出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2017/06/18 22:49:45」(JST)
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年8月) |
蹄鉄(ていてつ)は、主に馬の蹄(ひづめ)を保護するために装着される、U字型の保護具である。
蹄の破損を防止し、摩耗を防ぐために用いられる。野生の馬と異なり、家畜の馬は蹄が弱くて摩耗してしまう(詳しくは後述)。そこで、これを避けるために蹄鉄が考案された。同様の理由で、ロバや役牛用の蹄鉄もあった(牛蹄鉄)。
はじめに蹄鉄が西洋の文献に現れるのは、4 世紀にギリシア人によってもたらされてからで、様々な品種の馬、および様々な用途のために改良が加えられ、素材も様々なものが使用された。
鉄、アルミニウム、ゴム、プラスチック、牛皮、またはそれらを組み合わせた素材で作られる。一般的な素材は鉄だが、競馬においては軽量なアルミニウム合金が用いられている [1]。その他、マグネシウムやチタンあるいは銅が使われることもある。
初期の蹄鉄には滑り止めとしてカルキンス(calkins)と呼ばれる出っ張りがあった。これは今でもチームペニング(team penning)といった競技用馬の蹄鉄において見受けられる。
なお、西洋の一部では、魔除けとされたり、家のドアや部屋に飾ると幸運をもたらすと信じられている。また、この形を馬蹄形といい、形を表現する語として使われる。代表例として、馬蹄磁石や米国ペンシルベニア州の著名な鉄道史跡「ホースシューカーブ」がある。
馬の家畜化と利用が始まったころから、馬の蹄を保護する馬具が必要とされる様々な要因が存在した。
蹄鉄に関しては年来、生理学的な視点から検討されてきた。野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄鉄など必要としないことが分かっている。しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
装蹄の起源については不明な点が多く、いまだに結論は出ていない。ローマ時代、馬の持ち主は、蹄の上に革製のブーツを履かせて紐で縛り付けていた。
中世には金属製の蹄鉄が現れるが、これにはフン族が持ち込んだとする説のほか、ケルト起源説などがありはっきりしない。歴史家の中には中世になってはじめて金属製の蹄鉄が現れたとするものもいるが、ドイツのノイポツ(英語版)近くのローマ時代の遺構から金属製の蹄鉄が見つかっており、それは294年のものだという[2]。
いずれの場合にせよ金属製の蹄鉄が一般的に利用されるようになったのは、中世以降のことである。
日本では古くから馬沓という藁製の馬蹄保護具が用いられていた。戦国時代に蹄鉄が九州の一部で使われたという記述があるが、元々、日本在来種の馬は蹄が固く、蹄鉄が無くても走行にさほど問題が出なかったため、普及しなかった[3]。また、徳川吉宗はアラビア種の馬を輸入し品種改良を試み、1733年(享保18年)には馬術教練士官と装蹄師が来日している。しかし、在来の和種馬はつめが強く、また既に戦場で駆け回ることもなかったため、この時も蹄鉄は普及しなかった[4]。
西洋式の金属製蹄鉄が組織的に使われるようになったのは明治以降のことである[5]。蹄鉄技術は各国から日本に導入されたが、中でも陸軍は1873年(明治6年)にフランスから装蹄教官を招き、のち1890年(明治23年)にはドイツ人教官を招聘して蹄鉄技術の導入と定着に大きな役割を果たした。明治時代を通じて蹄鉄は全国に広まったが、農山村部に普及したのは大正期である。1890年(明治23年)に蹄鉄工免許規則が制定され、蹄鉄工は国家資格とされた。蹄鉄工の養成は獣医学校や農学校付属の蹄鉄専科で行われ、1年間で卒業して免状を授与された。
