出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2016/08/31 04:39:06」(JST)
行政行為(ぎょうせいこうい)
行政行為(ぎょうせいこうい)とは、行政庁が、行政目的を実現するために法律によって認められた権能に基づいて、一方的に国民の権利義務その他の法律的地位を具体的に決定する行為。[1]。合意に基づくことなく、国民の権利義務に直接的・観念的影響を与える。
自己の名で行政行為を行う行政機関を行政庁という。行政庁は行政行為の法的責任を負う。ある行政行為について誰が行政庁となるかは個別的に判断される。その行政行為をする権限を行政機関に与える旨の法令の規定に明示されている場合もあれば、その法令の解釈によって定まる場合もある。行政庁の例としては各省庁の大臣・長官、地方公共団体の首長、各種の委員会などがある。なお、行政機関と同義で行政庁という用語を用いることも多い。後述の各最高裁判例には、「行政庁の処分」は行政庁の法令に基づく行為の全てを意味するわけではないとする部分があるが、ここでいう「行政庁」は行政機関の意味である。
行政行為(ドイツ語:Verwaltungsakt)の概念は「行政行為の父」と呼ばれるドイツの行政法学者オットー・マイヤーが確立した。かつての日本の行政法学は行政行為論を中心に展開した[1]。
行政行為定義は様々だが、上記のような「行政庁が一方的に特定の国民の具体的な権利義務を決定する」という要素を含む。まれに行政行為を行政処分という場合もあるが、通常「処分」とは行政事件訴訟法などの争訟法上で用いられる概念である。しかし両者はほぼ重なる概念でもある。
最高裁判所は「行政庁の処分」(行政事件訴訟特例法1条〈現在の行政事件訴訟法3条2項〉)を、「行政庁の処分とは行政庁の法令に基づく行為のすべてを意味するものではなく、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成しまたはその範囲を確定することが法律上認められているもの」と定義している(最高裁判決昭和39年10月29日民集18巻8号1809頁)。また、この判決が先例として引用している最高裁判決(最高裁昭和30年2月24日判決民集9巻2号217頁)では、公権力の主体たる国(日本国中央政府)又は公共団体が行う行為のうち、その行為によって、直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものを「行政庁の処分」と定義していると考えられる。
前述のように行政行為は「行政庁が一方的に特定の国民の具体的な権利義務を決定する」必要がある。
「一方的」とは行政庁が国民との合意なしに取り決めることを意味する。そのため、行政契約・合同行為は行政行為に含まれない。
行政行為は「具体的」に決定する必要がある。そのため、行政立法(政令・省令・規則・条例など)は、直接国民の権利義務を変動させるものではない(例えば「ウィキペディア日本語版における荒らし行為の規制に関する文部科学省令」で「著作物を、著作権法32条所定の要件を充たさないのに公衆送信可能化する行為を連続する24時間のうちに3回以上行った者は、1年以下の懲役に処する」との規定を置いても、所定の行為を行った者が直ちに刑務所に収容されるわけではない。同人に刑務所に収容される義務を負わせるには、刑事訴訟法所定の手続を経た裁判所の有罪判決が必要である。)から、やはり行政行為ではない。[2]。
そして、特定人の「権利義務」に法的効果を及ぼさない行為も行政行為ではない。例えば、行政計画や諮問機関の答申などは国民の権利義務に変動をもたらさない内部行為であり、行政行為ではない。行政指導も国民への任意的協力要請であるため行政行為ではない。
行政行為という概念は、もともと、私人間の法律関係を規律する行為形式が契約であるのに対応させて、行政と国民との間の法律関係を規律する行為形式として構想されたものである。
行政の行為の中には、公益を実現するため相手方の反対を無視してでも実施でき、その正当性がとりあえず確保されなければならないものがある。公共の安全を確保するため私人の自由な経済活動に一定の制約を課す、いわゆる規制行政はその典型例である。この種の行政の行為を正当化しつつ、法律による規律を加えようとして構想されたのが、行政行為という概念である。
