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ここでは生命(せいめい、英: life、羅: vitaウィータ)について解説する。
生命とは、文脈によってさまざまな定義がある語であるが、基本的には「生きているもの」と「死んでいるもの」、あるいは物質と生物を区別する特徴・属性などを指す語、あるいは抽象概念である。伝統的に、生き物が生きた状態であるという状態そのものを生命と呼んだり、生きた状態は目に見えない何かが宿っている状態であるとして、その宿っているものを「生命」「命」「魂」などと呼んでおり、現在でも広く日常的にそのような用法で使われている。現代の生物学では、代謝に代表される、自己の維持、増殖、自己と外界との隔離など、さまざまな現象の連続性をもって「生命」とする場合が多い。
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う。古代から多くの人々が、生命とは何なのか、ということについて様々に論じられてきた。自然哲学には自然哲学の生命観があり、宗教には宗教的な生命観がある。現在、一般的・日常的には、生きものが生きている状態を指して「生命を持っている」「生命を宿している」と呼び、文脈によっては非物質的な魂のようなものを指す場合もある。
ここでは様々な角度から生命を扱うことにし、伝統的な概念から、現代生物学的な生命に関する概念や理論までを、ある程度歴史に沿って追ってゆくことにする。
伝統的な理解については命、魂も参照のこと。
大島泰郎に言わせると、現在のところ、我々人類が知っている生命は、地球上の生物のみであるが、これらのすべての生物は同一の先祖から発展してきたと、現代生物学では考えられている。その理由は、すべての地球生物が用いるアミノ酸が20種類だけに限定され、そのうちグリシンを除き光学異性体を持つ19種類がすべてL型を選択していること、またDNAに用いる核酸の塩基が4種類に限定され、それらがすべてD型である事である[1]。
現在知られている地球上の全ての生物は炭素をもとにしているが、我々が地球以外での生命の形を知らないだけという可能性も指摘されることがある。理論上は炭素以外の物質を元とした生物も考えられうるのである。化学プロセスと生命現象が不可分なものであるかについても、さまざまな議論がある。
「そもそも、何が生命か?」 この問題について考えはじめると生物学者たちは、すっかり悩んでしまい、夜もおちおち寝ていられないほどである[2]。
生物学は生命に関する学問だというのに、生物学者たちは、その基本である生命の定義ですら互いに合意することすらできない、というような状態である[2]。「細胞一つ一つも「生きて」いて、それぞれ生命があるのでは?学習して変化するタイプのコンピュータ・プログラムも 「生きている(生命がある)」と言っていいのでは? (森林火災などの)火は、(周囲の物を)"食べて"、成長し、増殖するのだから生命体と言っていいのか?」などといった調子で、すっかり悩んでしまうのである[2]。 生物学の教科書などにはしばしば“生命と非生命を分ける属性のリスト”などといったものが掲載されているが、そういうリストに挙げてある概念同士は重複して混乱しているし、おまけに往々にして著者ごとに関心領域が異なることの影響をうけて教科書ごとにリストの内容が異なってしまっている[3]。McKayなどに言わせれば「生命とは何らかの過程を意味するものであり、純粋な物質というわけではないから」ということになる[4]」。また、哲学者や生物学者の中には、「生命を定義する必要など無い、生命というのは自然の事実なのだから」と述べる人すらいる、といったことをBruce Weberは指摘した(SEP[3])。
何が「生きているか」を考える難しさを示す実例にHeLa細胞を挙げる人もいる。これはヘンリエッタ・ラックスというアメリカ人女性の子宮がん細胞を元にしたヒト細胞であり、培養され世界中の研究所に分配され試験に用いられている。ヘンリエッタ個人は既に亡くなったが、彼女由来の細胞は現在でも生きている。大島に言わせると、生命の基本的活動が細胞である事、そして「生きている」状態には明瞭な線引きができないさまざまな段階が存在すると考えられる、ということになる[5]。
