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人類学 |
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文化 ・ 社会 |
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民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある[1]。また、日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃いnationの概念と、政治的共同体の形成や、集合的な主体をなしているという意識の有無とはかかわりなく、同一の文化習俗を有する集団として認識されるethnic group(ジュリアン・ハクスリーが考案)の概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。
以下にみられるごとく「民族」という概念は広がりを持つものであり、客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多い。
中国の古典では「民族」は一定のグループをなす人々の共同体を指す。近代的な、文化的な固有性というニュアンスでの「民族」の用例の最も早い例としては、6世紀の前半に成立した『南斉書』列伝三十五の「高逸伝・顧歓伝」中の
「今諸華士女、民族弗革、而露首偏踞、濫用夷禮」(民族を氏族とする写本もある)
という記述をあげることができる。なおこの記事は、士大夫やその子女までも中国の北朝の異民族の風俗(夷礼)に染まっていると述べている部分である。しかし、この歴史書は『南史』の編纂後は読まれる事が少なくなったと言われており、現代日本の民族概念に影響を与えている確証はない。これはあくまでも中国語における民族の語源を示すものであって、日本語の社会科学の概念としての民族をいかに定義するかの問題とは混同されてはならないだろう。
日本語の民族という言葉には2つの主要な意味内容が存在する。一方はネーション(nation)であり、もうひとつはエトノス(ethnos:英ethnic group)である。
訳語としての「民族」は、nationに対するものであるとされている。しかし、西欧語としてのネーションの政治的自己意識、統合性、独立性、主権性といった概念をも含む語義とは、日本語としての「民族」は完全には一致せず、国家のなかの、あるいは国家以前の、同一文化集団、民族誌学的な意味での、文化・生活様式を基準とした集団である種族にも同じように通用される。文化的・民俗的帰属意識と政治的同胞意識は必ずしも一致しないが、日本語の民族はどちらの区分による用例かはしばしば判然としない。
この区別は、同一文化集団は容易に政治的帰属意識を獲得しうるために日々動揺する。しかしこのことは、同一文化集団が政治的自己意識を獲得する以前からあらかじめ潜在的にすでに「眠れる」nationであるということではない。事後的に、始めからnationであったことになるのである。
なお、当初は、nationの訳語としては「種族」や「人民」もひろく使用された。アダム・スミスの『国富論』に見られるように、国民の訳も用いられた。ヘボン『和英語林集成』(三版)はnationの訳語に、国民、人民だけをあげている。
もちろん、戦前において既にウッドロウ・ウィルソンの民族自決権の思想などが紹介されており、早い時期から民族がnationの訳語として用いられていた点にも注意すべきである。
現代日本語では、nationは民族、国民、国家、国民国家、ネーションなどと強調されている側面に応じて訳し分けられる傾向にある(よって本稿の内容も一部は必然的に国民の項と重複せざるをえない)。
他方でethnic系統の語については事情は複雑であり、一般的には民族と訳されることが多いが、学術的な文脈では必ずしもそうではない。エスニック・グループは、社会科学の分野では、エスニック集団などと訳し、民族という語を避ける場合も多い(なお台湾などの中国語圏でも、民族nation概念に対して、ethnic groupは"族群"と訳され、民族との訳語を避けることが多く、日本でも族群概念を導入した論文もある)。日常語では何の問題もない「少数民族」という言葉も、社会科学では極めて問題含みの言葉として批判されることもある[要出典]。
こうした日本語「民族」の曖昧な多義性を、現代において露呈してきたエトノスとネーションの曖昧で明確な区分の難しい、複雑な関係性を表現可能な言葉だとして肯定的に評価する立場もあるが、エトノスがネイションの下位区分として導入された点を重視し、両者を訳し分けるべきだとする考えもある[要出典]。しかしその場合にも、民族を、どちらの語義にひきつけて定義し、新語をどちらに当てるかには、一致した見解は得られていない。したがって社会科学的な概念として民族概念を使用する場合には、それぞれの論者がいかなる意味で用いるのかを明らかにすべきだろう。その場合、単純に原語をエトノス、エスニック・グループなどと音訳して使うという立場も便宜的ではあるがしばしば見られる態度である[要出典]。
参照 国民
リーア・グリーンフェルドによれば英語としての nation は以下のような五段階の変化を経てきた[2]。
