出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/01/27 21:47:19」(JST)
必然性(ひつぜんせい、Necessity)とは、そうなることが確実であって、それ以外ではありえない、ということである[1]。
論理的必然性、因果的必然性、道徳的必然性などがある。
日常的には「必然性の無いストーリー」などのように使う。
(哲学的に言うと)様相概念のひとつで、可能性(ありうること)、現実性(現にそうであること)と並ぶ。そして、偶然性(たまたまそうであること)と対立すると見なされている[2][1]。
論理的必然性とは、それ以外であることが論理的に矛盾であることである[1]。
大陸合理論哲学においては、ユークリッド幾何学など[3]の数学的な諸命題が論理的必然と見なされ、こうした数学を規範として形而上学を構築しようとした。
様相論理との関係では、「〜は必然的である」ことを示すは必然性演算子と呼ばれ、「〜は可能である」ことを示す可能性演算子()に対する。
たとえば「真であることが必然的である」とは「偽であること(真でないこと)が可能ではない」と同等となり、「真であることが可能である」は「偽であることが必然的ではない」と同等となる[要出典]。あるいは「〜は必然的である(〜でなければならない)」とは「〜は唯一可能である(〜だけがありえる)」と同等となる。
可能世界論では、全ての可能世界で真であるような命題は必然的な命題といわれる[要出典]。
論理的必然性は上述のようなものであるのだが、因果的必然性というのは、原因-結果の間の必然的な関係である[1]。石は陽の光があたれば暖かくなるが、だが石は暖まりはしないとしても論理的には矛盾があるわけではない。だが、論理的矛盾が起きるわけでもないのに、陽光は石を暖める。これが因果的必然性である。
ライプニッツは、命題の中でもこのような因果的必然性を示す命題を「総合命題」と分類した[1]。
デイヴィッド・ヒュームは因果的必然性と見なされたものに懐疑の眼を向けた。ヒュームは、原因-結果の関係があると見なされていることは、2つの事象が一定の順序で繰り返し起きることを、ある者が観察することによって、その者に生じる 単なる主観的な印象であり、よって「因果的必然性」と呼ばれているものは、蓋然性にすぎない、とした[1]。
18世紀には、ラプラスなどが、全ての出来事のあり方は一意だとする因果的決定論を主張し、こうした見方が広まったが、これは20世紀に物理学の領域で量子力学の発展とともに否定された。
一意性は否定される場合は、確率に何らかの傾向があったり定まっていても決定論には分類しないのが一般的であるが、これを確率が定まっている場合は「確率的決定論」と呼ぶことが無いわけではない。
因果的必然性は「自然必然性」と呼ばれることもある[1]。
道徳的必然性とは、あることが善であるがゆえにそれが遂行されることである。
存在(あること)そのものが必然的であるとすれば神は「絶対的必然性」とされ、それ以外が「相対的必然性」、とされることがある[1]。
ひとりひとりの人が自己の《内的なあり方》(良心・理念など)に従う、という意味での必然性は「内的必然性」と呼ばれることがあるが、これはしばしば「自由」そのものである、とされる[1]。
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