こうした話が生物学者の間でまことしやかにしばしば語られるが、実情はそうではなく、ラマルクが、1809年の著書『動物哲学』において、さかんに繰り返し「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と言いだして強調することで、「生物 / 非生物」という線引きを恣意的に行ったからである[6]。ラマルクはbiology(生物学)という言葉を生み出した人物であり、彼が当時の常識に逆らって物と動植物の間に断絶を造ったことで、彼なり(独自)の「生物」という範囲の輪郭を作った。そうした恣意的な輪郭(線引き)を用いることで「biology 生物学」 という分野が登場したのであり[6]、ラマルクが恣意的な操作によって、現代人が「常識」のように思っている「《物質》と《生命》」という対比を登場させたと言えるのである[6]。であるから、現代の生物学の用語はその出発点からしてすでに、そうして恣意的に線引きしてつくられたものである、という本当の歴史を(科学者にとって都合が悪いからと)隠ぺいしておいて(あるいは、隠ぺいの結果 忘却されて)、さも「事実」の側に何か客観的・絶対的なものがあるはずと考えて 逆向きに論じてしまうと、そもそも恣意的な線引きなのだから、客観的な事実を集めても、人の数だけ恣意的な方法はあり、合意点などあるはずもなく、いつまでたっても「生命」の“定義”は混乱するばかりなのである。(詳細は後述)
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う[7]。
古代ギリシャを見てみると、古代ギリシャ人たちは、生きている状態のことを希: Ψυχή プシュケーと呼んでいた。プシュケーというのはもともとは息(呼吸)のことであり、息をするということは生きていること示す最も目立つ特徴なので、プシュケー(息)という語が「生きていること= 生命」も指すようになり、やがてそれが転じて日本人が言う「心」や「霊魂」という概念まで意味するようになった。(つまりプシュケーという語は、文脈次第で息(呼吸)・生命・心・魂のいずれも意味し得る)。
アリストテレスは Peri psyches 『ペリ・プシュケース』でプシュケー(現代で言うところの生命や心や魂)について論じた。(同著の題名は直訳すれば『プシュケーについて』であり、プシュケー論、生命論である。邦訳書では『心について』『霊魂論』などとなっている。)。アリストテレスは初期段階では、生きものの種類によって異なるプシュケーの段階があると見なしていて、(1)植物的プシュケー (2)動物的プシュケー (3)理性的プシュケー(人間のプシュケー)というように区別していたが、やがて植物・動物・人間の間にプシュケーの差というのはさほど絶対的なものではないと見なすようになり、最終的にはそれらプシュケーに差はない、とも記した。
ところでそもそも、「すべての物質は生きている」とする哲学的な考え方が古くから現代にいたるまである。古くは古代ギリシャのミレトス学派にもそうした考え方があったことが知られているが、古代に限らず、またその地域に限らず、広く、ひとつの基本的な哲学的見方としてこの考え方は、現代にいたるまで存在しているのである。こうした考え方を物活論(英語版) hylozoism と言う。
ヨーロッパでは中世、キリスト教が広がり、旧約聖書の創世記の記述に従い、神が自然も人間も、動物・植物も、その他 生きとし生けるもの全てを造ったと考えていた。また、12世紀ルネサンスによってイスラーム(アラビア語)の文献がラテン語に翻訳されるようになると、そこで解説されていたアリストテレスの考え方が知られるようになり、その生命論も受け入れられるようになった。
