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この項目では、日本発祥のキックボクシングイベントK-1について説明しています。
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本社所在地 | Unit A,3/F.,Queen’s Centre,58-64 Queen’s Road East,Wanchai,Hong Kong |
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設立 | 2011年8月2日 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | スポーツ及び格闘技等のエンタテインメントの企画及び主催他 |
代表者 | 代表取締役 金健一 |
資本金 | 10,000香港ドル |
決算期 | 12月期 |
主要株主 | EMCOMエンタテイメント 51% |
外部リンク | http://www.k-1.tv/en/ |
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K-1(ケイワン)は、1993年より開催されているヘビー級を中心としたキックボクシングのイベントである。プロの世界大会についてはEMCOMホールディングス傘下のK-1Global Holdings Limitedが、アマチュア部門はK-1創業者で正道会館の石井和義が代表を務める国際K-1連盟(FIKA)がそれぞれ運営している。なお、かつての運営会社であるFEGは2012年5月に破産した。
目次
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Kは「空手」、「キックボクシング」、「カンフー」、「拳法」、などの立ち技格闘技、あるいは「格闘技」そのもの、そして「KING」の頭文字を意味し、1はナンバーワンを意味する[1]。K-1という名称は、創始者の石井和義が新日本プロレスの『G1 CLIMAX』に感動し、それにあやかって付けられたとされるが、当時大人気だったフジテレビのF1中継に対し、「車の最高峰がF1なら空手(格闘技)の最高峰でK-1にしよう」という、当時格闘技通信編集長だった谷川貞治(元FEG代表)の提案が通ったという説もある。いずれにせよ、空手やキックボクシングなどの打撃系立ち技格闘技の世界一の最強の格闘者を決める大会を行うというのが設立のコンセプトである。このK-1がイベントとしてヒットしたことにあやかって、2000年代以降、M-1、R-1、S-1、B-1、L-1など、多種多様なジャンルで、○-1と称する競技会が多数開かれるようになった。
なお「K-1」の商標権は従来石井が所有していたが、2011年7月に不動産デベロッパーのバルビゾンに移管[2]。また、2012年1月にEMCOMホールディングスがバルビゾンの持つ商標権を買収することをリリースしている[3]。
正道会館は1991年から、前田日明率いる格闘技団体『リングス』に参戦し、格闘技興行のノウハウを得る。
1992年10月4日、『格闘技オリンピックIII 〜カラテワールドカップ '92〜』で、石井和義が「"10万ドル争奪世界最強決定トーナメント"を来年開催する」と発表。後のK-1となる大会が初めて発表された。
1993年4月30日に第1回大会『K-1 GRAND PRIX '93 〜10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント〜』が開催され、8選手による無差別級トーナメントが行われた。興行的に成功を収め、以降、無差別級トーナメントは毎年開催されている。
また、1993年12月には軽重量級を主軸とした『K-2』が、1995年には軽量級の『Kリーグ(K-3)』が開催されるが、いずれも興行的に失敗に終わり、一度きりの開催となった。
1995年にはアンディ・フグをメインイベンターに据えてK-1初の海外大会をアンディの母国スイスのチューリッヒのハレンスタジオンで開催。以後、2000年まで毎年同スタジアムで大会を開催し、同スタジアムの最多観客動員記録を更新。
1996年にはフジテレビの全国ネットとゴールデンタイム放送に進出。
