らがいる。
近年、伝統中国医学の本場であった中国では西洋医学の医師が増加中で現代西洋医学の利用される割合が増加しつつある。
反対にアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国では西洋医学の様々な問題点が取り沙汰され、伝統医学などの代替医療のほうが高く評価され利用率が増えており、アメリカ合衆国では代替医療の利用率が西洋医学のそれを超えた。無保険者だけでなく、富裕層の利用も増えている[13]。
日本では、西洋的な思考様式に基づく医学を「西洋医学」、伝統中国医学の思考様式に基づく医学を「東洋医学」と、大きく区分して呼ぶことが一般的である。現在日本で「東洋医学」と呼ばれるものは、おおむね伝統中国医学に相当し[3][14]、中国大陸で生まれ発達し、日本にも伝えられた[3]。西洋医学が入ってくるまでは日本の主流医学であった[3]。江戸時代の日本に「オランダ医学」が入ってきた時に、それらの医学を呼び分ける必要が生じ、オランダの医学に対して、中国(漢)の医学という意味で「漢方医学」と呼ぶようなことも行われるようになった[3]という。明治政府の方針により西洋医学が主流の医学と位置づけられるようになり、東洋医学を行なう医師も西洋医学を学ぶことになった。それ以来、日本では西洋医学の利用者数が多くなったが、現在でももっぱら東洋医学のほうを好み愛用する人々もおり、両者は並存してきた。近年の日本では、東洋医学と西洋医学の良いところ同士を融合させた「統合医療」を望む声が強まっている。このような要望は患者側にとどまらず、医師の側でもそう考える人は増えており、医師らによって研究が行なわれており、漢方薬の利用は増えている。
研究や教育のための知識体系としての医学は、(伝統的に[要検証 – ノート])([いつ?]から)次のように分類されている。大学医学部の組織においても、研究・教育のための人員の配置がこの分類に沿って行われる場合が多い。最近は、名称が多様化しているが、実質は、下記の分類とさほど変わりがない場合が多い。
人体の構造・機能、疾患とその原因など医学研究の根拠となる知見を得るための学問分野である。これらの科目は医学部、薬学部等医療系学部以外に一部の大学では理学部や理工学部等の生物学科でも開講している。
診断や治療などに直接関連する応用的な研究分野である。
社会医学とは社会的な環境と健康について研究する医学領域。
医学に関連する分野には以下のようなものがある。
歯学 - 薬学 - 看護学 - 心理学 - 健康心理学 - 臨床心理学 - 生体機能代行装置学 - 作業療法学 - 理学療法学 - 性科学 - 抗老化医学 - 熱帯医学 - 医用生体工学 - 医療機器 - 医学教育 - 医学史(医史学)- 生命倫理学 - 医療人類学 - 病跡学 - 医療社会学-医療経済学 - 宇宙医学 - 臨床情報工学
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