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教育(きょういく、羅: educatio、英: education、仏: éducation, enseignement、独: Bildung, Erziehung、西: educación、葡: educação、露: Образование、亜: تعليم)は、教え育てることであり[1][2]、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることである[3]。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすること[3]である。
教育とは、ある人間を望ましい状態にさせるために、こころとからだの両面に、意図的に働きかけることである[4]。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすること[3]。
教育の種類は、大きく分ける場合、一般に、家庭教育・学校教育・社会教育の3つに分けて把握されている。が、他にも、企業内教育、生涯教育、遠隔教育...などといった分類もある。
教育の機能や効果については、さまざまなことが言われている。政治面、経済面など様々なことが挙げられている。教育は、民主化を推進することになる、と指摘されている。また経済学的に見ると、生産性が向上する、とも指摘されている。なお、教育がむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の逆機能」と呼ばれることがある。
教育を研究のする学問を教育学と言う。教育学は、哲学・心理学・社会学・歴史学などの方法を用いて教育を研究する。様々な目的で細分化されており、基礎的・基本的なものとして、教育哲学・教育社会学・教育心理学・教育史学などがあり、実践的なものとして領域教育方法論・臨床教育学・教科教育学なものがある。(中学や高校の)教師になろうとする人は、必修科目として教育学を学ぶ。(ただし大学教授は教育学を学んでいない人がなっていることは多い。)
語源・語義からの定義の例を挙げると、「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。
リチャード・ピーターズは、「教育を受けた者」という概念の内在的な意味を探求し、自由教育(教養教育)の立場から「教育」を次の3つの基準を満たす活動として限定的に定義した[5]。
教育の定義には諸説あるが大別すると以下のようになる[要出典]とも。
# 語源・語義からの定義 (例 「教育とは、能力を引き出すことを意味する」)
一般に教育は、行われる場に応じて学校教育・社会教育・家庭教育の3つに大きく分けて把握されている[6]。
上記の3分類以外にも、企業が従業員(社員)の職業人としての資質を高めるために行う教育・訓練や、(従業員の)人間性を高めたり市民性 en:citizenship(自分が社会・共同体の一員だとの自覚を持ちそれに貢献すること)を育てるために行っている教育は「企業内教育」と呼ばれている[6]。
ひとりの子供が、家庭教育と学校教育の両方を受けている[6]。
従来は、学校教育と社会教育は、行政上の制度としても別になっており、また教育を受ける人も教育を行う人も異なっていたため、それぞれ独自の方針を持つものとして機能したので上記のような概念枠で理解しても特には問題は無かったが、近年では社会が生涯学習社会へと方針を転換してきているため(つまり一旦学校を卒業した人々もその後に本格的に学習を行うようになってきたため)状況が変化してきている[6]。生涯学習が広まってきたことにより、学校が(例えば大学や大学院が)ある程度以上の年齢の人々の生涯学習の場として活用されることが増え、それに伴い、学校側も従来のような(20代までの)若い人だけを念頭に置いた教育では学び手の要求にこたえられなくなってきており[6]、変わりつつあるためである。
なお、離れた場所に居る者に対して行われる教育は、遠隔教育(遠隔地教育)・通信教育という。最近では、世界の一流大学の一流の教授の講義がインターネット経由で公開され、国境を越え各地で受けることができるようになってきている。(MOOK)
年齢による分類もあり、 乳児の場合には、その教育は乳児教育(保育)と呼ばれ、幼児の場合は幼児教育、児童の場合には児童教育、成人である場合は成人教育と呼ばれる。また、教育の対象が、障害者など学習や生活の上で特別な支援を必要とする者である場合は、特別支援教育という。
