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「アメリカ」と「USA」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「アメリカ (曖昧さ回避)」、「USA (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
(国旗) | (国章(表)) |
公用語 | なし[1] 英語(事実上) |
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首都 | ワシントンD.C. | ||||||||||||||||||||||||
最大の都市 | ニューヨーク | ||||||||||||||||||||||||
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通貨 | ドル (USD) | ||||||||||||||||||||||||
時間帯 | UTC -5 から -11(DST:-4 から -9) | ||||||||||||||||||||||||
ISO 3166-1 | US / USA | ||||||||||||||||||||||||
ccTLD | .us | ||||||||||||||||||||||||
国際電話番号 | 1 |
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、英語: United States of America)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州及び連邦区から成る連邦共和国である[5][6]。アメリカ本土の48州及びワシントンD.C.は、カナダ及びメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部、ハワイ州は中部太平洋における多島海である。同国は、太平洋及びカリブに5つの有人の海外領土及び9つの無人の海外領土をも有する。985万km2の総面積は世界第3位又は第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物である。[7]同国の地理及び気候も極めて多様であり、多種多様な野生生物が存在する。
約1万5千年前、パレオ・インディアンはユーラシア大陸から現在の米国本土に移住し、ヨーロッパ諸国による植民地化は16世紀に始まった。米国は、大西洋沿岸に沿って位置する13植民地が発祥である。英国及び同植民地間の紛争により、米国は独立した。1776年7月4日、アメリカ独立戦争における英国との交戦時、同植民地の代表はアメリカ独立宣言を全会一致で発布した。1783年、同戦争は英国からの米国独立の承認により終結し、ヨーロッパの植民地帝国を相手に成功した世界初の独立戦争となった。[8][9]1787年9月17日、現在のアメリカ合衆国憲法が起草された。集合的に権利章典と名付けられた最初の10の修正案は1791年に批准され、多くの基本的な市民の権利及び自由を保証することを目的として策定された。
マニフェスト・デスティニーの教義に駆られることにより、19世紀を通して米国は北米を横断する頑強な拡大に着手した。これは、先住民の強制退去、新たな領土取得、次第に承認した新たな州を含む。[10]南北戦争は、同国における合法的な奴隷制を終わらせた。[11]19世紀末までに、同国は太平洋まで拡大し、[12]同国経済は成長し始めた。[13]米西戦争及び第一次世界大戦は、世界的な軍事大国としての同国の地位を裏付けた。第二次世界大戦から同国は世界的な超大国として浮上し、世界初の核兵器を開発した国で、戦争において核兵器を使用した唯一の国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国でもある。冷戦及びソビエト連邦崩壊は、米国を唯一の超大国とした。[14]
米国は先進国かつ世界最大の国民経済を有する。[15]同国経済は、豊富な天然資源及び高い労働者の生産性により支えられている。[16]同国経済は脱工業化社会だと考えられる一方、世界最大の製造国のうちの1つであり続けている。[17]同国は世界の軍事支出の37%を占め、[18]世界最高位の経済及び軍事大国であり、優れた政治的及び文化的勢力であり、科学研究及び技術革新におけるリーダーである。[19]
1507年、ドイツ人地図製作者のマルティーン・ヴァルトゼーミュラーは、イタリア人探検家及び地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチ (ラテン語: Americus Vespucius) の名をとって西半球の陸地をアメリカ州と名付けた世界地図を作成した。[20]「アメリカ合衆国」という言葉の最初の文書証拠は、大陸軍ジョージ・ワシントンの副官及び検閲官の大将であるスティーブン・モイランにより書かれた1776年1月2日付けの手紙からである。手紙はジョセフ・リード中佐宛で、革命戦争において「アメリカ合衆国の大量で十分な力」でスペインを支援する嘆願をモイランは記した。[21]
「アメリカ合衆国」という言葉の最初の公開出版された証拠は、1776年4月6日にバージニア州・ウィリアムズバーグのザ・バージニア・ガゼット紙面に匿名で書かれたエッセーにおいてである。[22][23]1776年6月、トーマス・ジェファーソンは独立宣言の「原草稿」の見出しにおいて全て大文字で書かれた「アメリカ合衆国」という言葉を加えた。[24][25]独立宣言の7月4日の最終版において、表題の該当する部分は「アメリカ合衆国13州一致の宣言」に変更された。[26]1777年に連合規約が発布され、「連合の名称を『アメリカ合衆国』と定める」と規定した。[27]
短縮形は"United States"が標準的であり、他の一般的な形式は、"U.S.", "USA"及び"America"である。口語での名称は"U.S. of A."を含み、国際的には"States"を含む。1700年代後半の詩歌において人気な名称である「コロンビア」は、クリストファー・コロンブスが起源であり、コロンビア特別区の名で見られる。[28]英語以外の言語において、アメリカの名称は"United States"又は"United States of America"のいずれかの、口語では"America"の翻訳であることが多い。加えて、USAのような略称は時々用いられる。[29]
"United States"という言葉は、1865年批准のアメリカ合衆国憲法修正第13条を含み、"the United States are"のように、本来は独立州の集合体を表現した複数形として扱われていた。南北戦争終結後には、"the United States is"のように単数形として扱うことが一般的になった。現在は単数形が標準的であり、複数形は"these United States"のような慣用句にその形を留める。[30]その違いは慣用法の1つ以上に重要なものとされているが、州の集合体及び単一体との間の違いを反映している。[31]
アメリカ合衆国国民の標準的な言及方法は、"Americans"である。"United States", "American"及び"U.S."は、"American values"及び"U.S. forces"のように形容詞的に国を言及するのに用いられる。Americanは、アメリカ合衆国と関連のないものへの言及には英語ではほとんど用いられない。[32]
イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国への到達を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。
これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。イタリアのジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスがニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスもジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した後、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓の歴史がはじまった。
後にアメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手に出来るという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形作っていった。その成功が誇張も含めて旧大陸に伝わり、さらに各地からの移民を誘発する事ともなった。それは同時に先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易したこともあったが、虐殺、追放して彼らの土地を奪っていったことも伴っていた。[33]
北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと13植民地との間で経済・租税措置をめぐり、対立が生じた。1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると1776年に独立宣言を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。13植民地が勝利すると1783年にパリ条約が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。
1787年9月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1789年3月4日に発効され、同年に初代大統領として大陸軍司令官であったジョージ・ワシントンが就任した。
アメリカは、自由と民主主義を掲げたことから、当時としては珍しい民主主義国家であった。しかし、アフリカ大陸から連れてこられた奴隷やアメリカ先住民の権利はほとんど保障されなかった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカに長く残ることとなる。
北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れる。未開の地であった西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行なった。しかし、イギリスが西部開拓を阻んだため、1812年に米英戦争が勃発するも1814年にガン条約を締結して事態は収拾し、西部進出を進めていった。入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも、1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのである。
この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになっていく。
1861年、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言を発した南部の連合国と北部の合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて1862年にエイブラハム・リンカーン大統領によって奴隷解放宣言が発表され、1865年に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、連合国は解体された。だが、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する人種差別はその後も続くことになる。