このような経緯から、行政行為には、公定力・不可争力・自力執行力といった効力が当然に内在すると説かれてきた。しかし、現在の日本では、これらの効力は、行政事件訴訟法や個々の授権法規(行政行為をする権限を行政機関に与える法令)の解釈として導かれるにすぎないという見解がむしろ多数を占めている。
伝統的通説によれば、行政行為は、その法的効果や内容に従って以下のように分類される。もっともこの分類については批判が多く、法律行為的行政行為であるか準法律行為的行政行為であるかという分類と、命令的行為であるか形成的行為であるかという分類は別の次元に属する分類基準であるとする見解も有力である。そうした立場からは、例えば準法律行為的行政行為であるがその効果が許可としての性質を持つものなどが存在し得ると主張される。
行政行為は法律行為的行政行為と準法律行為的行政行為に大別される。
行政行為の附款(ふかん)とは、行政行為の効果を制限し、または義務を課すために付加される行政庁の意思表示のことをいう。附款は、行政行為を行う際により細かな状況の考慮を可能にするものであり、原則として法律行為的行政行為にのみ附することができる。これら附款は、法令によって附款を附することが可能であると明示されていたり、裁量が与えられている場合に限って付することができるが、裁量権の認められない羈束行為への附款は認められず、目的達成に関係のない附款(法律目的適合性への違反)や目的達成のために必要な最小限度を超える制限や義務を課す附款(比例原則への違反)は違法となる。通常、附款を付けるかどうかは行政庁の自由だが、法令によって行政行為の効果が制限される場合もある。これを法定附款という。以下では通常の附款について説明する。
附款には、条件、期限、負担、撤回権の留保、法律効果の一部除外、がある。附款には以上のような種類があるが、法令上はこうした区別をせずに「条件」という言葉だけを使っている場合も多い。
行政行為の公定力とは、行政行為が不当行為であっても重大かつ明白な瑕疵がなければ、権限ある国家機関(行政庁・裁判所)が取り消さない限り、一応有効なものとして公定される効力のこと。法論理的な効力であるので実定法上にはない効力である。
第二次世界大戦以前、公定力の理論的根拠は国家・君主の権威に求められた。オットー・マイヤーは公定力に関して、権限ある行政庁が適法なものとして国家権力を発動する行政行為は、裁判所判決と同様に権威を有し適法性が推定される(自己確認説)と主張した。日本の行政法学者美濃部達吉も行政庁の権威・権力を公定力の根拠としている[3]。
戦後の司法国家体制では、行政に司法と同様の権威を持つことが否定された。現在では、公定力を認める実質的根拠は、行政法秩序を安定させ国民の信頼を保護する点にあるとされる。すなわち、本来、違法な契約は無効であり(民法90条)、契約の効力に疑いを持つ当事者は有効とする裁判があるまでは契約を強制されない。しかし、仮に個々の国民が行政行為の有効性を勝手に判断して行動すると、行政行為に従わない者も現れ、行政の実効性と信頼性が損なわれる。そのため行政行為の有効性は行政庁・裁判所という専門機関にその判断を委ね、行政行為に公定力といわれる効力が認められた。
日本では現行法に公定力を明示する規定はない。しかし、違法な行政行為の取消し手続きとして行政不服申立・取消訴訟の制度が存在し、出訴・申立期間を制限している(取消訴訟の排他的管轄)。このことを反対解釈すれば、行政行為の有効性は取消訴訟(又は行政上の不服申立て)以外の手段によっては争うことができない。そのため取消訴訟が提起されて取消判決が確定するまでは、行政行為の当事者や第三者・裁判所も行政行為の有効性を争うことができず、その行政行為は事実上有効なものとして通用する。
なお、公定力という効力がいかにして認められるかについてかつては、行政行為ならば当然に公定力がある、すなわち公定力は行政行為に内在する効力であると説かれていた。現在では有効性の推定とされ、上記のように取消訴訟の排他的管轄によって説明する立場が通説化した。
自力執行力(執行力)とは、行政行為の相手方がその行政行為によって課された義務を任意に履行しないときに、行政庁が行政行為自体(または法令)を法的根拠(債務名義)として義務を強制的に執行できる(行政上の強制執行)効力のこと。