1648年にデカルトが、Le monde(『世界論』とも『宇宙論』とも)の後半にあたるTraité de l'homme(『人間論』)を出版した[6]。デカルトは、人間も含めて全ての生物は神が制作した機械だと見なした[6]。当時、ものの喩えではなく、宇宙は機械だと考えられたが、こうした考えの背景には「神が宇宙を制作した」というキリスト教の信仰がある[6]。と同時に、その本でデカルトは、例えば心臓は熱機関だとし、運動によって説明できる、とし、(アリストテレスが用いていたプシュケーという概念の系統に属するともいえる)植物プシュケーや感覚プシュケーなどは用いなくても説明できる、とした[6][8]。アリストテレスがプシュケーを用いて、生命と非生命の区別をしふたつは異なっているとしたのに対し、デカルトはその差異は見せかけのものだとして、全てを物の運動の説明一色で塗り固めようとしたのである[6]。デカルトの考え方は機械論と呼ばれる。機械論によって、人々は単純なモデルでの説明にばかり興味を示すようになり、生物と無生物の区別への関心が低下し、それだけでなく世界の多様性への関心までも低下して、博物学まで一時低調になった[6]。(現代の生物学に属するようなものは、当時 博物学に属していたが、その生物学相当の学問領域全体が低調になってしまったのである[6])
18世紀になると、そうした行き過ぎを批判する動きが出た。18世紀フランスを代表するとされる哲学者コンディアックが1749年に『体系論』を出版したが、そこで彼はデカルト以来の17世紀的な「体系」は、事実に根拠を持たない想像力の産物だとして批判し、学問的な知識というのは、“ニュートン力学のように”観察にもとづく事実を出発点にして構築しなければいけない、と述べたのである[6](この“ニュートン力学のように”という当時の発想がどのようなものであったかについては後述する)。18世紀に博物学が再隆盛した理由としてジャック・ロジェは17世紀の内戦の時代の後に社会が全体的に安定し、人々が「退屈」したことを挙げた。退屈な現実から逃れるため、異国の文物や自然学研究に関心を持ったという[6]。
18世紀には生命と物質の概念の区分けは現代人と異なっていた。たとえば、18世紀の博物学における分類体系においては、大抵は、「動物界」「植物界」「鉱物界」が並置されていた。分類学の父とされるリンネの『自然の体系』(1735)はその典型で、冒頭で「自然物は鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、感覚を持つ」と定義された[9]。つまり現代なら無生物の典型と思われるような鉱物に、生物と連続的な位置が与えられていたのである[9]。
すべてのcreature(被造物。神が創造したもの)というのは、鉱物のような単純なものから植物、動物、そして人間のような複雑な存在へ、さらには人間よりも高度な天使へと連続的な序列をなしている、というイメージはヨーロッパでは根強いものがあった[6](この連続的な階梯は「存在の大いなる連鎖(英語版) the great chain of being 」と呼ばれる)。
リンネと同年生まれのビュッフォンは自著『博物誌』においてリンネの分類体系(花のおしべやめしべの数で分類するもの)を批判しつつ、客観的な分類は不可能だ、と主張した。上述のように全ての被造物は連続的な序列をなしていると考えられていたので、連続的に変化するものに客観的な区分線などないのだから、自然を分類するということは人為的あるいは恣意的だ、としたのである[6]。ビュッフォンの『博物誌』もまた四足獣類、鳥類、鉱物の巻があり、それらを等しく対象としていた。
これと関連するが、ラマルクは1809年の著書『動物哲学』において、さかんに繰り返し「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と強調したが、これはとりもなおさず、当時は鉱物と動植物を連続的に捉える見方が根強かったことを示している[6]。ラマルクというのはbiology(生物学)という言葉を生み出した人物であり、彼が 当時の常識に逆らって物と動植物の間に断絶を造ったことで、彼なりの「生物」という範囲の輪郭を作ったということであり、そうした輪郭を用いることでbiologyという分野が登場したということなのである[6]。ここに現代人が常識のように思っている「物質と生命」という対比が登場したと言える[6]。また、ラマルクはそれによって、鉱物と対比されるべき動植物という“生物”を規定し、またそれによって生物は無生物とは根本的に異なる性質を持っている、としたのである[6]。
