出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/05/26 15:51:18」(JST)
この項目では、医学・心理学・哲学などの意識について説明しています。仏教用語の意識については「意識 (仏教)」をご覧ください。 |
意識(いしき、Consciousness)は、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを正確に認識できている状態のこと」を指す[1]。
ただし、歴史的、文化的に、この言葉は様々な形で用いられており、その意味は多様である。哲学、心理学、生物学、医学、宗教、日常会話などの中で、様々な意味で用いられる。
日本語では、「ある物事について要求される注意を払っている」とか「考え方や取り組み方について努力が行われている」といったことを表す場合に、意識が高い(または低い)といった言い方が許される。たとえば公害や廃棄物などの問題についてよく勉強し、改善のために様々な行動や対策を行っている個人や集団を、環境問題についての意識が高い、などと表現する。このような用法は遵法意識、コスト意識、プロ意識、意識調査、意識改革、など様々な表現に見られる。
学術的には、文脈に応じて意識という語は様々な意味で使用される。以下では、哲学、心理学、臨床医学をはじめとするいくつかの分野に分けて、代表的な意味を解説する。
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中世では、conscious「意識がある」とconscience「良心」の語源が同じ(scire「知る」)ことからも推測されるように、意識はほとんど良心と同義であり[要出典]、現在我々が知る心的現象一般としての意識という概念はなかった[要出典]。
意識や心の構造が問われるようになるのは、17世紀以降である[要出典]。近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」(Je pense,donc je suis.(ラテン語訳Cogito,ergo sum.)などの方法論的懐疑により、後世に主観的でありしかもなお明証性をもつコギト(羅: Cogito)と表現される認識論的存在論を展開した。デカルトは世界を「思惟」と「延長」から把握し、思惟の能動性としての認識と受動性としての情念をそれぞれ主題化した。
ライプニッツにおいては、全表象能力は各々明晰さの度を持ち、最も完全な認識である悟性が神を直観的に認識するほか、理性は合理的推論を判明に、感性は感覚的把握を明晰に行うとされた。ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の語をドイツ語: Bewusstsein (字義通りには「知られている状態」)と造語し名づけた。カントは、Cogitoを「純粋統覚」(reine Apperzeption)とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識そのものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開した。
意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、"独: das Ich"(日本語訳 自我)と呼び、その働きを定式化した。ここでdas Ichとは意識の能力にほかならない。つまり、そのようなdas Ichは、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち(独: Tathandlung(日本語訳 事行=自己を認識する活動である)と把握され、この自らを客観(対象)とする認識主観としての自我を自己意識と呼ぶ。フィヒテのほか、シェリング、ヘーゲルらが自己意識を哲学の問題として取り上げた。シェリングは、対象化された自己意識を「無意識」(Unbewusstsein(直訳:意識でないもの)、Bewusstlosigkeit(直訳:意識を欠いた状態))と名づけた。ユングはシェリングが無意識の発見者であると指摘している。ドイツ圏における意識についての研究は1780年代から1810年頃まで盛んに行われたが、その後は存在論的哲学に再び座を譲った。
19世紀中葉のヨーロッパでは、哲学から心理学が分科した。ヴィルヘルム・ヴントは意識という概念を中心に心理学を組み立てようとした。意識は自分の感ずる「感覚」「感情」「観念」に分けられる。この三つの意識を自分自身が感じたままに観ることを内観法(ないかんほう)という。
行動主義心理学では、意識という概念を用いずに、刺激と反応という図式で人間の行動を理解しようとする。
詳細は「精神分析学」を参照
