出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/04/14 13:11:28」(JST)
「歴史」のその他の用法については「歴史 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
歴史(れきし、羅:historia、英:History)は、何かしらの事物が時間的に変遷したありさま[1]、あるいはそれに関する文書や記録のことを言う。主に国家や文明など人間の社会を対象とする[2][3]が、これは記述された事を念頭に置いている。ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものと定義している[4]。また、現在に至る歴史を「来歴」と言う[5]。
「歴史」とは、少なくとも二つの意味を有している。一つは、現実に存在する「もの」が変遷する様そのものを言い換えて「歴史」と定義するものである。しかしその経緯は保存される事は無く、やがて消える。もう一つの「歴史」の意味は、この消え行く変遷を対象化して記述・記録された結果を指し、「歴史記述」と言うことができる。それぞれは、前者を「広義:出来事の全体」、後者を「歴史書」と分類されてもいる。現在は歴史を深めて未来を予想しようとすることが研究者の間で行われている。[6]。
記述・記録される、または複数残した何らかの経時的事象が分析・系列化されて初めて「歴史」は構築される。ある少数民族が文字または別な手段の歴史記述を残さず、しかも史料をただひとつしか示さなかったとすれば、彼らが現実に存在し「歴史」を刻んでも、後世の文明にとって存在の歴史はあると推測されても歴史の変遷を知ることは出来ない。それどころか痕跡を残さなかったものは、その存在さえ無かったも同然である。
このように後世に認識される「歴史」とは、少なくとも認識可能な出来事の断片が残存していることが必要な条件となる。これには濃淡があり、対象・時代・地域などが影響し、人類を対象とした民族の歴史の場合には、彼らが歴史を記述することに関心を払う程度にも左右される。
以後は、「後世に認識された歴史」を対象とする。
「歴史認識」も参照
「後世に認識された歴史」は、客観性に対する疑念から免れない。考古学的発掘や遺跡などを分析して得られた断片的な情報から対象の歴史を構築しようとしても、その取捨選択の過程で主観的な視点が加わる事は否定できず、結果はある種の解釈や、時として願望または思い込みが紛れ込む可能性がある。
「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。これをE・H・カーは著書『歴史とは何か』で指摘している[7]。日本を例に取っても、政治体制の変化による教科書記述内容の書き換え、また現代の周辺国家との見解の不一致[6]などがある。陳舜臣は「歴史は勝者によって書かれる」[8]と述べ、特に正史では勝者に有利な記述が行われる傾向にあるため、敗者の歴史記述や秘匿された文書、または正史でも勝者に不利なものや反省を含んで記述された箇所の方が比較的信頼に足ると言及している。
歴史という単語は当初、「史」の一文字で表された。甲骨文字の「史」は「事」と同じように「事件、できごと」を意味した。許慎の説文解字には、「史、記事者也。从又持中、中、正也。」とあり、つまり「史」のもともとの意味は「事を記す者」すなわち「史官」である。ここから敷衍して、「史官によって記録された事」、言い換えれば、「文字によって記録された過去のすべての出来事」を意味するようになった。「歴史」という言葉の出現はやや遅れて、『三国志·呉書・呉主伝』に『呉書』を引いて、「呉主孫権“博覧書伝歴史、藉采奇異”と現れるのが初めである。「史」の前に加えた「歴」の字は「経歴」や「暦法」の「歴」で、人類が経た時間を指す。
日本語の歴史は、司馬遷の『史記』に由来する。前漢の武帝時代、太史令であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「史記」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。司馬遷は黄帝から武帝までの皇帝の変遷を正統性の概念で記述した。以降、「史」は皇帝の正当性を主張する書物として古代中国の各時代で伝統的に編纂されることとなった。また正統性の概念は周辺アジア地域においても影響を与え、『日本書紀』などが編纂される動機となった。
明治時代、"history" の訳語として、もっとも概念的に近いと思われている「史」を元に「歴史」という用語が造られた。
