出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/06/17 23:56:51」(JST)
アフリカ系アメリカ人 African American |
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代表的なアフリカ系アメリカ人 マーティン・ルーサー・キング、ルイ・アームストロング、チャック・ベリー、ダイアナ・ロス、ジャッキー・ロビンソン、バラク・オバマ、コリン・パウエル、コンドリーザ・ライス、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、マイケル・ジョーダン、コービー・ブライアント |
総人口 |
3958万6840人(16.8%)[1] |
居住地域 |
アメリカ合衆国 |
言語 |
アメリカ英語、黒人英語、南部アメリカ英語、カリブスペイン語、ハイチ語(フランス語系のクレオール言語)、ブラジルポルトガル語 |
宗教 |
ほとんどがプロテスタント、一部はカトリック、稀にイスラーム |
関連する民族 |
ブラック・インディアン、アメリコ・ライベリアン、アフリカ系ラテンアメリカ人 |
アフリカ系アメリカ人(英: African-American[† 1])は、アメリカ合衆国民のうち、アフリカ出身の黒人(ネグロイド)もしくはその子孫である。アフリカン・アメリカン、アフロアメリカン (Afro-American[† 2])、アメリカ黒人とも言う。
アフリカ系アメリカ人という言葉には黒人を意味する語は入っていないが、コーカソイドに属する北アフリカ系アメリカ人は含まない。
大半は、19世紀半ばの南北戦争以前にアフリカ(サハラ砂漠以南のブラックアフリカ)から奴隷貿易によりアメリカに連れてこられた奴隷の子孫である。ただし若干だが、より新しい時代に自由な移民として渡米した黒人やその子孫もいる。彼らをアフリカ系 (African) と呼ぶべきかどうかについて、また、黒人 (Black) と呼ぶべきかどうかについては、論争がある。中米に奴隷として送られたのちに移民として渡米するなど、より複雑な経緯を持つ者もいる。
奴隷として連れて来られた際は出身集団や民族集団が異なっていたが、奴隷制度によって民族・文化的なつながりが乏しくなり、また、長い年月によって混血が進んだため、民族集団ではなく、アメリカ合衆国に在住する黒人の人種コミュニティとして度々用いられている(米国内の黒人人種比率: 12.9%、2005年)。
アフリカ系アメリカ人は、長い間人種差別の対象とされ苦難の道を歩んできたが、現在はブラジルなど他のヨーロッパ系主体の移民国家のアフリカ系住民より社会進出が進んでおり、ホワイトカラーや軍人、俳優やスポーツ選手で活躍する場合も多く、多数の閣僚を輩出するなど、国政の中枢にまで上りつめるようになった。
以前は「ニグロ (negro[† 3])」や「ニガー (nigger[† 4])」などとも呼ばれたが、これは1960年代の公民権運動の高まり(ブラック・パワー)以来差別用語とされている。その一方、アフリカ系アメリカ人男性同士の人類同胞主義の表現として「ニガ (nigga) 」が使われる事も多々あり、その傾向は特にラップ音楽において顕著である。しかし日本人などの黄色人種や白人系アメリカ人を含め、アフリカ系アメリカ人以外の者達がこの表現を使う事は差別的言動とみなされる。
民族的回帰運動でもある「ブラック・パワー」を提起した黒人たちは、「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」をスローガンに掲げ、白人から否定され、自らも否定してきた黒人の人種的特徴を「黒人らしさ」として逆に強調し、彼らの民族的アイデンティティーを主張する表現のひとつとしてアフロヘアーという髪型も生み出した。彼らはキリスト教からイスラム教へ改宗したほか、自らを「ブラック(黒人)」と自称し、これは現在の黒人たちの一般的な自称となっている。