元来、nationはラテン語において「生まれ」を意味するnatio(ナティオ)に由来する概念であり、gens(ゲンス)とならんで血統と出自の女神を意味した[3]。家族より大きく氏族よりも狭い、「同じ生まれに帰属する人々」を指す言葉であった。
中世にはnatioという言葉はボローニャ大学やパリ大学をはじめとして、同じカレッジの構成員、または学生たちのグループを指した。彼らは同じ地域の出身で、同じ言語を話し、自分たちの慣習法に従うものとされた互助的な自治組織であった。しかしこれらは国家を基準としたものではなく、あくまでもゆるい地理的な基盤によるものであった。たとえば、1383年と1384年には、パリ大学で神学を学んでいたジャン・ジェルソンは二度にわたってフランス人学生団・同郷団(French nation・フランス生まれでフランス語を話す学生たち)の代表に選出された。パリ大学での学生のnatioへの分割はプラハ大学でも踏襲された。1349年の開校以来、ストゥディウム・ゲネラーレ(studium generale)は、ボヘミア、バイエルン、ザクセン(マイセン)、そして、ポーランドのnationに分割されていた。
中世後期から近世にかけてのヨーロッパでは身分制議会を構成して、必要に応じて国家の案件に同意を与える特権的な身分階層を、集合的にnatioと呼んだ。この意味でのnatioは種族的な出自を問わず、身分や地位によって規定されるもので、高位聖職者や中小の貴族身分などからなっていた。
この王と国家の支配を分かち合うnatioの概念が、近世に絶対主義の成立とともに次第にgensと近づき、あるいは混同されていき、ひとつの言語的・文化的・血統的に規定されるgensが、ひとつのnatioを構成すべきという思想が成立していった。このnatioとgensの語義の融合の原因は、封建国家の機能不全の中で、natioの範囲を広げることで広い同意を取り付けることが王権に必要とされたからである。そのためにnatioを特権階層から一般民衆まで拡大する上で、gensの種族的な枠組みが援用された。
イングランドでも同様であったが、とりわけこの特権身分としてのnationの一般民衆への意味的拡大はテューダー朝において進行した過程であった。薔薇戦争によって多くの貴族が没落したあとに成立したこの王朝の下にあって、新しく出現した貴族階級はnationをpeople(民衆・庶民)へと意味的に接近・融合させた。このnationの再定義によって、主として成長しつつあった富農、新興地主階級、ジェントリなどに実質的には限られてはいたが、身分制に縛られず民衆もまた国政エリートへと上昇しうるものとされ、原理的には主権に与かるnationの一部となった。
また、1611年の欽定訳聖書でユダヤの民を意味するヘブライ語goiがnationと訳されたこともひとつの契機となった。宗教改革の盛り上がりとともに、清教徒革命による議会の勝利を経て、国教会を形成するイングランド国民をひとつのあらたな契約の民nationとみなす傾向・用法がnationに宗教的一体性と種族的独自性という意味合いを付け加えた。
聖書の中のヘブライ人は、理念的・宗教的な一体性と平等性を併せ持ち、ひとつの神的な歴史を共有し、ひとつの国土(ホームランド)と運命的に結び付けられ、ひとつの法(十戒)のもとに結びつき、しかも、普遍的に拡大しうるものではなく、ある特異な、限定された個別的な集団として、他の同様の民族を許容するものであった。この時期のイングランド人は自らをnationとして想像する上でまさしくそのようなものとして理解しようとした。これが現在のnationが想像される様式にも大きな影響を及ぼしている。
こうして元来「生まれを共にする集団」というようなゆるい意味での言葉が次第に特殊化していき、啓蒙思想においてジャン・ジャック・ルソーの社会契約説と一般意思、そして彼の反普遍主義的な郷土愛の主張を経て、フランス革命を経て19世紀に理念化されヨーロッパに拡大することとなった。(国民議会Assemblée nationale)しかしフランス革命は混乱に陥り、nationとしての一体感と平等の感情を事実として確立するにはいたらず、ナポレオン戦争へと至るテロルと戦争のなかで、そのnationは共和主義的なイデオロギー性と軍事的な色彩を帯びた限定的なものであった(ギリシア・ローマ的愛国主義を範例とした国民主義・民族主義)。
一方で、nationの基盤になるべき中央集権的な統一を欠いていたドイツにおいて、ヘルダーは言語・歴史・文化を共有する共同体としてVolkの概念を主張した。ロマン主義者やグリム兄弟やヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどに影響を与え、民俗学の成立に寄与した。彼のVolk概念はnationをエスニックに定義する傾向に強い影響を与えた(エスニック・ナショナリズム、原初主義)。しかしこの概念にはnationに含まれていた人民主権の意味は薄弱であった。のちにナチスが第三帝国で強調したのは人種主義的に解釈されたVolkであり、Nationは自由主義的な概念として非難の対象となった。
