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インフレーション(inflation)とは、経済学においてモノやサービスの全体の価格レベル、すなわち物価が、ある期間において持続的に上昇する経済現象である。日本語の略称はインフレ。日本語では「通貨膨張」とも訳す[1]、俗称は「右肩上がり」。反対に物価の持続的な下落をデフレーションという。
消費者物価指数 (CPI:consumer price index) など各種物価指数の上昇率がインフレーションの指標となる。典型的なインフレーションは、好況で経済やサービスに対する需要が増加し、経済全体で見た需要と供給のバランス(均衡)が崩れ、総需要が総供給を上回った場合に、物価の上昇によって需給が調整されることで発生する。物価の上昇は貨幣価値の低下を同時に意味する。つまり同じ貨幣で買える物が少なくなる。好況下での発生が多いが、不況下にも関わらず物価が上昇を続けることがあり、こちらは区別しスタグフレーション (stagflation) と呼ばれる。
主にマクロ経済学で研究される現象である。
本来はインフレーションは、マネーサプライの上昇、これはいわば市中に出回っている通貨の量が増加(膨張)していくことを意味し、monetary inflationとも呼ばれ、物価レベルの上昇(price inflation)とは厳密には区別される。後者については略語でインフレとも呼ばれ、インフレと言えばこのprice inflationのことを指す場合が多い。
物価の安定は、経済が安定的かつ持続的成長を遂げていく上で不可欠な基盤であり、中央銀行はこれを通じて「国民経済の健全な発展」に資するという役割を担う。日本銀行の金融政策の最も重要な目的は、「物価の安定」を図ることにあるとする[2]。資産価格の金融政策運営上の位置付けを考えた場合、資産価格の安定そのものは金融政策の最終目標とはなり得ないというのが、各国当局、学界のほぼ一致した見方である[3]。一般物価の安定と資産価格の安定という二つの目標を金融政策という一つの政策手段で達成することは出来ず、一般物価の安定が重点的に割り当てられる金融政策では、資産価格安定の任を成し得ない(→ティンバーゲンの定理)[4]。
大きく分けると、実物的な要因と貨幣的な要因に分けられる。前者はさらに国内要因と貿易要因、需要要因と供給要因に分けられる。
戦争や産業構造破壊により、供給が需要を大幅に下回ることによって発生するインフレ。第二次大戦終戦直後の日本(1946年)では300%強のインフレ率を記録している。また、ジンバブエでは、政策により白人農家が国外に追い出され農業構造が破壊されたところに旱魃が追い討ちをかけたことにより極度の物不足が発生、最終的に2億3000万%という超ハイパーインフレーションとなった[5]。
需要側に原因があるインフレーションで、ディマンドプル・インフレーション(デマンドプルインフレーション/demand-pull inflation)とも呼ばれる。需要の増大(需要曲線の上方シフト)により 、物価が上昇する。この場合、供給曲線が垂直(生産力が上昇しない)場合を除いて景気はよくなる。
1973年から1975年にかけての日本のインフレーションの原因は、オイルショックに注目が集まるが、変動相場制移行直前の短資流入による過剰流動性、「列島改造ブーム」による過剰な建設需要も大きな要因である。
供給曲線の上方シフトに原因があるインフレーションで、コストプッシュ・インフレーション(cost-push inflation)とも呼ばれる。多くの場合、景気が悪化しスタグフレーションか、それに近い状態になる。
貨幣の供給量が増えることによって発生する。貨幣の供給増加は、他のあらゆる財・サービスに対する貨幣の相対価値を低下させるが、これはインフレーションそのものである。さらに、貨幣の供給増加は貨幣に対する債券の相対価値を高めることになり名目金利を低下させる。このため通常は投資が増大し、需要増大をもたらす。そのプロセスが最終的に、需要インフレに帰結することでもインフレーションに結びつく。公開市場操作などの中央銀行による通常の貨幣供給調節以外に、貨幣の供給が増える特段の理由がある場合には、「財政インフレ」「信用インフレ」「為替インフレ」などと呼んで区分けることもある。
期待インフレ率が高まり実質金利が低下した場合には、消費と投資が増大する。ただし、インフレ率が過度に高まった場合には将来の予測が困難になり、不確実性を高めることから消費や投資は停滞する。
物価上昇率が預金金利を上回ると預貯金の価値を実質的に引き下げる。物価上昇率が貸出金利を上回った場合、インフレにより実質的な負債の価値が下がり、その結果実質的な返済負担が減る(住宅ローンなど)。
賃金も物価の上昇に伴って上昇するが、物価に比べると調整に遅れをとるため、実質賃金が下がり、雇用を増やしやすくするので失業率は下がる(フィリップス曲線)[17][18]。
経済学者の若田部昌澄は「ハイパーインフレの例を俟つまでもなく、インフレ率が2ケタ以上に高くなるのは経済に悪影響を及ぼす。おそらく5%を超えると望ましくないだろう」と指摘している[19]。