アメリカ陸軍においては、2014年11月8日まで軍内の規定で、黒人を指すときに「黒人もしくはアフリカ系の米国人」「ハイチ人」「ニグロ」などが使用可能であった。批判を受け、陸軍は「黒人もしくはアフリカ系の米国人」の表記のみを容認することとなった[2]。
マーチン・ルーサー・キングの演説にあるようにアメリカ合衆国で単に「黒人」というときは奴隷解放宣言までに奴隷としてアメリカ合衆国に渡来したアフリカの人々の子孫を指すのが一般的である。しかし移民大国のアメリカには、現在に至ってもアフリカ、中南米やカリブ海諸国から黒人の移民がやってくる。しかし、彼等はアメリカによってアフリカから連れて来られた黒人奴隷の子孫でない(中南米やカリブ海諸国から来た場合はスペインやフランス、イギリスなどにより連れて来られた黒人奴隷の子孫である)ことから、アメリカ国籍を持っていない場合は、「アフリカ系アメリカ人」という呼び名は当てはまらないとの指摘もある。例えば、コリン・パウエルはアフリカからジャマイカを経由しアメリカに来た移民の子であり、カリビアン・アメリカンが正当な名称であるが、実際にはアメリカ国籍を持ちアフリカにルーツを持つ場合は、アフリカ系アメリカ人と呼ばれている。また「初のアフリカ系大統領」と呼ばれるバラク・オバマもケニア人を父親にもつイングランド系アメリカ人だという認識もできる。これは高祖父がサウスカロライナの黒人奴隷だった、すなわち「奴隷の末裔」(マーティン・ルーサー・キングJr.)のミシェル・オバマとは対照的である。
デブラ・ディッカーソン(英語版)は、黒人 (Black) という語は、アメリカ(America、合衆国ではなく両米の意味か)に奴隷として連れて来られた人々とその子孫に限定すべきだと主張している[3]。したがって彼女によれば、バラク・オバマは黒人ではない[3][4]。また彼女は、アフリカ系 (African) についても同様の主張をしている[5]。
アフリカ系アメリカ人は他国のアフリカ系に比べると混血化が進んでおり、平均すると25%程度に白人の血が混じっていると言われている。
アフリカ系アメリカ人 (African-American) の血液型の比率は、O型51%・A型26%・B型19%・AB型4.3%となっている[6]。
英領北アメリカでの記録に残る最初のアフリカ人は、1619年にバージニア州ジェームズタウンに入植した年季奉公人とされている。イギリス植民地時代からアメリカ独立初期にかけては、完全な奴隷制に移行する18世紀初頭までには、比較的自由に生活するアフリカ人も見られた。その後大西洋間奴隷貿易でアフリカから奴隷として連れてこられた人が増加し、1860年までにアメリカ合衆国には350万人の奴隷にされたアフリカ人と、その他の奴隷ではない50万人のアフリカ人がいた[7]。奴隷船として輸送される際に病死する者が絶えず、かつて欧米諸国は1500万人の奴隷を運ぶ際に1人の黒人を新大陸に連れて行くまでに5人の黒人が中途で死んだという推計があるため、膨大な数の黒人を死に追いやっている。(ただし、彼らを出身地から「白人」の手に引き渡したのは黒人国家である)
リンカーン大統領の奴隷解放宣言で奴隷制が廃止されて以後も、政治的、人権的な権利の制限は続いた。
南北戦争で奴隷制度の撤廃を目指す北部が勝利した後、かなり以前から奴隷制度を禁止していた北部ではアフリカ系アメリカ人に対する差別意識は比較的薄く、ニューヨークやシカゴではアフリカ系アメリカ人の市長が誕生した前例がある。しかし、長い間アフリカ系アメリカ人奴隷の労働力に依存した南部では、アフリカ系アメリカ人に対する差別意識が強く残り(ジム・クロウ法)、アフリカ系アメリカ人に対しアメリカ全土で法の下の平等が保障されるのは、1960年代の公民権運動の成蹴による公民権法の施行を待たなければならなかった。