英語の "history" やフランス語の "histoire" はラテン語の historia を中立ちとして、古典ギリシア語で「探求して学んだこと、知り得たこと」を意味する "ἱστορία (historia)" に由来する(現代ギリシア語では ιστορία (istoria))。ヘロドトスの著書名にも見える Ἱστορίαι (Historiai) は、その複数形。
ヘロドトスはリディア王国以降のペルシア地方の発展を中心に、プラタイアの戦いにおいてギリシアがペルシア帝国の軍隊を撃破するまでを記述した。それゆえ、「歴史」は主として戦争を記述する資料を指したが、時とともにより幅広い事象を対象とする用語に一般化されていった。
近代ヨーロッパにおいては、ルネサンス以降の自然学の進展とキリスト教的価値観を背景に、"historia" は人間の創造以前を扱う自然史(historia naturae, 博物学とも訳される)と人類史 (historia hominis) の二領域からなると考えられるようになった。前者は近代の自然科学へ、後者は現在の歴史学へと発展していった。[要出典]
英語においては派生的に、「物語」を意味する story なる語も生まれている。また、フランス語: histoire, ドイツ語: Geschichte ,イタリア語: storia, スペイン語: historiaなどはいずれも「歴史」「物語」両方の意味を兼ねるものである。
歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板は、税や戦利品など収入や配給または役人の給与など、行政上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて人口調査や地名・人名なども加わるようになった。また古代エジプトの呪詛文書は、敵対する部族などの名称や首長の名前、また居住する地名などを記している。
このように、初期の歴史記述は何らかの目的に特化したリストとして始まった。やがて治世者の業績なども加わりつつ積み重ねられたこれらのリストは、「歴史」を想定していなかったとしても、積み重ねられた結果として重要な「歴史記述」となった。
しかし、何をどこまでリストに記述するかという点に関しては、文明毎に異なる時間に対する認識が影響した。ヒンドゥー文明やサーサーン朝などアーリア人の古文明は体系化した歴史記述を残していない。それに対し、中国は膨大な歴史記述を残しており、梁啓超は、中国は歴史学が突出して発達し他の国に例が見られないと語っている。
このような差異が生じた原因は様々だが、時間すなわち歴史を「循環的(円環的)」と見るか「直線的」と見るかがひとつの要因に挙げられる。古代の「歴史記述」に頓着しなかったインドの時間感覚は「循環的」に分類され、『マヌ法典』によると人間の1年は神々の1日とし、神々の12,000年がマハーユガとされ、1000マハーユガが劫(カルパ)と定義され、この時間サイクルで世界は創造と破壊を繰り返す。これは人間の時間感覚では43億2000万年に相当する。これに輪廻や業(カルマ)の概念が加われば、人間界の出来事など一瞬でしかなく、これらを体系的に記述する事に意味を見出さなかったものと推測されている。
ただし、「循環的時間感覚」を持つ文明がすべて「歴史記述」を残さなかった訳ではない。古代ギリシアにも循環的時間論は存在し、ピュタゴラスの言葉「また将来、この杖を持って私はお前たちを教えているだろう」は、循環する時間の中でピュタゴラスや弟子ら人間がまた生まれ、同じ生涯を歩む事を示唆している。エンペドクレスは四元素のせめぎ合いが巡りながら歴史が循環するという説(歴史循環論 - 神山四郎『歴史入門』講談社現代新書、1965年)を唱えた。このような時間感覚の中、トゥキディデスは『戦史』にてペロポネソス戦争の詳細を書き残しているが、これは循環的時間論の概念に基づき将来同じ事象が起こった時のために記述したと言い残している(第1巻、第22節)。[9]
文明の発展に伴い、社会にもさまざまな事件や出来事を記録するようになった。その初期は、出来事名で年を表す方法が採られ、古代エジプトやウル第三王朝のメソポタミア以降では一般的な歴史記述方法となっていた。例えばハンムラビ43年の治世には全ての年に名称が付けられており、第37年目は、「(ハンムラビが)マルドゥクの威光を得てトゥルック、カクム、スパルトゥの国々を打倒した(年)」と記録されている。古代エジプトも同様に年ごとの出来事を記した象牙や木製の牌を作り、ファラオが替わるとパピルスに転記して記録に残していた。このような歴史記述はアメリカ州の先住民族にも見られ、ラコタ族が一年毎に出来事を絵文字で水牛の皮などに残した「ウインター・カウント」(en)もこの例に当たる。