ではなぜラマルクはそのような区分を持ち出したのかというと、それは18世紀に台頭したVitalism(ヴァイタリズム)という考え方が背景にある[6]。(ヴァイタリズムという語は「Vital ヴァイタル」などと同系統でこのヴァイタルは「いのちの」といった意味で、現代の医療現場でもバイタルサイン(生命兆候)などといった用語で用いられているが)、ヴァイタリズムというのは「生きているものには、物質とは異なる特殊な生命原理がはたらいている」とする考え方であり[6]、「生命原理」「生命特性」や「生命力」といった用語が用いられた[6]。その呼称はともかくとして、ともかく「いきているもの」と「ただのもの」を線引きする何らかの原理がある、と考えられたのである。このヴァイタリズムの思想こそが、17世紀的機械論の後に、“生物”の輪郭をつけようとする動機になったのである[6]。このヴァイタリズムが想定する「生命原理」というのは、個体全体にはたらくというよりも、個体を構成する器官や組織が持つ特性だと考えられていた。そしてこの「生命原理」というのは何らかの自然法則である、と考えられた[6][10]。こうした2点でヴァイタリズムは単なるアニミズムとは異なっていた。アニミズムが「ただの物体としての身体に、超自然的・非物質的な、だが実体的なアニマが宿る」と考えるのに対して、ヴァイタリズムというのは「身体を構成する組織や物質そのものが、何らかの生命原理を持っている。その原理は自然法則であって研究できる」と考えるのである[6]。(ただし、18世紀にはアニマと生命原理の両方を受け入れている思想家もいたので、その混ぜ方に応じて、思想家ごとに様々な考えはあった)。17世紀〜18世紀にかけて解剖実験が行われるようになり、切り離された心臓がしばらく鼓動しつづけることや、切り離された筋肉が刺激によって動くことが観察されたことなどから、器官や組織は生きている、とする考え方が生まれたのである[6]。
ヴァイタリズムは18世紀だけでなく、19世紀、さらに20世紀でも大きな影響力を持っていた[6]。というより、生物学の方向性を定めるものでさえあった[6]。(最近の教科書では隠蔽されて書かれなくなってしまったが)19世紀の実験生物学者、科学史で「偉大な科学者」と描写されるあのパスツールもヴァイタリストだったのである[6]。彼は、発酵という現象は生命によってのみ可能だと考えていた。
通俗的には「生物学はオカルト的な“生気論”から脱却することで成立した」などと信じられているが[6]、当時の主流科学者たちがどのように考えていたのか歴史資料をしっかり調べることを怠っているから、そうした通俗的な見方を信じてしまうのであって、実際には、当時はヴァイタリズムというのはニュートン力学同様に科学的な説であると科学者らによって考えられていたのである[6]。つまり当時の科学者らは、観察によって生命のプリンキピア(原理)を事実として受け入れ、それを出発点とする理論体系を構築しようと試みたのである[6]
「生物学は“生気論”からの脱却だ」とするような、まるで勧善懲悪のようなストーリーというのは、分子生物学の研究が一定の成果を挙げた時に、クリックなどの分子生物学研究者がさかんに宣伝した言葉を(事実をよく調べもせず)真にうけた人々の間に広がったものであり、事実を隠蔽するフィクションである[6]。こうした宣伝やそれを真に受けた話とは反対で、むしろ生物学が成立するためには、上述の歴史を読んでも分かるように、一旦ヴァイタリズムを経由することが不可欠であったのであるし、またヴァイタリズムはその後の生物学の背景や駆動力として受け継がれたのである[6]。(またそもそも、もしもクリックが主張するように生命現象が全て物理化学で説明できる、などとしてしまうと、なぜ物理化学以外に生物学という学問が現に必要とされているのか、ということが分からなくなってしまう、という問題もあるのである[6]。生物学が成立するためには、生物の独自性が認識されていなければならず、それを客観的・科学的に根拠づけようとしたのがヴァイタリズムだったのである[6]。)
現代の生物学の中では、細胞の中の分子メカニズムの詳細が明らかになりつつ一方で、「生命とは何か」という根本的な考察はあまりなされなくなってしまった。これは、生命現象と物理・化学との共通現象に関心が向いてしまったということであり、また生命現象の独自性を根拠づけようとする動機が失われた、ということでもある[6]。これは別の言い方をすると、生物学が進歩したことで、もともとその研究対象であったはずの生命現象そのものを見失ってしまったという皮肉な結果を生んだ、とも言える[6]と山口裕之は指摘した。