南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な西部開拓時代に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄し、アメリカ経済が大きく躍進した(金ぴか時代)。エジソンなどの発明家によって、白熱電球や電話など、現代文明に欠かせない発明が次々に行なわれ、黄金時代を迎える基礎を築いた。
南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。1867年には、アラスカをロシアから購入し、1898年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。1899年-1913年にかけてフィリピンを侵略。米比戦争を行い数十万人のフィリピン人を虐殺し独立を鎮圧する。1900年には義和団の乱平定に連合軍として清に派兵する。1910年代から外国人土地法を徐々に施行し、有色人種に対する締め付けを強化した。1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守る一方、1915年にハイチ、1916年にドミニカ共和国に出兵して占領し、軍政を敷くなどの西半球における権益確保政策を採った。ルシタニア号事件などの影響もあり、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦した。1918年には共産主義の広まりを警戒してシベリア出兵を行なった。
大戦後は、1919年のパリ講和会議でウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟設立と人種差別撤廃案阻止[34]に大きな役目を担ったが、モンロー主義を唱えてヨーロッパへの不干渉およびラテンアメリカに対する権益の維持をしようとするアメリカ合衆国上院の反対により連盟への加盟はしなかった。しかし、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目されることになる。国内では首都ワシントンを始めとする多くの都市でレッドサマー1919などの人種暴動により数万人が死傷した[35]。1924年には排日移民法を施行するなど人種差別政策を強めていった。1927年に出兵していたニカラグアでサンディーノ将軍に率いられたゲリラが海兵隊を攻撃したため、1933年にアメリカ軍はニカラグアから撤退し、従来の政策から善隣外交(Good Neighbor policy)に外交政策をシフトした。
続く1920年代のバブル経済に基づく空前の繁栄「轟く20年代」(Roaring Twenties)が起こるが、1929年10月29日ウォール街・ニューヨーク証券取引所で起った株の大暴落「暗黒の木曜日」がきっかけとなり、1939年まで続く世界恐慌が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど大きな社会的不安を招いた。フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策により経済と雇用の回復をめざしたが、1930年代末期まで経済も雇用も世界恐慌以前の水準には回復せず、第二次世界大戦の戦時経済によって世界恐慌以前の水準を上回る、著しい経済の拡大と雇用の回復が実現された。一方でドイツ、イタリア、日本などで軍国主義やファシズムが台頭し始め、後に起こる第二次世界大戦の引き金になっていった。
1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、中立政策は維持していたものの、1941年にはレンドリース法の施行により、イギリス・ソビエト連邦・自由フランス・中華民国に大規模な軍需物資の支援を行った。1941年12月には、日本による真珠湾攻撃が行われ、イギリスやソ連などが中心となって構成された連合国の一員として参戦した。開戦後まもなく、日系アメリカ人や南米諸国の日系人のみを強制収容所に連行した(日系人の強制収容)。日系人男性はアメリカ兵として忠誠を示すために戦った。日本海軍機によるアメリカ本土空襲などの、数回に亘る西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、併せて日本やドイツなどの枢軸国との戦闘でも大きな役割を果たした。1943年頃からは、ヨーロッパや南太平洋において本格的な反攻作戦を開始し、ドイツや日本に対する戦略爆撃・無差別爆撃を実施した。東京大空襲では推定約14万人が死傷した。
1945年8月には、イタリアやドイツなど枢軸国からの亡命科学者の協力を得て原子爆弾を完成。同年、世界で初めて一般市民を標的に日本の広島と長崎に投下し推定約29万人が死傷した。1945年5月にはドイツが、続いて8月15日には日本も降伏し、第二次世界大戦は終戦となった。GHQ参謀第2部(G2)部長であったチャールズ・ウィロビーアメリカ陸軍少将は日本を「征服」したと述べている[36]。
第二次世界大戦以前は非戦争時にはGDPに対する軍事費の比率は1%未満〜1%台で、GDPに対する軍事費の比率が低い国だったが、第二次世界大戦で史上最大の軍拡(後述)を行い、著しい軍事偏重状態になり、軍産複合体が政治に影響力を行使するおそれがあると批判されるようになった。
連合国の戦勝国の1国となった上に、主な戦場から本土が離れていたことから国土に殆ど被害を受けなかった。戦勝国として日本の委任統治領であったマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などの太平洋の島々を新たな信託統治領として手に入れるとともに、占領国や進駐国に大規模なアメリカ軍基地を造り、共産圏を除く世界を影響下に置くこととなった。1946年からマーシャル諸島でクロスロード作戦などの大規模な原水爆実験を繰り返して核大国としての地位を固める。核拡散防止条約(NPT)はアメリカを核兵器国と定義し、原子力平和利用の権利(第4条)と核不拡散(第1条)・核軍縮交渉(第6条)義務を定めている[37]。
以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的もしくは大義名分として冷戦期及びそれ以後の外交をリードする事になる。
第二次大戦後は、連合国として共に戦ったソ連との冷たい戦争が始まった。一時、ジョセフ・マッカーシー上院議員らに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が起きるなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。
冷戦においては、ソ連を盟主とした共産主義陣営に対抗する資本主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国、台湾などに経済支援や軍事同盟締結などで支援した。朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻など世界各地の紛争に介入している。グレナダ侵攻の際は宣戦布告を行わなかった。ベトナム戦争ではトンキン湾事件で事実を一部捏造し本格的介入に踏み込んで行った。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ大統領の時にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機も度々発生した。
冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求も一つの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態すら引き起こし、ベトナムへの介入は西側、東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。「反共産主義」であるという理由だけでアジアやラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対してもパナマの米州学校で「死の部隊」の訓練を行なった。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデターを起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困を与える結果となっていった。
同時に、大戦の後遺症に苦しむ西欧諸国や日本、韓国、中華民国など同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差をうみだし、後に東欧革命の原動力の一つになった。
「民主主義国家」を標榜するアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で認められ、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。1967年まで16州で白人が非白人と結婚するのを禁じていたが、アメリカ最高裁判所が異人種間結婚を否定する法律を憲法違反と判断した[38]。1960年代にはこの様な状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行なった。これらの運動の結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。
しかしその後も差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまで先住民やユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系、ヒスパニック、日系など)などの少数民族に対する人種差別問題は解消していない。それは就職の際の格差等から、警察官が人種を理由にアンフェアな扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となる事すらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺については、連邦政府としては未だに謝罪をしていない。
人権擁護団体「南部貧困法律センター」によると、2009年に初の黒人大統領が誕生して以降、白人の異人種に対する反発が強くなり、人種偏見に基づくとみられる事件が増加および過激化しており[39][40][41]、南部では共和党員の約半数が異人種間結婚(白人と非白人の結婚)は違法にするべきと世論調査会社「パブリック・ポリシー」の調査に回答している[42]。
石油ショック以降の原油の値上がりによって基幹産業の1つである自動車産業などが大きな影響を受け、1970年代以降は日本などの先進工業国との貿易赤字に悩ませられることとなる。
1980年代に入ると、日本との貿易摩擦が表面化し、議員がハンマーで日本製品を壊すという現象(ジャパンバッシング)も生まれた。近年は、中華人民共和国に対する貿易赤字が膨張している他[43]、インドなどへの技能職の流出が問題となっている。
1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊によって、唯一の超大国として「世界の警察」(globocop)と呼ばれ[44][45][46][47][48][49][50]、冷戦後の世界はパクス・アメリカーナとも呼ばれるようになった。冷戦時代から引き続いて、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を維持し続け、1989年にはパナマ侵攻、1990年には湾岸戦争と各国の紛争や戦争に介入した。パナマ侵攻は国連での手続きもないアメリカ単独の武力侵攻のため、国連総会は軍事介入を強く遺憾とする決議を採択した[51]。
経済がグローバル化し冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1992年からの民主党政権下では、ITバブルと呼ばれる程の空前の好景気を謳歌した。