1997年、「三大ドームツアー」と称してナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドームで大会を開催。特に東京ドームで開催されたK-1 GRAND PRIX '97 決勝戦は満員となる54,500人の観客を動員し、平均視聴率20.7%、瞬間最高視聴率27.3%を記録した。また、同年には日本人選手を主軸とする『K-1 JAPAN GP』シリーズを立ち上げた。
2000年には、『K-1 GRAND PRIX』シリーズを『K-1 WORLD GP』シリーズと改称し、北米、ヨーロッパ、豪州などで地区予選大会を開催するなど本格的に世界進出を開始。
同年8月24日、「不屈の鉄人」「蒼い瞳の侍」「Mr.K-1」と呼ばれたアンディ・フグが急性前骨髄球性白血病(APL)により35歳で死去。
2002年にはミドル級(-70kg)部門の『K-1 WORLD MAX』シリーズを立ち上げる。また、2008年にはライト級(-60kg)もMAX内にて新設された。
2002年にはジェロム・レ・バンナ、マーク・ハント、アーネスト・ホースト、ミルコ・クロコップら多くの主力選手が好調期を迎え、さらに実力的に全盛期だったボブ・サップが派手なパフォーマンスと親しみやすいキャラクターで一般層への知名度も爆発的に急上昇したこともあってK-1人気は全盛期を迎える。
2002年8月28日、PRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と全面協力して国立霞ヶ丘競技場でDynamite!を開催し、日本国内格闘技大会史上最多観客動員記録となる91,107人を記録した。
同年12月7日に東京ドームで開催されたK-1 WORLD GP 2002 決勝戦ではチケット完売となる74,500人の超満員の観客動員。
2002年に全日本プロレスの全面協力を得て『WRESTLE-1』を発足させたが、単発のイベントに終わる。
2002年12月、興行会社である株式会社ケイ・ワンが法人税法違反で摘発され、これまでK-1を取り仕切っていた石井和義がK-1の全役職を辞任し、2003年からは谷川貞治が設立したFEGが主催、谷川がイベントプロデューサー、この年に引退した角田信朗が競技統括プロデューサーに就任。また、同時期には新日本プロレスと提携し、相互に選手を派遣していた。
2003年に谷川貞治がK-1プロデューサーに就任して以来、曙太郎などの身体が大きくて実力よりも話題性のある選手やボビー・オロゴンなどのタレントを参戦させるなど、K-1をスポーツ競技として発展させることよりも目先の視聴率を優先して、実力よりもキャラクター先行の色物選手を優先した『谷川モンスター路線』が始まった(詳細は谷川貞治の「谷川モンスター路線」の項を参照)。なお、モンスター路線開始当初は一般層への話題性もあって高視聴率を獲得した。
2003年12月31日、単独では初の大晦日興行となる『K-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!』を開催、大相撲の元横綱・曙太郎とボブ・サップの対戦において、曙がKOされたシーンの視聴率は同時刻の第54回NHK紅白歌合戦の35.5%を上回る43%だった[4]。
2003年、当時K-1と契約していたミルコ・クロコップの引き抜き問題を巡って、これまで協力体制を築いていた総合格闘技イベント『PRIDE』を運営していたドリームステージエンターテインメント(DSE)と決別し、2004年には単独で総合格闘技にも進出、『K-1 ROMANEX』を立ち上げるが、単発のイベントに終わる。
2005年、前年の『K-1 ROMANEX』を引き継いだ新たな総合格闘技イベント『HERO'S』を立ち上げる。DSEの解散に伴って、PRIDE参戦選手が合流し、2008年3月に『DREAM』としてリニューアル。
2007年からは、スター不在とされる日本人ヘビー級選手の発掘を目的としたトライアウト『K-1 JAPAN TRYOUT』を実施。元プロ野球選手の立川隆史や、まだ無名だった頃の漫才コンビ・オードリーの春日俊彰が試合をした。
2008年より若年部門『K-1 YOUTHシリーズ』を新設。以降、『K-1甲子園』と題し、現役高校生を主軸としたトーナメントを実施。
2009年より女子部門の新設を表明。3月20日の『K-1 AWARD & MAX KOREA 2009』にて、イム・スジョン vs. レーナ戦が組まれ、以降もイベントを開催する予定である。ただ、女子の試合は過去に『K-2 Grand Prix '93』にて、後にテコンドーのオリンピック銅メダリストとなる岡本依子と後に国際式ボクシング4階級世界チャンピオンとなるルシア・ライカの試合が組まれたことがある。
