出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2012/09/17 22:20:21」(JST)
ウィクショナリーに現実の項目があります。 |
現実(英: Reality, Actuality)は、いま目の前に事実として現れているもののこと。対語は虚構(フィクション)ないし理想。
あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。
現実とは区別されるものは、夢や想像、観念、虚構(現実を装った虚偽ではない)など、思い描かれたり、仮定されたり、似せて作られたもの、擬えて作られたりするものなどである。
目次
|
西欧由来の概念としての現実は、RealityとActualityとに分かれる。対応するRealityはラテン語のres(もの、実在)に遡り「名目nominalでないもの」という語義に関係し、Actualityはagere(行う、動かす)に遡り「為されたもの、活動している、働いている、動かされている」という語義に関係する。現実はまず、行為や経験が意味を為す、結果・効果を有する領域の全体であるともいえる。
漢語としての現実は、見ることに由来して迫真性、臨在性、現前性を意味する「現」と充実性、真正性を意味する「実」から構成される。ここで視覚に対して主体が受動的でしかない点、この漢語としての現実の概念の特徴がよく表現されている。この点で、主体によって能動的に発見され、覆いを取られるべきものという含意をもつ「真実aletheia」とは異なる。
いわゆる仮想現実においては、「上位」あるいは「より基底的」とされた現実に対しては、「下位」あるいは「派生的」なシミュレートされた現実は虚構の側面を有することになる。[1]これに対し、バーチャルリアリティ virtual realityという場合の現実は、機能面だけを実現したvirtual companyがあるように、少なくともその本質や効果においては実物と同等の、実質的な現実をあらわす。
個々の主体によって主観的に経験される現象は、幻想や錯誤や虚構の可能性があるため、ある種の普遍性や必然性をもつ現実とはイコールではない。とはいえ、もしこのようなそれ自体は常識的な立場を推し進めれば、ある現象を現実として認めるための根拠として、主観的な経験が役に立たないということになってしまい、一定の困難が生じる(たとえば荘子の「胡蝶の夢」)。また、根を同じくする問題として、「同じ現実を人々が共有している」ことをいかにして保証するかが懐疑主義的な議論においては問題となる(その根拠付けとしてのたとえばカントの超越論的主観性や物自体)。
そこで現象を現実として規定する主観としての理性や悟性、あるいは複数の人々の経験的現象の一致や、経験的現象それ自体の整合性や性質など、いくつかの基準が提案されてきた。とはいえ、この場合「同一の現実を共有している」とはどのような事態を意味するのか、ということにおいても、意見の一致が見られるわけではない。現実が主観的な経験によって定義されないとすれば、自己の経験している主観的な現実や、それについての言語的な報告の一致によっては、現実の共有を定義なり保障なりすることは難しいからである。
虚構(フィクション)は、現実ではないものとして「表現された」ものである。
したがって虚構は、本質的に、「つくられたもの」という派生性、二次性を持つ。また同時に、そうであるからには、そこからつくりだされるべき源泉、「模倣・ミメーシス」のもとが必要であり、これが現実である。ここからは基底的な現実に対しての虚構に派生性、二次性がもたらされる。この点、現実であることを装っている「虚偽」とは異なる。
虚構とともに現実と対比される理想は、現実であるべきものとされた虚構であるといっていい。それは原則的にはいまだ現実化していないことと、これから現実化しうるはずのことという二つの条件を持つ。派生性な虚構とは異なり、理想は、克服すべき矛盾と捉えられた現実に対する実践を主体に課す。そのため理想の実現に対する障害としての現実が強調される。外的な制約条件である現実は、行為する主体に対する外的な干渉と抵抗という側面に着目した概念でもある。この点、客観的な対象化を前提しており主体を除外した「事実」とは異なる。
フィクションとしての虚構は、現実でない という共通点を有しつつも、しかし反実仮想とは区別することもできる。反実仮想にあっては、その固有名は現実世界に存在する対象を有している。これに対してフィクション上の固有名(たとえばシャーロック・ホームズ)は、現実世界にその対象を有してはおらず、いかなる可能世界においてもその対象を有していない。その意味では、フィクション上の固有名は不可能性をもつ。