21世紀になったばかりの2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境に「テロとの戦い」を宣言して世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化がおこるきっかけとなった。同年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、テロを引き起こしたアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。
2002年にはイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸と呼び、2003年3月には、イラクを大量破壊兵器保有を理由にイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。ジョージ・W・ブッシュ大統領はイラクの大量破壊兵器保有の情報が誤りであったことを認めた。
2005年には、テロ対策を目的に連邦情報機関が大統領令に基づき、具体的な法令的根拠・令状なしに国内での盗聴・検閲等の監視が可能となり、アメリカで事業展開する通信機器メーカーは全て製品にこれを実現する機能を具備することが義務付けられている(詳しくはCALEA)。
ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ムピロ・ツツ元南アフリカ聖公会大主教は、イラク戦争開戦の責任を問い、ジョージ・W・ブッシュ大統領とトニー・ブレア元英国首相をアフリカ・アジアの指導者たちと同様に裁くため国際刑事裁判所に提訴するよう呼び掛けている[52]。
国際連合の意向の無視や、アメリカ同時多発テロ後からイラク戦争に至るまでの強引な姿勢は、世界中で反米感情を引き起こす要因となった[要出典]。イラクやアフガニスタン情勢も泥沼化し、友好国だけでなく米国民ですらアメリカの強引な姿勢に否定的な考え方を示した[要出典]。これにより、強硬路線を見直す方向に動き、2008年に北朝鮮へのテロ支援国家指定を解除するなど、世界における影響力は冷戦終結直後に比べ弱くなっている[要出典]。中国のGDP成長をはじめBRICsの台頭など、世界経済が多極化の方向に向かっているとも指摘されている[要出典]。
2009年に「変革」と「国際協調」を訴えたバラク・オバマ大統領が就任した。オバマは人種差別のさらなる解決や国民皆保険の整備、グリーン・ニューディール等の政策を通じた金融危機、環境問題、国際情勢の改善に積極的に取り組むことを表明した。しかしながら、主に保守派のなかには、このようなアメリカの「変革」・「国際協調」」に対して強固に抵抗する勢力も根強く、オバマ大統領の支持・不支持は完全に二分されている。
政治体制は50州とコロンビア特別区で構成される連邦共和制国家である。それぞれの州は高度な自治権を持っているが、連邦政府の有する権限は非常に強大である。連邦政府は、立法、行政、司法の三権分立制をとるが、その分立の程度が徹底しているのが大きな特徴である。
元首であり、行政府のトップである大統領は、間接選挙で大統領選挙人を介し、選出される。任期は4年で3選は禁止。行政府は、大統領と各省長官が率いる。
立法府は上院と下院から構成される両院制(二院制)の議会である。上院は、各州から2議席ずつの計100議席、任期は6年で2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、各州の人口を考慮した定数の合計435議席(その他に投票権のない海外領土の代表など5人)からなり、任期は2年。一般的に、上院は上流層の意見を反映し、下院は中流層、下流層の意見を反映しているとされている。大統領は上下両院のバランスをとる役割を期待されている。
議席は歴史背景から共和党と民主党による二大政党制が確立している。基本的に東西両海岸沿いに民主党支持者が多く、中部に共和党支持者が多いと言う地域的特色があると言う調査結果が出ている(赤い州・青い州)。他にも少数政党はいくつか存在するが二大政党を覆す程には至らず、時折選挙戦で注目を浴びる程度である。
イギリスから独立した経緯から、アメリカ法にはイギリスの法思想の影響が大きい。
アメリカ合衆国はイギリスの不文憲法の伝統から離れて、成文憲法を成立させた。アメリカ合衆国憲法は合衆国に連邦の構造を与え、立法、行政、司法の三権分立とその相互抑制均衡を成文で制度化している。また基本権のカタログでもある。
各州が独自の立法機関を設置し独自の州憲法と州法を有する。連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、連邦主義により各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、United Statesの名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。
アメリカ合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州を跨ぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。
訴訟社会としても知られ、国内に弁護士が100万人もおり[53]、人口比では日本の25倍になる。アメリカ人自身からも行き過ぎによる弊害がたびたび指摘され、いわゆるマクドナルド・コーヒー事件はその代表例として有名になった。これは国民が多文化・多宗教の混合であるため、共通する価値判断基準が法律以外にないからだという意見がある。日本では制限されている弁護士の宣伝広告活動が認められていることから、弁護士本人が出演するCMがテレビで放送されることもある。営業活動に熱心な弁護士を揶揄するアンビュランス・チェイサー(事故で負傷者が出ると、搬送先の病院で賠償請求訴訟を起こすよう勧めるため救急車を追いかける弁護士の意)というスラングがある。
独立宣言には『すべての人民は法のもとに平等である』と謳われており、全ての国民は国家との法的権利義務において等しく扱われ、人種、信条、性別によって不当な扱いを受けないという原則を示している。この原則はアメリカ合衆国憲法修正第14条に端的に現れている。しかし実際のところ、女性、黒人奴隷および先住民が真の法の下の平等を勝ち取ったのは建国から200年近くも後のことである。アメリカ合衆国で女性参政権が認められたのは1920年であり、アフリカ系アメリカ人と先住民族が法のもとに他の人種と同等の権利を保証されるようになるまでには20世紀半ばの公民権運動の勃興を待たねばならなかった。
19世紀後半以降にアメリカ合衆国への移民が増加するに従い、アングロ・サクソン系以外の移民を制限するための法律が連邦議会で次々に可決された。1882年に中国人(当時の国名は清)の移民を禁止する中国人排斥法が制定され、1924年には日本で「排日移民法」として知られているジョンソン・リード移民法が制定されて、新たに移民できる外国人の数を合衆国内にすでに居住している同じ人種の人口によって決めることで実質的にアジアと東欧および南欧からの移民を制限した。連邦レベルで移民の人種的制限が完全に撤廃されたのは1965年のハート・セラー移民帰化法においてである。
第二次世界大戦が勃発すると、米国西海岸に居住する日系アメリカ人は米国の市民権を持つアメリカ人であるにもかかわらず「敵性外国人」として市民権を剥奪され、強制収容所に送られた(詳しくは日系人の強制収容を参照)。同じ理由から、アメリカの影響下にあったラテンアメリカ13カ国の日系人もアメリカに強制連行された。この一連の強制収容により多くの日系人が財産や生活の基盤を失い、戦後7年が過ぎた1952年の移民国籍法の施行まで市民権は回復されなかった。
「自由の国」を自称しているとはいえ、上記のように法の上での人種差別が近年まで残っていた上、現在も人種差別はあらゆる場面にみられる。ピューリタニズム・キリスト教右派の考えの影響から性に関する問題には厳しいところもあり、州によっては婚前交渉や同棲が認められておらず、刑罰の対象となる場合もある。妊娠中絶を合法化すべきかどうか、死刑制度を認めるかどうかなどの点で宗教的価値観などの多様性を背景とした国家レベルでの議論が繰り返されている。
アメリカ軍はアメリカ陸軍、アメリカ海軍、アメリカ海兵隊、アメリカ空軍、アメリカ沿岸警備隊の五軍から成り、陸海空軍と海兵隊はアメリカ国防総省の、沿岸警備隊はアメリカ合衆国国土安全保障省の管轄下にある。また、統合軍として地域別、機能別に編成されており、アメリカ合衆国国内以外にも、イギリス、イタリア、ドイツ、日本(在日米軍)、大韓民国(在韓米軍)、カタール、キューバ(グァンタナモ米軍基地)、クウェート、サウジアラビア、ジブチ、スペイン、トルコ、バーレーン、ベルギーなどに在外米軍基地が存在する。
また、核兵器をはじめとする大量破壊兵器を保有しており、第二次世界大戦では核兵器が、ベトナム戦争では化学兵器(枯葉剤)が実戦に使用された。
アメリカ合衆国の経済において、軍需産業は最大の産業または基幹産業または主要な産業であるとの、検証可能性を示さない伝聞情報が広く流布されているが、アメリカ合衆国政府が公開している経済統計や財政統計を検証すると事実ではない。軍需産業は他の産業と異なり、軍隊が唯一の消費者であり、社会全体を消費者とする産業と比較すると市場規模は限定される。軍需産業は高度な付加価値の素材や部品や機器やシステムを統合する産業であり、科学技術と素材や部品や機器やシステム産業の基盤が無いと成り立たない産業である。軍需産業に対する発注はアメリカ合衆国の経済や社会の状況と国際情勢と軍事政策に影響され、軍が望む予算や武器の購入は連邦議会で審議され、連邦議会が承認して可決し大統領が署名した予算分だけしか発注されない。
アメリカ合衆国のGDPに対する軍事費の比率は、1901年〜1917年は1%未満で推移していた。第一次世界大戦に参戦して大規模な軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は、1918年は8.0%、1919年は13.9%に増大し、20世紀以後では三番目に大きな比率になった[55]。
第一次世界大戦終結後は大規模な軍縮が行われ、GDPに対する軍事費の比率は、1920年〜1921年は2%台、1922年は1%台、1923年〜1931年は1%未満、1932年〜1933年は1%台、1934年〜1935年は1%未満、1936年〜1940年は1%台で推移し[56]、第二次世界大戦以前は平時にはGDPに対する軍事費の比率が小さい国だった。
第二次世界大戦への参戦を想定しイギリスとソ連に武器を供給した1941年はGDPに対する軍事費の比率は5.6%、第二次世界大戦中に参戦して20世紀以後では史上最大の軍拡が行われ、GDPに対する軍事費の比率は1942年は17.8%、1943年は37.0%、1944年は37.8%、1945年は37.5%に増大し、20世紀以後では最大の比率になり[57]、著しい軍事偏重体制になり、軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。
第二次世界大戦終結後は大規模な軍縮をしたが、冷戦体制になり、GDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦以前の状態には減少せず、軍事費の比率が大きい状態が継続した。朝鮮戦争に介入して軍拡をして、1953年のGDPに対する軍事費の比率は14.2%になり、20世紀以後では二番目に大きくなった。朝鮮戦争停戦後の1954年〜1960年は軍縮をしたが、冷戦初期の軍拡競争が激しい時代で、GDPに対する軍事費の比率は13.1%〜9.3%で推移し、20世紀以後では四番目に大きな比率になった。ベトナム戦争に介入して軍拡して、GDPに対する軍事費の比率は1961年〜1968年は9.4%〜7.4%で推移し、20世紀以後では五番目に大きな比率になったが、1960年代は経済成長率が高く経済成長率が軍事費の増加率より大きかったので1950年代よりは比率は減少した。1969年以後はベトナムからの軍の撤退が進み大規模な軍縮をして、ベトナムから全軍撤退した1974年にはGDPに対する軍事費の比率は5.8%に減少し、冷戦の軍事対立緩和により軍縮が進んだ1979年には4.6%に減少した。1980年代は冷戦時代最後の米ソ軍拡競争になり、1986年にはGDPに対する軍事費の比率は6.2%に増大した。