精神分析学では人間の心を、意識・前意識・無意識の三つに分ける。
自分で現在認識している内容を意識という。つまり、我々が直接的に心の現象として経験していること、これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。意識は短期記憶・作動記憶と関係がある[要出典]、ともされる。
自分で現在認識していないが、努力すれば思い出すことができる内容を前意識という。
自分で現在認識しておらず、努力しても思い出せない内容を無意識という。精神分析学では通常の方法では思い出せない無意識下にあるものを、自由連想法などを用いて意識に持ってゆくことで無意識を理解しようとした。
認知科学、人工知能の分野では、人間が人工知能に質問などをして、その人工知能があたかも人のように反応し、人から見て人と何ら区別がつかなければ、それをもってしてその存在は知能あるいは意識を持っていると見なしていいのではないか、とアラン・チューリングが提案した(チューリング・テスト)。
詳細は「意識 (仏教)」を参照
覚醒状態とかかわる部位として、脳幹の網様体を含む上行性網様体賦活系(じょうこうせいもうようたいふかつけい、Ascending Reticular Activating System; ARAS)という構造が重要であることが知られている。上行性網様体賦活系を刺激すると眠りから覚めて覚醒状態に入る。逆にこの部位を破壊されると昏睡状態に陥る。上行性網様体賦活系の概念は1949年にMoruzziとMagounによってまとめられた[2][3]。
ヒトの覚醒と睡眠は約24時間周期で繰り返される。24時間周期での睡眠-覚醒リズムは、ヒトの場合、生後15-16週齢から始まる[4] 。この地球の自転周期と同調したリズムはサーカディアン・リズムと呼ばれる。ヒトを含む哺乳類のサーカディアン・リズムは、左右の視神経が交差する視交叉の上にある視交叉上核という視床下部の神経核で生み出されている。視交叉上核を破壊された生物は睡眠と覚醒の周期的なリズムが失われる[5]。睡眠・覚醒リズムは網膜から入射する外部の光信号などにより修飾を受け調整されている。時間に関する手がかり情報のない場所(たとえば明るさの変化しない地下室など)にヒトを長期間置くと、睡眠-覚醒リズムはおよそ25時間周期となる。これはフリーラン・リズムと呼ばれる[6]。
医療分野では患者の意識の状態を意識レベルという数値で評価する。特に救急医療や麻酔科学分野で用いられる。
意識の構成には「清明度」、「広がり」、「質的」の三つの要素が存在するが、このうち一般的に意識障害というと「清明度」の低下についてを指す。[要出典]「広がり」の低下(意識の狭窄)は催眠であり、「質的」の変化(意識変容)はせん妄やもうろう等を指す。
意識は脳の働きが活性化し、五感に対する刺激を感じ取ることが可能な状態である。「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。これに対して、 無意識は五感に対する刺激が脳で感じ取られず、刺激を認識していない状態である。刺激に対する反応が部分的な状態である。また、「意識がない」とは、脳の働きが部分的に停止し、刺激の入力を拒否した状態である。「気を失う」とは、過剰な刺激に対しショックを受け、脳の働きが停止した状態である。
医療の現場においては、意識の状態・反応に応じて「意識レベル」で表示する。救急医療では、バイタルサインの重要項目の一つとして先ず疾病者等の意識を確認して「意識レベル」の判定を行う。
「意識レベル」はGlasgow Coma ScaleやJapan Coma ScaleやEmergency Coma Scaleによって数値化して評価される。
意識という言葉は実に様々な意味で使われており、意識という言葉の多義性は、議論や研究の中でしばしば混乱を引き起こしやすいものとなっている。
それぞれの人がそれぞれの場面で、どういう意味でもって、意識という言葉を使っているのか、その点について相互了解を持たないまま議論をしていくと、行き違いが発散していくことが多い。そうした混乱は、心理学者や神経科学者といった、専門的な肩書きを持つ人々の間でも普通に見られる。このような問題を避けるため意識と関わる研究分野では、注意深い研究者は論文や書籍の冒頭で、私が意識という言葉を使うときそれはどういう意味か、といった説明を予め行うことも少なくない。意識を研究しているそれぞれの科学者が研究している対象は様々だが(選択的注意のメカニズムや覚醒や麻酔のメカニズム、主観的体験の神経相関物など)、そうした全体を含む最も包括的な意識の定義として暫定的にしばしば使用されるのはアメリカの哲学者ジョン・サールが採用した定義に基づく次のような定義である[7][8][9][10]。