2010年にはライト級(-63kgに変更)が本格的に始動、5月2日に初の単独興行を開催した。
2010年以降K-1の主催会社であるFEGが深刻な財政難に陥り、多くの選手へのファイトマネーの不払いが発生。興行開催に支障をきたし始めた。
それを踏まえて2010年7月16日、FEGは上海の投資銀行『PUJI Capital』と提携することを発表し、アジアや欧米での市場拡大のために資金調達をしていくことを表明した[5]。
しかし、それでも財政難に歯止めはかからず、その後も選手・関係者への給与未払いが続出。2011年のK-1 GRAND PRIX開催ができなかった(詳細はFEGを参照)。
2012年5月7日、ゴールデン・グローリー代表のバス・ブーンからFEGのファイトマネー不払いへの訴訟を起こされ、東京地方裁判所民事第20部よりFEGが破産手続開始の決定を受けた[6][7]。
2012年8月15日、旧ケイ・ワンから商号を変更したライツコムが破産手続開始の決定を受けた[8]。
FEGが破産する前の2011年11月にK-1創設者の石井和義はK-1の新たな主催団体として国際K-1連盟(FIKA)を設立し、2012年よりFIKA主体でK-1の興行体制を再構築する方針を明らかにした[9]。
一方、FIKAとは別に韓国人投資家が香港で2011年8月に新会社「K-1Global Holdings Limited」を設立。2012年1月にEMCOMホールディングスが「K-1Global Holdings Limited」の過半数の株式を取得して、K-1のプロの世界大会の興行権を獲得した[3]。なお、当初はゴールデン・グローリー代表バス・ブーンが投資家と共にK-1の株式を取得しようと交渉していたが、石井はK-1の権利をEMCOMに売却するつもりでブーンたちには最初から売却する気がなかったことが、新生K-1とグローリー・ワールドシリーズとの対立へと繋がっていった。
2012年3月17日、全国高校K-1選手権実行委員会主催、FIKA主管のアマチュア大会「全国高校K-1選手権決勝大会」が後楽園ホールで開催。以後、FIKAはK-1のアマチュア大会を主催、プロ大会はEMCOMホールディングス傘下の『K-1Global Holdings Limited』が主催することになった。
2012年3月29日、プロ興行の概要が発表され、K-1Global Holdings Limitedが主催することになった[10][11]。第1弾として5月29日にマドリードでK-1 WORLD MAX「2012 K-1 RISING!」が開かれ、年間7大会を予定している[10]。
2012年5月16日、元K-1 MAX世界王者の魔裟斗がエグゼクティブプロデューサーに就任[12]。
2012年5月27日、K-1Global Holdings Limitedが運営会社となって初めての大会「K-1 RISING 2012~K-1 WORLD MAX FINAL16 2012~」がスペインのマドリードで開催。この大会はIT'S SHOWTIMEの全面協力を受けており、大会の進行などもIT'S SHOWTIMEのスタッフが中心となって行われた。K-1のミドル級トーナメントの1回戦が行われアンディ・サワーら多くの強豪選手が出場したほか、スーパーヘビー級ワンマッチには2003年3月30日以来9年ぶりのK-1参戦となるミルコ・クロコップ、キックボクシングを引退してプロボクシング転向を表明していたバダ・ハリらが参戦した。
2012年6月30日、K-1に全面協力していたIT'S SHOWTIMEが、K-1の敵対団体であるグローリー・ワールドシリーズに団体を売却したことを電撃発表。翌日のプレスリリースにて、IT'S SHOWTIME代表サイモン・ルッツはK-1との提携について「前払いを要求していたバダ・ハリとミルコ・クロコップ以外の選手たち、およびIT'S SHOWTIMEスタッフへK-1側から支払いがなされていないため契約は既に無効である」と主張した[13]。
それに対してK-1Global Holdings Limitedは7月3日にK-1公式サイトにて、「一部選手については、仲介者であるサイモン・ルッツ氏より選手の銀行口座情報が本日時点でも届いていない」等と反論した[14]。この発表を受けて、サイモン・ルッツは「『払う用意がある』とか『合意に達した』とか結局払ってないということだ。それに私が選手の口座番号を渡してないなどと平気で嘘も書いている。残念なことだ」と再反論している[15]。
