出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/04/18 17:10:33」(JST)
法則(ほうそく)とは、ある現象とある現象の関係を指す言葉である。
自然現象についてだけでなく、法規上の規則を法則と呼ぶこともある。また文法上の規則(例えば係り結びの法則など)も法則とされる。 法則を大別し、自然現象に焦点が当てられているものが「自然法則」、人間の行動についての規範・規則は「道徳法則」、と分けられることもある。
詳細は「自然法則」を参照
ある物事と他の物事との間に一定の関係がある(またはあるらしい)ときに、その関係をさす言葉である。一般にある関係が「法則」と呼ばれるときは、そう呼んだ人が、その関係が必然性や普遍性を持つ(持つらしい)と考えた、ということが示されている。
英語で法則のことを「law」と言うが、これはlay(置く、整える)の過去分詞だ[1]、という[2]。神によって置かれたもの、整えられたこと、ということである。ドイツ語だとさらに分かりやすくて、「Gesetz」と言い、setzen(英語で言うところのset セット)されたもの、と表現する。つまり、神によってセットされたものが法則、と見なされているのである[3]。
このような表現が生まれる背景となっている世界観についてさらに説明すると、スコラ哲学の時代においては一般に、「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた[4]。
聖書を読めば神の意図を知ることができるとされ、また同時に、ちょうど時計というものをじっくり観察すれば、その時計を作った時計職人の意図を推し量ることも可能であるように、「神がお書きになったもうひとつの書物である自然」を読むことも神の意図や目論見を知る上で大切だ、と考えられた[5]。
ある法則に当てはまらない物事が新たに見つかると、その法則は適用範囲が限定されたり、修正されたり、新たな法則に置き換えられたり、廃棄されたりする。
「法則」という呼ばれ方をするからといって必ずしも絶対性を持つとは限らない。例えば、「ゴルトンの法則」のように科学的な立場からは既に否定されたもの、「定比例の法則」のように例外が少なからずあるもの、「ムーアの法則」のように将来破綻することが予測されているものなどがある。
“例外のない法則はない”という表現がある。命題を「法則」と呼んでしまうと、人というのは、ついついその命題の妥当性を絶対視したり過信しすぎる傾向があるため、それを戒めるための言葉である。
スティーヴン・トゥールミンはその著書『科学哲学入門』(1953)において、法則は、"法則本体" と "適用範囲" の要素に分離できることに言及し(例えば「xがAならば、xはBである」という本体部分と、「xがa,b,c、、、s,t,u の範囲ならば」という適用範囲の指定があり)、それらを分離して吟味すべきことを述べた。 トゥールミンは「法則というものは有効範囲が不明な周遊券のようなものである」と指摘。我々は有効範囲が不明な周遊券を持っており、旅に出てとにかくそれを使ってみる。そして無事使えると、事後的に"ここは周遊券の有効範囲に入っていたのだ"とする。同様に法則も、新たな領域においては実際に適用できるのかそうでないのか事前には判らない。無事適用できると事後的に"ここは適用領域の中だったのだ"とする、と指摘。つまり、法則の一回一回の適用行為は一種の「賭け」であり、法則を適用できるとの考えは、過去の適用の成功事例をもとにしたあくまで帰納的な推測にすぎない、またそれゆえに「法則」は確かさをもって新しい事例を導き出すことはできない、と指摘した。
かつて法則は、観察・実験を繰り返すことで帰納的に得られる、と信じられていた時代もある。 だが現代の科学では、カール・ポパーによってなされた指摘・提唱も織り込みつつ、法則というものは、命題の中で限られた回数ではあるが観察・実験で検証されたものをとりあえず反証例が見つかるまでの間だけ、仮説的に法則として認める、と考え、法則というのはあくまで仮説にすぎない、とする考え方がおおむね採用されるようになっている。また、そのような仮説的法則を複数個体系化したものが「理論」だ、と言われるようにもなっている。
「自然法則」も参照
自然法則の関連項目 : 物理法則、パラダイム、パターン認識、先入観、反証主義、科学哲学
「法則」というのは、そう呼ぶ人が事象間に一定の関係があると見なしている場合に用いる用語であるが、(まさにその定義どおりではあるものの)提唱している当人が一定の関係があると感じて法則と呼んでいても、他の多くの人から見れば、一定の関係は無いように疑われ、科学的には裏付けの無い命題だとか、ただのジンクスの類だ、と判断される場合もある。また提唱している当人が、そうした周囲の判断・違和感を知りつつ、あえてそのような違和感を楽しんでもらうため、あるいは世界の主観的な見え方をそれはそれとして楽しんでもらうために、何らかの命題を“法則”と呼んでいる場合もある。(例:マーフィーの法則)
道徳法則に分類される法則というものは、「こうあるべし」ということを表明している。「こうである」という事実を表明しているのではない。
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