かつては、この自力執行力も行政行為に当然内在する効力と説かれた。しかし、現在の日本では、自力執行力は行政代執行法・国税徴収法などの法令によって初めて認められるものであり、行政行為であるというだけで当然に認められる効力ではないという見解が支配的である[4]。
自力執行力が認められる行政行為は、取消訴訟が提起されて判決が確定するまでは、強制執行できると解されているが(行政事件訴訟法25条1項参照)、これを上述の公定力の効果として説明する見解がある。他方、これは公定力の問題ではなく違法性不承継原則が適用される一場面にすぎないとする見解もある。
なお、行政行為については、仮処分をすることができず(同法44条)、執行停止(しっこうていし)のみが可能である。これは、取消訴訟の提起があった場合、裁判所が申立てにより、処分の効力、処分の執行・手続の全部又は一部の停止を決定するというものであるが(同法25条2項本文)、内閣総理大臣の異議があったときはすることができない(同法27条4項・1項)。この異議の制度は、司法の判断を行政が不可争的に覆すことを認める制度であり三権分立に反するという違憲論もある。判例(東京地裁昭和44年9月26日判決行集20巻8=9合併号1141頁。なお、東京地裁昭和42年6月10日決定行集18巻5=6合併号737頁参照)は合憲説を採用している。
不可争力は、一定の期間(出訴期間)内に行政事件訴訟法による取消訴訟・行政不服審査法などの訴訟の提起や不服申立てをしなければ、行政行為の取消しを争訟によって争えなくなる効力のこと。
出訴期間を過ぎても取消しの原因となる行政行為の瑕疵が消滅したわけではない。つまり私人の側からは行政行為の効力を争えなくなったというだけであって、行政庁などが職権によって取消すことは依然として可能である。
不可変更力とは、行政上の不服申立てに対する決定・紛争を裁断する行政行為(裁決など)について職権取消しが制限されること。明文の規定はない学説上の効力[5]。法律上の争訟を裁判することを本質とする裁決(行政行為)は他の一般的な行政行為とは異なり裁決をした行政庁自ら取り消すことはできないと判示した最高裁判決がある[6]。
不可変更力が認められる行政行為を確認行為と呼ぶ学説もある。不可変更力が認められる趣旨は、裁決を信じた私人の信頼を守り、国民の権利の救済をはかる審査請求制度を実質のあるものにすることである。
法律上の争訟に対する裁判という本質をもつ行政行為(裁決)について、職権取消しを制限する不可変更力のみならず、行政行為の内容に法的拘束力を与え、これを実質的確定力と呼称する学説もある[7]。
拘束力とは、行政行為が外形的に存在すると、当事者(行政行為の相手方など関係人、行政庁自身)がその行政行為の法律効果に拘束される効力。
「瑕疵#行政行為の瑕疵」も参照。
行政行為は、全ての側面において法律・公益に適合していなければならない。しかし、中には内容・手続などに法律・公益に反する欠陥を抱えた行政行為もある。この欠陥のことを瑕疵といい、そうした行政行為のことを瑕疵ある行政行為という。
瑕疵ある行政行為は取消しの対象となるが、瑕疵の種類によってその方法が限定される。
瑕疵ある行政行為には、違法な行政行為と不当な行政行為がある。
たとえ瑕疵ある行政行為であっても、実質的にその瑕疵を無視することが可能で、無視する方が都合がいいという場合もある。それが瑕疵の治癒や違法行為の転換といった場面である。
段階的に複数の行政行為が行われ、先行する行政行為が後行する行政行為の前提となっている事がある。このような構造になっている場面で、先行行為に瑕疵があった場合、先行行為の瑕疵が後行行為の瑕疵の有無に効果を与えることがある。
ただし、先行行為の瑕疵の程度が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合、瑕疵が存在していたとしても、公定力により、先行行為は取り消されない限り有効なものとして扱われる。そして先行行為の不服申し立て手段の出訴期間が過ぎれば、先行行為の効力には不可争力が発生する。このように先行行為が有効なものとして扱われる時に後行行為の瑕疵の有無を争う場合、先行行為の瑕疵を理由として後行行為の瑕疵を主張する、つまり、先行行為の違法性を後行行為に承継させて主張することが、先行行為が有効にも関らず許されるかは問題となる。先行行為の瑕疵が「取消しうべき瑕疵」に留まる場合に発生するこの問題を一般に「違法性の承継」の問題と呼ぶ。