冷戦終結後は大規模な軍縮をして、GDPに対する軍事費の比率は著しく減少した。1998年〜2000年のGDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦後では最小の3.0%になり、1999年〜2001年のGDP[58]に対する軍事費のうちの武器購入費(=軍需産業の市場規模)の比率は0.5%であり、軍需産業は最大の産業でも基幹産業でも主要な産業でもなくマイナーな産業である[59]。
2002年以後はアフガニスタンとイラクでの戦争のために軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は2008年には4.3%に増大したが、アフガニスタンとイラクでの戦争終結後は軍縮をすると予想され、GDPに対する軍事費の比率は冷戦終結後の1990年〜2001年までの比率よりもさらに減少すると予測されている。
第二次世界大戦後から2009年現在にいたるまで、アメリカ合衆国の経済を構成する産業の多様化と、政府の行政サービスの多様化の結果、GDPと連邦政府支出に対する軍事費の比率と、経済に対する軍需産業の比率は、単年度や数年間の増減はあっても、第二次世界大戦時をピークとして長期的には減少傾向が継続し、今後も継続すると予想されている。
ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2007年の世界の総軍事費に対して、アメリカ合衆国の軍事費は45%を占め[60]、世界最大の軍事力大国・軍事費大国・軍需産業大国・武器輸出大国である。
アメリカは経済、政治、軍事において膨大な影響力を保持しており、その外交方針は世界的な関心を集める。国際連合本部はニューヨークに置かれ、国連における議決機関安全保障理事会の常任理事国として強い権限を握る。他に主な加盟機関として、北大西洋条約機構、太平洋共同体、米州機構があり、主要国首脳会議構成国でもある。親密な関係を有する国としてはイギリスやオーストラリア、ニュージーランド、イスラエル、日本、韓国、中華民国(台湾)、およびNATO加盟国があり、中でもイギリスとは「特別な関係」と呼ばれる強固な絆で結ばれ、軍事上や核兵器の情報、技術共有も行われている。
米西戦争以前は、モンロー主義に代表されるような孤立主義政策だったが、米西戦争以後は、後発帝国主義国として外国への軍事介入や傀儡政権を樹立して間接支配する外交政策を繰り返した。20世紀初期から第二次世界大戦までの期間に、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、メキシコに軍事介入し、メキシコ以外の前記の諸国に傀儡政権を樹立した。
第二次世界大戦後は戦勝国となった上に国土に殆ど被害を受けなかったこともあり、大戦後に起きた冷戦において、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営に対抗する、日本やイギリスなどの資本主義陣営の事実上の盟主的存在として、「自由と民主主義の保護」の名の下、朝鮮戦争やベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。冷戦中は「反共」またはアメリカ合衆国の外交に協力的という理由で、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ベネズエラ、韓国、フィリピン、南ベトナム、カンボジア、イラン、イラク、ザイールなどの各国に傀儡政権を樹立または軍政や王政やその他の独裁政権を支援した。アメリカ合衆国が樹立し間接支配していた傀儡政権は、革命や民主化運動により崩壊が続き、1990年のチリのピノチェト大統領の辞職を最後に全て崩壊した。
中東においては、1947年のパレスチナ分割決議と1948年のイスラエル建国以後、ユダヤ系アメリカ人やイスラエル系ロビイストの影響力からイスラエルの戦争や武力行使による民間人殺傷や占領を正当化または黙認し、中東のイスラム文化圏の国民から反米感情をもたれるようになった。
1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊後は、唯一の『超大国』となり、強大な軍事力を背景にパナマ侵攻やソマリア内戦、イラク戦争など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵し、その当事国となった。1979年のイスラム革命後のイラン、1991年の湾岸戦争後のイラクなどの中東のイスラム系国家を対立視することが多いことから、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。
一般に、テロ支援国家と言えばアメリカ国務省により発表されている「Patterns of Global Terrorism」に記されているイラン、シリア、スーダンを指す。その他には大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国や朝鮮民主主義人民共和国がかつてテロ支援国家に指定されていたが、リビアは2006年に、北朝鮮は2008年にそれぞれ指定を解除された。
実はアメリカ自身も積極的にテロリストを支援している国家と言われる。アメリカによるテロ支援は、主にアメリカ中央情報局(CIA)により秘密裏に実施されていると言われ、実際にCIAによりテロ活動の教育を受けたと言う報告もある。冷戦時代のアメリカはラオス、アフガニスタン、キューバ、ニカラグアなどで主に反共闘争を行う軍事組織に対しての直接的または間接的な支援を実施していた。特にニカラグア内戦でのコントラ支援は有名であり、1986年にイラン・コントラ事件のスキャンダルが発覚した。また、皮肉にも1980年代にアフガニスタン紛争にて合衆国のCIAがアフガニスタンに侵攻したソビエト連邦との戦いを支援していたムジャーヒディーンの一人が、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件を実行したテロ組織アルカーイダの司令官、ウサーマ・ビン・ラーディンであった。
冷戦終結後もアメリカの経済的な利益を目的としてフィリピン、パナマ、ハイチ、ベネズエラ、イランなどで、反米政権に対するクーデターの支援などが行われたという説がある。クーデターではないが旧東欧圏の「色の革命」には米国が積極的に関与したと言われる。
いわゆる「黒船来航」で始まった日米関係は日本が鎖国から脱する端緒ともなった。明治維新を経た日本は生糸の輸出を中心に米国との経済関係を深めたが、20世紀に入ると黄禍論の高まりや中国大陸での権益を巡って日米関係は次第に冷え込み、最終的に太平洋戦争で総力戦を戦った。日本の敗戦後、米ソ冷戦を背景に日米同盟が結ばれ、政治・経済・軍事・文化など多方面で主に米国主導の密接な関係を築いている。
1797年(寛政9年)にオランダ東インド会社とバタヴィアで傭船契約を結んだアメリカの船の多くは、セイラムから日本に向けて出航した。そして、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、日米貿易は1808年(文化6年)まで続いた。ただし、その日米貿易は日本とオランダ商館との関係に配慮した特殊なものであった。アメリカ船が長崎に入港する際は、1795年に滅亡したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国旗を掲げてオランダ船を装うよう、すでに雇い主を失っていたオランダ商館から要請された。日本に向けられたアメリカ船は次の通り[61]。
19世紀に日本で明治維新を起こすきっかけの一つとなった、1854年2月のアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督率いる「黒船」の来航を経て、同年3月に日米和親条約を締結し正式な国交を樹立した。その後1859年6月に日米修好通商条約を結んだことにより、両国間の本格的な通商関係も開始された。 1871年(明治4年)12月から翌年7月まで特命全権大使・「岩倉使節団」が、アメリカ大陸を「ユニオン・パシフィック鉄道」、「ペンシルバニア鉄道」を使って横断している。その主なルートはサンフランシスコ港-サクラメント-ソルトレイク・シティ-シカゴ-ワシントン-フィラデルフィア-ニューヨーク-ボストン港であり、当時の様子が、「米欧回覧実記」に克明に記されている[62]。(一部イラスト有)。
その後20世紀に入り、日露戦争の後の1905年9月に行われたポーツマス条約締結時の仲介などを経て、両国間においての貿易、投資や人事的交流が急増するなどその関係を深める。第一次世界大戦時には、イギリスなどとともに連合国同士としてドイツに対して共に戦った。
しかしその後アメリカでは、急速にその存在感を増す日本に対しての、黄色人種に対する人種差別的感情を元にした警戒感が強まった。1930年代に行われた日本の中国大陸進出政策に対するフランクリン・D・ルーズヴェルト政権による反発や、第二次世界大戦勃発後の1940年6月にフランスのヴィシー政権がドイツと休戦したことに伴い、日本軍が仏領インドシナに進出したことに対して不快感を示し、同政権が対日禁輸政策を取るなどその関係は急速に冷え込んだ。アメリカ国務省のスタンリー・クール・ホーンベックは日中が泥沼の戦いを続ける事がアメリカの利益だと述べている[63]。
アメリカもフィリピンを武力で植民地化していたが、日本に対して中国大陸に保有する全ての権益放棄と最終的な撤兵を要求するハル・ノートによって両国関係は修復不能になり、1941年12月7日に日本海軍により行われたハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃、いわゆる「真珠湾攻撃」以降、日米両国は枢軸国と連合国に別かれ敵対関係になり、太平洋戦争において戦火を交えることになった。
1945年8月の日本の連合国に対する敗戦に伴い連合国の主要な占領国として参加し、1951年9月に交わされたサンフランシスコ講和条約の発効までの間、イギリスやフランスなどの連合国とともに日本の占領統治を行った。
以降2国間で日米安全保障条約を締結して旧ソ連や中華人民共和国などの軍事的脅威に対して共同歩調をとり続けるなど、友好的な関係を築いている。日本にとって、アメリカは安全保障条約を正式に結んでいる唯一の国でもある(アジアには集団安全保障体制が存在せず、中華民国や大韓民国などの中華人民共和国と北朝鮮を除く各国が個別に、アメリカと安全保障条約関係を締結している)。
冷戦が終結した現在も日米関係は国際政治や経済活動において米国の強い主導化のもとに、両国間の貿易や投資活動はその規模の大きさから両国経済だけでなく世界経済に大きな影響力を持つ。2006年10月に発生した北朝鮮の核実験における対応や、同国による日本人拉致事件でもある程度共同歩調をとっているが、アメリカの北朝鮮への援助が北朝鮮の核保有後も繰り返されている。2007年7月30日、アメリカ合衆国議会は、日本政府によって慰安婦にされたとする者への謝罪や歴史的責任などを要求するとしたアメリカ合衆国下院121号決議を出している。日本は韓国や中国に対する賠償問題は全て解決済みとの立場であり、応じていない。
ジャーナリストの手嶋龍一は麻生太郎元首相との対談の中で、ブッシュ政権が日本の常任理事国入りを可能にする案を提示しなかったため、事実上これによって日本の常任理事国入りは潰されたと述べた[64]。一方で国際問題評論家の古森義久は、アメリカは日本一国だけの常任理事国入りを支持していたが日本に加えドイツ、ブラジル、インドも常任理事国入りするG4案は安保理全体の大幅拡大が前提となるため、これに否定的なアメリカが反対したのは明白だったはずで、この小泉内閣の誤算がアメリカの支援を失ったと指摘している[65]。
福田康夫総理大臣はアメリカ政府から、サブプライム住宅ローン危機による資金不足に対応するため、日本がアメリカのために100兆円規模の資金を拠出するように要求されていたが、理不尽な要求として拒否した[66]。
米軍海兵隊のグアム移転経費の日本側負担額について、アメリカは2006年に合意した28億ドルの1.5倍にあたる42億ドルを要求[67]。また、アメリカが負担することで合意していた米軍関連施設の一部の建設費約820億円を日本が負担するよう要求している[68]。