なお、教育の対象は他者であるとは限らず、自分自身であることもあり、その場合には自己教育(英: self-education, autodidacticism)と言うことがある。
教育の受け手はさまざまな呼び方があり、学び手、学習者(英: learner)、学生(英: student)などと言う。より堅い言葉では、被教育者(英: educatee)とも呼ばれる[8][9]。
他にも、教育の受け手がどのような年齢、教育のどのような段階にいるかによって呼び分ける呼称もあり、(小学校などでは)児童や(中学校などでは)生徒(英: pupil)などと言う。高校生は(「児童」などと呼んでは馬鹿にしているように聞こえるので、そう呼んではならず)「生徒」と言う。大学生は(「生徒」などと呼んではならず)「学生」と呼ぶ。大学院生も「学生」である。
教育を行う者のことを一般に教育者(英: educator)・教師(英: teacher)などという[10]。
教育に関する歴史を教育史と呼ぶ。家庭教育や社会教育も念頭に置けば、教育は人類の有史以来存在してきたものと考えることができる。
制度化された教育について、西洋では古代ギリシアまで遡ることが一般的である。近代国家による教育が普及したのは、産業革命以降の労働者の必要性からであり、多くの国で国民に対する一般教育が公教育として施行されるようになったのは、20世紀に入ってからである。
日本で初めて教育制度が作られたのは、701年の大宝律令とされる。その後も貴族や武士を教育する場が存在し、江戸時代に入ると一般庶民の学ぶ寺子屋が設けられるようになった。初等教育から高等教育までの近代的な学校制度が確立するのは明治時代である。第二次世界大戦後の教育は、日本国憲法と教育基本法に基づいている。
国際人権章典は、人間には教育を受ける権利がある、と定めている[11]。
フランスでは、そうした理念にもとづいた制度が徹底しており、国・公立の教育施設においては、幼児教育から大学教育まで授業料が一切無料である。よって、国際人権章典の理念どおり、教育を受けたい人は、(親の経済状態などにかかわらず)教育を受けることができる。
多くの国においてはフランスほどには、理念が実現しておらず、国民が基礎的教育を受ける権利を保証するために、公教育として、それぞれの長さの義務教育が制度化する、という形になっており、初等教育と中等教育の一部が、児童・生徒の権利であるとされたり、義務とされている[12]。日本でもこれは実施されている。
教育の目的(教育目的又は教育目標)をどうとらえるかで2つの立場が存在してきた。
道徳主義の教育目的では、伝統的に、個人の発達・幸福のためとするか、社会の維持・発展のためとするかで論争がある。前者は教養教育・自由教育の立場で、人が一人の人間として豊かで幅広い教養を身につけることで、人が人間らしく生きることができるという考えである。こうした考え方は、一部の中等教育・高等教育でリベラルアート教育として実現している。他方、教育の目的を社会的な必要という観点から捉え、実学を重視する立場もある。専門学校・専門職大学院などはこの現れである。
教育を行う理由のことを、教育の正当性と呼ぶことがある[要出典]。これには、教育の必要性と教育の可能性の二面から論じられることが多い。
なぜ教育が欠けてはならないのかという問題について、イマヌエル・カントは「人は教育によって人間になる」と述べ、人間らしく生きるために教育が必要であると論じた[15]。学びの意欲を喪失した若者が多いといわれる現代において、なぜ教育が必要かが改めて問われる状況にある。
しかし教育が必要であるとしても、それが人間にとって可能なものでなければ、教育はやはり正当性を失うことになる。例えば、プラトンは「徳は教えうるか」と問い、哲人統治者としての自然的素養を重視した[16]。現在において教育可能性が問題となるのは、「教育がいかに可能か」という教育方法の問題や、「教育がどこまで可能か」という教育の限界の問題としてである場合が多い[要出典]。
小塩隆士は、教育とは自分の能力の限界を見極めていくことでもあり、やる気を喪失していく過程でもあるとしている[17]。
教育に関する制度を教育制度といい、主に学校教育が中心となるが、社会教育など学校外の制度もある。教育制度は、学校制度や義務教育の年限など、国によって異なっている。
