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環境問題(かんきょうもんだい、英: Environmental threats, Environmental issues, Environmental problems)は、人類の活動に由来する周囲の環境の変化により発生した問題の総称であり、これは、地球のほかにも宇宙まで及んでいる問題である。
人類は古くから文明を発展させてくる過程で、自然環境を資本として利用してきた。天然資源を原材料に工業製品を作ったり、燃料を使ったりすることで、原始的な狩猟採集生活と比較してはるかに高い生産力を実現し、利便性を高めてきたのである。
しかし、自然環境を利用することで、否応無しに自然環境に負担をかけることになる。原材料やエネルギーの使用量は文明の発展とともに増え、21世紀を迎えた現在の先進国のエネルギー使用量は、狩猟採集生活のころに比べて推定50倍以上[1]となった。人口はこれよりも急激に増えていることを考えれば、過去数十万年で原材料やエネルギーの使用量は爆発的に増えたと考えられている。
人間が少しでも自然に手を加えれば、自然・環境への負担が必ず発生するが、自然は自己修復性を持っており、ある程度の負担までは短期間で回復可能である。具体的に自己修復性とは、植物が伐採されたあと再び芽生えて元のように成長したり、物を燃やした際に出る灰や煙が拡散・沈殿などを経て分解されたり生物圏から隔離されたりすることであり、生物学や物理化学によって説明される。
自然が持つ自己修復性を超えて負担をかけたり、自己修復性が損なわれたりすると、回復が遅れ、結果的に人類をはじめとした生物に悪影響を及ぼすことになる。上に挙げた例で言えば、植物が過剰に伐採されたことで雨で土が侵食されて貧弱な土壌となり植物が育ちにくくなり、その植物を糧にして生活している人間やそこに棲む動物が被害を受けたり、大量に物を燃やすことで灰や煙が地上にも広がって、それを人間や動物が吸い込んで健康被害を受けたりする。
人類は誕生当初より、生活のなかで自然環境に負担をかけていたと考えられるが、それは自己修復性を超えた過剰なものではなかった。例えば、狩猟採集生活は考古学の資料などから数万年の間継続されてきたと推定され、この事実が負担の小ささを証明している。これは、そもそも当時は(現在も残る狩猟採集民族の場合も同様だが)人口が少なく生活単位も小さいため、短期間に大量に天然資源を利用したりすることが少なかったことが原因である。
しかし、人口が増えたり、コミュニティが密集してくると、しだいに悪影響が見られるようになってきた。異論もあるが、紀元前に存在した古代エジプト文明やインダス文明などは、森林の過伐採による砂漠化が文明衰退の原因とも指摘されている。そして、18 - 19世紀にヨーロッパを中心に産業革命・工業化が広まった頃からさまざまな悪影響が顕在化し始め、産業革命・工業化の波とともに世界中に波及していった。
その時期その場所で環境汚染などの被害が発生していたものの、それが「環境汚染」「環境問題」、つまり人間やその生活を取り巻く「環境」におきている汚染や問題として広く認知されるのはもう少し先のことで、20世紀半ば頃であった。この時期の大きな出来事として、『沈黙の春』(1962年)が環境汚染をクローズアップさせ、環境問題が世間に認知され始め、学問的に環境問題を調査研究する動きが本格化する(後述の環境倫理の変遷及び『沈黙の春』の項目も参照)。
その後酸性雨、オゾンホール、異常気象、地球温暖化など全地球規模の環境の変化が顕著になってくるにつれ、人々の環境問題に対する関心は徐々に高まってきた[要出典]。
日本では明治初期に、主に産業活動に起因する公害という概念が生まれた。日本では、足尾銅山鉱毒事件が公害では最初となった。もともとあった「公害」の概念に植物や動物などの自然環境の汚染が加わって「環境汚染」となり、次に自然の許容限界を超えた負荷によって起こる諸問題へと対象が拡大し、オゾン層や地球温暖化などの地球環境問題が加わって「環境問題」へと、環境問題の考え方は次第に展開していった。これらの問題を地球環境の破壊と考え、「環境破壊」と呼ぶこともある。
現在、環境問題、特に地球環境問題は、貧困や紛争などと並んで主要な国際政治問題、社会問題の1つと位置づけられている。国際的な議論や取り組みがいくつか実行され、一部は効力を表しているが、地球温暖化など対策が不十分とされるものも存在する[要出典]。経済発展に絡んだ生活の向上との折り合いが付かなかったりして行き詰まり、ライフスタイルの刷新など抜本的な対策を行おうとする動きもある[要出典]。