なお奴隷制度廃止後、奴隷から解放されて自由になったアメリカ黒人(解放奴隷)の自由の国として西アフリカにリベリアとシエラレオネが建国されたが、両国とも内戦で最貧国である。特にシエラレオネは子供までもが戦争に狩りだされ殺戮を行うなど、差別を受けながらも後に社会的な地位を上げたアフリカ系アメリカ人とは雲泥の差の生活を強いられている。またカナダのほうが奴隷廃止が早かったためにアメリカの奴隷がカナダに移住した事があった。
また、第二次世界大戦においては、人手不足からアフリカ系アメリカ人も軍人として戦争に参加することになった。当時「民主主義の武器庫」を自認していたアメリカであったが、「民主主義」という言葉とは裏腹に、大戦中に将官になったアフリカ系アメリカ人は准将だけであり、実際の戦闘に参加したものはわずか5%で、そのすべてが「黒人部隊」での参戦であった。残りのほとんどが単純作業を中心とした後方支援業務に就かされるなど、参戦によっても差別は解消されなかった(現在の視点だと、死と隣り合わせの戦闘に参加したのは大多数が白人である方が逆差別となる)。なお、「黒人部隊」が廃止されるのは、公民権法の制定後に戦闘が本格化したベトナム戦争においてであった。
1950年代以降、マーティン・ルーサー・キングなどを指導者に、アフリカ系アメリカ人をはじめとする被差別民族に対する法的平等を求める公民権運動が盛り上がりを見せる。その結果、1964年7月2日に法の下の平等を規定した市民権法が制定された。
しかし法的な差別が撤廃され、それがゆえに「自由な国家」であることを標榜する現在においても、白人がその多数を占めるアメリカ社会での少数派(約20%)である黒人に対する差別意識は根強く残り、白人に比べて低学歴の貧困層が多い。
現在、黒人社会において質の高い公教育を提供する行政実験が行われており、特別な家系ではない黒人の子女がハーバード大学を代表とする多くの名門校に進学する実績を挙げつつある。
特にスポーツ界における黒人選手の活躍には目覚しいものがあり、恵まれた運動神経であるために少数民族であるにもかかわらず大いに活躍し、黒人アメリカンフットボール選手はNFL全体の約65%、黒人バスケットボール選手はNBA全体の約80%という大多数を占めている。人口に対してのNFLにおける成功者の比率は、圧倒的と言われる太平洋諸島系に次いで堂々の2位と目されている。しかし、他国ではモータースポーツや水泳、ウィンタースポーツにおける黒人の進出、成功があるにもかかわらず、アメリカにおいては現在もほとんど進出していない。
スポーツ選手、俳優、芸能人、政治家、実業家として活躍を見せ、アーン・ダンカンは多くのアフリカ系の有名人の友人がいる。後に黒人の社会的地位が向上し、コリン・パウエル、コンドリーザ・ライス、ロデリック・レイナー・ペイジ、ロナルド・カーク、マイケル・スティールなど国政の中枢にまで登り詰める人物が目立つようになった。そして、2009年には、ケニア人(黒人)の父とアメリカ人(白人)の母を持つバラク・オバマが初の黒人大統領として第44代アメリカ合衆国大統領に就任するなど、差別解消運動の成果が顕在化しつつある。
アフリカ系アメリカ人が北東部などから南部への移住がさまざまな理由でこの10年間で急増している[8]。
この節の加筆が望まれています。 |
アフリカ系アメリカ人は奴隷解放から100年たっても20世紀初頭までは差別がひどくスポーツや歌手や俳優などでも白人から差別を受け、キング牧師の登場まで学校やレストランやトイレやバスも人種で分けられていた。差別的な警官により暴力を受け、誤射の凶弾に倒れたりする事もあり、裁判でも黒人が白人より重い刑を受けたり死刑執行率が高い場合もある。そのためロス暴動のような差別への怒りの暴動が頻繁に起きたりする。現在は黒人が歌手、俳優、スポーツ選手、政治家として活躍して人気も出ており、オバマ大統領の就任は白人層からも大いに歓迎され、半世紀前に比べ遥かに差別意識が薄れてきた。しかしKKKのような白人至上主義運動が未だに存在し、完全に差別が消失したわけではなく、黒人の社会的地位上昇のために就職や大学の採用試験などの合格枠が人種で区別する事で逆差別と感じる反黒人感情の白人が増えた。また2010年代においても、前述と類似した事件や騒動が発生しておりこの差別感情が根強く残っている事実を反映している[9][10][11][12]。
