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被服(ひふく)とは、身体に着用するものである。人体の保護や装飾、社会的地位の表象等のために発展してきたもので、人間の文化の主要構成要素の一つである。もっとも典型的には、布(布帛)を縫合して着用に適した形状に仕立てた繊維製品である。また物品の元の目的が着用にない場合でも、これを身につけることで被服と捉えられる場合がある。
被服と類似の用語として、衣服(いふく)、衣(ころも・きぬ)、服(ふく)、衣類(いるい)、衣料・衣料品(いりょうひん)、着物(きもの)等がある。また、服飾、服装、衣装(衣裳)などの語も存在する。これらの用語は意味範囲が重複するものであるが、繊維等製品の製造や機能面に関する学術研究や教育・行政分野等では「被服」の語が用いられ(陸軍被服本廠・被服学等)、衣服文化を取り扱う分野においては服飾の用語が用いられる傾向がある(服飾史等)。本項では便宜上、製品としての被服について扱う。複数の製品を組み合わせた特定の装いについては服飾を参照。
被服着用の目的は多様であるが、主には、体表付近の温湿度を調節する環境制御、身体や皮膚の保護・防御、身体の一部の秘匿や強調、装飾、また、性別・身分・職業等の表示がある。体毛の乏しい人類にとって、被服は基本的に体温調節(の補助)の役割を荷っている。また体表を保護し、傷つけないための役割も荷っている。下着類を中心として汗の吸収と発散を助け、また寒い場所では身体が冷えすぎないように防寒着を着用する。また、熱帯や砂漠などでは太陽光を遮蔽するために被服が用いられる。作業着、防護服などは、怪我や汚れを防止する目的に特化した衣服であり、また身体を激しく動かす場合には、活動性の高い被服が用いられる。
また衣類は基本的に身体(の一部)を隠したり、強調したりするためにも用いられる。文化人類学などでは、何を見せようとしているか、あるいは何を隠しているのか、なぜ隠すようになったのかに着目して分析することがある。多くの社会において、男女は別の被服を用い、年齢、身分、職業等に応じた被服によって、組織の一員であることを示したり、集団内の役割を表現する。また、特定の場面に応じた被服の選択が求められる場合も多く、思想信条、ライフスタイル、文化背景、経済力等を表現する手段ともなる。
被服はただひとつの目的(機能)のために用いられているということはむしろ稀で、大抵は複数の機能を同時に荷っている。例えば制服や礼服は、社会的機能も担っているが、同時に体温調整の機能も考慮されている。あるいはスポーツウェアは一般に、動きやすさ・体温調整・怪我防止・ファッションの役割を同時に果たすように考慮されている。実用的な役割の衣類と社会的・シンボリックな役割の衣類に分けらることもあるが、それらがからみあっている場合もあり、いつもすんなりと分けられるわけでもない。例えば白衣は、元は汚れ防止のため(つまり実用的な目的)で衣類の上に重ね着するものであるが、特定の印象づけを行うことで見る人の心理を操作するためにも用いられていることが知られている[1]。
人類がいつから被服を着用したかははっきりとしていない。衣服の起源を7万年前から7万5千年前に、インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山が大噴火を起こして気候の寒冷化を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えたトバ・カタストロフ理論に関連づける者もいる。すなわち、ヒトに寄生するヒトジラミは2つの亜種、すなわち主に毛髪に寄宿するアタマジラミ (Pediculus humanus capitis) と、主に衣服に寄宿するコロモジラミ (Pediculus humanus corporis) に分けられるが、近年の遺伝子の研究からこの2亜種が分化したのはおよそ7万年前であることが分かっている[2]。そこでシラミの研究者らは、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くために、ヒトが衣服を着るようになったのではないかと推定している[3]。なお、ヒトは14~20万年前にアフリカに共通の祖先を持つ、と考えられるようになってきており(アフリカ単一起源説)、同説によると、ヒトは7万から5万年前にアフリカからその他の地域へ移住し始めた、ということになっている(人類の進化#出アフリカ説)が[4]、この時期とほぼ重なる。
先史時代の遺跡(洞穴の絵画等)には、身体の表面を布、毛皮、植物の葉や茎を編んだり束ねたりしたもの(蓑・腰蓑)などを身に付けた様子が描かれたものがある。古代文明の成立時には、すでに高度な被服行動を営んでいたと考えられる。当時に関しては、遺跡に残された壁画などからその様子をうかがい知ることができる。日本においては、縄文時代後期(約3200年前)の編み込み模様のある布が出土しており、縄文期の服装を知る手がかりとなる物証として注目されている[5]。
被服の誕生以降、長きにわたって自給自足の時代が続き、その入手、製作の困難さゆえに非常に価値のあるものであった。織物に関しては、1760年代のイギリスにおける産業革命で織機、紡績機の改良が進み水力や蒸気機関の応用によって格段に生産能力が向上した。また、合成染料(19世紀中頃)や化学繊維(19世紀末)の発見、発明もなされた。
第二次世界大戦後、既製服の普及が始まり被服は消費財へと大きくその価値を変えることになる。消費者は、小売店で既製品を選択、購入し、着用および手入れを繰り返した後、これを廃棄するようになった。また、当時、織物が主体であった外衣であるが、1970年頃になるとTシャツやポロシャツなどの素材となるイージーケアな編物がカジュアル、スポーティーなどのイメージとともに生活に浸透してくる。現在の被服は、ファッションの影響を強く受ける消費財として定着している。その典型としては、ファッションブランドに対する意識をあげることができる。また、1980年代以降には、製品としての被服の生産拠点が中国などに移行し、産業形態のひとつとして、製造小売業SPAが成功をおさめ注目された。21世紀に入り、被服の製造・流通・着用・廃棄の各過程において更に多様化が進んでいる。たとえば入手の方法では、通信販売(ネットショッピングなど電子商取引を含む)、競売(ネットオークション)など、商品もいわゆるブランド品やアウトレット商品、中古などと選択肢の拡張がなされている。保管に際しては、ファッションの変化速度が増し、物理的には着用可能な被服が退蔵、死蔵の状態に陥ることもしばしば認められる。廃棄の時点では、環境問題に配慮して様々なリサイクルも試みられている。また、情報産業の側面にも注目が集まり、本格的なウェアラブルコンピュータの研究開発 (en:wearable computing) なども行われている。
被服には様々な分類方法があり、例えば文化を基準として、民族服・洋服・和服等に分けることができる。あるいは、着用部位や素材によって分けることもできる。衣類は重ねて着ることが多いものであるが、日本語では上側(外側)に着る着物を「上着(うわぎ)」と言い、下側(内側)に着る着物を「下着(したぎ)」と言う。英語ではアウターウェア・インナーウェアなどと言う。また、上着の下の上半身に着るものをトップス、下半身に着るものをボトムスと言う。
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