言語(あるいは象徴記号)は、事態を、その現実のコンテキストから切り出すことによって独立に対象化するものである。たとえば、書かれた言葉は、オリジナルなコンテキストの下でただ一度だけ語られる言葉とは異なり、別のコンスキストの下でも繰り返して引用されうる。このような言語、あるいは象徴記号の働きを前提として虚構が成立する。(非言語的なものからなるように見える虚構も、言語、少なくとも象徴化の作用が介在して初めて、虚構として成り立つ。)
現実のコンテキストから切り出されることによって対象化された言語的・記号的存在は、別のコンテキストにおいても同一のものとして見出される可能性を獲得する。すなわち、言語的な存在は、再認および反復の可能性をもつ。この可能性は、記号が指示対象を十全に指定しない、言い換えれば情報を切り捨てることによって成り立つものであることに根拠を持つ。
しかし、まさにその特質によって、象徴記号、あるいは言語は、その表現の対象を、現実に成立しうるものだけに限定することができない。まさしく言語化・象徴化それ自身の効果として、記号それ自身、あるいは、文法の内部には、複数の記号の組み合わせが、「現実的」なものかどうかを判断する基準や、制約も、そもそも、その前提となる情報も欠けているからである。(そのためしばしば、このような自由度を持たない、虚偽・虚構を表現できない、理想的な人工言語が西欧においては構想されてきた)
ほかには、普遍の実在性とこれに伴う同一性の問題がある(普遍論争)。たとえば、ある人の犯した罪を他の人が負うものとしたとする。常識的な立場では、他人はその当人とは現実には同一でない以上、このような主張は虚構にすぎない。このような立場は唯名論に属する。これに対して、人間という普遍概念の実在性を肯定する立場では、ある人が全ての人間と同一である限り、その人の犯した罪を他の全ての人が現実に負うことになる。このような立場は実在論に属する。
現実は実践的な行為の対象である点、「もの」という由来と結びついている。たとえば加工に抵抗する素材の硬さなどの困難が、現実という概念の原型なのである。さらに現実に対する抵抗への試みと限界・挫折は、主体の実践に対する外的な制約条件としての現実の輪郭をあらわにする。このようなとき、理想は、たとえ論理的には不可能でなくても、現実的な可能性を欠いたものとして、挫折した主体によって判断される。そのため理想主義に対して現実主義というとき、妥協的な態度が意味される。この点でも、現実は不可能性と深く結びついている。
そもそも、ルーティンで整合的な日常としての現実が制度として機能していることがまず前提にあるとき、客観性・条理は現実の側に属し、個々人の体験はそれだけでは主観的・偶然的な現象にすぎない。しかし他方で、そうしたものを破壊したり、そこに侵入したりする、外部的な、偶然的で出来事的な逸脱や暴力的アクシデントによって、そうした制度(ノモス)的な現実を支える、非制度的な自然(ピュシス)性が驚きを伴って、日常とは異なった「現実」として自覚される。
すなわち、この場合、「経験」は「二次的構築物としてのフィクションとしての制度」によって「覆われ」ており、この「あるべきはずの制度として派生的に構築された現実=ある種のフィクション」に対しては、そのような制度の外部にその基底としてあるものが「二次的構築物としての経験に対比された意味での基底的な現実」としてたち現れるのである。このようなとき、「現実」とされていたものは実際には非現実の側に、「非現実」とされていたものは現実の側に属していたことになる。またこのような見方を取るとき、現実は、不条理なものとしての側面を露呈することになる。
両者の意味は実際の用法においては非常に対比的であり、現に経験されている物事の可能性の限界をどこに見積もるかということにかかわる。経験的に把握される起こりうる現象の限界、あるいは現実と非現実との境界を人為的で可変的、かつ二次的なものと見れば、その領域の外こそが「現実」であるが、自然的で絶対的、不変で一次的なものとみなせば、その領域の外は「非現実」そのものである。
現実という概念は元来、現世と来世の対立、および現在と過去や未来という対立、そして夢・虚構と現実との対立という、どれも歴史的には宗教的な含意をもっていた対立項に由来すると考えることができる。東洋に於いてはしかし、この「現に」という意味要素が、思想的に着目され、練り上げられることはほとんどなかった。
仏教においては、一切の作られたものとしての現実存在に自己同一的な本質が欠けていることが、諸行無常として説かれており、現実と現象・仮象との対立が否定され、すべてが関係性のなかにおける現象であると規定されたため、仏教的な思惟においては、そうした純粋な関係性である縁起や空が逆説的な意味で現実にあたるものであるが、それは否定的に規定されたものであるので、現実性が固有の考察の対象にはならなかった。他方で、ままならない現実という側面は、苦や無我(非我)という概念でカバーされる。