しかし訴訟大国アメリカでは黒人差別で訴えられる事例があり、例えばアフリカ系の消防士の食事にドッグフードを混入する人種差別的な行為で3億円余の賠償金を支払う判決があったために、黒人差別は社会的にタブー視されている。
アフリカ系アメリカ人で有名になった者はアフリカからは尊敬されており、例えばバラク・オバマは父の故郷ケニアでは英雄視され、その夫人のミシェル・オバマは黒人奴隷の子孫である影響で奴隷貿易の拠点のケープ・コースト城の訪問では熱烈に歓迎を受けており、さらにケニアやアメリカで「オバマ」「ミシェル」と子供に命名する親が急増した。
アフリカ系アメリカ人は世界一の経済大国で育った影響で白人扱いされる例がある。例えばアパルトヘイトを行っていた南アフリカ共和国では名誉白人と扱われていた事があった。また白人社会で育った影響でアフリカ本土の黒人とは摩擦が起きており、黒人奴隷のために建国したリベリアに移住した者、つまりアメリコ・ライベリアンは1847年の独立から1980年までリベリアの政治・経済を支配し原住民を見下した事でリベリア国内の対立の火種となった。
一方アメリカを敵視する反米思想の持ち主からは『白人に媚びる黒人』『裏切り者』として軽蔑の対象とされている。例えば反白人感情をあおったロバート・ムガベは自国を批判したライスを「白人の奴隷」「アンクル・トムの娘」と揶揄し、反ブッシュ的なハリー・ベラフォンテはブッシュ政権の黒人閣僚を「白人に媚る奴隷」と揶揄し、反米組織のアルカーイダのナンバー2であるアイマン・ザワーヒリーは大統領に就任したオバマまたライスとパウエルを「ハウス・ニグロ」と呼んだ。
アフリカに旧植民地を保有した影響で、イギリスやフランスには移民により多くのアフリカ系住民が住んでいる。しかしアフリカ系フランス人はスポーツ選手以外ではアフリカ系アメリカ人よりも社会進出に遅れており、未だに多くが貧困層でスラム街に住んでおり、差別への怒りに対する暴動が起きる事もある。カナダでは2.5%の78万人のアフリカ系カナダ人が存在しており、ミカエル・ジャンというハイチからのアフリカ系女性がカナダ総督に任命されている。
ベネズエラの反米的なウゴ・チャベス大統領はスペイン人、インディアン、アフリカ人の血を引くムラートとメスティーソである。
アフリカ系アメリカ人は、その身体能力を遺憾なく発揮し、スポーツの分野で目覚しい活躍を見せている。北米4大プロスポーツリーグのうちNBA、NFLはいずれもアフリカ系アメリカ人選手が大多数を占めている。現在、NBA選手の約80%、NFL選手の約65%がアフリカ系アメリカ人である[13]。特に、バスケットボールはヒップホップなどと並んで黒人文化の一端を担っている。「バスケットボールの神様」と呼ばれたマイケル・ジョーダンの登場後は、ますますアフリカ系アメリカ人とバスケットボールは密接に結びついていった。バスケットボールの場合は全ポジションにおいてアフリカ系選手の比率が高いが、アメリカンフットボールの場合はポジションによってアフリカ系選手の比率が大きく異なってくる。NFLやNCAAカレッジフットボールのような高いレベルにおいては、アフリカ系アメリカ人が優れているとされる脚力や瞬発力が要求されるポジション(RB、WR、CBなど)はそのほとんどがアフリカ系選手で占められている。特に、RBはアフリカ系アメリカ人にとって最も花形のポジションであり、ラダニアン・トムリンソンのようなスター選手は、アフリカ系コミュニティの間で憧れの存在となっている。一方で、QBやキッカー、パンターなどのポジションにおいてはアフリカ系選手の比率は比較的少ない。しかし、近年はマイケル・ヴィックやヴィンス・ヤングに代表されるように、RB並みの脚力を武器にパスプレーよりもランプレーを持ち味として活躍するアフリカ系QB(モバイルQB)が増えつつある。