1808年にはフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』[4]の講演を行ったがいまだ反応は鈍かった。結局、やがてドイツ統一はナショナリズムによってではなくプロイセン国家主義によって遂行された。この歴史的・文化的・言語的で、宗教的平等理念と人民主権の意味合いの希薄な民族概念と権威主義的な国家主義という組み合わせは、とりわけ遅れて資本主義化した、より東方の諸国に一定の影響を持った。
こうして、「生まれと歴史を共にすると想定されたものたちによる独立への主張」とでもいうべきナショナリズムの成立と高揚は、このnationという概念に著しい政治性を帯びさせ、エスニックな意味合いと、人民主権的な意味合いとの間に内的な緊張をもたらした。こうした経緯により、フランスやアメリカのナショナリズムは、「過去の歴史の共有」ではなく、「これからの歴史の共有、その意志」という普遍主義的で時には同化主義的な性格を帯びることになった(1882年エルネスト・ルナン『国民とは何か』Qu'est-ce qu'une nation?「nationとは日々の人民投票である」)。
こうして成立したnationを歴史学や政治学、社会学などが反省的に定義しようとしたとき、nationを区分すべき基準となる特徴を確定する試みがまずなされた。今世紀に入って、研究者は民族体の構成内容について、言語以外にもたくさんの客観的基準を付け加えた。共同の地域、血統、エトニ(族群。スミス、文化的な原初的共同体)、宗教、あるいは共同の信仰などである(クリフォード・ギアツ、アントニー・D・スミス、ヨシフ・スターリンなど)。
nationを政治的独立を獲得する独特な共同体として考える定義としては、まずヘルダーをあげることができる。ヘルダーはnationを一種の
とみなした。19世紀のはじめ、フィヒテはこの考え方を推し進め、一個の独特の言語グループはかならず一個の独立のnationであり、自らの生活を持たねばならず、そしてまたその自らの生活を制御できなければならないと主張した。
スターリンによる、1913年の論文『マルクス主義と民族問題』[5]での定義は以下のようなものである。
しかし、研究者の中にはこれらの客観的特質がnationの定義の十分条件をなすことを、はなはだしい場合には必要条件をなすことすら否定する者もいる(Canovan 1996; Gellner 1983; Hobsbawm 1992; Renan 1994)。
ホブズボームの説得力のある指摘によれば、もしも、nationに一個の定義を下さなければならないならばいわゆる客観的な条件はすべて適切な基準ではない。言語を例に挙げて、ホブズボームは資料に訴えている。イタリアが1860年に統一されたとき、正統な標準イタリア語を話せたのは全体の2.5%にすぎなかった。他にも、1789年のフランス革命の勃発時に半分以上のフランス人はフランス語を話せず、南フランス住民の殆どはオック語話者だった。言い換えるならば、いわゆる民族言語というものは、主としてナショナリズムの実践の結果なのであって、ネーションやナショナリズムの原因とみなすことはできないのである。そのうえ、こうしたnationを定義するのに用いられてきた「客観的」基準、言語、エトニ、その他のものも、それ自身が変化しうるものであり、明確な定義も欠いている。
われわれはゲルナーにこうした観察に関連した論点を見ることができる。
nationの本質は主観的な意識(subjective consciousness)なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。
ヒュー・シートン=ワトソンは「ひとつのグループが相当部分を占め、みずからを一個のnationをなすべきと考えるようになったとき(consider themselves to form a nation)、あるいはかれらがすでに一個のnationをなしているかのように振舞うようになったとき(behave as if they formed one)、たちまちひとつのnationが存在するようになる」[7]と主張する。
エリック・ホブズボームも同様の立場をとる。「最初の作業仮説として、人々の十分に大きな集団があって、その成員が自らを「ネイション」の一員とみなしているのであれば[8]、それをネイションとして取り扱うことにしよう[9]」
またアーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、nationがやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつのnationはかならず、互いにひとつのnationに属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する[10]。
実際、こうした現代の研究者がnationの主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかに早くから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体(nationhood)の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、nationを定義するのには役に立たたず、そのため、nationという概念が、「価値的領域(sphere of values)」に属していることを発見するに至った。nationという概念は、主として、本質的に、「他のグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている[12]。