蹄鉄の技術は軍隊に欠かせないものであったが、日清・日露戦争で日本陸軍は蹄鉄工の不足に苦しんだ。日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸軍は蹄鉄工を重視していた。役場の兵事係は、蹄鉄技術を持つ民間人を事前に登録、動員時には優先的に召集令状を送って蹄鉄工の確保に努めた。蹄鉄工は軍隊では優遇された存在で、准士官である特務曹長待遇の蹄鉄工長まで昇進できた。蹄鉄工長は獣医学校で短期間学び、獣医になる道も用意されていた。
太平洋戦争敗戦後、GHQの指示で獣医師会が廃止、再編されることになり、1948年(昭和23年)、日本装蹄師会も獣医師会と同時に解散した。代わりに日本装蹄協会が創立され、日本装蹄師会に改称され現在に至っている。1970年(昭和45年)には装蹄師法が廃止され、装蹄師が国家資格でなくなったことから、認定装蹄師の制度が発足した。認定資格は、2級、1級、指導級の3段階とされ、運営は同会が行っている。現在では、栃木県宇都宮市のJRA競走馬総合研究所敷地内に日本装蹄師会・装蹄教育センターが設置され、そこで全寮制1年間の装蹄師養成教育が行われている。養成人員は16名である。
扉に蹄鉄をぶら下げると魔除けになると信じられている文化圏があり、多くの国では幸運のお守りとも見なされている。一般的な迷信として蹄鉄の鉄尾(末端部分)が扉に留められていれば、幸運が舞い込むというものがある。しかし、両端が下に向いていると不運が舞い込むともいう。このあたりは文化圏によって異なり、2つの鉄尾が下を向いていれば幸運が舞い込むというものもある。むろん、蹄鉄が普及しなかった国ではこういった風習は見られない。ただし、日本でも自動車のフロントグリルに蹄鉄を模したアクセサリーを付けることが流行った時期がある。さらにそれは、馬は人間を踏まないということから、交通安全のお守りとして蹄鉄を自動車に付けたという説がある。
蹄鉄による幸運も悪運も、それを掛けた人ではなく、その所有者に降りかかると信じられている地域もある。従って盗んだり、借りたりした蹄鉄からはどんな幸運も得ることは出来ないといわれている。ある地域では蹄鉄は人目に付くように留められておかないと何の効果もないといわれている。
このような風習の起源は諸説ある。ケルト人がダーナ神族を鉄器と騎馬で打ち倒した事から、邪鬼などの異界の住人は鉄を嫌うという伝承が起こり、本来の民話や伝説が持つ意味は忘れ去られ、ただ幸運をもたらすという風習だけが残ったという説。後にカンタベリー大司教となった鍛冶屋の聖ダンステンが 悪魔から馬の蹄鉄を修理するよう頼まれた際、悪魔の足に蹄鉄を打ち付け、痛がる悪魔に、扉に蹄鉄が留められているときは絶対中に入らないという約束を取り付けようやく蹄鉄を取り外してやったことから悪魔除けとされた説。女性器の象徴を家の外壁に飾ることで悪魔の目をそらせ家への侵入を防ぐという風習が古くからあり、馬蹄が女性器を象徴したためこの悪魔除けの力が幸運のシンボルとなったという説。蹄鉄に打つ鋲の数が7(ラッキーセブン)だったためという説などがある。
世界各地に蹄鉄を投げて遊ぶ風習がある。米国ではホースシューズという人気スポーツになっており、愛好者が自宅に競技場を作る例も見られる。
蹄鉄が外れて落ちてしまうことを落鉄という。競馬の競走では、競走前に落鉄が判明した場合、蹄鉄の打ち直しを行うことができるが、発馬時間が延長される原因の一つとなる。
馬が暴れるなどした際は打ち直しができず、そのまま出走させることもあるが、現在の競馬では基本的に蹄鉄を履いていない競走馬の出走は認められていない。
ウィキメディア・コモンズには、蹄鉄に関連するカテゴリがあります。 |
全文を閲覧するには購読必要です。 To read the full text you will need to subscribe.
リンク元 | 「horseshoe」 |
関連記事 | 「鉄」 |
[mg] | 成人男性 | 成人女性 |
総鉄量 | 4050 | 2750 |
ヘモグロビン | 2700 | 2000 |
貯蔵鉄 | 1000 | 450 |
組織の機能蛋白 | 350 | 300 |
血清トランスフェリン | 3 | 3 |
血清フェリチン | 0.3 | 0.1 |
.