環境哲学・環境倫理学も参照。
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自然への負荷と自然の自己修復性のバランスが崩れ、本格的に悪化し始めたのは、18 - 19世紀の産業革命・工業化期であり、直接的には利潤の追求を基本的な価値観とする資本主義(利潤追求的資本主義)が原因であるとみられているとの説があるが、実際には社会主義においても環境問題は多くみられる。学者の中には背景に大航海時代(金、香辛料などへの欲求)に遡るヨーロッパの拡張主義とプランテーションの拡大、文明を広め「野蛮」を開くという帝国主義の一面としての啓蒙主義やそれと裏表をなす「オリエンタリズム」的観念を指摘する者もいる[要出典]。もともとのエコロジー(生態学)は植物研究とも関係が深いが、海外に植民地を持っていた当時のヨーロッパ情勢とも無関係ではない[要出典]。
人間活動と自然に関する問題が、初めて一般に取り上げられるようになったのが、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』だとされている。同書は産業界から激しい非難を浴びながらも、DDTの全面禁止をはじめとしたその後の米国の環境行政に大きな影響を与えた。1972年に出版されたローマクラブの『成長の限界』は、現在のまま人口増加や環境破壊が続けば、21世紀半ばには資源の枯渇や環境の悪化によって、人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしており、破局を回避するためには、地球が無限であるということを前提とした経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると論じている[2]。
環境問題では、負荷をかけていない他人への影響を含めて、当事者が全ての責任を取るという汚染者負担原則という考え方がある。ただ、汚染などの悪影響が小さければ問題はないが、悪影響が大きい場合や、環境に負荷をかけている当事者が判明していない場合は、当事者の負担が重過ぎて対策がままならないことがある。その場合、社会全体でも責任を負い、例えば税金を使って汚染による被害の補償を行うなど、当事者や影響を被っている者への支援を行う。
当事者の自発的な対策が行われない場合や、当事者が多数おり協力が難しい場合などもあるため、地域社会や行政などの社会全体が中心となって対策を行う必要がある。法学的には、人間の生存にかかわるような環境問題は生存権や人格権の侵害として当事者の責任が法的に規定されている。近年は、環境権についても認める動きが出始めているが、国により差がある。
環境問題対策の方法は、大きく2種類に分けられる。環境汚染の影響が健康に及ばないよう基準(環境基準など)を定め、これに基づいて計画を立てたり、汚染の監視や規制を行ったりする手法は、トップダウン型対策の代表的な方法である。組織が自発的に環境に関して方針や目標を定め、それに沿って活動し評価などを行っていくことを環境マネジメント(環境管理)といい、ボトムアップ型対策の代表的な方法である。
ただ、環境問題への対策は政治的組織(国、都道府県、市町村など)単位になってしまうため、対策の効力が及ばない他地域の汚染が自地域に及んでしまう、越境汚染(特に国家間の越境を言う)という問題もある。これについては民間の活動では追いつかず、政治的な働きかけ、国際的な議論や協議が必要となってくる。
環境問題の解決を目的として、あるいは思想などを背景にして、環境を保護することを環境保護といい、これを継続的に行っていくのが(市民活動としてみた場合)環境保護活動や(社会運動としてみた場合)環境保護運動である。環境保護のうち、特に自然を対象とするものを自然保護と呼ぶ。環境保護を推進したり啓発したりする団体を環境保護団体といい、自然を対象にするものを特に自然保護団体と呼ぶ(詳細はそれぞれの項目を参照)。
環境保護に類似する言葉として環境保全がある。ほぼ同義であるが、使い分けることもある。
環境分野の問題を統括する国際組織には、全世界を対象とする国際連合と国連環境計画(UNEP)をはじめとして、欧州連合(EU)やアジア太平洋経済協力会議(APEC)などの地域連合、専門分野を扱う組織として気候変動に関する政府間パネル(IPCC)などがある。