移転経費について日本側は、移転する海兵隊が8千人から4千人に半減することから難色を示していたが、2012年4月に両政府は条件付きながら28億ドルとすることで合意した[69]。
2012年9月5日、2030年代に原発ゼロを目指す政府方針を説明した藤崎一郎駐米大使に対し、エネルギー省のポネマン副長官は「日本の主権を尊重する」としながらも「くれぐれも外圧と取られないように注意してほしい。この協議は極めて機密性の高いものだ」と発言。翌6日にはアメリカ国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官が藤崎大使に対し、「エネルギー政策をどのように変えるかは、日本の主権的な判断の問題だ」としながらも「プルトニウムの蓄積は、国際安全保障のリスクにつながる」と強い懸念を表明するなど、アメリカ側は原発ゼロ政策の閣議決定回避へ圧力を強めた。19日、政府は原発ゼロ政策の閣議決定を見送った[70]。日本共産党はアメリカの日本の原発政策に対する各種言動を内政干渉と強く批判している[71]。
日米安全保障体制の下で日本が自主外交に消極的であったことや、冷戦時代にアメリカが起こしたベトナム戦争や、存在しないイラクの大量破壊兵器保有を理由に開戦したイラク戦争などにおいて、嘉手納基地や横田基地などの日本国内のアメリカ軍基地が出撃基地として利用されてきたこと、日本国内のアメリカ軍基地周辺において在日アメリカ軍兵士による日本人女性に対するレイプや強盗、殺人事件が多発しているが、日米地位協定により日本側に被疑者の身柄の拘束を最初に行うことが拒否されるケースがあることなどから、日米関係に対する批判も存在する。現在、地位協定の改善に向けて協議が進んでいる。外務事務次官・駐米大使を歴任した村田良平はアメリカの日本に対する在日米軍負担要求について、米軍の沖縄駐留はすべてアメリカ側都合で決定したものであるため筋違いであると述べている[72]。
アメリカ合衆国は本土の48州と、飛び州のアラスカとハワイの2州、連邦直属の首都ワシントンD.C.から構成される。さらに、海外領土としてプエルトリコ、アメリカ領サモア、グアム、ヴァージン諸島などがある。
国土面積は、およそ930〜960万 km2とされ、日本(37.8万 km2)の約25倍の規模である。統計によって数値に揺らぎがあるのは、おおむね五大湖水域の処理の仕方に起因するものである。その他の大国と比較すると、ロシア、カナダに次ぐ面積であり、中華人民共和国とは拮抗している。すなわち世界で第3位もしくは第4位の面積を有するということになる。
本土は北アメリカ大陸の中央部と北西にあり、東側は大西洋、南側をメキシコ湾とメキシコ合衆国、西側を太平洋、そして北側をカナダで囲まれる。北側に隣接するカナダとは、北緯49度線、五大湖とセントローレンス川で国境線が引かれ、カナダを挟んで北西にさらに進むと飛び地としてアラスカがある。南側はリオグランデ川を介してメキシコと接する。大陸の東側に南北にアパラチア山脈、大陸の西寄りには南北にロッキー山脈があり、山岳地帯となっている。アパラチア山脈とロッキー山脈の間は大平原になっており、農業や牧畜業が盛んである。大陸の南東端にはフロリダ半島がある。北西部のカナダとの国境地域には五大湖と呼ばれる湖がある。
アパラチア山脈の東側はニューヨーク、ワシントンD.C.、ボストンなどの都市があり人口集中地帯になっている。ロッキー山脈の西側の太平洋沿岸にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどの大都市がある。五大湖沿岸にはシカゴやデトロイトなどの大都市があるが、大陸の中西部には大都市が比較的少ない。
アメリカの気候は広い国土のために極めて多様である。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。ほぼ全域が亜寒帯に属し、北極圏には寒帯のツンドラ気候が分布するが、南岸部は暖流の影響で西岸海洋性気候も見られる。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。本土では、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、冬は寒いが、夏はかなり暑い。東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダとの国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部で最も降雪量が多いが、日本の日本海側と比べるとかなり少ない。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコ国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。
自然災害には、メキシコ湾岸の集中豪雨、メキシコ湾岸と大西洋岸南部のハリケーン、中央部の平原に多い竜巻、カリフォルニア州の地震、南カリフォルニアの夏の終わりのスモッグと山火事、五大湖や東海岸の大雪などがある。
アメリカ中西部〜南部からメキシコ湾沿岸にかけての地域は、北極からの寒気を遮る山脈が無いため、緯度のわりに猛烈な冷え込みを記録することがあり、普段は温暖なフロリダ半島北部やメキシコ湾沿岸地域でも氷点下まで下がることも珍しくない。
アメリカ合衆国では、在来種だけで約17,000種の植物が確認されており、カリフォルニア州だけで5,000種の植物が現存する。 世界で最も高い木(セコイア)、最も大きな木(セコイアデンドロン)、最も古い木(ブリッスルコーンマツ)は同州に存在する[73]。動物界では400種以上の哺乳類、700種以上の鳥類、500種以上の爬虫両生類、90,000種以上の昆虫が確認されている[74]。
ベーリング海峡でユーラシア大陸と、パナマ地峡で南アメリカ大陸とつながっているため、旧北区と新熱帯区とは同じ種や近縁の種を共有している。ロッキー山脈は低地の生物にとって遺伝子流動の障害となっており、ロッキー山脈の東と西では異なる種の動植物が分布する。熱帯から北極圏にまたがる国土のため、アメリカは多様な動植物相を持つ。ハワイ諸島とカリフォルニア州は世界的な生物多様性のホットスポットである。しかし、約6,500種の外来種が作為的あるいは非作為的に持ち込まれて帰化しており[75]、少数の侵略的外来種が固有の動植物の生存を脅かし、甚大な経済的被害をもたらしている。
アメリカにおける動植物の保護の歴史は長い。1872年にイエローストーン国立公園が世界初の国立公園に制定されて以来、連邦政府は57の国立公園とその他の国有地を保護してきた[76]。一部の地域では、人の影響を受けていない環境を長期的に保存するために保護区としての原生地域が指定されている。連邦政府は国土の28.8%にあたる総面積1,020,779マイル(2,643,807 km²)を保護しており[77]、大部分は国立公園や国定森林として保護されているが、一部は原油や天然ガス、その他の鉱産資源の採掘や牛の放牧のために賃貸されている。1973年には固有の動植物と生息地を保護するために絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律が制定された。この法律に従って絶滅危惧種と絶滅危機種の現状を観察し、種の存続に不可欠な生息地を保護する機関が魚類野生生物局(The U.S. Fish and Wildlife Service)である。個々の州も独自に種と生態系の保全を行っており、連邦と州の協力を促す制度も存在する。魚類野生生物局や国立公園局、森林局などを統括する内務長官は大統領に任命されるため、生態系の保全も行政の他の部門と同じく政権の優先事項に大きく左右される。
2007年現在、アメリカ合衆国の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量は中華人民共和国に次いで世界第2位である[78]が、国民一人あたりの排出量は依然として世界第1位である。
アメリカ合衆国は、50の州(state、Commonwealth)、1の地区(district)で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在では50州を持つ。星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。
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大きな経済規模を持ち、その技術開発力と生産力、消費力で世界経済を引っ張る存在である反面、アメリカ文化が資本主義社会の基本である「大量生産・大量消費」の側面を強く持っており、他の先進国と比べても1人当たりの資源消費量が格段に大きいこともあり、「地球環境問題や健康問題の深刻化をもたらした」などと批判されることも多い。アメリカの環境問題と環境状況と環境政策と歴史についてはアメリカの環境と環境政策を参照。
自動車や航空機、コンピュータなど主な工業品の生産、販売数で長年世界一を保っており、その消費量の多さのため世界中の企業が進出している。これらの企業が上場するニューヨーク証券取引所は世界最大の取引高を誇っている。その為世界経済に与える影響力は非常に大きいものがある。アメリカの経済問題と経済状況と経済政策と歴史についてはアメリカの経済と経済政策を参照。
アメリカ合衆国の軍需産業・軍需経済・軍事政策の関連性と歴史と国の経済に対する比率や影響力についてはアメリカの軍需経済と軍事政策を参照。
1981年に大統領となったレーガンは、インフレの抑制、減税による投資促進、規制緩和の促進などにより、経済の供給サイドの強化を図る「レーガノミックス」を行った。インフレ抑制は前政権から続いていたマネーサプライに照準を合わせた金融政策により成果をあげたものの、国防費の増大と大幅減税により財政収支が悪化、そして高金利からドルレートが上昇し、経常収支の赤字が拡大した(双子の赤字)。金融が緩和する過程で株価は上昇をはじめM&Aがブームとなったが、ブラックマンデーにより株高経済は一旦調整した。
1990年代は、日本の経済が長期低迷に陥り、「失われた10年」と呼ばれたのとは対照的に、アメリカ経済は非常に良好なパフォーマンスを示すようになり、「ニューエコノミー」と呼ばれた。低インフレと高成長を両立し、労働生産性も上昇したことから、アメリカ経済は新たな局面に入った、と言われた。1991年3月の景気の谷の後、2001年3月まで10年にわたって景気拡大を続け、世界経済の牽引役となった。
2000年代の初期に入ると、ITバブルの崩壊によって、好調だったアメリカ経済は減速する。2001年9月11日には同時多発テロが発生し、アメリカ経済の減速に拍車をかけた。1980年代から続いている資産膨張を背景にした消費増大はアメリカ経済の根幹となり2007年夏頃まで安定した成長を続けていたが、サブプライムローン問題を発端に、不動産価格の下落から深刻な世界金融危機が起きている。アメリカ国内の経済も深刻な打撃を受けており、2009年にはゼネラルモーターズが経営破綻し、失業率が10パーセントを記録するなど依然厳しい経済状況が続いている。
人種・民族 (2013年) | |
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人種別:[79] | |
白人 | 77.7% |
アフリカ系 | 13.2% |
アジア系 | 5.3% |
アメリカ先住民・アラスカ先住民 | 1.2% |
ハワイ先住民・太平洋諸島系 | 0.2% |
混血 (2人種以上) | 2.4% |
民族別:[79] | |
ヒスパニック・ラティーノ (人種不問) | 17.1% |
非ヒスパニック・ラティーノ (人種不問) | 82.9% |