ところで、20世紀になるとホーリスム的な考え方も提唱され、またネオヴァイタリズムや有機体論なども登場した[7](こうした考え方の源流は古代からあったが、再び前面に出てきた)。
現在では、生命は自動制御の機械に譬えられることも多いが[7]、同時にそれは有機体論的にも把握されており、分子生物学な見解も当然のように認められており、また、生命を可能ならしめている土台には情報の伝達[7]やエネルギーの方向性のある変換がある[7]、とも言われるようになっているなど様々な切り口で把握されており、現代の生命論は複雑な様相を呈している。
多くの宗教においては、死後の世界もしくは、輪廻、転生などがあると考えられている。この場合、人間の主体、存在の本質、あるいは人格そのものを、魂、霊魂と呼ぶ。生命と霊魂を同一視するかどうかは、諸処の例がある。
古代インドのヴェーダや仏教では、人間の命と動物の命は同列的に扱われていた。仏教では、人間が動物に転生する考え(畜生道)なども見られるし、宗教家が動物を食べることはあまりよくないとする例もある。またジャイナ教では、虫を踏み潰して無駄な殺生をすることがないよう、僧侶は常にほうきを持ち歩くという習慣も見ることができる。
一方、キリスト教では、人間と動物の生命はまったく別のものとする傾向が強く、人間という存在は「神によって命を吹き込まれたもの」であり特別な存在である。さらに言えば、背信者を「命を失った者」と呼ぶ比喩[11]が存在し、神を信じるようになった者、天国に至る権利を得た者を「命を得た者」「永遠の命を得た者」とも呼ぶ場合がある。
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生物学では、生物の示す固有の現象を生命現象と呼ぶ。生命とは、その根元にあるものとの思想があり、生気論もその一つ(あくまで一例)だが、現在の生物学では概して具体的な生物と生命現象を論じることはあっても、生命そのものを題材とすることはほぼない。現代生物学では、生命を論じると言っても、生物を論じることにほぼ限定されているのである。ただしその範囲には若干の問題がある。
生命現象には様々な側面があるが、一般に生物学では、根本的な生命の定義に関わる部分は、その内部での物質交換と外部との物質のやりとり(代謝)、および同じ型の個体の再生産(遺伝と生殖)にあると考えられている。また、そのような性質を持つ最小の単位が細胞であるので、細胞を生命の最小の単位と見なし、それから構成されるものに生命を認める、というのが一般的である[5]。なお、植物の種子などのように、著しく代謝活動が不活発な状態でも代謝活動の再開が見込める場合には生きている、と呼ぶ。
ところが、ウイルスやウイロイドなどの存在は判断が難しい。ウィルスを生物とするか無生物とするかについて長らく論争があり、いまだに決着していないと言ってもよい[12]。
ウィルスは増殖はするが代謝を行っていないのである[12]。増殖(再生産)について言えば、宿主となる生物が持つ有機物質合成機能のシステムの中にウイルスが入り込むと、宿主のシステムが言わば誤動作を起こしてしまいウイルスを増産してしまう。形状について言えば、ウイルスはDNAやRNAなどの核酸とそれを包む殻から成っている。概して幾何学的な形状を持っており、あるものは正二十面体のような多角立方体、あるものは無人火星探査機のようなメカニカルな形状をしており、同一種はまったく同形で、生物全般に見られる個体の多様性が見られない[12]。代謝について言えば、ウィルスは栄養を摂取することがなく、呼吸もしないし、老廃物の排泄もしておらず、つまり生命の特徴である代謝を一切行っていないのである[12]。また1935年にはすでにタバコモザイクウイルスの結晶化が成功している。結晶というのは、同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されてはじめて生成しうるものなのである[12]。