環境問題を対象とする学術分野が環境学である。環境化学、環境社会学、環境経済学、環境倫理学、環境政策学などを始め、環境とその影響、それを取り巻く問題などを扱う。
環境に関する思想にはエコロジーやガイア理論などがある。一部は一般的にも広く浸透しているが、独自の思想もみられる。こういった思想を踏まえて環境保護を推進していこうとするのが環境保護主義であり、環境保護団体のほとんどがこの主義を掲げている。
環境問題への対策を考えるに当たって重要な考え方がある。持続可能性は、ある物や活動が、人間活動を維持し持続させていけるのかどうかという可能性について指す言葉である。持続可能な開発(持続可能な発展、持続可能な社会)は持続可能性を最大限尊重した開発を進めていくことである。持続可能性を保持しながら資源やエネルギーなどを利用していく社会を循環型社会といい、省資源、省エネルギー、ゼロ・エミッション、3Rなどさまざまな形がある。
環境問題は、産業活動も主原因であることに間違いはないが、個人などの民生活動がもう1つの主原因でもある。産業活動については、その組織的な特徴を生かして一律な対策をとり、罰則などを定めるのも容易である。しかし、個人については、多種多様な考え方や生活様式(ライフスタイル)があるため一律な対策をとるのが難しく、罰則を定めるのも容易ではないため、一人一人の考え方や行動に委ねられている部分が大きい。そのため、民間では環境保護活動の影響力が大きい。
営利を目的としない市民活動をNPOとして優遇する体制が整備されてきている。カーシェアリングやレジ袋の使用自粛など草の根レベルでの環境に対する取り組み(草の根民活)も盛んになってきている。
市民の環境意識の高まりを受けて、環境モニタリングなどの監視制度も生まれた。交通分野でのモビリティ・マネジメントのように、自発的な環境対策を推進しようとする動きもある。
非政府組織という形での市民活動のほか、国家的な取り組み(排出規制、環境基準、研究)や、企業による取り組み(環境技術の開発、ゼロ・エミッションの追求、リサイクルなど)といった様々な形で、環境対策や環境保護運動は推進されている。
環境保全・環境負荷低減全般に関する活動などについては、グリーン購入やそれを補助する環境ラベリング制度、3Rなどがあり、制度化されたり行政や民間による支援が行われたりしている。
制度化に関しては、この分野全般を対象とする環境法という分野があり、環境基準や環境税などの手法がある。環境コンサルタントや環境カウンセラーなどは、環境対策全般について扱う専門家であるが、制度化などには国によってばらつきがある。
企業や団体などに関しては、環境会計の運用や環境マネジメントシステムの導入を行うことが、総合的な対策につながる。環境問題への対策を好機と捉える企業・団体も多く、「環境先進国」を中心に環境ビジネスや環境市場といったものが生まれつつある。
草の根活動、善意による地道な活動、危機意識による活動などが拡大してきている一方、環境問題の解決のためには、貧困や人口問題への対策、利益主義や自己の繁栄のみを追求する考えなどの思想の転換といった、大規模な対策が必要であるという指摘もある。
環境問題全般への対策として、都市への人口集中や過疎を軽減し、地域単位でローカル・コモンズを利用していくことが挙げられる。これにより物やエネルギーの輸送は最小限で済み、環境汚染に対する責任がとりやすくなるなどの効果があるとされる[誰によって?]。日本では、古くからの「生活の知恵」を再考し、循環型社会の実現や里山保全などが行われている。スローライフや自給自足も、環境負荷の軽減は大きいとされる[誰によって?]。
2006年、国際連合食糧農業機関(FAO)は畜産が環境破壊への主な脅威となっているので生産方法を改善する必要があるという報告をしている[3]。畜産は温室効果ガスの排出量が「多く」、ガスは酸性雨の原因であり、飼料を作るために多くの森林が伐採され、水の浪費や水質汚染の主要な原因であるという統計結果が得られたためである。畜産は全体で見れば原因の1つに過ぎず他にも原因はあるが、アジアなどで急速にライフスタイルの変化が起きており、肉や乳製品の消費が急増することに伴う環境問題などが顕在化していることが背景にある。
このようなライフスタイルの変化は新興国や途上国の経済発展によるものであり、巨大な人口を抱えるこれらの国民が先進国のような生活をすることになれば、環境問題に加えて資源や食料・水などの供給不足は深刻を極めることが予想されている。こういったことを踏まえ、先進国に対して自らのライフスタイルの大幅な見直し、途上国に対して経済発展に頼らない生活の向上をそれぞれ求める声が高まってきている。しかし、意見の相違はいまだに大きい。