中国哲学においては、一般に唯名論的傾向が強く、現象から現実は区別されない。むしろ現象と現実との区別は宗教的領域の問題であった。ことに老荘的な思想にあっては、相対的な個別の認識をこえた万物斉同というものが提出されるのであるが、この場合、個別の主観を超えた現実性というものが想定されているわけではなく、それらの認識の間の相対性が強調された。ただし、朱子学にあっては知識の完成のためには実事求是、現実の世界の対象にあたらなければならない、というテーゼが存在し、主体と現実との対立関係が意識されているといえる。
ギリシア哲学においては、プラトンはこの現象世界を真の実在であるイデア界の影として規定した。すなわち、ちょうど現実と虚構との関係のように、経験される現象世界は、実在する世界であるイデア界の下位の現実であると理解されていことになる。このように、かれは現象世界をすでに派生性をもつ虚構と見ていたため、詩などの虚構作品を、虚構の虚構、コピーのコピーとして高く評価しなかった。
アリストテレスは可能態(潜勢) dynamisと現実に活動している現実態(現勢) energeiaという様相的区別を考えた上、最高度に現実的であるものは純粋な現実態である神であるとしている。また個物における第一実体と普遍者としての第二実体を区別している。
この区別は、現実存在(existentia)と本質存在(essentia)との区別として継承されていくこととなり、中世哲学においては、普遍論争での唯名論(nominalism)と実念論(realism)との対立として現れている。類的概念の実在性を肯定する実念論では、アダムの犯した罪を全ての人間が負うという原罪の問題は解決される。これに対して唯名論では、類的概念の実在性は否定された。この立場は、のちにイギリス経験論などに継承されていくことになる。
ライプニッツは、各モナドの観点から見た異なった世界は、じつは唯一の現実世界の反映に他ならないとしている。これに対しヴォルテールは、現実世界は可能世界のうちの最善の世界であるとする楽天主義を唱えるパングロス博士を創作して(カンディード)、ライプニッツを揶揄している。
ドイツ観念論においては、唯名論を継承したイギリス経験論に対して、イマヌエル・カントは、さまざまな認識によって異なったように構成されうる現象の背後に要請される物自体という概念を考えた。また判断表においては様相判断としての実然性(現実性)を蓋然性(可能性)と区別した上、様相判断は対象の概念にはなにものも加えず、現実的な100ターレルと可能的な100ターレルとは概念内容は同一ではあるが、ただし我々に対しては異なった意味を有するとした(純粋理性批判)。
このようなカントの議論に対して、ヘーゲルは、カントが現実性と必然とを様態としたことを批判した上、偶然性にすぎない可能性とは対置されるところの、現実性としてのイデアを示すものとして、アリストテレスの現実態 energeiaの思想を評価している。また「現実的なものは理性的であり理性的なものは現実的である」という言葉を残しており、理念は抽象にすぎないsollenにとどまって現実的でないほど無力なものではないとして、理念と現実とを切り離す思想を退けた。この立場においては偶然的でしかない存在(現象)は、現存在existenzをもってはいるが、現実Wirklichkeitの名には価しないものとされる(小論理学)。
これに対し、後期シェリングの「実存哲学existenzial philosophie」を批判的に継承したキルケゴールでは、むしろ「現実的なものは個別的であり個別的なものは現実的である」と捉えられ、本質存在に対する現実存在(実存 existenz)の優位が説かれる。神の前に立つ単独者としての実存における絶望の克服を信仰に見出したキルケゴールに対し、神の死を宣言したニーチェが、能動的なニヒリズム(虚無主義)の思想を展開した。この無神論的な実存主義の系譜でのちにハイデッガーが現実存在(実存)という概念を提案し、これがサルトルなどの実存主義を生み出した。そこでは「自由の刑に処せられている」人間が、自分自身を未来に向って投げ出していく自由な実存として捉えられている。
精神分析の分野では、まずフロイトが現実原則(自我)を考えた。この現実原則はいったん不快を選択することで延期された快楽を迂回して獲得しようとするものであり、即時の快楽の充足を求める快感原則(エス)とともに、無活動を求める恒常原則から導かれる。その後、ジャック・ラカンが、象徴界(シンボルの世界)と想像界(イメージの世界)の概念を提案した上、言語や、空間的な秩序だった認識の世界にとりこまれることに抵抗する、外界の削減できない余剰として、現実界(現実的なるもの)という概念を提案した。可能世界論においては、現実世界とは多くの可能世界のなかで私が存在する世界であるとする可能主義(ルイス)と、可能世界とは現実世界でのわれわれが想像した世界であるという現実主義(クリプキ)との対立がある。
リンク元 | 「実際」「本物」「本当」「reality」「現実性」 |
拡張検索 | 「現実感消失」「自己愛的現実神経症」「現実感喪失」「現実的」 |
.