“ | 意識とは、私たちが、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢のない眠りに戻るまでの間持っている心的な性質のことである | ” |
一方、日常の中では、意識という語は知性(英:intelligence)や自由意志(英:free will)の意味と混同されることがある。しかし、しばしば見られるこれらの用法は、心や脳と直接かかわる分野の現代の研究者によって、ほとんど採用されていない。
以下、意識という言葉の持つ容易に区別できるいくつかの意味を述べる[11]。この区分は必ずしも相互排他的な分類ではなく、相互に重複や関連を持った区分である。このような区分の仕方は研究者によって、とりわけ哲学的な立場によってまちまちで、統一された見解はない。この項では混同されやすい意味の区分を述べるに留めて哲学的な議論の詳細には立ち入らない。
意識には、起きている、覚醒している、といった意味がある(英:vigilance, arousal, awakening, wakefulness など)。これは睡眠、失神、昏睡または死亡、という状態にない、という事を意味する。この意味での用例をあげるとたとえば「柔道で、絞め技をかけられて我慢していたら、意識を失ってしまった」とか「交通事故のあとずっと昏睡状態だった人の意識が、今朝やっと戻った」などがある。この意味での意識は、意識がある、意識がない、といった形で表現される。この意味での意識は、creature consciousness (クリーチャー・コンシャスネス、生物意識・被造物意識)と呼ばれることもある。また、この意味での意識は目的語を取らずに表現されるため intransitive consciousness (イントランジッティブ・コンシャスネス、自動詞的意識)と呼ばれることもある。
詳細は「アウェアネス」を参照
意識には、気づいている、または知っている、といった意味がある(英:awareness)。たとえば今あなたがこの文章を室内で呼んでいるとしたら、エアコンの稼動音、パソコンのファンのうなり、冷蔵庫が動く音、蛍光灯の音、窓に吹き付ける風の音、外を通過する車の音等々、何らかの音が常に鳴っていると思われる。しかしそうしたことは恐らく今言われてみて気づいただろうが、それまでは特に考えていなかったと思われる。このようなとき「たしかに色々な音がなっているね。でも今まで特に意識していなかった」などと言う。このような用法が「意識」という言葉にはある。他にも例を挙げると、あなたはこの文章を読んでいる間、何度も瞬きをしている(人間はおよそ数秒ごとに一回、目を閉じる動作を繰り返す)。これも言われてみばそうだと思うかもしれないが、しかし言われるまでは恐らくそうしたことは考えていなかったはずである。このようなときも「たしかに瞬きはしている。でも普段は特に意識していないね」などと言う。意識する、意識しない、という言葉でこのようなことが表現されている。この意味での意識は「○○を意識している」「△△について意識していなかった」などと、目的語を取って表現されるため transitive consciousness (トランジッティブ・コンシャスネス、他動詞的意識)と呼ばれることもある。
詳細は「注意」および「集中」を参照
意識という言葉は注意(英:attention)の意味で用いられることがある。「意識」と「注意」という二つの概念は学者たちの間でも、しばしば相互に混同して用いられる概念である。しかし意識や注意の専門家たちはこの二つの概念を、深い関わりはあるが別の概念であるとして、はっきり区別して使用する[12]。注意には定位(orienting)、フィルターリング(filtering)、探索(searching)という大きく三つの側面がある[13]。定位とは、注意を向けている対象についての情報が得やすいように体の姿勢など制御すること。たとえば犬の近くで大きい音を鳴らしてみる。すると各部の筋肉の収縮と弛緩を通じて物音のした方向に犬の顔が向けられ、眼球が対象の方向に向けられる。そして音が鳴った方に向かって犬の耳がピンと立つ。こうして対象についての情報が取得しやすくなる(これは定位反射と呼ばれる)。フィルタリングとは注意を向けている情報についての情報処理を強化し、対象についてより多くの情報を取得する一方、他の対象についての情報処理作業を抑制することである。たとえば音楽が鳴っている中でワイワイ・ガヤガヤと多くの人が会話を繰り広げている大きいパーティの会場で、誰かがどこかで自分の名前を出したように思ったとき、その自分の名前を呼んだように思った人の会話の情報処理を強化し、他の人たちが行っている会話についての情報処理を抑制することができる。つまりフィルタリングされる(カクテル・パーティー効果)。
詳細は「随意運動」、「不随意運動」、「反射 (生物学)」、および「運動準備電位」を参照