4大スポーツで最も古い歴史を持つ野球においては、1947年にジャッキー・ロビンソンがデビューするまで、アフリカ系選手が事実上MLBから締め出されていた。それまでは、アフリカ系選手のみで構成されるニグロリーグが隆盛を誇った。ロビンソンら黎明期のアフリカ系選手は、人種差別に苦しみながらも結果を残し、次第にアフリカ系選手はMLBになくてはならない存在になっていった。フランク・ロビンソンが初のアフリカ系監督になったものの、近年はアフリカ系選手の減少が目立っている。MLBの登録選手に占めるアフリカ系アメリカ人の比率は1995年から2006年までに半減し、8.4%まで下がった。2009年には減り続けていたアフリカ系選手の数が久々に増加に転じ、比率も10.2%にまで上昇[14]したものの、MLBはこうした事態に危機感を抱き、アフリカ系選手の開拓に乗り出している[15]。また、カーティス・グランダーソン[16]、トリー・ハンター[17]、リッキー・ウィークス・ビル・ホール[18]らのように、多くの現役選手がアフリカ系コミュニティへの普及活動を積極的に行っている。アフリカ系アメリカ人の野球選手は、ケン・グリフィー・ジュニアやバリー・ボンズに代表される走攻守揃った5ツールプレイヤーや、リッキー・ヘンダーソン、ケニー・ロフトンのような盗塁数を積み重ねる俊足選手が多い。ポジションでは、圧倒的に外野手が多く、特に中堅手が多い。
4大スポーツの一角であるアイスホッケーは、アフリカ系選手の数が極めて少ない。2009年4月の時点では、NHL全体でアフリカ系アメリカ人選手は7人しかいない[† 5]。アイスホッケーだけに限らず、ウインタースポーツには「白人のスポーツ」という偏見が今だに根強く存在し、アフリカ系選手の進出は進んでいない。それでも2006年には、トリノ五輪スピードスケート男子1000mでシャニー・デービスがアフリカ系として初の冬季五輪金メダリストになったりもしている。[19]。
陸上競技では、特に短距離走の分野でアフリカ系選手の活躍が目ざましい。カール・ルイスを筆頭に、数多くの五輪金メダリストを輩出している。一方、重量挙げにおいてはアフリカ系選手が活躍することは少ない。
ボクシングなどの世界でも、アフリカ系アメリカ人は無くてはならない存在になっている。一方総合格闘技においてはアフリカ系選手の活躍は少なく、特に柔道などの組技系格闘技においてはアフリカ系選手の占める割合は非常に少ない。
水泳においては、ウインタースポーツと同様に偏見によりアフリカ系選手の進出が進んでいないが、2000年のシドニー五輪でアンソニー・アービンがアフリカ系アメリカ人として初めて米国水泳代表に選ばれ、男子50m自由形で金メダルを獲得した。
競馬においても、かつてはアイザック・マーフィーやジミー・ウィンクフィールドらに代表されるアフリカ系の騎手の活躍している時代が存在していた。奴隷時代に牧童として使役されていた若年者が、奴隷解放宣言後に騎手として転向した例が多く、10代前半からデビューするのが一般的であった。19世紀末は特に顕著で、1875年の第1回ケンタッキーダービーでは出走馬15頭のうち14頭がアフリカ系騎手を背にしていたほどである。しかし1920年代に入るとアフリカ系騎手はほとんど消え失せ、現在ではほぼ見かけることがない。
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この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2012年4月) |
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