アメリカ合衆国は元々先住民族であるネイティブ・アメリカンが住んでいた土地に、16世紀からはヨーロッパからの植民者が、17〜19世紀には奴隷貿易によりアフリカからの黒人奴隷が、19世紀からはアジアからの移民が入って来て、さらに人種間で混血が起ったため、「人種のるつぼ」と呼ばれてきたが、実際には異人種が融け合って生活する社会が形成されるよりも、「ゲットー」と称されるアフリカ系アメリカ人居住地域やチャイナタウンが代表するように、むしろ人種による住み分けが起きていることから、近年ではアメリカ合衆国を色々な野菜が入ったサラダに例えて「人種のサラダボウル」と呼ぶことが多くなった。
こうした中で人種差別問題、特にヘイトクライムと呼ばれる人種差別主義者による凶悪犯罪が頻繁に発生し、大きな社会問題となっている他、南部や中西部を中心にKKKなどの人種差別的な団体が未だ半ば公然と活動している地域も存在する。アフリカ系の死刑執行率がヨーロッパ系に比べて極端に高いなど、裁判制度の不公平性も問題となっている。
現在も合法違法を問わず移民が多いことに加え、アメリカの合計特殊出生率は2.0〜2.1前後で横ばいに推移しており非常に安定している。2005年度の合計特殊出生率は2.05と先進国の中ではトップクラスである(移民層の出生率が2.71と高いが、アメリカ合衆国で生まれた女性の出生率も1.98、白人女性に限っても1.85と先進国の中では高い[81])。以上のことから、人口は自然増、社会増双方の要因により増加し続けている。2006年には総人口が3億人を超えたと公式に発表された。
世界でも有数の多民族国家である。2010年の人口統計によると、白人(ヨーロッパ系、北アフリカ系、中東系、中央アジア系、ラテン系)72.4%(2億2355万人)、サハラ以南のアフリカ系(黒人)12.6%(3892万人)、アジア系(東アジア、東南アジア、南アジア系)4.8%(1467万人)、アメリカン・インディアン0.9%(293万人)、太平洋地域の先住民系0.2%(54万人)、2つ以上の人種を祖先とする国民(Multiracial American)2.9%(900万人)、その他6.2%(1910万人)である。
アメリカは英語圏であるためにイギリス系が多いと思われがちだが一番多いのはドイツ系(17.1%)でその次は、アイルランド系(12.1%)、3番目にイングランド系(9.0%)となっている。スコットランド系やウェールズ系なども含めた、イギリス系アメリカ人は13.0%を数え、ドイツ系、アイルランド系、イギリス系で全人口の4割以上を占めている。歴代大統領にはイギリス系以外にアイルランド系やドイツ系とオランダ系とギリシャ系が就任しており、そして2009年時点の現職はアフリカ系である[82]。
また、以前のヒスパニック系は14.5%(4190万人)だったが、2007年のアメリカの国勢調査による人口統計学では、新たに中南米諸国から移住したヒスパニックが18.5%(4527万人)と増加傾向にあり、アフリカ系と減少傾向にあるドイツ系を超える人口構成となっている。
アメリカ合衆国には法で定められた公用語はないが、建国の歴史から英語(アメリカ英語)が事実上の国語となっている。2003年には、約2億1500万人(5歳以上の全国民の82%)が家庭で英語のみを使用している[83]。 英語を母語としない国民でもたいていは英語を日常的に使用している。高齢者を除き、基本的な英語の知識は市民権取得の必須条件である。長年にわたる先住民の同化政策の結果、先住民の言語を話せる人口は非常に少なくなっており、十分な保護政策も取られておらず、多くが消滅の危機に瀕している。
アメリカ人の中には英語を連邦の正式な公用語とすることを希望する者が多く、現在30州が英語を公用語に指定している[84]。ニューメキシコ、ルイジアナ、メイン、ハワイの4州では行政上英語以外の言語が事実上の第二言語とされている。ハワイ州では州憲法によりハワイ語と英語が公用語とされており、ルイジアナ州とメイン州ではフランス語が行政上の第二言語である。合衆国加入当時からスペイン(メキシコ)系住民の多いニューメキシコ州は常にスペイン語を非公式な第二公用語としてきた [85][86][87]。
スペイン語の話者は英語についで多く、特にカリフォルニア州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、テキサス州などメキシコと隣接する地域やニューヨークやシカゴなどの大都市では日常的に用いられており、国内でもっとも学習者の多い外国語でもある[88][89]。 近年増加傾向にある中南米スペイン語諸国からの移民であるヒスパニックには、英語を不自由なく喋ることのできない者も多いため、銀行のATMやスーパーマーケットのセルフレジなどではスペイン語が選択できるようになっているものも多い。2008年のセンサス[90]による人口予測では、2050年にはヒスパニックの人口は1億3300万人となり、全人口の3割に達する見込みであるなど、米国においてスペイン語は政治的、経済的、文化的にも非常に大きな影響力を持つものと思われる。実際、ヒスパニック人口の多い州では既にスペイン語抜きにはビジネスが成り立たなくなっているなど、事実上の第二公用語となっている。
英語以外の言語を州の公用語として認めるかどうかは、単に文化的問題に留まらず州の公文書をその言語で作成する必要があるかどうかという財政的側面があり、選挙でしばしば取り上げられる問題である
宗教 | 人口割合 (%) | |
---|---|---|
キリスト教 | 70.6 | |
プロテスタント | 46.5 | |
福音主義 | 25.4 | |
メインライン・プロテスタント | 14.7 | |
黒人教会 | 6.5 | |
カトリック教会 | 20.8 | |
モルモン教 | 1.6 | |
エホバの証人 | 0.8 | |
正教会 | 0.5 | |
その他キリスト教 | 0.4 | |
非キリスト教の宗教 | 5.9 | |
ユダヤ教 | 1.9 | |
イスラム教 | 0.9 | |
仏教 | 0.7 | |
ヒンドゥー教 | 0.7 | |
その他非キリスト教の宗教 | 1.8 | |
無宗教 | 22.8 | |
特になし | 15.8 | |
不可知論 | 4.0 | |
無神論 | 3.1 | |
無回答 | 0.6 | |
合計 | 100 |
プロテスタント58%、カトリック21%、など(2003年現在)。キリスト教信仰者の比率は、1990年調査時の86.2%から2003年調査時の79%へと年々減少傾向にある。2001年の宗教分布は、プロテスタント 52%、カトリック 24.5%、ユダヤ教 1.3%、その他、イスラム教、仏教、不可知論、無神論、ヒンドゥー教、ユニテリアン (Unitarian Universalist) がそれぞれ0.5%から0.3%である。無宗教は13.2%。
福音派は全人口の4分の1ぐらい[92]。
アメリカ合衆国の現代キリスト教も参照。
米国憲法修正条項第1条は国教の制定を禁じている。しかし、大統領就任式の際に聖書を手に宣誓を行うなど(これまでの大統領が全てキリスト教徒だったからであるが)、米国社会ではキリスト教、特にプロテスタントの存在が非常に大きい。宗教的な理由から進化論を否定する者が多く、「公立校で進化論を教えるなら創造科学も合わせて教えるべき」とするキリスト教系宗教団体が州の教育委員会を相手取り論争を起こした例が数件ある。
ギャラップ調査2007年5月の調査によると、アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。
アメリカの教育の特徴は、個人の尊重とプラグマティズムである。
合衆国の犯罪発生率は、地域、州によって大きく異なる。例えば、凶暴犯罪(殺人、強姦、強盗、加重暴行)の2002年時点の発生件数をみると、人口10万人あたりの合衆国平均は495人だが、州ごとの分布はノースダコタ州の78人から、コロンビア特別区の1633人まで、20倍以上のばらつきがある。日本やイギリス、ドイツなどの他の先進諸国と比べて、都市部、地方にかかわらず銃や麻薬による犯罪が蔓延しているイメージがあるが、統計的にこれは誤りである。
アメリカ合衆国憲法修正条項第2条により民間人も自衛のために銃の使用が許可されている国(ただし、この条項は民兵の武装を認めているだけで、ごく普通の一般市民の武装について言及しているわけではない、という学説もあることに留意)とはいえ、街中に銃砲店が普通にあり比較的簡単に銃を、そしてスーパーマーケットでも実弾が購入出来るという現実は「銃社会」を助長させている。
歴史的な経緯から全米ライフル協会(NRA)は強力な政治的発言力を持つ事実上の圧力団体であり、銃規制につながる立法を再三阻止している。過去数度に亘り何人もの大統領が銃によって暗殺されているほか、銃犯罪による死者の数が、2000年以降に限っても毎年年間10,000人を大きく超えるなど、世界でも例を見ない「銃犯罪大国」である。
成年者による銃犯罪だけでなく、中学校や高等学校において生徒が銃を乱射し死傷者を出す事件が毎年のように発生する事態を招いている。このため銃を購入できる年齢を18歳から21歳に引き上げたり、一部の学校では校舎に入る際に金属探知機による保安検査を行ったりしている。しかし、それでもコロンバイン高校銃乱射事件やバージニア工科大学銃乱射事件など学内における銃乱射事件は防ぎきれていない。幼い子供が家族の所有する、安全装置を解除された銃で遊んでいるうちに誤って自分や友人、家族を撃ち殺してしまう事故も後を絶たない。
ギャングの抗争による殺人事件や人種差別を元にした殺人事件も多く発生する他、外国人観光客や駐在員、留学生などが犯罪に巻き込まれ死亡するケースが毎年のように起きているなど、銃による脅威を受けるのは一時滞在の外国人も例外ではないため、観光客の誘致にも悪影響を与えている。
近年では家庭内における暴力的・性的な過激シーンを含む映画・漫画・ゲームなどが未成年の子供に悪影響を与えているとして規制しようという動きもある。2008年現在、同国は武器貿易条約を採択していない。
米国人の平均寿命は2011年では78.7歳であった[93]。人口一人あたりの保健支出、医薬品消費額はOECD各国中で一位であった[93]。
低所得者層を中心に、ファーストフードの過剰摂取や運動不足、栄養学の知識の欠如により肥満になっている国民が先進国の中で最も多く(2003-2004年度には未成年の17.1%が太り気味で、成年の32.2%が肥満という調査結果が出ている[94])。
また米国ではプエルトリコ自治連邦区を除いて、ユニバーサルヘルスケア制度が実現されていない[93](クリントン政権時代にヒラリー・クリントンによって提案されたが立ち消えになった)。国民の31.6%は公的保険、53.1%は民間保険に加入しているが[93]、近年は民間保険の保険料が高騰しているため、米国国勢調査局は2010年では499万人の市民(人口の16.3%)が保険未加入であると報告した。高額の保険料は米国の国際競争力にも悪影響を及ぼしている。しかし、オバマ大統領はユニバーサルヘルスケアを目指し、2010年に医療制度改革法案が賛成多数で可決された。これにより、アメリカの医療保険制度は歴史的転換点を迎えた[95]。
他の先進国と比べて、所得税、贈与税、相続税(遺産税)率の累進性やキャピタルゲインへの税率が低く、資産格差を拡大させている。等価可処分所得を基にしたジニ係数は0.372(2004年、ルクセンブルク所得研究所調べ)で、主要先進国中最高である[96]。
クレジットカード会社による入会審査の基準が緩く、しばしば大学生などを対象に強引な勧誘が行われていることもあり、クレジットカードを入手するのが非常に簡単である。その結果、恒常的にカードローンに依存するワーキングプアが増えている。逆に然るべき期間のカード利用歴(クレジット・ヒストリー、信用情報)がないと商取引で信用されず、いくら現金を持っていても住宅を購入する際などに融資を受けられないことがある。日本と異なり、100ドル札といった高額紙幣の信用が低いため、現金決済よりもクレジットカード決済が好まれる傾向がある。よって、信用が低い層は即時払いのデビットカードを持つことが多い。
