出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/10/20 21:07:34」(JST)
入浴(にゅうよく)とは、主に人が身体の清潔を保つことを目的として、湯や水・水蒸気などに身体を浸すことを指す。
入浴施設の構造物に関しては風呂を参照。
紀元前1世紀ごろから、中央アジアで蒸し風呂があったと思われる。これは、高温に加熱した石に水をかけることで蒸気を発生させて入浴を行った。燃料などが少なくて済み手軽に使用できたため、冷水による入浴に適さない地域で広まった。中東では、この蒸し風呂が公衆浴場(ハンマーム)となった。またロシアや北欧に伝わりサウナの原型ともなった。次のヨーロッパの項目で解説されているが、古代ローマ帝国全土に広まった公共浴場は、イスラームによる北アフリカの地中海沿岸地方・シリア地方征服後、イスラーム圏で保持され、中東・イランでは現代に至るまで続いている。公共浴場は、モスク・市場と並んでイスラーム都市の基本構成要素となった。
紀元前2600年頃のインダス文明のモヘンジョダロや、ハラッパー等の諸都市は、大規模な公衆浴場が完備していた。 古代インド十六大国のマガダ国の首都王舎城(現在のビハール州ラージギル)は温泉が多く、王舎城に創された仏教最初の寺院である竹林精舎の近くに、温泉がある仏教僧院(Tapodarama)があった。湯治を目的としていた思われる。現在、跡地にはヒンドゥー寺院が建てられるが、温泉は今も健在である。 ヒマラヤ山脈があるインド北部の、ジャンムー・カシミール州、ヒマーチャル・プラデーシュ州、ウッタラカンド州などは、温泉が多く、宗教施設の中や、その周辺に源泉があることが多い。パールヴァティー渓谷にある温泉は、有名である。
ヒンドゥー教の多くは1日の始まりに、寺院の貯水池や川で浴を行う。あるいは毎日、仕事を終えたあと、たっぷりと1時間ほど時間をかけて全身を洗いきよめる[1]。 シク教にも沐浴の習慣があり、アムリトサルにあるシク教の総本山・黄金寺院周辺でも沐浴を、よく行ってる。
紀元前4世紀頃の、ギリシャの都市に公衆浴場が存在した。
ローマ帝国時代には、各植民都市に共同浴場が作られた。入浴様式は蒸し風呂の他に、広い浴槽に浸かる形式もあった。217年につくられたローマのカラカラ大浴場は、2000人以上が同時に入浴できたといわれている。古代ローマの入浴は、官営病院を持たなかったローマ人の感染予防施設としても使われた。
ローマの共同浴場は時代の流れとともに、大衆化し社交場・娯楽施設としての意味が増してきた。一方で売春や飲酒蔓延、怠惰の温床にもなった。
次第にキリスト教の厳格な信者からはローマ式の入浴スタイルは退廃的であるとされ、敬遠されるようになった。その後、中世に十字軍によって再び東方から入浴の慣習が伝わったものの今度は教会が入浴の行為は異教徒的として非難した為にその後は入浴の習慣は無くなっていった。また共同浴場は、梅毒やペストなどの伝染病の温床というイメージも入浴を衰退させる原因になった。結果、キリスト教徒の間では入浴は享楽の象徴とされ忌み嫌われシャワーが主流になっていった。
中世ヨーロッパ(特にフランス)では、水や湯を浴びると病気になると信じられてきた。ヴェルサイユ宮殿のバスタブは建設された当初は使われていたものの、その後はマリー・アントワネットが嫁ぐまで使われなかった。王侯貴族は入浴の代わりに頻繁にシャツを着替え、香水で体臭をごまかすようになった。これがパリなどのフランスの大都市部の公衆衛生の悪化の原因の一つとなった。しかし1875年にイギリスで「公衆衛生法」ができ、入浴が奨励されるようになった。徐々にバスタブによる入浴が行われるようになった。さらに19世紀、イギリスでシャワーが発明される。以後、シャワーによる入浴が世界に広まった。
もともと日本では、川や滝で行われた沐浴の一種と思われる禊(みそぎ)の慣習が古くより行われていたと考えられている。