ルナンもまた1882年に早くも指摘している。「共同の地理や地域、言語、種族あるいは宗教、そうした条件を持っているということは、少しもnationの存在の十分、あるいは必要条件とみなすことはできない。それに反して、nationは互いに関連した二つの要素をもっている。ひとつは、過去の記憶の豊かな遺産の共有[13]であり、もうひとつは、ともに暮らし、これらの遺産を受け継いでいこうという欲望[14]である。そのため、われわれがnationの本質について認識を深めようと思うのならば、こうした特別な歴史の意識から出てきた連帯感(solidarity)の探求を進めなければならない。そのため、nationは一種の道徳的形式(a form of morality)として理解されるべきなのである(Renan 1994)。
確かに上述の主観的な要素はnationの形成過程において重要な役割を演じていることは間違いないのだが、しかし、この主観的な意識による定義は、実際に採用するにははっきりと不十分な点が存在する。集合的な連帯感は他のさまざまな社会的団体、家族や結社、商業組織に存在しうるもので、nationに限定されるものではない。主観的な意識は最低限の条件なのである。
解決の鍵はこうした主観的な要素が客観的な基礎の上に構築されると認識することである。現実の生活においては、nationのメンバーは、自分が集合的な連帯感によって繋がれて、ひとつの団体をなしているとはみなしていない。反対に、いくつかのそれ以外の要素を列挙する。共通の文化、祖先、歴史、政治制度、あるいは特定の地域への帰属意識などである。こうしたものによって彼らはひとつに結合されているのである。
ベネディクト・アンダーソンの有名な定義がある
アンダーソンによればnationは一種の人工物[15]であり、一個の「想像された政治的な共同体」である。しかし、このことは、nationが「虚偽の[16]」存在であることを意味しない。採用すべき戦略は、想像の様式、及びこの想像を可能にした制度を用いて、この2つの点でのnationの特殊性を理解することなのである。アンダーソンが挙げている例は「印刷-資本主義(print-capitalism)であり、またそれによって出現した、nationを一個の社会学的な共同体へと変えた新しい文学のジャンルであるところの、新聞と小説である[17]。
スタイル以外でも、共同体を区別するその他の基準をわれわれは当然見出すことができる。たとえば、その規模の大小や、行政組織の階層化の程度、内部での平等の程度などなどである。nationとナショナリズムを研究する上で主要な目的は、nationにかかわる「想像された」集合的な連帯感の特殊な形式を見出すことである。クレイグ・キャルホーンの提供する以下のリストは、多かれ少なかれひとつの共同体がnationとして想像されるための基礎的条件になりうると思われるものをあげている。
注意すべきことは[19]、これらの特徴はナショナルな「修辞」なのであって、通常nationを記述する特徴として主張されるものなのである。実際、われわれは経験的な手段に訴えてnationを定義することはできない。たとえば、主権が達成されているかどうか、内部が分裂しているか、一貫性が維持されているか、あるいははっきりとした境界線を引けるかどうか、ということをいうことはできない。逆に、nationは通例大いにこれらの主張によって構成されているのであり、これらの主張は単に記述的なものではなく、規範的なものでもある。これらの特徴は、ナショナルな感情の基礎を提供するに十分でありうるが、しかし、ひとつとして絶対に必要な特徴というものはない[20]。
異なるグループに対して、彼らが自分たちがひとつのnationを成す所以を主張するとき、そのことによって実際に、別の種類のグループが事実上建設されるのである。われわれはすべてのこうした主張を仔細に検討し、これらの主張を、その人々を結び付けている一種の信仰として認識する必要がある。ケラスは、以下のような定義を提案している。
エトノス[22]は元来、古代ギリシアでポリスの住民であるデモスに対して、ギリシア人でもポリスを形成していない地域の住民や、非ギリシア人といった周辺の住民の種族的単位を呼んだ言葉に由来する。(特にアリストテレス以降は非ギリシア人に限定して使う傾向が強まるという)。
この、ギリシア語ἔθνος(ethnos)エトノス、および形容詞形ethnikosエトニコスは、旧約聖書のギリシア語訳にあたり、非ユダヤ人、異教徒を指すヘブライ語の訳語に使われ、中英語でも、異教徒、異邦人を指した。そこから、近世には、英語では、アイルランド人などを、やや軽蔑的なニュアンスで呼ぶ言葉としても使われた。たしかに元来のギリシア語のエトノスには、より一般的に或る一定のグループをなす人々、種族、民族、国民を指す意味があるのだが、民族学誕生時に、このギリシア語が復活して使用されだすにあたり、そこに単に民族というだけでなく、異教徒、異民族(他者)というニュアンスが入っていたことは否めない。