この一年が独立した歴史記述は、特記すべき事件が起こらなかった年は空白となる。しかし、やがて歴史記述は、王名とその在位年度を記録し前王との系譜が添付されることで作られる「王名表」に沿って記録されることで、連続的なものへと変化した。バビロニアではカッシート時代から、エジプトでも王名表石碑「パレルモ・ストーン」(en)が作られた古王国の第五王朝時代(紀元前2350年頃)にはこの王名表を基準とした歴史記述が始まっている。その一方で、シュメール王名表やアッシリア王名表のような考古学的分析とは異なる王朝の一貫性を強調して作成されたものもあり、早くも歴史記述の客観性に疑問がもたれるものも登場した。
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k氏より
インスリンの抽出は大変意図的に行われたのに対し、スルフォニルウレア薬(SU)は偶然に見つかりました。で、1950年代にはじめに二型糖尿病の患者に使われるようになりました。いまでは20種類くらいのSUが広く世界で使われています。 1997にはメグリチニドが臨床適用されました。食後高血糖の治療薬としてはじめて使用された薬です。 メタフォルミンというビグアナイド薬(BG)は、ヨーロッパで広く使われていましたが、1995年にアメリカでも認可されました。 チアゾリジン1997年に市場導入され、二番目にメジャーなインスリン刺激薬として使用されています。この種類の薬には、広汎な肝障害を起こしにくく、世界中で使われています。
膵臓のβ細胞の刺激によって、インスリンを放出させ、血糖値を下げます。 治療が長引くと、インスリン分泌というSUのβ細胞刺激性の効果が薄れてきますが、β細胞上のSU受容体のダウンレギュレーションによるものです。また、SUはソマトスタチンの放出を刺激します。ソマトスタチンはグルカゴン分泌を抑制しているので、これも関係SUの糖を下げる効果と関係しています。 SUはATP感受性Kチャンネルを抑制します。Kレベルが下がると、まく表面における、脱分極を促し、電位依存性カルシウムチャンネルを通じたカルシウムイオンの流入を促進します。 SUには無視できない膵臓外作用があるという議論があります。確かにありうべきことですが、2型糖尿病の患者の治療においては、それほど重要なことではないようです。
SU薬はそれぞれが似たような作用スペクトラムを持っているので、薬物動態的な特性がここの薬を区別する手がかりです。腸管からのSU薬の吸収の割合は薬によって違いますが、食物や、高血糖は、この吸収を抑制します。高血糖はそれ自身、腸管の運動を抑制するので、ほかの薬の吸収も阻害します。血漿濃度が効果的な値にまで達する時間を考えると、半減期の短いSUは、食前三十分に投与するのが適切です。SU薬は90から99パーセントくらい血中たんぱく質と結合し、特にアルブミンと結合します。 第一世代のSUは半減期や分布において、大きく違っています。この半減期や作用時間の不一致の理由はいまだはっきりしていません。 SUはすべて肝臓で代謝を受け、尿中に排泄されます。なので、肝不全、腎不全患者には要注意で処方します。
めったにありませんが、第一世代服用患者では、4パーセントの割合でおきます。第二世代ではもっと少ないでしょう。低血糖による昏睡がしばしば問題になります。腎不全や肝不全がある高齢者の患者でおきやすいです。 重症の低血糖は脳血管障害も起こしうる。急性の神経障害が見つかった高齢患者では血中グルコースレベルを測るのが大事です。半減期の長いSUもあるので、24から48時間のグルコースを輸液します。 第一世代は多くの薬物と相互作用を持っています。 ほかに、吐き気嘔吐、胆汁うっ滞性黄疸、脱顆粒球症、再生不良性・溶血性貧血、全身性のアレルギー症状があります。 SUが心血管障害による死亡率を上げるのかについては議論の余地あり。
SUは、食事療法だけでは十分なコントロールを得られない2型糖尿病患者の血糖コントロールに用いられます。禁忌はtype 1 DM(diabetes mellitus:糖尿病)、妊婦、授乳中の患者、腎障害や肝障害の患者です。 普通の患者なら五割から八割くらい、経口の糖尿病治療薬が効きます。インスリン療法が必要になる患者もいます。 トルブタマイドの一日量は500ミリグラムで、3000ミリグラムが最大の許容量です。SUの治療成績の評価は患者の様子を頻繁に観察しながら、行います。 SUとインスリンの併用療法はtype 1, type 2 両方の糖尿病で用いられていますが、βセルの残存能力がないとうまくいきません。
レパグリニドはメグリチニドクラスの経口インスリン分泌促進物質です。化学構造上、SUとは異なっており、安息香酸から分離されたものです。 SU薬と同様にレパグリニドは膵臓βセルにおけるATP依存性Kチャンネルを閉じることによりインスリン分泌を促進します。AEもSU薬と同様、低血糖です。