仏教が伝来した時、建立された寺院には湯堂、浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られた。もともとは僧尼のための施設であったが、仏教においては病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、『仏説温室洗浴衆僧経』と呼ばれる経典も存在し、施浴によって一般民衆への開放も進んだといわれている。特に光明皇后が建設を指示し、貧困層への入浴治療を目的としていたといわれる法華寺の浴堂は有名である。当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式であった。
平安時代になると寺院にあった蒸し風呂様式の浴堂の施設を上級の公家の屋敷内に取り込む様式が現れる。『枕草子』などにも、蒸し風呂の様子が記述されている。次第に宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられている。
浴槽にお湯を張り、そこに体を浸かるというスタイルがいつ頃発生したかは不明である。古くから桶に水を入れて体を洗う行水というスタイルと、蒸し風呂が融合してできたと考えられている。この入浴方法が、一般化したのは江戸時代に入ってからと考えられている。
だが、漢方医の間では入浴の習慣が広まることに危機感を覚えるものもいた。いわゆる後世派と呼ばれる医師たちは温泉療法以外による入浴は体内の気を乱して体に悪影響を与えると考えていた。貝原益軒の『養生訓』にも10日に1度ぬるま湯に沐浴すれば良く、それ以上の入浴は却って毒となると書かれている。だが、古方派とされる医師たちは実証主義観点から適度な入浴は気の循環を良くして体内の毒物を外部に排出するのを助けると論じ蘭方医も皮膚に垢が付着することの危険性を論じて、「入浴害毒論」を批判している。
現在、世界的に見ても日本人の入浴頻度はかなり高いが江戸時代は一般的に入浴頻度がそれほど高くなく銭湯などの共同浴場での入浴が一般的だった一方で、地域や生活水準、あるいは季節によってまちまちであった。
毎日入浴する習慣が全国的になっていくのは、家庭内へガスによる瞬間湯沸器や水道水の普及が進んだ高度経済成長期以降のことである。
近年はシャワーが普及し、少人数世帯の増加と夏期に一日複数回入浴するためにシャワーのみ浴びるという人が増えた。また高温の入浴は健康(特に高血圧)に悪いと広まったため、ぬるめの入浴を好む日本人も増えるなど入浴の仕方に変化が現れている。
一般に日本人は入浴、特に高い温水での入浴を好むと言われ、多くの日本人が好む入浴温度は40~43度程度である。『徒然草』にも住まいは夏を旨とすべしとあるように日本の住居は日本の多湿の気候を考慮して、風通しの良い構造が好まれていた。このため冬場の防寒のため熱い温度の入浴が好まれるようになったというものである。
日本人が風呂好きとなった原因として、冬は前述の理由から、夏は高温多湿の気候により汗をかきやすく、火山島のため土が粘土質であり埃が立ちやすいことなど、1年を通じて入浴を必要とする日本の気候風土や、また神道や仏教の影響を受け、入浴によって垢を落とすことは心の中の垢(いわゆる「煩悩」)をも洗い流すと信じられてきたことや入浴による心身における爽快感という実体験が慣習として根付いたのだとする見方もある。
これに対して、例えば中国では沐浴を5日に1回行うことが理想とされてきたが基本的には蒸気浴・あるいは行水の類であったと考えられており、日本人の入浴が特殊であったことを物語っている。他の外国も行水、シャワーを使用する国が多い。
多数の他人と全裸で入浴をする共同浴場は世界的に珍しい日本独特の入浴スタイルである。日本以外の温泉や公衆浴場では水着や前掛けを着用して入るのが一般的である。また、日本でも昔[いつ?]は浴衣を着て浴室に入っていた。
公家が邸宅に入浴施設を取り入れ始めた平安時代ごろから集落の密集した都市には入浴をサービスとして提供する町湯が現れたといわれている。