(英:voluntary action)
詳細は「自己意識」を参照
上の意味と似ているが、自分がいるということに気づいていること、または自分がいるということを知っていることを、「意識がある」と表現することがある(英:self-consciousness, self-recognition)。これは自己意識、自意識とも言われる。ヒトは成長の過程で自己の存在に気づくようになるが、これは、自我の芽生え、とも言われる。このような側面と関わる実験は心理学の分野で多い。発達心理学をはじめ、比較心理学における鏡像自己認知の研究などがある。鏡像自己認知とは、鏡を見てそこに映った自分の像を自分だと理解できること、を指す。この鏡像自己認知が、ネコはできるか、ゾウはできるか、チンパンジーはできるか、イルカはできるか、といったことが調べられている。
詳細は「メタ認知」を参照
また、自分自身の心的な状態などを把握すること、たとえば「自分は今機嫌が悪い」「自分は今○○をしたいと思っている」といったことを知ることができること、を「意識がある」と表現することがある。このような自己の心的状態についての把握する行為は、メタ認知(英:metacognition)とも言われる。
詳細は「現象意識」および「クオリア」を参照
意識という言葉のもつもうひとつの意味は主観的な経験、現象的な質である(英:subjective character of experience, phenomenal quality など)。物理化学的な三人称的視点(third-person perspective)と対比させて一人称的視点(first-person perspective)、また客観的側面と対比させて単に主観性(subjectivity)などとも言う。この意味での意識は、もっとも広い関心を集めており、非常に激しい哲学上の議論が交わされている部分である。しかしこの意味での意識はハッキリと定義することが難しく、ときに「それはただ指すことしかできない」、「直示的に定義することしかできない」ということが言われることもある。とりあえず主観的な経験という意味での意識の定義で最も有名なものは、ユーゴスラビア出身のアメリカの哲学者トマス・ネーゲルが1974年の論文『コウモリであるとはどのようなことか』において提出した次の定義である[14]。
“ | ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが―しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが―存在している場合であり、またその場合だけである。 | ” |
—トマス・ネーゲル(『コウモリであるとはどのようなことか』より) |
この定義はこのままでは暗号めいているので、いくつか例を出して説明する。まずひとつめ。「タンスの角に小指をぶつけた人である、とは一体どのようなことか」。もしあなたが同じような経験したことがあるなら何となく分かるだろうが、このような人は、足先に突如訪れた激しい痛み、そしてどこにぶつけていいのか分からないやり場のない怒り、などを経験している。二つ目。「お祭りの場でニコニコしながらチョコレート味のアイスクリームを食べている子供である、とは一体どのようなことか」。これも似たような場面を経験したことがあるなら何となく分かるであろうが、このような子供は、お祭りの場にともなう高揚感、そして口の中に広がる甘い感じ、などを体験している。ではここで問題である。「中にガソリンを詰められたドラム缶である、とはどのようことか」。これはおかしな質問であり、多くの人は次のように思うだろう。ドラム缶はただのモノであり何かを感じるとか、そういう類のものではないと。つまりドラム缶であるとはどのようなことかと言えるような何ものかはない、つまり意識はない、と。ネーゲルの意識の定義は、このような意味での意識を指している。このネーゲルの意味と関連の深い用法として、主観的な経験の中に現れるそれぞれの質のことを「意識」という言葉で表現することがある。これは普通、クオリア、感覚質などといわれ、一般にいくつもの例を挙げる形で枚挙的に定義される(赤の赤さ、虫歯の痛み、コーヒーの苦味など)。こうした意識の持つ主観的側面について物理化学的・神経科学的な見地から説明することが難しく思える、という問題は説明のギャップ、意識のハードプロブレムと呼ばれる。1990年代ごろから科学の領域でもこうした主観性の問題が議論されている[15]。
詳細は「実体二元論」を参照