経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは「インフレに過大な関心を注ぐあまり、一部の国の中央銀行は、金融市場で起きている状況に無頓着になってしまった。資産バブルが無制約にふくらんでいくのを中央銀行が放置することにより経済が負担するコストに比べれば、緩やかなインフレによるコストなど微々たるものにすぎない」と述べている[20]。
など
記録に残る世界最古のインフレーションはマケドニア王国のアレクサンダー大王の時代の事であると言われている。このインフレーションは、大王がアケメネス朝ペルシアなどの国々を征服して、征服先の国家の財宝などを接収して兵士達への恩賞に充て、その結果としてギリシア世界に大量の金銀が持ち込まれたため発生した。
ピサロによるインカ帝国征服後、ポトシ銀山などから大量の金銀がスペインに運ばれた。1521年から1660年までの間にスペインに運ばれた金銀の量は金200トン、銀1.8万トンと言われる。これらの金銀は主に貨幣となったため、欧州全域で貨幣価値が3分の1になった。つまり物価が3倍になるインフレーションが起こったわけで、これを「価格革命」と言った。貨幣供給により商工業の発展が起こり、地代の減少のために封建領主層が没落するなどの社会的変化をもたらした。
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国単位でのインフレーションの他に、地域単位、都市単位でインフレ現象が起きることがある。現代的に問題になっているのは、国際連合平和維持活動 (Peace-Keeping Operations : PKO) に伴うインフレーションである[要出典]。紛争地域の停戦後、平和維持のために派遣される各国の部隊は、経済が疲弊している所に急に現れる富裕層と同じである。そのため、駐屯地の周辺では、部隊が調達する生活物資・食料品を中心に価格上昇が起きてインフレーションとなり、紛争で困窮した周辺住民の生活を圧迫する。対策として部隊員の駐屯地外での購買活動抑制が行われており、PKO部隊は Price Keeping Operation も同時に行っていることになる。
日本では、明治以降の資本主義経済化の下で局地的なインフレーションが見られた。農業地域や未開拓地域(北海道)に工業・鉱業・巨大物流施設(港湾)が出来ると、急激な資本投下と人口の急増(都市化)とが発生し、生活物資の必要から局地的なインフレーションが起きた。そのため、物価安定を目的に日本銀行の支店や出張所が置かれた。日銀の支店・出張所の開設場所や開設時期は、その地域での経済活動に伴う局地的インフレ懸念と密接に関係している[要出典]。
第一次世界大戦後にハンガリー(1922-1924年)、オーストリア(1922-1923年)、ポーランド(1921-1924年)、ドイツ(1922-1923年)で生じたハイパー・インフレーションは「4大ハイパー・インフレーション」とされている[22][15]。このハイパーインフレが生じた共通の原因は、戦争後の賠償金支払いなどに伴う財政赤字の急膨張であり、不換紙幣である政府紙幣の発行による、財政赤字のファイナンスであった[22]。これらのハイパーインフレは最終的には、独立した中央銀行の創設、均衡政府予算に向けての一連の措置、金本位制の復帰を通じて終息した[22]。中央銀行が財政赤字をファイナンスすることを拒否し、政府が財政赤字を民間への国債の売却或いは外国からの借入れでファイナンスすることを決めた直後に終息した[23][15]。
ほかに歴史的に有名なハイパーインフレの例としてアルゼンチン、ジンバブエなどがある[15]。
詳細は「ズウォティ」を参照
第一次世界大戦後のドイツでは、連合国側に対して1320億金マルクの賠償金支払いが課された。しかし、これはドイツの支払い能力を大きく上回っており、賠償金の支払いは滞った。これを理由に1923年、イギリスの反対を押し切ってフランス・ベルギーがドイツ屈指の工業地帯であり地下資源が豊富なルール地方を、現物による賠償金支払いを求めて軍事占領した。占領に対し、ドイツ政府は受動的な抵抗運動を呼びかけ、ストライキに参加した労働者の賃金は政府が保証した。既に第一次世界大戦中よりドイツではインフレーションが進行していたが、抵抗運動に伴う財政破綻によって致命的な状況へと導かれ、空前のハイパーインフレが発生した。この結果、1年間で対ドルレートで7ケタ以上も下落するインフレーションとなり、パン1個が1兆マルクとなるほどの状況下で、100兆マルク紙幣も発行されるほどであった。
この破滅的な状況下で、ドイツの人々はヴェルサイユ体制への不満を募らせた。幸い、シュトレーゼマン首相のレンテンマルク発行(11月15日)による1:1兆のデノミネーションにより奇跡的にインフレーションが収拾されたこともあり、この段階では議会制民主主義が揺らぐことはなかった。アドルフ・ヒトラーがミュンヘン一揆を起こしたのもこのインフレーション期であるが、一揆は失敗に終わった。
しかし、1929年の世界恐慌でドイツ経済が再び崩壊すると、議会制民主主義への信頼は失われ、ヴェルサイユ体制打破を掲げる反動的なナチスへの支持が急増し、ファシズム政権の成立へと至った。
「マルク (通貨)」も参照