教育に関する行政を教育行政、教育に関する政策を教育政策と呼ぶ。日本の教育政策については、日本の教育政策と教育制度を参照。教育政策の課題は国によって大きく異なっているが、先進国においてはおおむね社会的格差の解消や国際的な経済競争・知識社会化への対応などが、発展途上国の多くでは識字率・就学率の向上が、求められている。
教育に関する法律を教育法と言う。条例等も含める場合には、教育法令と呼ぶ。
教育の行われる施設を教育施設又は教育機関と呼ぶ。学校のみならず、図書館・博物館・美術館、公園、劇場、映画館のような娯楽施設も、広く社会において教育的な機能を果す施設を含めて考えられる。基本的な生活態度の養成という観点からは、家庭や地域社会での教育も含まれる。
教育施設の中でも専ら教育のために設立される施設を学校と呼ぶ。学校において行われる教育を学校教育と呼び、その就業年数や義務の有無など学校に関する制度を学校制度と言う。
教育のために用いられる素材は、教材と呼ばれる。伝統的な教科書や黒板や従来から語学学習などで用いられてきた音声教材に加えて、近年では科学技術の発達に伴い、コンピュータ、マルチメディア、インターネットなどを積極的に活用する動きが高まっている。また、電子黒板やインターラクティブ・ホワイトボードなどの最新機器も用いられ始めている。
教育において、その実践上の目的・内容・方法等をまとめたものを教育課程又はカリキュラムと呼ぶ。教育課程は、通例では初等教育・中等教育・高等教育の3段階に分け、この前に保育や幼児教育を位置づけることもある。
知育・徳育・体育の分野がある。正確な知識という共通基盤がなければ正しいコミュニケーションや共同生活すら図れないし、またそうした知識をいかに活用していくかという、思考力・コミュニケーション能力・創造力等の技能も不可欠である。さらに、知識や技能のみならず、社会生活を営む上での基本的な道徳を教育することに価値を置く見解や、社会で生き抜く体力を重視する見解もある。教育の内容について詳しくは、「教科」を参照。また、新しい教育内容として、人権教育、環境教育、国際理解教育、性教育がある。
教育方法に関しては大きく二つの立場が対立している。
一つは、学問の体系的な構造に従って系統的に教育を行うべきだという、系統学習の立場である。これは特に教育段階が上がるにつれて教育内容が学問の体系に近づく。
その一方で、特に幼児・児童への教育を中心として、こどもの自発的な学びを尊重すべきだとする問題解決学習(進歩主義・児童中心主義・経験主義)の考えも強い。日本の小学校における生活科や小中学校の総合的な学習の時間は、この考えに影響を受けたものであると言われている。
教育を行った結果としてどのようなことが起こるかについては、個人に与える影響と社会に与える影響の両面がある。エミール・デュルケームは、近代における教育の機能を「方法的社会化」であると捉え、政治社会と個々人の双方が必要とする能力・態度の形成であるとした[18]。なお、教育が適切な効果・機能を果していない場合には、「教育の機能不全」、教育がむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の逆機能」と呼ばれることがある。
教育を受けた個人に起こる変化を「教育効果」と呼ぶ。一般的には学力の向上が思い浮かべられることがある。現在の日本では、学校教育に関わる学力を紙面の試験で測定できるもの、とりわけ偏差値で計る傾向が強く、このことに対して強い批判が長年存在しつつも、受験現場では不可欠とされている実態がある。
教育効果に関する議論は、教育内容や教育方法などを改善する上で欠かせない一方、教育目的を測定可能なもののみに置き換えがちな点には注意が必要である。
教育が社会に及ぼす効果として、経済・政治・社会などに与えるものが議論されている。
また、政治面では、開発学においては識字率の上昇が民主化に寄与すると考えられることが多いが、識字率と民主化との間の相関は一般に考えられている程には高くなくむしろその反例も見つかることから、この考えは「西欧市民社会の誤謬である可能性」を指摘する見解がある[19]。そのほか社会的な面においては、教育の普及が男女や階級の平等に寄与するといった主張や、教育水準の上昇が幼児死亡率や衛生状態の改善に寄与するといった主張などがある。