高度な学歴社会であり、アメリカン・ドリームを達成できるごく少数の個人を除いて職業や収入、社会的地位は学歴に大きく依存する。自治体の教育関係の予算は学区の税収と予算案に対する住民投票によって決定され、質の高い教育を提供できる教師の確保にも影響するため、公立学校の教育レベルは学区により大きな違いがあり、公立学校で良好な初・中等教育を受けるためには、都市圏の教育に関心が高い裕福層が住む地区に居住する必要がある。私立学校の入学金・授業料は非常に高額で、入学には親の社会的地位や学歴、家柄、寄付金も選考要件となる。低所得層の子女が私立学校に通学できるように教育バウチャーを支給している自治体もあるが、その効果は激しく議論されている。このように、良好な教育を受ける機会は親の収入・資産に依存しており、所得・資産格差が学歴社会を通して次の世代の所得格差に受け継がれることになる。
第二次世界大戦以前より今日まで、世界を席巻する主要な大衆消費"文化"の母国としてより強く認識されている。大量に供給され短期間に消費される音楽、テレビ番組、ハリウッド映画などの娯楽、自動車、あるいはファストフードやコカ・コーラ等の食品、等々に代表される大量消費文化が、世界のどの国よりも支配的である。
すでに1830年代から、アメリカ合衆国は拝金主義的、物質主義的な風潮が蔓延している、と指摘されていた。例えば、アレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカ合衆国について、ヨーロッパ諸国と比較しつつ、この国(=アメリカ合衆国)ほど金銭欲が人々の心に大きな場所を占めている国は無い、と指摘した。アメリカ人が高等教育まで進む場合、「金になる特別の対象にしか向かわない。仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐ役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。」と、合衆国に拝金主義、物質主義が蔓延していることを指摘した。(De la démocratie, 1835[97])
エルマー・ライス(1892年 – 1967年)は、『The Left Bank』(1931年)において、米国の物質主義から逃避するために国外移住をはかる物語を描いた。
アーネスト・カレンバックは1975年に『エコトピア』を出版したが、この本は「アメリカ人の生活にある諸相の中でも消費者主義と物質主義に対する抗議」だったと評されている[98]。
アメリカ合衆国において1980年代以降、かつてないほどに低俗な商業主義(物質主義)が蔓延していることを、ジョン・カーペンターは1988年の映画『ゼイリブ』において戯画的に描いて批判した。
米国の物質主義、拝金主義、利己主義は、他国にも様々な悪影響を及ぼしている。 例えば、近年においては、国内において禁煙運動が進みタバコの消費量が減ったことから、アメリカのタバコ製造会社が、中南米や東欧諸国、中華人民共和国などの発展途上国を中心とした市場開拓を積極的に行っていることや、ナイキなどの大手衣類メーカーが製造コスト低減のために、同じく発展途上国において未成年の労働者を安価に大量に酷使していたことなどが大きな批判を浴びている。
米国の大衆消費文化、拝金主義、物質主義は、世界中の多くの国でしばしば「低俗」あるいは「画一的」として嫌悪されている。例えば、ウルグアイ文学の作家、ロドーは『アリエル』(1900)において、キャリバンによって象徴される物質主義的なアメリカ合衆国文明を批判し、アリエルによって象徴される精神主義的なラテンアメリカ文明を対置して描いてみせた。ロドーの「アリエル主義」は瞬く間にラテンアメリカの青年層の広い支持を集めた。
ただし、他国でも、やはり拝金主義や物質主義的な考え方に染まった者も多く、そういった論者は「米国の大量消費文化は、良くも悪くも経済活動と密接に繋がっているため、各国において消費意欲を喚起し、その結果アメリカ経済ひいては各国の経済を牽引する存在となっている」などと、もっぱら経済面・金銭面にだけ着目し、好意的な論調で語ることも多かった。ただし、2000年を過ぎ、サブプライムローン問題、リーマンショックなどによって米国流の資本主義、拝金主義がその内部に根本的な欺瞞や問題を抱えていたことが露見したり、それが他国民にも深刻な被害をもたらすことが明らかになって以降は、米国流の拝金主義・物質主義を手放しに好意的に扱う論調はかなり減った。
アメリカ合衆国は、冷戦終結以降急速に進んだグローバリゼーションをけん引した国としても知られている。このことに対する批判として、他国の持っていた独自の良いとされる文化や高いモラルをアメリカ型の資本主義システムが駆逐してしまった、それまで貧富の差が少なかった国に貧富の差が拡大した、文化面やテクノロジーの面などで画一化が進んだなどがある。
また、グローバル化の一種の到達点ともいえる環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の問題は、関係国に大きな波紋を呼んでいる。
先住民はしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。ポカホンタス、スクァント(Squanto)、マサソイト酋長、サカガウィアらはアメリカの建国神話に欠かせない存在である。初期の開拓者の男性たちは未知の土地で生存するためにしばしば先住民のサバイバルの知恵を身につけた。彼らの中には先住民の女性を妻とした者が少なくなく、結果として多くのアメリカ人が先住民の血を引いている。
アメリカの重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメは先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着アノラックやパーカは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食のペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。 ニューヨーク州立大学バッファロー校のドナルド・A・グリンド・ジュニア博士(Donald A. Grinde Jr.)をはじめとする歴史学者らは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。
先住民族はしばしばアメリカのロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、アメリカの地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークのタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。
しかし先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。1960年代に入り、公民権運動を通して人種差別に対する国民の意識が高まり、心霊主義や環境主義に対する関心が高まってようやく、先住民族の文化が再評価されるようになった。
アメリカの国民は先住民の他、世界各国からの移民とその子孫によって構成されているため、都市部では世界各国の料理やそれらをアメリカ風にアレンジしたものを気軽に楽しむことが可能である。イタリア料理や中華料理、メキシコ料理(テクス・メクス料理)などが非常にポピュラーなものとして日常的に楽しまれている他、1980年代以降は寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が都市部を中心に人気を博しており、日本料理のレストランで食すことができるだけでなく、スーパーマーケットなどで豆腐や醤油、麺類などの食材を調達することも可能である。
高度にマニュアル化されたファストフードチェーンにより提供されるハンバーガーやホットドッグ、タコスなどのファストフードや、冷凍食品などのインスタント食品が安価かつ手軽な事実上の「国民食」として広く食されているものの、脂肪分や塩分、糖分の多さなどから上記のように低所得者層を中心に肥満や心臓病などの原因となっており、これらのチェーン店の従業員の低賃金と合わせて深刻な社会問題となっている。
社会的、宗教的および心霊主義的な理由からベジタリアニズムを奨励する運動は19世紀から存在したが、1960年代に環境主義や東洋思想への関心が国内で高まるのと同時にベジタリアニズムへの関心もかつてない高まりを見せた。現在、1%から2.8%のアメリカ人が肉、家禽、魚を全く食べないと回答している[99][100][101][102]。普通米国でベジタリアンというと卵と乳製品は摂るオボ・ラクトベジタリアニズムを指すことが多いが、中には動物性の食品を一切摂らないヴィーガンもいる。ベジタリアンは西海岸と東海岸に比較的多く、中西部や南部には比較的少ない。ベジタリアンの人口は都市部に集中している。ベジタリアンが多い地域では、ベジタリアン向けの料理をメニューに明記しているレストランやベジタリアン料理専門のレストランも見られる。
アメリカ人の成人のベジタリアンを対象とした2002年のアンケート[103]によると、ベジタリアンになった最も大きな理由の内訳は「健康のため」が32%、「食肉に添加された化学物質やホルモンを避けたいから」が15%、「肉が嫌い」が13%、「動物が好きだから食べられない」が11%、「動物の権利のため」が10%、「宗教上の理由」が6%、「環境に配慮して」が4%、「減量のため」が3%、「世界の飢餓問題を解消するため」が1%だった。
近年、他の先進国と同じくアメリカ合衆国でも有機食品への関心が高まっている。アメリカ合衆国で生産される食料の約2%は有機農法に従って生産されている。アメリカ国内での過去10年間の有機食品の売り上げは年率20%の成長率を見せている。2005年の有機食品の総売上は128億ドルを計上した[104]。 有機農法を用いている農地の増加率はアメリカが世界一である[105]。
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植民地時代に於いては清教徒が多く入植したためピューリタニズムの伝統が強く、また建国に際してジョン・ロックの社会契約説などのヨーロッパの啓蒙思想が理論的背景となったため、哲学に於いてもこの両潮流の影響を強く受けている。独立運動時代の18世紀にはトマス・ペインの『コモン・センス』(1776年)や『人間の権利』(1791年)など自由主義的な社会思想が発達した。19世紀に於いてはラルフ・ワルド・エマーソンや隠遁者ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ウォルト・ホイットマンらの超越論哲学と、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズ、ジョン・デューイらのプラグマティズム哲学が主な潮流となり、特にウィリアム・ジェームズの純粋経験論は日本の西田幾多郎の初期西田哲学(『善の研究』)に大きな影響を与えている。
20世紀以降はアメリカ合衆国の世界的地位向上と共に多種多様な現代思想が発達したが、とりわけ20世紀後半には『正義論』(1971年)で社会契約を再び基礎づけたリベラル派のジョン・ロールズや、ロールズらリベラル派に対抗して共同体主義を唱えたコミュニタリアン派のアラスデア・マッキンタイアらがリベラル・コミュニタリアン論争を繰り広げた。その他にも、『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)でロールズの『正義論』を批判したロバート・ノージックらのリバタリアニズム(自由至上主義)の伝統もある。
様々な国から来た移民たちが持ち寄った楽器やリズムを組み合わせ発生した、古くはカントリー・ミュージックやジャズ、近年ではロックンロールやヒップホップなどの様々なジャンルの音楽の発祥地、本場として知られており、世界的に著名なアーティストを多数輩出している。これらの音楽と踊りを組み合わせたショーであるミュージカルの本場としても有名である。
これらの音楽を楽しむためにレコードやジュークボックス、ドルビーやiPodなどの様々な音響機器、技術を生み出している他、MTVやクラシックチャンネルなどの音楽専用ケーブルテレビチャンネルも生み出すなど、音楽とその関連業種は現在においても大きな外貨獲得元となっている。