2012年7月、10月14日に東京・両国国技館で無差別級トーナメントの1回戦となるK-1 WORLD GP FINAL16を開催することを発表した[16]。
これらはあくまでK-1のオフィシャルルールに過ぎず、実際の興行では、異なるルール、例えば総合格闘技ルールやそれとの折衷ルールの試合も行われている。
2006年までK-1の全ての王座は1日で準々決勝・準決勝・決勝の3試合を行うトーナメント(ワンデイトーナメント)によって決められていた。このことについては危険視されている。K-1オフィシャルルールでは、トーナメントを勝ち上がった選手が怪我によるドクターストップで準決勝以降に出場できない場合、一度負けた選手が敗者復活という形で繰り上がる規定がある。例えば2002年の『K-1 WORLD GP』シリーズにおいて、10月のWGP1回戦でアーネスト・ホーストがボブ・サップに敗退したが、同年12月の決勝大会準々決勝でサップと対戦予定だったセーム・シュルトが怪我で欠場したことによって代役でホーストが出場。結果的にホーストは開幕戦で勝とうが負けようが準々決勝に進出できたことになった。その準々決勝でホーストは再びサップに敗れたが、サップが拳を骨折した疑いがあった為ドクターストップで準決勝を欠場し、負けたホーストが敗者復活で準決勝に進出。準決勝でレイ・セフォーと対戦したが、セフォーは準々決勝のピーター・アーツ戦で明らかに劣勢だったにもかかわらず不可解な判定によって勝利していた。そしてその準決勝ではセフォーが自ら蹴ったローキックで自分の脛を怪我する自滅によってホーストはノーダメージで決勝進出。決勝では準決勝までの激闘で左腕に大ダメージを蓄積していたジェロム・レ・バンナがホーストの蹴りとレフェリーの角田信朗の不可解なレフェリング(後述)によって左腕を粉砕骨折させられ、ホーストが前代未聞のラッキーな形で優勝を果たした。このように、選手の実力以外の運などの面が優勝に左右される要素が大きく、選手が受けるダメージも大きく選手の命が必要以上に危険に晒されるという側面がある。
2007年からはトーナメントと併行してプロボクシングなどと同じワンマッチのタイトルマッチ制を導入。始めに100kgを境界としてヘビー級を分け、スーパーヘビー級とヘビー級の世界王座を創設し、今後はK-1 MAXシリーズで行われている70kg以下のミドル級、63kg以下のライト級、85kg以下のライトヘビー級のワンマッチの王座も創設予定である。また、世界王座だけでなく、地域王座、国内王座なども創設し、世界ランキングを作ってランキング上位の選手が世界王座に挑戦していくシステムを作っていく予定であった。
K-1において、一方の選手が大きなダメージを受けている際のレフェリーストップの遅さがたびたび問題になり、特に角田信朗の危険なレフェリングが批判を浴びることが多い。そのためネバダ州アスレチック・コミッションは角田に対してレフェリー・ライセンスの発行停止処分を下している[17]。
K-1 WORLD GP 2002決勝戦のアーネスト・ホースト対ジェロム・レ・バンナ戦において、ホーストのキックを左腕に受けたバンナが明らかにおかしい状態でダウンしたが、レフェリーの角田信朗はレフェリーストップもせずバンナにドクターチェックも受けさせないまま、根性でファイティングポーズをとったバンナが3ノックダウン制によって強制終了するまで試合を続行させた。試合の診断の結果、バンナは左腕粉砕骨折の重傷だった。
2009年10月26日、K-1 WORLD MAX 2009 World Championship Tournament FINALにて、武田幸三の引退試合となる武田幸三対アルバート・クラウス戦において、クラウスの猛攻をくらった武田が序盤から何度もダウンし、立ち上がった後も白目を剥いた状態であり、テレビ解説していた魔裟斗と谷川貞治も「今のはダウンだ」と指摘しているにもかかわらず、レフェリーの角田信朗はダウンをとらずにスリップと裁定して試合を続行させた。1ラウンド終了後のインターバルにおいて対戦相手のクラウスはセコンドに対して「これ以上、武田の顔面を殴ったら彼は死んでしまうからもう殴れない」と語っており、2ラウンドからはローキックを多用する戦い方へと変更[18]し、ローキックで何度もダウンを奪ったがそれでも角田はなかなかダウンと裁定せず、最終的にドクターストップでようやく試合が終了した。