江戸時代に入ると、銭湯が大衆化した。1591年に伊勢与市によって江戸に初めての銭湯が置かれて以来、急速に江戸市民の生活に溶け込んでいった。初めは心身的な理由で入浴することが多かった人々の間でも次第におしゃれや娯楽、社会的コミュニケーションの場として銭湯に行く者も増加するようになった。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にしてもらう湯女風呂などが増加した。当時の川柳に「銭湯へ行かぬで下女は毒づかれ」と銭湯へ行かない者を揶揄するものが現れるのもこうした時代背景がある。松平定信は江戸の銭湯での男女混浴を禁止する御法度を出したりして、風紀の厳しい取り締まりの対象にもなった(この取締りは日本の狭小な住宅事情もあり、銭湯側の対処が湯船に簡便な仕切りを施しただけの例が多かったため結果的に浴室が狭くなり特に女性側から苦情が出た)。その一方で幕府が低廉な価格維持(山東京伝によれば享和年間における入湯料は大人10文・子供8文であったという)の代わりに銭湯業者の保護も行っていた。日に何度も銭湯へ通う客のために、月単位で通しで入れる木札を売っていたともいう。
なお江戸時代の銭湯の浴室は蒸し風呂を兼ねており、入り口が柘榴口と呼ばれる高さが低い鴨居で湯気が逃げないようにする構造になっており、そのため浴室内はかなり薄暗かった。そのため、浴室に入るときや出るときには先客に声をかける(例えば、入るときには「冷えものです」等)のが礼儀とされた。なお、柘榴口は明治初期に衛生上の問題を理由に政府の命令によって取り外された。
明治以前にも男女混浴は風紀を乱す元として禁止令が出されたこともあったが、効果は薄かった。明治に入ってから、男女別浴が徹底されるようになった。また、トルコ風呂(現在のソープランド)は日本独自の性風俗文化として花開いた。
四国の一部では新築の家あるいは風呂のリフォームをした際、一番風呂を通り掛かりのホームレスや御遍路(四国八十八箇所巡りの巡礼者)、老人に使わせた上、応接間で馳走(あるいはうどん)を振舞うと云う風習がある所がある。
一般に適度な入浴は皮膚の清潔を保ち、心身のストレスを取り除く効果がある。長期間入浴せずシャワーも浴びなかった場合、衛生状態が保たれず皮膚炎や感染症を引き起こす可能性がある。例えば中世頃にペストが大流行した時入浴の習慣のないヨーロッパ人の間では流行したが入浴の習慣を先祖から受け継いできたユダヤ人は中々感染せず、この事から毒を盛ったと疑われ各地でユダヤ人に対する虐殺が起きた[2]。1960年代にヒッピーが流行した時には現存の文化を否定する意味で入浴、歯磨きといった衛生概念を殆ど行わない習慣が流行し感染症が広まった[3]。逆に42度以上の高温の入浴や洗いすぎは皮膚の角質層を破壊し、痒みや皮膚炎に繋がる[4]。
入浴したときに熱くも感じず冷たくも感じない温度を不感温度といい、36~37度程度である。この不感温度での入浴したときに消費されるエネルギーがもっとも少ない。不感温度より高くても低くても入浴中に消費されるエネルギーは増加する。
不感温度よりも5度以上高い、熱い温度のお湯に入浴すると入浴開始直後は血液の流れを皮膚表面から遠ざけようとする身体的現象が発生する。また水圧により血管が押しつぶされ、心臓に加わる負担が大きくなる。
高血圧症や心臓に持病を持つ人が熱い湯に入浴することを避けるように言われるのはこのためである。
また入浴時間が長くなるにつれて、体温の上昇が始まる。すると身体の放熱をするために血管の拡張がおこり、脳や内臓に回る血液の量が減少する。これは血圧の低い人が湯上りの立ちくらみを起こしやすい原因となっている。
入浴介助とは自力での入浴行為が著しく困難な者に対し、他者が介助を行うことである。高齢や障害などにより入浴介助を必要とする人は多い。身体を清潔にする他、精神的、肉体的な苦痛と緊張を緩和させる、排泄作用を促進させる、睡眠を助長するなどの効果があるが上述の他にも転倒、意識喪失などのリスクもあり福祉・介護における専門性が要求される重要なサービスのひとつである。
入浴介助にはほぼ自立できる人を対象とした見守り片麻痺のある人を対象とした入浴介助、シャワー入浴介助、寝たきりや車いすに乗ったまま行える機械浴の介助などがある。
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