出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2016/07/23 15:11:30」(JST)
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本項目では旅行(りょこう)、旅(たび)について解説する。
広辞苑によると、旅とは、定まった地を離れて、ひととき他の土地(場所)へゆくこと[1]、である。大辞泉には「住んでいる所を離れて、よその土地を訪れること」とある[2]。 [3] [※ 1]
柳田國男によれば、旅の原型は租庸調を納めに行く道のりのことである。食料や寝床は毎日その場で調達しなければならないものであり、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると考えられる、と柳田は述べている[4]。
旅の歴史を遡って概観してみれば、人類は狩猟採集時代から食糧を得るために旅をしていたのであり、農耕が行われる時代になった後も、すべての人々が定住していたわけではなく、猟人、山人、漁師などは食糧採集のための旅を行っていた。 その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われていた時代があり、ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まっていた。日本でも平安時代末ころには巡礼が行われるようになった。イギリスでは近世になると裕福市民層の子が学業仕上げのグランドツアーや家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学などを行うようになった。日本では江戸時代にいくつもの街道が整備され、馬や駕籠も整備され、治安も改善されたので、旅がさかんになった。 近代になり西欧で鉄道や汽船などの交通手段が発達すると、ますます旅はさかんになった。→#歴史
現在の旅は非常に多様であり、さまざまに分類することが可能である。→#旅の分類
現代では一般庶民にも移動の自由が公に認められているわけであるが、昔はそうではない場合のほうが多く、人々は宗教的な巡礼、神社仏閣への参拝を理由に旅をすることが多かった。
ヨーロッパでは4世紀ごろには巡礼が始まっており、中世にはキリストの聖杯・聖遺物、あるいはその使徒の遺物が安置されているといわれる大聖堂、修道院への巡礼が盛んに行われるようになっていた。主な巡礼路には、旅する人に宿泊場所を提供し世話をしたり、旅の途中で病になってしまった人をケアするための施設も造られていた(これが、現在のホスピスや病院の起源である)。
日本では8世紀ごろから西国三十三所、四国八十八箇所巡礼などが行われるようになった。[※ 2]
また、近世に入ってからは、イギリスの裕福な市民層の師弟の学業の仕上げとしての「グランドツアー」、家庭教師同伴の長期にわたる海外遊学が広く行われるようになり、それを世話する業者である旅行代理店が登場した。今日も存続しているトーマス・クック・グループは当時の創業になる。また、こうした流行が明治以降の日本に輸入されて、学校の修学旅行になった。
また、アメリカでは19世紀には金鉱の発見などにより、「西部開拓」という大移動、旅行ブーム(ゴールドラッシュ)を引き起こし、以後、放浪者、「ホーボー」や、ビートニクなどの運動でも旅行は新しい文化の呼び水になった。(ただし、21世紀現代の米国ではパスポート保持者は全国民の3割に過ぎず、外国へ旅行する人の半数は、行き先が、2007年までパスポートが不要だったカナダとメキシコだったという[5]。)
狩猟時代、人々は食糧採集のために旅をしており、鳥獣を追って山野を歩き、魚をとるために川を上下した[6]。弥生時代に入ると農民は定住したものの、猟人、山人、漁師などによって食糧採集の旅は続けられており、また農民以外の職は行商人であったり歩き職人であったりした[6]。というのは当時は人口が少なく、待っていても仕事にならず、旅をして新しい客をつねに開拓する必要があったからである[6]。中世から近世にかけては店をかまえる居商人がしだいに増えたものの、かわらず旅をする商人・職人も多かった[6](例えば、富山の薬売りなど)ほか、芸能民、琵琶法師、瞽女等々もいた[6]。
行政によって強制された旅も多かった。防人では東国の民衆がはるばる九州まで赴いた。また庸調などの貢納品(租庸調という一種の税金)の運搬で、重い荷物を背負って都まで行かねばならず、途中で食糧もつき命を落とす者が絶えなかった[6]。近世に入り、運送の専門業者が出現したことで、こうした貢納のための強制された旅は激減した[6]。