この角田のレフェリングに対してファンや関係者から批判の声が殺到し、専門誌でも特集が組まれ批判の声が集まった。11月13日、「レフェリーの判断と一般の視聴者の方、観客の方が考えるダメージに大きく隔たりがあり、混乱をきたした」として自らが業務自粛を申し出て、11月11日付けで3か月の業務停止処分を受けた[19]。しかし、同日の角田のブログにおいて「僕はあれをミスレフェリングだなどとはこれっぽっちも思っていません」「今後K-1における試合のストップは驚くほど早くなる事でしょう。ご了承下さい」と皮肉を交え、全く反省していないことを表明した(後に最後の文は削除されている)。
試合の判定結果などにおいて、大会運営者の中立性・公平性への疑問が呈されている。
2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAでのK-1世界スーパーヘビー級タイトルマッチのセーム・シュルト対ジェロム・レ・バンナ戦において、第2ラウンド終了時までのジャッジの採点はドローであったが、3ラウンドにシュルトが首相撲からの膝蹴りを2回打つ反則を犯してバンナが大きなダメージを負ったにもかかわらず、レフェリーの角田信朗はシュルトに対して減点をとらず、反則を受けたバンナに対してもダメージ回復のためのインターバルをとることもなく試合を続行させ、この反則以降に一気に流れを掴んだシュルトが圧倒して勝利した。
2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16でのピーター・アーツ vs. アリスター・オーフレイム戦にてアリスターが試合中に何度も反則の投げ技を連発したことに批判が起き、同年12月5日、K-1 WORLD GP 2009 FINALの大会開始前に石井和義が「アリスターの投げは反則です」と明言した。さらに同大会でのアリスター対エヴェルトン・テイシェイラ戦において、アリスターが膝蹴りでKO勝ちを収めたが、掴んでから膝蹴りを2回繰り出しKOしたことについてテイシェイラ陣営から「首相撲からの膝蹴りを2回やったのだからアリスターの反則負けだ」という抗議を受けたことについて、「反則ギリギリだと思います。掴んだまま二回の攻撃はダメなんで、微妙です。」とコメントした。なお、K-1ファイターの佐藤嘉洋はブログでアリスターの膝について「一発目はテンカオ(組まずのヒザ)です。」と言いその後も言葉を続け反則では無い事を説明した。競技統括プロデューサーでもある角田信朗もブログにて「二発の膝の間に間違いなく首相撲状態は一瞬解除されてるんであれは反則ではありません」というブログをアップした。[22]。
2010年4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAでのアリスター・オーフレイム対ジャバット・ポトラック戦で、アリスターが膝蹴りの連打でKO勝ちしたが、またしても首相撲からの膝蹴りだという抗議がポトラック陣営から寄せられたが、結果は覆らなかった。
2010年現在、日本ボクシングコミッション(JBC)が加盟・公認している世界王座認定団体は、WBAとWBCのみで、この他に、JBC非加盟・未公認のIBFとWBOを加えたものが、ボクシングにおける「世界4大タイトル」と称されている。しかし、マイク・ベルナルド(WBF)やヴァージル・カラコダ(IBC)、マイケル・ラーマ(WBB)のように、世界4大タイトルよりはるかに権威の低いマイナー団体で王座を獲得した者が「ボクシング世界王者」と呼ばれ喧伝されることに対し、違和感を覚えるボクシング関係者は少なくない。代表的な批判者に、元WBA世界スーパーフライ級王者の名城信男がおり、フジテレビ系列のスポーツニュース番組『すぽると!』(2006年7月放送)のインタビューにおいて上記を指摘し、また、世界4大タイトル元王者の場合であっても、フランソワ・ボタやヴィンス・フィリップス(いずれもIBF元王者)といった、既にピークを過ぎた(彼曰く)「ロートルボクサー」をかませ犬としてあてがい、K-1選手がこれらの選手に勝利すると、「K-1はボクシングより強い」などと殊更に喧伝する姿勢にも不快感を示していた。