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ウォルト・ディズニーが創始したウォルト・ディズニー・カンパニーによる長編アニメーション映画が世界的に有名で、過去には世界のアニメーターの多くに影響を与えた。他にも、米国製テレビアニメーションザ・シンプソンズやファミリー・ガイ、サウスパークは日本でもテレビ放映されている。
ケーブルテレビにアニメーション専用のチャンネルがあり、日本製アニメも頻繁に放映されている。特に1998年に放映が開始されたポケットモンスターは低年齢の子どもを中心として非常に人気が高く、社会的にも受け入れられている。ただしサスペンス要素の高いものは、テレビ放映前に差し替えられたりカットされたりしている。日本のアニメは若年層を中心にファンが多く、ファンがサブタイトルをつけた米国未発表の作品の海賊版もネット上に出回っている。最近では、アニメを通して日本文化に興味を持つ若者も出てきている。
アメリカ合衆国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件、自然遺産が12件、複合遺産が1件存在する。
アメリカ合衆国の祝祭日は、州によって異なる。下記は最も一般的な祝祭日を記載したものである。日本における祝祭日と比べると必ずしも全ての祝祭日が休日となるとは限らない傾向にある。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | 新しい年の始まりを祝う日 |
1月 第3月曜日 | マーティン・ルーサー・キング・ジュニアデー | Martin Luther King, Jr. Day | 公民権運動の指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの誕生日(1月15日) |
大統領選挙翌年の 1月20日 |
大統領就任式 | Inauguration Day | アメリカ合衆国大統領の就任式。4年に一度。ワシントンD.C.とメリーランド州およびバージニア州の一部の郡の連邦政府職員のうち大統領就任式に関係しない者は混雑(交通渋滞)を避けるために休日となる。1月20日が日曜日である場合は翌21日が休日となる。 |
2月 第3月曜日 | 大統領の誕生日 | President's Day | 昔の大統領、特にワシントンやリンカーンを称える日。公式名称は「ワシントンの誕生日 (Washington's Birthday)」(2月22日)。 |
5月 最終月曜日 | 戦没将兵追悼記念日 | Memorial Day | 戦死した軍人を追悼する日。伝統的に夏の始まりを示す。 |
7月4日 | 独立記念日 | Independence Day 慣用:"the 4th of July" |
連合13州による全会一致の宣言(通称アメリカ独立宣言)を採択した日 |
9月 第1月曜日 | レイバー・デー | Labor Day | 労働者の功績を称える日。伝統的に夏の終わりを示す。 |
10月 第2月曜日 | コロンブス・デー | Columbus Day | アメリカに「到達」したコロンブスを称える日。コロンブスがアメリカ大陸に到着した日(10月12日)にちなむ。 |
11月11日 | 復員軍人の日 | Veterans Day | アメリカのために働いた軍人を称える日。第一次世界大戦を終結させた休戦条約の締結記念日(休戦記念日)。 |
11月 第4木曜日 | 感謝祭 | Thanksgiving Day | 秋の収穫に感謝する日。伝統的に休暇シーズンの冬始まりを示す。 |
12月25日 | クリスマス | Christmas | 伝統的にイエス・キリストの誕生日とされている日。イエスの生誕を祝う日。冬期休暇の初日を祝う日でもある。 |
スポーツマンをアメリカ社会のメインストリーム(花形)と捉える国民性(ジョックも参照)もさることながら、多くの地域で学生スポーツにおいて季節ごとに行うスポーツを変えるシーズン制が定着していることなどから、国民が様々なスポーツに触れる機会が非常に多くなっており、アメリカ合衆国は世界最大のスポーツ大国となっている。娯楽産業に占めるスポーツ観戦の割合も高いため、複数の大規模なプロスポーツリーグが共存・繁栄している世界的にも稀な国である。アメリカ国内発祥のスポーツが大衆的人気を得ているのが特徴で、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、アイスホッケーは4大スポーツと呼ばれている。これら4大プロリーグは観客動員・収益共に莫大な数字であり、スター選手は高額の年俸を手にしている。日程上、常に少なくとも1つのリーグがオンシーズンになっているため、年間を通してスポーツ熱が高い。カレッジスポーツ(特にカレッジフットボールとカレッジバスケットボール)もプロリーグに勝るとも劣らない人気がある。近年はサッカーの人気が高まっており、特にFIFAワールドカップはアメリカンフットボール以外の4大スポーツをテレビ視聴者数で上回るなど、メジャースポーツに成長した[109]。
アメリカでは単にフットボールと呼称するのが一般的である。最も人気の高いスポーツであり[110][111]、今日では野球を凌ぐ「国民的娯楽」として認知されている[112]。プロリーグであるNFLは、レギュラーシーズンの1試合平均観客動員数が6万7000人を超えており[113]、世界のあらゆるプロスポーツリーグの中で最も収益が多い。リーグ優勝決定戦であるスーパーボウルはアメリカ最大のスポーツイベントであり、毎年テレビ番組の年間最高視聴率を記録している。大学リーグであるカレッジフットボールも非常に人気が高い。2012年のギャラップの世論調査によると、カレッジフットボールのファンと回答した者の割合は、プロ野球やプロバスケットボールを上回る[114]。アメリカ社会では、スポーツマンを主とした「人気者の男性」を総称するジョックの象徴たるスポーツである。
伝統的に「国民的娯楽」と称されており、1970年頃にアメリカンフットボールに一番人気スポーツの座を譲ったものの[115]、バスケットボールと共に高い人気を得ている競技である[111]。プロリーグとして最上位に位置するメジャーリーグベースボール(MLB)は、レギュラーシーズンの観客動員数が約7500万人であり[116]、世界のあらゆるプロスポーツリーグの中で最も多い。下部組織が発展しており、MLBの傘下にあるマイナーリーグ、更には約8つに分かれている独立リーグの2種類の野球リーグが存在する。近年はマイアミ・マーリンズのイチローやニューヨーク・ヤンキースの田中将大、かつてメジャーリーガーであった野茂英雄や松井秀喜など日本人選手の活躍も見受けられる。
プロリーグであるNBAは、1980年代にマジック・ジョンソンやラリー・バードなどの活躍もあり急速に人気が高まり、その後のマイケル・ジョーダンの時代に全盛期を迎えた。ジョーダンの引退後はやや停滞しているものの、三大スポーツの一角として高い人気を誇る[111]。大学スポーツであるカレッジバスケットボールもNBAに勝るとも劣らない人気がある。3月から開催されるNCAA男子バスケットボールトーナメントは全米中の注目を集め、いわゆる「3月の狂乱」(March Madness)と呼ばれている。
プロリーグであるNHLは、カナダやアメリカの一部の州では人気が高いものの、全米規模で他の3つのメジャー競技と比較した場合、人気の面で大きく劣るのが現状である[111]。NHLの選手に占めるアメリカ人の割合は2割程度と非常に低く、カナダ人や欧州出身者が大半を占める。リーグ優勝決定戦であるスタンレー・カップ・ファイナルの視聴率も2012年には最高3%台に留まっており、モータースポーツのNASCARやゴルフ、テニスの大会より低い水準である[117]。
サッカー不毛の地と揶揄されることもあるが、競技人口は2400万人を超えており、世界で2番目に多い国である[118]。2013年のESPNの調査によると、アメリカ人が好きなスポーツとしてアイスホッケーを上回り4位である[119]。特に若年層に人気があり、12歳から17歳を対象とした調査ではサッカー人気が野球に並んだという結果も出ている[120]。1994年にFIFAワールドカップを開催しており、大会史上最高の観客動員数を記録した。1996年からプロリーグであるメジャーリーグサッカー(MLS)を開始し、徐々に規模を拡大している。FIFAワールドカップの人気は非常に高いものがあり、アメリカ戦のテレビ視聴者数はワールドシリーズやNBAファイナルを大幅に上回ることもある[121]。女子サッカーは強豪国の一つであり、FIFA女子ワールドカップの優勝回数は史上最多タイの2回、FIFA女子ランキングでは長期的に首位を維持している。
オリンピックは歴史的に夏季と冬季のどちらも人気が高い。2012年のロンドンオリンピックは、NFLと共に最も視聴率の高いコンテンツであった[117]。プロレス(WWE)や総合格闘技(UFC・Strikeforce[122])、モータースポーツ(NASCARやインディカー)、ゴルフ、テニスなども人気が高い。反面、フォーミュラ1、ラリーなど、欧州を中心に世界の広い地域で人気の高いスポーツが大衆的人気を得ていないのが特徴である。ラグビーやクリケットといったイギリス発祥のチームスポーツは全般的にマイナースポーツの地位に甘んじている。競馬も非常に盛んでサラブレッドの生産頭数は世界一である。とくにケンタッキーダービーやブリーダーズカップ(BC)は有名である(詳しくはアメリカ合衆国の競馬を参照)。ハワイ州と西海岸を中心にサーフィンの人気も高い。特にカリフォルニアには良質の波がたつポイントも多く、多くのサーフィンインダストリーが点在している。
新聞は約1500紙が発行されている。一般的には地方紙が好まれるが、地方紙の地元記事以外の内容は大手新聞から購入したものが多い。全国紙としてはUSAトゥデイ(227万部)、ウォール・ストリート・ジャーナル(206万部)が部数競争をおこなっている。影響力の大きい新聞としてはニューヨーク・タイムズ(112万部)、ワシントン・ポスト(69万部)、ウォール・ストリート・ジャーナルの3紙があげられる。1985年の総発行部数は約6000万部、2006年が5000万部である。人口1000人当たりの普及率は約270部で、これは先進国では最低レベルである。
ABC、NBC、CBSの三大ネットワークはそれぞれニュース制作に特化した子会社を有し、プライムタイムに放送されるニュース番組に非常に力を入れている。現在は視聴率の高い順にNBCナイトリー・ニュース、ABCワールド・ニュース、CBSイブニング・ニュースとなっている。60ミニッツなどの報道特集番組も人気がある。
この節の加筆が望まれています。 |
軍や軍需産業による先端技術開発への投資が活発な他、大学などの研究機関が行う各種研究に対しての企業による寄付なども盛んに行われていることから、先端技術や種々の学問においては世界的に見て1、2を争うものが多い。
第二次世界大戦前後、ユダヤ人であるためナチスに迫害を受けた(アルベルト・アインシュタインなど)、あるいは祖国が戦火で荒廃した(フォン・ブラウン等)などの理由でヨーロッパの科学者や技術者が多くアメリカに移住したため、戦後はアメリカがヨーロッパに取って代わり世界の先端的な科学技術や学問の中心になった面もある。
アメリカの大衆・大量消費文化や、先端的な医療、軍事、航空宇宙、情報・通信(IT)などのテクノロジーは、保有する基礎科学・応用科学の力に支えられて実現しているものであり、現代の科学技術文明を牽引する主要な国家であることは特筆すべきことであろう。
アメリカはメートル条約に加盟しているが、自然科学の分野以外ではヤード・ポンド法が広く用いられている。ヤード・ポンド法を現在も使用している国はリベリア、ミャンマーとアメリカだけである。ジェラルド・フォード政権下の1975年にメートル法移行法(Metric Conversion Act)が可決されたが、ロナルド・レーガン政権が発足すると移行政策は頓挫した。市販される商品のパッケージなどには、ヤード・ポンド法とメートル法の並記が普通に行われている。航空分野などのアメリカが強い力を持つ産業分野では、国際的にもヤード・ポンド法を用いて計量することが多い。
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