やがて自由に自発的に行う旅が生まれ発展していった[6]。平安時代末期までは交通の環境は苛酷なまでに厳しかったので旅は苦しく、かつ危険であったのであるが、こうした苦難な旅をするのには強い動機があったわけで、それはほかならぬ信仰であった[6]。僧侶は修行や伝道のために旅をし、一般人は社寺に参詣するために旅をした。平安末から鎌倉時代は特に熊野詣が盛んであった[6]。室町時代以降、伊勢参りが盛んになり、また西国三十三所、四国八十八箇所のお遍路などが盛んになった[6]。
それまで徐々に発達してきた交通施設・交通手段が、江戸時代に入ると飛躍的に整備された[6]。徳川家康は1600年の関ヶ原の戦いに勝つと、翌年には五街道や宿場を整備する方針を打ち出し、20年あまりのうちにそれが実現したためである。宿場町には、宿泊施設の旅籠や木賃宿、飲食や休息をとるための茶屋、移動手段の馬や駕籠、商店などが並んだ[6]。また貨幣も数十分の一〜数百分の一の軽さのものに変わり、為替も行われ、身軽に旅ができるようになった[6]。またそれまで多かった山賊・海賊も、徳川幕府300年の太平の間にずいぶん減り、かなり安心して旅ができるようになった[6]。
江戸時代には駕籠や馬も広く使われてはいたが、足代(料金)が高い事から長距離乗るのは大名や一部の役人などに限られ、一般人はそれを使うとしてもほんの一部の区間だけが多かった。船に乗る船旅も行われ、波の穏やかな内海は比較的安全で瀬戸内海や琵琶湖・淀川水系、利根川水系などでよく行われていたが、外海では難破の恐れもある危険なものであった。農民の生活は単調・窮屈・暗いものであったので旅をしたがったが、各藩のほうは民衆が遊ぶことを嫌い禁止したがった。だが参詣の旅ならば宗教行為なので禁止できなかったため、人々は伊勢参宮を名目として観光の旅に出た[6]。人々の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても少なかったので、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとし、京・奈良などでは社寺の広大さに感嘆し、大阪では芸能浄瑠璃や芝居に酔った[6]。若者の中には宿場の遊女と遊ぶ者もいた[6]。ただし、京見物までするような長旅ができたのはかなり裕福な人や家長くらいのもので、貧しい人々などは近場で我慢したのであるが、ともあれ、旅が(貴族や武士だけでなく)一般民衆によって行われるようになったのである[6]。現代と比べて娯楽が少ない当時、旅の持つ意味ははるかに大きかった[6]。
また、江戸期には旅を題材とした旅文学・紀行文や絵画作品も多く作られた。
なお幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」のなかで「日本人は大の旅行好きである」とのべている。そしてその理由として、「本屋の店頭にはくわしい旅行案内書(宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などを記載したもの)、地図がたくさん置いてある」ことなどを挙げている[7]。
近代になり、鉄道と汽船が利用できるようになると、一般人でも長距離の移動が楽にできるようになった。1886年、修学旅行の嚆矢とも言われる東京師範学校の「長途遠足」が実施されるが、東京から銚子方面へ11日間軍装で行軍するという、軍事演習色の強いものであった[8]。
旅の分類と言ってもさまざまな方法があるが、例えば次のような分類が可能である。
旅には目的地のある旅と無い旅がある。
一般的に言えば目的地を決めて行われており、目的地がある場合、それが複数の場合とひとつの場合があり、複数の場所(目的地)を移動してゆく旅は英語ではツーリングと言う。目的地では各人の好みで様々な活動をすることになり、例えば、自然を楽しんだり、温泉で身体を癒したり、のんびりと宿で(長期)滞在したり、文化財を楽しんだり、観光を楽しんだり、土地の産物の買い物をしたりするわけである。また、“目的地”は形式的に設定されているだけであまり重要でなく、実質は途中の移動や行為であるような旅、移動中にさまざまなものを見てゆくことのほうがむしろ主たる愉しみとなっている旅もある。
目的地を定めず期間だけを決めて旅に出る人、つまり行き先は成行き(旅先での偶然や必然)に任せてゆく、という旅をする人もいる。また目的地だけでなく期間も定めず、あてどもなく長期の旅に出る人もいる。「放浪の旅に出る」という表現もある。
さまざまありうるが、次のような場所はしばしば目的地に設定されている。
旅の枕詞は「草枕」である。草枕とは、旅先で草で仮に枕を編んだことに因む。
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