2005年10月、ボクシング元日本王者の鈴木悟と大東旭がK-1 WORLD MAXに参戦、いきなり初代世界王者のアルバート・クラウスや強豪のマイク・ザンビディスとそれぞれ対戦し、いずれもボクシングにはないローキックで脚を執拗に攻められ完敗した。また、この敗戦後の翌11月に西日本ボクシング協会は、引き抜きやボクシングのイメージ低下を防ぐことを理由として、「K-1や総合格闘技等に出場するボクサーは、引退後のセコンド、トレーナーライセンス、ボクシングジム設立の許可を一切剥奪する」という、事実上の追放宣言をした。
ただ一方で、元K-1選手のボクシング転向や、K-1とボクシングの並行参戦について、JBC等が特に拒否反応を示すことはない。過去にはジェロム・レ・バンナがボクシングとK-1に並行して参戦していたことがあるほか、FEGの経営難が表面化して以降は、京太郎やアンディ・オロゴンなど元K-1選手のボクシング転向が相次いでいる。
総合格闘技PRIDEを運営するドリームステージエンターテインメント(DSE)とは元々友好的な関係であったが、2003年にミルコ引き抜き問題で対立。しかし、選手の引き抜きやファイトマネーの高騰などで互いに苦しい状況へと繋がっていき、DSEは2007年4月に法人を解散。FEGも2012年5月に破産した。
海外大会を開催する際も現地のプロモーターと共同開催することが多く、IT'S SHOWTIMEはK-1との共催を経て飛躍した。日本国内のほぼ全てのキックボクシング団体と友好関係にあった。しかし、ゴールデン・グローリーはK-1との関係が悪化した後、グローリー・ワールドシリーズを旗揚げしており、IT'S SHOWTIMEもグローリーに事実上統合された。
R.I.S.E.とは早くから協力体制を築いており、TATSUJIをはじめ、尾崎圭司、龍二などは、K-1 MAXへの出場権が懸かった70kg級トーナメントで優勝し、翌年の日本代表決定トーナメントで活躍した。2009年からは中軽量級の充実を図るべく協力体制を強化している。
2008年には全日本キックボクシング連盟によるイベント『Krush』の立ち上げにも協力した。
前出のDSE解散とPRIDE消滅後は、同元スタッフ及びDEEPなどとともにDREAMに参加し、FEGが主催に当たった。
詳細は「Dynamite!! 〜勇気のチカラ〜」を参照
詳細は「K-1の大会一覧」を参照
回 | 開催日 | 優勝 | 準優勝 | 3位 |
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1 | 1993年4月30日 | ブランコ・シカティック | アーネスト・ホースト | 佐竹雅昭 |
モーリス・スミス | ||||
2 | 1994年4月30日 | ピーター・アーツ | 佐竹雅昭 | パトリック・スミス |
ブランコ・シカティック | ||||
3 | 1995年5月4日 | ピーター・アーツ (2) | ジェロム・レ・バンナ | アーネスト・ホースト |
マイク・ベルナルド | ||||
4 | 1996年5月6日 | アンディ・フグ | マイク・ベルナルド | アーネスト・ホースト |
ムサシ | ||||
5 | 1997年11月9日 | アーネスト・ホースト | アンディ・フグ | フランシスコ・フィリォ |
ピーター・アーツ | ||||
6 | 1998年12月13日 | ピーター・アーツ (3) | アンディ・フグ | マイク・ベルナルド |
サム・グレコ | ||||
7 | 1999年12月5日 | アーネスト・ホースト (2) | ミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチ | ジェロム・レ・バンナ |
サム・グレコ | ||||
8 | 2000年12月10日 | アーネスト・ホースト (3) | レイ・セフォー | フランシスコ・フィリォ |
シリル・アビディ | ||||
9 | 2001年12月8日 | マーク・ハント | フランシスコ・フィリォ | ステファン・レコ |
アレクセイ・イグナショフ | ||||
10 | 2002年12月7日 | アーネスト・ホースト (4) | ジェロム・レ・バンナ | レイ・セフォー |
マーク・ハント | ||||
11 | 2003年12月6日 | レミー・ボンヤスキー | 武蔵 | シリル・アビディ |
ピーター・アーツ | ||||
12 | 2004年12月4日 | レミー・ボンヤスキー (2) | 武蔵 | フランソワ・ボタ |
ガオグライ・ゲーンノラシン | ||||