Dふぇにるアラニンから分離された薬。レパグリニドよりもSEとして低血糖が認められづらいです。
メトフォルミンとフェノフォルミンは1957年に市場導入され、ブフォルミンが1958年に導入されました。ブフォルミンは使用が制限されていますが、前者二つは広く使われています。フェノフォルミンは1970年代に乳酸アシドーシスのAEによって市場から姿を消しました。メトフォルミンはそのようなAEは少なく、ヨーロッパカナダで広く使われています。アメリカでは1995年に使用可能に。メトフォルミンは単独かSUと併用して使われます。
ものの言い方によると、メトフォルミンは抗高血糖であって、血糖を下げる薬ではありません。膵臓からのインスリン放出は促さないので、どんな大容量でも低血糖は起こしません。グルカゴン・コルチゾール・成長ホルモン・ソマトスタチンにも影響なし。肝での糖新生を抑制したり、筋や脂肪におけるインスリンの働きを増すことで、血糖を押さえます。
小腸から吸収。安定な構造で、血中の蛋白と結合しないで、そのまま尿中に排泄。半減期は二時間。2.5グラムを食事と一緒に飲むのがアメリカで最もお勧めの最大用量。
メトフォルミンは腎不全の患者には投与しないこと。肝障害や、乳酸アシドーシスの既往、薬物治療中の心不全、低酸素性の慢性肺疾患なども合併症として挙げられる。乳酸アシドーシスはしかしながら、めちゃくちゃまれである。1000人年(たとえば100人いたら、10年のうちにという意味の単位。または1000人いたら1年につき、ということ。)につき0.1という割合。 メトフォルミンの急性のAEは患者の20パーセントに見られ、下痢、腹部不快感、吐き気、金属の味、食欲不振などです。メタフォルミンを飲んでいる間はビタミンB12や葉酸のきゅうしゅうが 落ちています。カルシウムをサプリで取ると、ビタミンB12の吸収が改善されます。 血中乳酸濃度が3ミリMに達するとか、腎不全・肝不全の兆候が見られたら、メタフォルミンは中止しましょう。
PPARγに効く。(ペルオキシソーム・プロライファレーター・アクチベイティッド・受容体、つまりペルオキシソーム増殖活性受容体みたいな。)PPARγに結合して、インスリン反応性をまして、炭水化物とか、脂質の代謝を調整します。
ロジグリタゾンとピオグリタゾンは一日一度。チアゾリジンは肝にて代謝され、腎不全のある患者にも投与できますが、活動性の肝疾患があるときや肝臓のトランスアミナーゼが上昇しているときは、使用しないこと。 ロジグリタゾンはCYP2C8で代謝されますがピオグリタゾンはCYP3A4とCYP2C8で代謝されます。ほかの薬との相互作用や、チアゾリジン同士の相互作用はいまだ報告されていませんが、研究中です。
ピオグリタゾンとロジグリタゾンは肝毒性とはめったに関係しませんが、肝機能をモニターする必要があります。心不全のある患者はまずそちらを治療してから。
αGIは小腸の刷子縁におけるαグルコシダーゼの働きを阻害することによって、でんぷん・デキストリン・ダイサッカリダーゼの吸収を抑制します。 インスリンを増やす作用はないので、低血糖もおきません。吸収がよくない薬なので、食事の開始と一緒に飲むとよいです。 アカルボースとミグリトールは食後高血糖の抑制に使われます。 αGIは用量依存性に、消化不良・ガス膨満・下痢などをきたします。αGIとインスリンを併用中に低血糖症状が出たら、、グルコースを補充します。
経口から、グルコースが静脈を通ると、インスリンが上がることがわかっていました。消化管の上部からはGIP、消化管下部からはGLP1というホルモンが出ていて、糖依存性のインスリン放出を促していることがわかりました。これらのホルモンはインクレチンといわれています。この二つのホルモンは別の働き方でインスリンの放出を促進します。GIPはtype 2 DMではインスリン分泌を促進する能力がほとんど失われています。一方でGLP1は糖依存性のインスリン分泌を強く促しています。つまりtype 2 DMの治療ではGIPをターゲットにすればよいということになります。GLPはグルカゴンを抑制し。空腹感を押さえ、食欲を抑えます。体重減少も実現できます。この長所を相殺するように、GLP1は迅速にDPPIV(ヂペプチジルペプチダーゼ4エンザイム)によって負活化されます。つまり、GLP1を治療に使うなら、連続的に体に入れなければなりません。GLP1受容体のアゴニストが研究され、これはDPPIVにたいして抵抗性があります。 そのほかのGLP1療法のアプローチに仕方としては、DPPIVプロテアーゼの不活性化で、それによってGLP1の循環量を増やそうとするものです。type 2 DM治療に新しい薬がでるかもしれないですね。
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