違法性の承継が認められるかについて、原則論としては、先行行為の瑕疵は後行行為に影響を与えないものとされる。一方で、先行行為と後行行為が連続した一連の手続であること、どちらも一定の法律効果の発生を目指していること、手続的保障などを理由として、違法性の承継を認めた判例も存在する。
なお、先行行為の瑕疵の程度が「重大かつ明白」であった場合は、先行行為は当然に無効となる。そして、前提となる先行行為が無効となったことにより、後行行為は前提を欠くことになるため、後行行為も当然に瑕疵を帯びる。したがって、いわゆる「違法性の承継」の問題にはならない。
上述してきたように、瑕疵ある行政行為は取消しの対象である。この取消し、特に職権取消しと似て非なる概念に撤回がある。
撤回とは、瑕疵なく成立した行政行為を後発的事情の変化で将来に向かって消滅させること。違法でも不当でもない行政行為も、時間とともに実状と合わなくなり、その効果を維持することが公益上好ましいものではなくなることがある。そうした場合に行政行為の効果を失わせる。
撤回も職権による取消しも行政行為を行った行政庁が行う。しかし、取消しは成立時の瑕疵を理由に成立当初に遡って行政行為の効果を消滅させる(もっとも撤回だから常に将来に向かって効果を消滅させるとは限らない)。
職権取消しは法律による規定がない。しかし瑕疵を是正して適法・妥当な状態を回復する措置だから法律の根拠は必要ないと考えられている。他方、撤回される行政行為の根拠となった法律が撤回の場合にもその根拠となるとした裁判例がある。
撤回・職権取消しは、権利利益を与える受益的行政行為、第三者に利益を与える複効的行政行為の場合、それを上回る特別の公益上の利益がある場合にのみ取消すことができる。それで損害を被った者には損失補償が必要である。
裁量行為は、行政裁量とも言われ、法治行政の原理の下では、行政行為を含めてすべての行政活動は法律の拘束を受けている。法の機械的執行の覊束(きそく)行為に対する。
そしてその考えを徹底すれば、全ての行政の行為は法律で定められている方がよい。しかし行政には社会の実状に合わせた臨機応変な対応が求められるため、裁量を認めざるを得ない。ゆえに法律の拘束の程度には強弱があり、この強弱が覊束と裁量の問題である。
この裁量の問題は司法審査が及ぶかどうかという観点から論じられる。つまり、裁判所の役割(司法権)は具体的な争訟について法を適用することにより紛争を解決する国家作用なのであるから、法律が行政に判断を委ねている場合、換言すれば行政に裁量がある場合には法的拘束はなく、司法審査も及ばないと考えられるのである。よっていかなる行為が裁量行為であるのかが重大関心事となり、美濃部達吉による美濃部三原則などが登場した。
行政法規の構造は要件部分と効果(行為)部分からなっている。法律が行政行為の要件と効果について一義的に明確に定めているときは行政庁の判断余地がなく覊束状態であり、こうした行政行為を覊束行為(きそくこうい)と呼ぶ。他方、前述のような要請から要件・効果が一義的に明確に定められていない行政法規に則って行われる行政行為を裁量行為という。
この裁量行為をさらに法規裁量(覊束裁量)と便宜裁量(自由裁量)に区別し、前者についてのみ司法審査が及ぶと考えられてきた。しかし、自由裁量とされるものであっても、行政庁の恣意が許されるものではなく、法の一般原則、個別法規の目的による制約に服すべきではないかと説かれるようになり、また、覊束裁量、便宜裁量という区別自体、行政の行為の複雑化、多様化に伴い、次第に重視されなくなった。このような流れを受け、行政事件訴訟法30条において、裁量行為であっても裁量の逸脱や濫用があればこれを取消すことができる(つまり司法審査が及ぶ)と規定されるに至った。
裁量の逸脱や濫用があるかどうかは、その行政行為がそれを根拠づける規定の目的にしたがって行われたかにより判断される。例えば児童遊園を個室付浴場出店予定地の近くに設置することを許可し、条例違反によってその出店を阻止しようとしたことが裁量の濫用にあたるとした判例がある[8]。この場合、許可という行政行為をするかしないかは、行政の裁量に委ねられた事項であった。 また、不合理な差別を禁じる平等原則や、目的達成手段を目的に照らし必要最小限のものに限定する比例原則といった一般的な法原則も考慮される。
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