13 | 2005年11月19日 | セーム・シュルト | グラウベ・フェイトーザ | レミー・ボンヤスキー |
武蔵 | ||||
14 | 2006年12月2日 | セーム・シュルト (2) | ピーター・アーツ | アーネスト・ホースト |
グラウベ・フェイトーザ | ||||
15 | 2007年12月8日 | セーム・シュルト (3) | ピーター・アーツ | ジェロム・レ・バンナ |
レミー・ボンヤスキー | ||||
16 | 2008年12月6日 | レミー・ボンヤスキー (3) | 空位 | グーカン・サキ |
エロール・ジマーマン | ||||
17 | 2009年12月5日 | セーム・シュルト (4) | バダ・ハリ | レミー・ボンヤスキー |
アリスター・オーフレイム | ||||
18 | 2010年12月11日 | アリスター・オーフレイム | ピーター・アーツ | グーカン・サキ |
セーム・シュルト |
代 | 在位期間 | 王者 | 防衛回数 |
---|---|---|---|
初 | 2007年3月4日 - 現在 | セーム・シュルト | 4 |
代 | 在位期間 | 王者 | 防衛回数 |
---|---|---|---|
初 | 2007年4月28日 - 2008年12月17日(剥奪) | バダ・ハリ | 1 |
2 | 2009年3月28日 - 2011年10月21日(返上) | 京太郎 | 1 |
回 | 開催日 | 優勝 | 準優勝 | 3位 |
---|---|---|---|---|
1 | 2002年5月11日 | アルバート・クラウス | ガオラン・カウイチット | 魔裟斗 |
小比類巻貴之 | ||||
2 | 2003年7月5日 | 魔裟斗 | アルバート・クラウス | サゲッダーオ・ギャットプートン |
ドゥエイン・ラドウィック | ||||
3 | 2004年7月7日 | ブアカーオ・ポー.プラムック | 魔裟斗 | 小比類巻貴之 |
アルバート・クラウス | ||||
4 | 2005年7月20日 | アンディ・サワー | ブアカーオ・ポー.プラムック | 安廣一哉 |
アルバート・クラウス | ||||
5 | 2006年6月30日 | ブアカーオ・ポー.プラムック (2) | アンディ・サワー | ドラゴ |
魔裟斗 | ||||
6 | 2007年10月3日 | アンディ・サワー (2) | 魔裟斗 | アルバート・クラウス |
アルトゥール・キシェンコ | ||||
7 | 2008年10月1日 | 魔裟斗 (2) | アルトゥール・キシェンコ | 佐藤嘉洋 |
アンディ・サワー | ||||
8 | 2009年10月26日 | ジョルジオ・ペトロシアン | アンディ・サワー | 山本優弥 |
ブアカーオ・ポー.プラムック | ||||
9 | 2010年11月8日 | ジョルジオ・ペトロシアン (2) | 佐藤嘉洋 | マイク・ザンビディス |
ドラゴ |
回 | 開催日 | 優勝 | 準優勝 | 3位 |
---|---|---|---|---|
1 | 2007年12月31日 | 雄大 | HIROYA | 久保賢司 |
才賀紀左衛門 | ||||
2 | 2008年12月31日 | HIROYA | 卜部功也 | 嶋田翔太 |
日下部竜也 | ||||
3 | 2009年12月31日 | 野杁正明 | 嶋田翔太 | HIROYA |
石田勝希 | ||||
4 | 2010年11月20日 | 翔栄 | 秋元晧貴 | 佐々木涼助 |
石田圭吾 | ||||
5 | 2012年3月17日 | 小川翔 | 柴田憂也 | 山口佑馬 |
回 | 開催日 | 優勝 | 準優勝 | 3位 |
---|---|---|---|---|
1 | 1993年12月19日 | アーネスト・ホースト | チャンプア・ゲッソンリット | アダム・ワット |
タシス"トスカ"ペトリディス |
回 | 開催日 | 優勝 | 準優勝 | 3位 |
---|---|---|---|---|
1 | 1995年7月16日 | イワン・ヒポリット | 金泰泳 | 後川聡之 |
オーランド・ウィット |
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ケーワン錠5mg
リンク元 | 「フィトナジオン」「ビタミンK剤」 |
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