学校を軍隊・病院・監獄などと同様の近代特有の権力装置であるとしたミシェル・フーコー [20]、学校教育が近代社会に支配的な国家のイデオロギー装置であると論じたルイ・アルチュセール[21]、教育が文化的・階級的・社会的な不平等や格差を再生産または固定化する機能を果しているピエール・ブルデュー、バジル・バーンスタイン、サミュエル・ボールズとハーバート・ギンタス、教育は家父長制を再生産しているとのフェミニズムからの議論、教育は社会の多数派の文化を押し付けているという多文化主義からの議論、などが有名である。
そのほか、政治面では、各国において教育年数が長いほどおおむね個人主義的・革新的価値観を持つ者が増えることが明らかになっている[22]。この傾向は日本においても基本的に同様で、学歴が高いほど投票率が高まる半面、政治への満足度は逆に下がり、また、学歴が高まるほど自民党支持が減って、民主党支持や支持政党無しの者が増えることが知られている[23]。
未来学者のアルビン・トフラーは「工場での労働を想定して、公共教育は基礎的な読み書き算数と歴史を教えたが、その裏には裏のカリキュラムが隠されており、1)時間を守る、2)命令に従順、3)反復作業を我慢する、という3つのライン作業を前提とした工業労働者に求められる資質である」と指摘している[24]。
人間の幸福なれる、幸福になれないというのは、IQ(知能指数)ではなく、他の人々の気持ちが分かる、などといった能力(EQ)のほうが、影響が大きいということが、ここ数十年の研究で明らかになってきている[25]。それどころか、卒業後の人生を追跡調査してみると、IQ(知能)ばかりが高い人は、EQが高い人と比べてその後の人生では、職業や家族などの点で恵まれず、当人も幸福を感じる割合が低かった。端的に言えば、知能ばかりを上げることを目標とした教育を受けても、教育は幸福の役に立つどころか、かえって人を不幸にしてしまうのである[25]。よって「教育」といっても、(もしも、本当に学習者・学生の幸福を望むのならば)、やみくもにIQ(知能)を上げようなどとするような愚かなことをするのではなく、むしろそんなことは後回しにしてでも、他の人に共感する能力、他の人の心の痛みを理解できる能力、他の人と協力的で建設的な人間関係を築く能力 等々等々 を伸ばすことのほうが大切なのである。
経済面においては、進学率の上昇による労働者の質的向上が経済成長を押し上げる効果があることが指摘されている(教育の経済効果)[26]。
教育がもたらすこれらの肯定的な機能に対しは疑問の声も一部で上がっている。例えば、発展途上国においては、基礎的な教育の実施で期待される所得・生産性の向上や市場経済への移行などといった経済効果や、政治における民主化の前進、社会における人口の抑制などといった効果が、必ずしも顕著には現れていないことが指摘されている[27]。
誰が教育の費用を捻出するか、ということが、教育を受ける権利と大いに関係してくる。
教育の費用を子供が自分で負担する、などとすると、収入が無い子供はそれを捻出することができない。また、親が全て出す、などとすると、結局、裕福な親を持つ子ばかりが教育を受け、貧しい親のもとに生まれた子は教育が受けられない、ということになってしまい、国際人権章典にある理念「人間には教育を受ける権利がある」、この権利が守られないことになる。子供は親を選んで生まれてくることができない。親の状態によって教育が受けられる/受けられない などという差が生まれてしまうようでは、本人の素質や努力によってどうにもならない「生まれ」によって人間が根本的に差別されてしまう、ということで、基本的に人道に反した状態であるということになる。
つまり、《教育を受ける権利》を守るためには、本当は、教育費は、公共的に捻出されなければならない。すなわち、国家(中央政府)や地方政府が出すということにしなければ、結局、ひとりひとりの子供に着目した場合《教育を受ける権利》が守られないことになってしまい、非人道的な状態になってしまうわけである。
教育の費用を誰が出すか、ということについての考え方は国ごとに異なっている。フランスは、国民がフランス革命を起こし、横暴な王族・貴族を倒し、自力で国民のための政府を樹立した国であり、「国家は国民のためのものである」という理念が徹底されており、国民の人権がしっかりと尊重されている。フランスでは、公共機関が行う教育(国立や公立の 幼稚園から大学まで)の授業料が全て無料である[28][29]。フランスでは、教育というのは国が国民に無料で提供すべきものだ、との考え方が徹底されており、実際にそうした制度になっており、それがしっかりと実施されている。その結果、親に過度に負荷がかからないようになっており、その結果 フランスでは親は安心して子供を多人数つくることができる。その結果フランスは出生率を高めることに成功し、出生率がヨーロッパ諸国で最高で、2.0を越え、順調に人口が増え、国力が増してきている[30]。実際に、教育を受ける権利が守られており、経済的に裕福な親だけでなく、経済的に困窮している親であっても、子供を教育することもできているのである。