第一次世界大戦の敗戦国であるオーストリアは、その戦後賠償金をファイナンスするために政府・中央銀行が貨幣を発行し、シニョリッジを利用した事が、ハイパーインフレの引き金を引いた[24]。これによって、オーストリアは月率50%、年率1000%をはるかに上回った[25]。
ハイパー・インフレは1922年8月に停止した[23]。
詳細は「クローネ」を参照
ハンガリーでは第二次世界大戦後に激しいハイパーインフレが発生した。このときのインフレーションでは16年間で貨幣価値が1垓3000京分の1になったが、20桁以上のインフレーションは1946年前半の半年間に起きたものである。大戦後、1945年末まではインフレ率がほぼ一定であり、対ドルレートは指数関数的増大にとどまっていたが、1946年初頭からはインフレ率そのものが指数関数的に増大した。別の表現でいえば、物価が2倍になるのにかかる時間が、1か月、1週間、3日とだんだんと短くなっていったということである。当時を知るハンガリー人によると、一日で物価が2倍になる状況でも市場では紙幣が流通しており、現金を入手したものは皆、すぐに使ったという[26]。
1946年に印刷された10垓ペンゲー紙幣(紙幣には10億兆と書かれている)が歴史上の最高額面紙幣であり(ただし、発行はされていない)、最悪のインフレーションとしてギネスブックに記録されている。
なお、実際に発行された最高額面紙幣は1垓ペンゲー紙幣(紙幣には1億兆と書かれている)である。
※1京は1兆の1万倍(10の16乗)、1垓は1京の1万倍(10の20乗)。
ハイパー・インフレは1924年3月に停止した[23]。
「ペンゲー」も参照
詳細は「日本のインフレーション」を参照
1988年、経済成長の後退からハイパーインフレが発生。1989年には対前年比50倍の物価上昇が見られ、1992年にドルペッグ制のアルゼンチン・ペソを導入するまで、経済が大混乱となった。庶民のタンス預金は紙屑同然となった。
「アウストラル」も参照
1986年から1994年までの8年間に、2.75兆分の1のハイパーインフレーションが生じた。
詳細は「レアル」を参照
詳細は「メキシコ・ペソ」を参照
詳細は「ロシア・ルーブル」を参照
詳細は「ユーゴスラビア・ディナール」を参照
詳細は「ザイール (通貨)」を参照
詳細は「トルコリラ」を参照
ジンバブエでは独立後から旧支配層に対して弾圧的な政策を実施。治安の悪化も重なり、富裕層が海外へ流出する結果となった。こうした傾向はインフレーションに拍車をかけ、2000年代に入ると経済が機能不全に陥る猛烈なインフレーションに直面することとなった。ジンバブエ準備銀行は2008年7月時点で年率2億3100万%に達したと発表、同8月に通貨を10桁切り下げるデノミネーションを行った。その後のインフレーションの影響で9月30日に2万ジンバブエ・ドルの発行など、デノミネーション後に20種類の紙幣を発行し、同12月19日に100億ジンバブエ・ドル紙幣を発行した。現在この8年間で23桁以上のインフレーションとなっていて、うち2008年だけで約14桁、9月から3か月で約10桁のインフレーションとなった。さらに2009年2月2日、1兆ジンバブエドルを1ジンバブエドルに、桁数にして12桁を切り下げる措置を講じた。結局、同年2月にジンバブエは公務員給与を米ドルで支払うと発表し、ジンバブエ・ドルが公式には流通しなくなり、4月12日にはジンバブエドルの流通停止と、アメリカ・ドルおよび南アフリカランドなど外国通貨による国内決済への移行を発表することを余儀なくされた。その後、外貨の使用に伴ってインフレは沈静化した。
ジンバブエのインフレーションの特徴としては、ネット社会によって世界中の人々が素早く物価上昇に関する情報が入手できた点が挙げられる。
「ジンバブエ・ドル」も参照
詳細は「イラン・リヤル」を参照
経済学者の飯田泰之は「ハイパーインフレが起きる国は二通りだけである。通貨発行主体の継続性が疑われた場合、例えば外国に占領されるんじゃないかという場合と、すでに占領されてしまった場合。つまり、国が崩壊する、革命、戦争という状況下に起こりえるものである」と指摘している[27]。
「インフレターゲット#岩石理論」、「インフレターゲット#設定数値について」、および「量的金融緩和政策#ハイパーインフレ懸念について」も参照
ブレークイーブン・インフレ率(break-even inflation rate)とは、物価が今後どの程度上昇すると一般的に予想されているかを表すインフレ期待(inflationary expectations)を測る代表的な指標である[28]。国債とインフレ連動債との利回りの差を数値化したものである(国債の利回り-インフレ連動国債の利回り)。市場が推測する期待インフレ率を表す。この値がプラスならインフレ、マイナスならデフレを市場が期待していることになる[29][30]。
経済学者の岩田規久男は「期待インフレーション率は、インフレ連動債と普通の国債との利回り差でだいたいわかる」と指摘している[31]。
インフレ連動債のような特別に設計された金融資産が存在しない場合には、予想インフレ率を直接的に観測できない[32]。
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