大航海時代とそれに続く西欧による植民地化によって、西欧はさまざまな異なる文化・習慣を持つ人々に出会うこととなった。そのさい、西欧的な基準で「文明」を有しないとされた人々を指す言葉として使用された言葉の一つが、このethnicという語であった。まさしくethnologyエスノロジー(文化人類学)の対象がエトノスだった。
しかしエトノス(エスニック・グループ、エトニ)の用語が当初から用いられたわけではなく、文化人類学、民族学は、その対象となる人間集団を、多くの場合は、nationやpeople、volkの用語で呼んだ。明示的に、ネーションと区別された概念としてエトノスが導入されたのは比較的近年のことである。とりわけネーションがいまだ国家との一体性を強い含意としてもたなかったナショナリズム以前の時期には、ネーションやレースは、しばしば単にエスニックな意味合いで用いられた。
エトノスが社会科学の概念として導入された意味のなかには、とりわけアメリカや中国、ソ連などの「多民族国家」において、下位区分であるethnosが民族自決権を持たないという含意がある[要出典]。もし、個々のethnosが民族自決権を持つなら、個々のethnosがnationとして独立することを主張することになる[23]。ソ連や中国のような多くのエトノスethnosを包含した国では、ethnosに民族自決権を認めるならば、国家が分解してしまうという危惧が存在していた。このゆえに、nationと区別してethnosという語がさかんに用いられるようになった。
非西欧の異民族、国家内部の少数民族に対する、こうした、ナショナルな主権、政治性、民族自決権を認めない、あるいは度外視して扱う、という差別化の視線は、そうした文化人類学的な、非政治的という形での植民地主義的・政治的な視線の対象であった諸「民族」がナショナルな意識を身に着け始めるにつれて動揺し始める。
そこで、代わってえがかれるようになる図式のひとつが、エトノスが政治的に「進歩」してネーションを「獲得」するという進化図式であった。しかしこの図式は、エスニックなものをネーションの「基盤」となるものとみなすという点で、ネーションについて批判された「本質主義」をエトノスに転化するものであると同時に、裏口から「政治的な成熟度」のような西欧的な「文明」によるランク付けを保存する面もある。
ある人間集団をエトノスとして見つめ、ネーションとしてみないということは多くの場合、非常に政治的な、しばしば差別的な含意を持っているが、文化人類学的な分析視点にネーションがなじまない、過剰な概念であることは事実であり、また近年では、かならずしもナショナルな主張を行わないエスニック・グループも多く[24]、この区別の意義を単に政治的に批判することはできない。
エスニック・グループはもっとも曖昧な形で定義すれば、同族意識を持ち、同種の文化・伝統・慣習を有する人間集団である[25]。ネーションとは異なり、エスニック・グループは、統一された政治的共同体を形成していることは必須ではなく[26]、その為の権利・主権があるとも通常はみなされない[27]。
エスニック・バウンダリー論を展開したフレデリック・バースはエスニック・グループについて、
と規定した。このとき、エスニック・グループの間の差異は、社会的に維持される相互作用の「場」であって、客観的・物質的な境界が存在する必要はないとされた[28]。
このエスニック・グループの概念は国家の中の少数派諸グループを語るものとして七十年代に一般化した。しかし出自意識を伴う文化的マイノリティ・グループをエスニシティとして規定すると、同じ論理でネイションの多数派グループもまたエスニシティとして規定されることは避けられない。こうして、エスニシティ概念は、マイノリティ・グループばかりでなく、多数派にも、また国家を横断して存在するグループにも、次第に広く、文化的共通性と帰属・出自意識に基づく集団に援用されるようになった。
日本語の「民族」は、訳語としてはnationに由来しながらも国家の存在を前提としないため、多くの場合には、このような意味でのエスニック・グループと一致することとなった。
古典的な文化人類学のモデルにおける文化=習俗集団は「歴史を持たない」、「安定して孤立した」、社会として、自己完結的なシステムをなす共同体としてイメージされることが多かったが、エスニック・グループ研究の知見からフィードバックされ、従来のそうした無文字社会もまた、動的な相互作用の中で、むしろアイデンティティ意識によって成立していて、「本質主義的」な規定の困難な面もまた存在することが明らかになった。とはいえ、環境に適応して分化した生活様式という従来言われたような意味でのエスニック・アイデンティティの「基盤」がまったく無視できるということではない。
より実用的定義として、母語による定義がある。ウラル語族を母語とする民族はウラル系民族、テュルク諸語を母語とする民族はテュルク系民族などである。この場合、民族の括りは言語のそれと等しくなり、言語によって民族が一意に定まる。また語族によって定義された民族集団に特異的なY染色体ハプログループは以下のとおりである。
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