もうひとつの意味として、意識はしばしば心霊主義的な霊魂の同義語のような形で使われる(英:soul, spirit, consciousness as substance など)。このような用例としてたとえば「意識が肉体から抜け出して幽体離脱(体外離脱)した」といったものが挙げられる。このような考え方、体と独立に心的実体があるという考え方は、哲学の世界では心身二元論、実体二元論などと呼ばれているが、科学者の中にも哲学者の中にも、この考え方を支持している人はほとんどいない。しかしながら臨死体験研究者など一部の科学者はこの説を支持している人もいる。
精神医学のジム・タッカー博士は「物理法則を超える何かが在る、物理世界とは別の空間に意識の要素が存在するに違いない。その意識は単に脳に植え付けられたものではない。宇宙全般を見る際に全く別の理解が必要になって来るだろう」と二元論の仮説を立てている[17]。
宇宙物理学ロジャー・ペンローズ博士とアリゾナ大学宇宙物理学・意識研究センターのスチュアート・ハメロフ博士は「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、心臓が止まると脳から出て拡散する、蘇生した場合は脳に戻る(臨死体験をしたと言う)が、しなければ意識情報は宇宙に在り続けるか、若しくは別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」という。[18]。
「脳が損傷を受けたことにより人の精神機能に変化が起こったからといって、精神や意識が脳から生まれているという証明にはならない。プリズムを白い光が通過すると、分光が起こって様々な色のスペクトルが生じる。だが、これはプリズムがあるから光が違って見えるのであり、プリズムそのものが光源になっているわけではない。それと同じように、脳は人間の精神や意識の状態を受容し、変容させ、発現するが、そこが光源というわけではないのだ」したがって、彼は心(光源)が脳(プリズム)から生まれているという仮説は、科学的にみて独断的誤謬であると言っている[19]。
2014年4月ロンドンにあるクイーンメリー大学のカー教授は、人間の精神は別の次元と相互作用によるものであり、 多次元宇宙は階層構造になっており、私たちがいる次元はその最下層にあたるのだと言う。 「この仮想モデルは体外離脱体験、臨死体験、夢のような哲学的、精神学的な問題解決の糸口となるかもしれません。」 カー教授は少なくとも4つの次元が実際にあるが、 このうち人間の物理的なセンサーは3次元宇宙にのみ働いているのだと言う。 そしてそれ以外の高次元宇宙については実体として触れることが出来ないと言う。 「超常現象の存在は、精神がこの実体宇宙の中に存在しなければならないことを示唆しています。
ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司とのマル激トークの対談で「脳とは意識の変換器であり脳が意識を発生させるのではなく意識が脳をコントロールしている」という仮説を述べた。[20]
探求者の立場により定義、内容もさまざまで、大胆な仮説が多く、議論が分かれているのが現状である。
自分が慣れ親しんだ諸理論や学問上のツールを、なかば強引に流用して意識の理論を構築しようと試みている研究者なども存在する。(究極の一要素にこだわる還元主義的な発想に陥っているもの、数式や方程式で表現することにこだわるものなど)
また、一部では、心の哲学における細かい論点に対する科学の分野における議論が未熟であること、意識そのものの捉え方が研究者ごとに大きく異なり曖昧になっていることなどを問題視・疑問視する声もある。今後は、従来の分野の域を超えた学際的な議論が期待される。
以下に、意識の仕組みを解明しようとしている仮説提唱者の一部を示す。
詳細は「意識の神経相関」を参照
神経科学などを専門としている科学者による意識の探求は、人間(あるいは患者)の事例・症例を多数踏まえ、脳の解剖や神経組織の観察・実験などから意識現象と物理的な要素をすり合わせ的に検証している。
詳細は「運動準備電位」を参照
自発的運動に関する研究から、意識的決定の体験は行動に先んじない事が確認されており(つまり後追いする)、脳内で神経細胞の活動が始まってから数百ミリ秒後に意識的決定の体験が起きる、という順序が確かめられている。このことから「意識とは自分の現状をモニター(監視)する機能である」と結論付けられつつある。 つまり意識はモニター監視した結果をフィードバックする事で、その後の行動に反映するという形で間接的に行動を制御できるが、その瞬間瞬間に行動を直接的に制御しているのではない、といったことである。簡潔に、私たちが持つのは自由意志(free will)ではなく自由拒否(free won't)だ、と表現されることもある。意識的決定と運動に関する先駆的な研究は1980年代にアメリカの生理学者ベンジャミン・リベットにより行われた[28]。
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