つまり、この点でもウィルスは生物というよりは物質と言える側面があることがわかった[12]。これらの相違点があるので普通はウィルスを生物とは認めない。 また、ウイロイドというのは、寄生性RNAのことで、ウィルス同様に宿主内のシステムが異常なものであることを判別できずに増産してしまう等々の特徴はウィルス同様であり一般に生物とは認めない。「生命とは自己複製するシステムだ」などとする定義では不十分だ、と考えれば、ウィルスは生命ではないのである[12]。 ただし、これらも自己複製という点だけに着眼すれば単なる物質から一線を画しており、その点をもってすればそこに生命を認めることは不可能ではない。「ウィルスは生物と無生物の間をたゆたう何者かである[12]」とも福岡伸一は表現した。
近年の生命の定義の試みは多数あり主要なものを挙げただけでも相当な数になるが、参考までにその一例を紹介すると、例えば福岡伸一は、ルドルフ・シェーンハイマー(en:Rudolf Schoenheimer)の発見した「生命の動的状態(dynamic state)」という概念を拡張し、動的平衡(dynamic equilibrium)という概念を提示し、「生命とは動的平衡にある流れである」とした[13]。 生物は動的に平衡状態を作り出している[13]。生物というのは平衡が崩れると、その事態に対してリアクション(反応)を起こすのである[13]。そして福岡は、(研究者が意図的に遺伝子を欠損させた)ノックアウトマウスの(研究者の予想から見ると意外な)実験結果なども踏まえて、従来の生命の定義の設問は浅はかで見落としがある、見落としているのは時間だ、とし[13]、生命を機械に譬えるのは無理があるとする[13]。機械には時間が無く原理的にはどの部分から作ることもでき部品を抜き取ったり交換することもでき生物に見られる一回性というものが欠如しているが、生物には時間があり、つまり不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度おりたたんだら二度と解くことのできないものとして生物は存在している、とした[13]。
ジャンプする鯨
鳥の群れ
グレート・バリア・リーフのさんご礁、アオヒトデ、魚
モンテネグロの森林
物理学者のシュレーディンガーは、著書『生命とは何か?』の中で生命を、ネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れ体内のエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした[14]。
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地球上の生命は、およそ37億年前には存在していたという証拠がある[15][16]。また、細胞を基本の構成単位としていること、核酸・タンパク質・脂質などからなることなどから、地球上の生命は全て単一の祖先から進化したか、他の生命は発生しなかった、ないしは発生してもすぐに絶滅したと考えられている。
また、地球生命の起源を地球外部に求める説も存在する。20世紀初頭にスウェーデンのアレニウスによる提唱に始まるパンスペルミア(胚種普遍説)は、細胞や生命の種が宇宙から飛来する場合に長期間受けるであろう有害な宇宙線を例にした否定論も多く、賛否入り混じったさまざまな議論が行われた[1]。その一方で、生命の材料足りえる有機化合物が宇宙空間に存在する証拠は数多く積み上がっている。隕石中からは、古くは1806年のアライス隕石から発見されている。本格的な研究は20世紀中ごろから始まり、アミノ酸・核酸塩基・炭化水素・ポリフィリンなどの発見が相次いだ[17]。1986年3月にハレー彗星が地球に近づいた際、日本・ヨーロッパ・ソ連は計5基の観測器を送り込み、様々な分析を行った。その結果、アミノ酸合成の中間物にあたるシアン化水素やホルムアルデヒド、酸化炭素・炭化水素・アンモニア・硫化水素や硫化炭素・ヒドラジンなどが発見された。彗星は、太陽系形成初期の物質を維持していると考えられ、これが海を形成した後の地球に降ったならば、彗星から生命の材料たる有機化合物が供給された可能性がある。また、地球以外の天体にも同様に材料を分け与え、条件がそろえば生命が発生したことを否定できない[17]。電波天文学の発展が明らかにした星間物質の組成には、多様な有機化合物が発見されている。このような結果から、生命の素材を地球内部の化学合成だけに限定する必然性は段々と薄れつつある[17]。