航空機の離着陸の際に出る大きな音は、空港や基地などの周辺では生活に支障が出るほどのレベルに達することがある。空港の用地取得問題との関連などから、空港で夜間の離着陸を制限するなどの対策は採られているが、基地周辺での騒音問題は沖縄などではいまだに深刻である。
地盤が弱い、交通量(特に大型車)が多い道路などの周辺では振動によって生活に影響が出たりすることがある。廃棄物の不適切な処理などによって悪臭の問題が発生することもある。
自然保護については、世界自然保護基金(WWF)や国際自然保護連合(IUCN)を始め大小さまざまな自然保護団体、個人の活動家などが活動を行っている。
開発前に環境アセスメントを行う手法や、自然保護区の設定などが積極的に進む一方、政治的あるいは経済的な理由などにより十分な保護が行われていないところもある。ただ、国民生活に余裕がなく経済的な余裕がない貧困国もアフリカ地域など多くあり、それらの国からは環境保護以前に開発、国民生活の向上が必要との主張も根強い。
個人を中心として、ナショナルトラスト運動が展開されている地域もある。
一方で、エコテロリストなどの過剰な活動が問題となったりしている側面もある。
1997年、京都にて「気候変動枠組条約第3回締結国会議」が開催された。ここでは京都議定書により二酸化炭素、メタン、フロンガスといった温室効果ガスの総排出量を削減することが取り決められた。削減目標は国ごとに割り当てられ、先進国全体で2012年までに1990年の総排出量から5.2%削減することが求められている。これは2050年までに総排出量を半減させるという長期目標に比べて微々たる量であるが、排出削減で合意したこと自体に一定の意味がある。京都議定書については、ロシアはいわゆる「ホットエア」の問題がある他、EUは東欧への技術導入でCO2削減が比較的容易であり、日本などは他国に比べて追加的にCO2を削減するのに大変費用がかかるとされる[誰によって?]。
温暖化問題に理解のあったクリントン政権のアル・ゴア副大統領が選挙で敗れ、京都議定書から米国ブッシュ政権が離脱し、議定書の発効自体が危ぶまれた時期もあったが、ロシアが枠組みに入ることにより発効した。その後、米国は大排出国のみの多国間技術協力パートナーシップを進め、独自路線で国際的温暖化対策を進めている[要出典]。
環境問題の本質的課題である地球温暖化問題の解決には、アメリカ・中国・インドの排出削減義務が必須であり、途上国である中国・インドを説得するには、まず米国の京都議定書が必須とする意見もある[要出典]。その一方で、各国目標値を恣意的に決めるのではなく排出量取引を活用して効率的に削減を行うべきだという議論や、技術協力を主軸としたインセンティブを主とした手法をポスト京都議定書では採用すべきだとの声もある[要出典]。
尚、地球温暖化問題と気候変動問題の違いについては、前者は仮説、後者は科学的事実とされ、日本国内では、前者、国際的には後者が使われる傾向が多い[要出典]。
産業に効率化・能率化が図られると、機械の導入などによってエネルギーの消費が増えるように、産業の発展・生活水準の向上・環境負荷の増加は切っても切り離せない関係にある。環境負荷を軽減しようとすれば、産業の発展や生活水準の向上が妨げられるとの考えは根強く、現在の環境問題対策の大きな足かせとなっている。
環境市場や環境ビジネスは拡大し続けており、環境保護をテーマにした商品や企業も増え続けている。自らの損失を省みない献身的な環境保護活動・環境対策が民間を中心に行われている一方、利益のための環境保護活動・環境対策も行われている。利益が生まれ、かつ実効性のあるものもあるが、中には実効性が無く環境負荷が増えるものを「地球にやさしい」などと称しているものもあり、それらはグリーンウォッシングとも呼ばれる[要出典]。
これについては、環境保護や「エコ」を前面に押し出したり、スポンサー企業との関係が絡むマスコミやメディアの影響も大きい。これに対して環境教育の推進が行われているが、これ自体も環境保護を前面に押し出したものであり、環境リテラシーの向上を求める声がある。ヨーロッパでは、オーフス条約により多くの国で環境に関する情報入手や意思決定などへの市民参加が推進されている(オーフス条約の項も参照)。