日本では、教育費のうちで国や自治体が費用を出している比率が(世界の先進諸国の中で比較しても)最も低い部類で、教育負担のほとんど全部が親にばかりしわ寄せがくるような状態が放置されている。結果として実質的・物理的に教育することが困難・不可能なので、日本では子供を産んで教育することをあきらめざるを得ないので、そもそも教育する対象である子供をつくることを諦めざるを得ず、出生率が2以下に低下し、そもそも教育する子供が減ってしまうような、日本の社会から次第に子供が減って消えていってしまうような、結果となっている[29]。日本の親の教育費の負担は、OECD諸国の中で最悪の状態である。日本の政府が、あまりにも、子供を持つ親にばかりにさまざまな負担がかかる状態を放置しているものだから、日本では、成人や結婚したカップルが、子供を作ることを躊躇してしまうのである。結果として、日本の出生率は下がり、人口が減り、国力が下がり、超高齢化が進行しつつある、という危機的な状況になっている。
収入面での効果が、比較的多くの人々の関心を集めている。各国においては、学歴が上がるほど生涯賃金も上がるとされている[31]。
しかし日本においては、実際のデータを見てみると学歴による生涯賃金の差は比較的小さいという見解もある[32]。単年度の見かけの給与はともかくとして、学校に通うことで働いて収入を得る年数が減る分、生涯賃金があまり増えないのである。特に大学院などは、(全日制で)大学院まで進むと、統計的に見て大卒よりもかえって生涯賃金は下がる場合が多い、とのデータもある。一般論として言えば日本の企業は大学院修了者をあまり歓迎していないのである。日本においては、教育を投資と考える傾向は低い。また、2005年現在の日本の社会では、「勉強して良い大学に入れば、良い企業に入れる」という仕組みはすでに崩れてきたことが幾人かの論者によって指摘されている[33]。例えば関東圏で例を挙げると、東京大学や他の六大学などを卒業していてもフリーターになってしまう可能性もあるのである。
教育に関わる問題、とりわけ教育が社会に関わる問題のことを教育問題という。特にその深刻さを強調する場合には、教育病理または教育危機とも呼ぶことがある。詳しくは教育社会学の項目も参照。
教育活動は複数の人間が集まって行われる以上、そこに必然的に社会が生まれる。学校や学級などはその例である。そこにおいて何らかの問題が生じることがあり、いじめ・不登校・学級崩壊、教員と児童・生徒・学生との権力関係などがここに含まれる。
政治・経済・地域社会・文化などは教育活動に大きな影響を与えているが、こうした影響が問題を生じさせることがある。例えば、国の諸政策やマスコミによる報道などは、学校教育はもちろん家庭教育や社会教育にも大きな影響を与えている。
学校教育を含む教育活動は、社会一般に対しても大きな影響を与える。狭義で教育問題とは、この局面で生じる問題を指すことがある。学歴・管理教育・偏差値・非行・少年犯罪・学力低下など学習者、特にこどもを通じて結果として社会に与える影響の他にも、教師のあり方や学校・大学のあり方、学閥などの問題として、教育問題は広く社会病理の一領域をなしている。
小塩隆士は、教育が格差を拡大させる可能性も指摘している[17]。
教育を研究の対象とする学問を教育学と言う。教育学は、哲学・心理学・社会学・歴史学などの研究方法を利用して、教育とそれに関連する種々の事物・理念を研究する。教育哲学・教育社会学・教育心理学・教育史学などの基礎的な分野のほか、教育方法論・臨床教育学・教科教育学などの実践的分野がある。各国における教育学のあり方は、その国の教員養成のあり方とも密接に関わっている場合が多い。
高等動物では、教育またはしつけに近い行動が見られる例がある。猫などの肉食獣では子供に狩りの練習をさせるために弱らせた獲物をあてがうなどはその代表的なものである。
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