生命の特徴のひとつに、自己と同じ子孫を複製し増殖する能力持つ事である。これは核酸で構成される遺伝子を用いて行われる。地球生命の場合、4種類の塩基をD-リボース(またはD-デオキシリボース)という糖と結びついた化合物ヌクレオシドが、リン酸と結合してヌクレオチドとなり、これが鎖状につながって構成される。この各塩基には「塩基対」という水素結合で結びつきやすい組み合わせがあり、核酸は必ずこの塩基対に応じたもう1本の核酸と対をつくる。これがDNAである。対になったDNAを引き離すと、それぞれの核酸は周囲から塩基を集め、対の相手を作り、その結果同じDNAが2組出来上がる。これが生命の自己複製の基礎である[18]。
地球生命では、DNAの連なる塩基3つを1組とする意味を持ち、細胞を構成するたんぱく質のアミノ酸がどのように並ぶかを、DNAから複製したm-RNAで規定し、親と同じ構造を作り出す。生命が自己複製を行うにおいて、地球外の生命でも基本的に塩基対構造と似た働きを持つ物質を介すると考えられるが、地球環境内では塩基以外に相応する物質はほとんど無い。ただし、地球外生物では使用する塩基の数が4種以外であったり、生体の基本物質を規定する塩基数は3つ1組以外の組み合わせを利用する可能性も想定できる[18]。
生命は、成長や増殖に必要なエネルギー源を外部から栄養の形で得る。栄養はそのまま用いることができないため、複雑な化学反応をへてエネルギーに変換するが、これを代謝という。
生物の細胞や臓器における生命活動が不可逆的に失なわれることを死と呼ぶ[19][20]。生命を定義することが難しいのと同様に、死を定義することも困難な問題である。そのため、生きている状態と死んでいる状態をはっきりと区別することはできない。多細胞生物においては、個体の死と細胞の死は別々に考えられるべきで、例えば、臓器移植の場合、臓器提供者が死んだとしても、移植が成功すればその臓器は生きていると考えられる。また生命体は普通、子をなしてその血統を存続させる。これを細胞レベルで見れば、細胞の分裂と融合に基づく連続性は常に維持されているため、その意味で生命は停止せずに連続していると表現する事も出来る。これを生命の連続性という。
多くの宗教では、何らかの形での死後の世界や輪廻、転生などが存在していると考えられている。
人間によって作成、またはシミュレーションされた生命体を人工生命と呼ぶ。特に近年の情報処理技術の発達にともなって、生命現象のシミュレーションをコンピュータ内("in silico")で行なうことも可能になった。文字通り「生命」を持つ人工生命を強い人工生命(strong Artificial Life, または Strong Alife)と呼び、限定された人工環境下で生命現象の一部だけをシミュレーションしたものを弱い人工生命(weak Alife)と呼ぶ[21]。強いAlifeが本当に実現可能であるのか、化学的プロセスと切り離されたコンピュータ上の計算が生命を持つと呼べるのかについては、さまざまな議論がある。
コンピュータシミュレーションではない現実の生命については、2003年にゲノム解析の塩基配列情報からウィルスを合成することができたという報告がある[22][23]。 その後2010年、アメリカのクレイグ・ベンター博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功した。
21世紀初頭現在において、人類の知識の範囲内では、全ての生命体は地球上にしか存在しない。しかし、地球外生命の存在可能性は、古くからかぐや姫やウェルズの宇宙戦争のような、おとぎ話やSFのインスピレーション元となってきた。また、近年の観測技術の発達に伴い、地球外生命体の存在可能性は真面目な科学的考察の対象となっている。例えばカール・セーガンは、著書『コスモス』で、地球外生命体の存在可能性を数式を用いて提示した。
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