例としてハイブリッドカーを挙げると、ハイブリッドカーは環境に優しいと宣伝されているものの、その開発、製造、廃棄処分などには多大なエネルギーを使うため環境負荷は大きい。従って、実用化や普及、更なる技術革新を行わなければ環境負荷の低減は望めない。軽自動車、電車、自転車、徒歩などのほうがはるかに環境負荷は少ない。そこに大きな矛盾を指摘する声もあるが、生活水準の維持やライフスタイルとの折り合いの関係で、難しい部分もある。
環境問題全体の対策を考える上で、ある問題への対策が他の問題に悪影響を与えたり、それぞれの環境問題への対策が互いに相容れないものであることもある。例えば、温室効果ガスの排出量が少ないためヨーロッパではディーゼル自動車の利用が推進されているが、大気汚染物質の排出量が多いため日本では規制対象となるなど、対応が分かれている。資源の節約のために再生紙の古紙配合率を高めると、製品化にかかるエネルギーや資源が増大するといった問題もあるが、両方の解決のためには更なる作業の工夫や技術開発などが必要となる。
現在社会においては消費者の視点として、環境に優しい製品などの環境負荷低減効果(環境効果)を正しく見極める必要があるとされる。例えば、電気自動車は排気ガスや温室効果ガスが出ないとされているが、動力源の電気を発電する過程で、ガソリン自動車よりは少ないものの、温室効果ガスなどが排出されている。一般的な認識では、全く排気ガスを出さないといった誤解も生まれており、環境効果の適切な表示や、環境リテラシーを求める声がある。
比較的新しい概念として、環境負荷を低くして文明を永続させるための持続可能な発展や持続可能性ということが国際的に盛んに言われている。これは「将来世代の利益を損なわずに、私たちが発展できるレベル」で経済発展をするというコンセプトで、特に途上国の開発の問題では頻繁に使われている(持続可能性や持続可能な発展の項も参照)。
パーマカルチャーという永続可能な農業・生活設計やそれを実践したエコビレッジなどが各地にあり[要出典]、なかでもオーストラリアにあるクリスタルウォーターズが有名である[要出典]。
原義は「生態学」であったが、意味が拡大して現在は「環境に優しい」「環境に配慮した」「環境負荷が少ない」という意味で用いる。略してエコと呼ぶことも多い。意味や定義が曖昧であるため、「健康にいい」「自然な」といったところにまで意味が拡大されることもあり、環境問題とはかけ離れた意味で使われることもある。
発展や利便性追求の流れから、もともとの自然に回帰することで、環境問題を解決しようとする考え方がある。文明と環境問題が密接な関係を持つことから、文明を回避あるいは後退させることで解決しようとする考え方もある。この流れは、ラッダイト運動や日本では環境負荷の低い精進料理・江戸時代の生活様式など伝統を見直そうという動きに窺うことが出来る。自然を理想とする考え方もアナキズムやルソーなど一部のロマン主義に見ることが出来、アスコーナではその種の共同体が試みられることもあった。
生活の中に自然を取り入れる、環境に配慮した生活を行うといった、ライフスタイルに踏み込んだ環境問題への取り組みもある。「エコライフ」や「LOHAS」などさまざまなものがある。環境負荷の低減に貢献しているものもあるが、単に自然を取り入れただけであって環境負荷低減の効果は無いものもあり、根強い批判がある。
農業は比較優位でなくても、環境保護という観点から必要であるという主張がある[4]。
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日本では、四大公害病が表面化に拡大したことに伴い社会的関心が高まった。1967年の公害対策基本法、1993年の環境基本法、1997年の環境影響評価法により法的規制は少しずつながらも拡大している。1990年代後半にはダイオキシン問題が大きくクローズアップされ、規制が進んだ。
ヨーロッパでは、酸性雨の影響が広範囲に及んだことなどから対策が進んだ[要出典]。水・大気汚染規制、ごみに関する規制などが比較的早期に始まり、ドイツ、スウェーデン、デンマークをはじめ多くの国では市民の環境に関する意識も高いとされている[要出典]。EUという広域的な枠組みによる規制や政策も行われている。
国際連合ではパン・ギムン事務総長が直接主導するSE4ALL(Sustainable Energy for All)による「Global Energy Efficiency Accelerator Platform」の構築を目指す一環として、エネルギー効率改善都市の選定などを2014年の国連気象サミットで始めた。
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