出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/11/08 11:03:26」(JST)
例外(れいがい)とは、通例の原則にあてはまっていないこと[1]。一般の原則の適用を受けないこと[1]。
例外とは通例の原則にあてはまっていないこと[1]。また、一般の原則の適用を受けないことである。
たとえば法則(や規則)が成り立っていない事例のこと。あるいは、法則がそもそも適用されていないもののこと。
「例外のない法則はない」「例外のない規則はない」などと言われることがある。[注 1]
規則や法則には例外がつきものではある。 対比される概念は「原則」である。
法律論では、「何が原則で、何が例外だ」という議論のしかたをすることが多くある[2]。いつでも一定の原則だけで例外がない、ということは滅多に無い[2]。大抵のケースで、原則が多くの場合に適用されるものの、例外的に原則が適用されない場合がある、ということになる[2]。
よって、まずどのような場合に対してどのような原則があるかを明らかにし、その次に、その原則の例外はどのようになるか(どのように扱うか)を明らかにする、というのが法律論の一般的なパターンである[2]。
(これは単に法律論にとどまるものではなく)法律の条文や、契約書の条項も、こうした法律論のパターンに合わせた形で書かれていることが一般的である[2]。よって、法律や契約書もこれを意識しながら読むと、正しく理解できる[2]。
たとえば、契約書の場合について解説してみる[2]。例をひとつ挙げる。
売主は本商品を来年3月31日までに引き渡すものとする。但し売主の責任によらず商品が完成できない特別な事情がある場合には、この限りではない。[2]
この契約では、
原則は、3月31日が引き渡し期限となっている[2]。
例外としては、売主に落ち度が無い特別な事情が生じた場合は(例えば戦争や巨大災害などで材料の調達が不可能になったり、工場が破壊されてしまった場合などは)、売主は3月31日までに引き渡す義務は負わない、ということを言っている[2]。
契約書の例外は「但し」という言葉以降に書かれていることが多い。 (そのため、例外に関する記述を「但し書き(ただしがき)」とも言う。)
《原則》と《例外》の話は、実体法のレベルだけで現れるわけではない[2]。手続き法のレベルでも現れる[2]。
法律をよく知らずに法律を読む人(たとえば特定の筋書きのある小説や、理念表明などのように読もうとする人など)は「結論はどちらだ? 結論がはっきりしない。」とか「法律は面倒だ。」などと感想を漏らすことがある[2]。
では、なぜ(複雑になるのに)法律には一般に「原則」と「例外」があるのかと言うと、人間社会の事象というのは、ケースバイケースであり、一律にどちらかとは決められないからである[2]。ケースバイケースであるから複雑になりはするが、そうしたやりかたで決めるからこそ、社会正義に則した妥当な結論を導ける、という面があるのである[2]。
例外的な状態を意図的に狙うもの、いわゆる「法律の網をかいくぐる」ような者が現れることがある。それが度を超し常態化すると、法律があっても機能していない、意味が無い、という状態になってしまうこともある。
例外には「歯止め」を設定する場合もある。たとえば道路交通法は緊急自動車をその例外に認めている。その有益性は明らかであろう。しかしたとえば警察車両であれば無条件でこれを認めるのではなく、警告灯やサイレンをならすことを義務づけている。
生物学の分野では例外は多い。メンデルの法則は身近な動植物ですらむしろきれいに当てはまるものを探すのが難しく、生物全体を見れば、直接当てはめることすらできない例も多い。そもそもメンデル自身、自説を発表する際、予備実験として多くの形質について実験を行っており、その中から法則性を示せる形質のみを取り上げているが、その際に取り上げた形質の数より捨てた形質の数の方が多い。しかしメンデルの法則は生物学の分野ではむしろよく整えられた法則である。
生物学の歴史を見れば、非常に多くの法則が提唱されては消えている。それらの多くは確かに当てはまる例はいくつもあるにせよ、当てはまらないものの方が多いんじゃないか、というものもある。そのため、その多くは「○○の場合、××となることが多い」といった言い方で示されている。中には「生物に関してあるアイデアを思いついた場合、それの裏付けとなる生物は必ず存在する」という声ある。たとえば1921年にペトロニヴィクスは「種・系統樹および群の進化の法則」と題して24の法則を総括している(井尻正二『化石』岩波新書,1968)が、この中には1:放散の法則(→適応放散)、7:収斂の法則(→収斂進化)のように、現在でも認められるもののそれを法則とは呼ばないようなものばかりである。
現代物理学においては、物事を数的に(量で)表現し、数学を用いて把握しようとする。だが、数学は形式科学なので、自然科学とは異なり、数学だけでは自然については何も言うことができない。どのような関係にあるのか、というのは、実際に確かめて(=実験)してから判断し、実際に確かめる前に推察でうかつなことを言ってしまうのは避ける、とするのが自然科学である。また、ある時、ある数式を思いつきおおむねその数式に沿って自然が動いているようだ、と考えられるようになっても、だからといっていつでも数式通りに自然が動くだろう、などと期待したり、絶対に数式どおりに自然は動くはずだ、と決めつけるのは自然科学的には不適切である。いつも疑う態度を保ち、実際に確かめ続けるのが自然科学的態度である。
なお、「振り子の等時性」は古くから言われているが、実は「振り子は、いつも等時的に動いている」と見なしてよいのか、(ガリレオなどの物理学者が、物を基準に時間を計る、と恣意的に決めて)「ある(同一の)振り子が1回振れる間を、同じ時間と見なす」と方針を定めて理論体系を組み立てたのか、つきつめて科学哲学的に考察する場合、難しい問題をはらんでいる。例えば冬至の日の出から日の出の間に揺れる振り子の回数を観測してみた場合に、それがある年に増えた場合に、「1日の長さが伸びたのか?」(「地球の回転の速度が遅くなったのか?」)と考えるのか、「昨年と比べて振り子の1回の揺れにかかる時間が短くなったのか?」というのは、この観測だけでは解決できない。ほかの様々な観察をいくつも行い、総合的に判断せざるを得ない。ひとつの振り子だけを用いている場合でも複雑であるが、複数の振り子、あるいは周期的な運動を「時計」として用いている時に、それぞれが「ズレ」た場合、それが何を意味しているのか解釈する場合も、実は複雑になる。
あらかじめ想定している法則にあてはまらない事例が見つかった場合、どう判断するのか、という難しいテーマがある。
同じ事象を眼の前にして、どのような判断・行動をするのか、ということで結果が大きく異なってくる。
数学の四則演算の場合、任意の二つの数の間でどの演算もできるし、どの場合も答えは一つ求められる。しかし、0で除算することだけはこの例外である。この場合、例外は明らかにこの一つだけである。
数学においては、命題(全称命題)にひとつの例外をあげることができれば、その命題は正しくないと判断する。その場合は例外とは言わず、反例という。
その数があまりにも少なく、またそれを取り除いた範囲でのその命題の正しさが証明できるのであれば、例外をあらかじめ明記する形で命題を記述する方法もある。
プログラミングでは、プログラムがある処理を実行している途中で、基本的に前提としていない状態、異常な状態が生じることを「例外」という。
例えば次のような状態である。
例外が発生した場合に、現在の処理を中断(中止)して別の処理を行うことを例外処理という。
プログラミング言語としては、JavaやC++などが例外機構を備えている。Javaでは例外が生じた場合の処理のしかたをあらかじめ記述することで、処理が全体として破綻しないようにすることができる。(「catch文」にどのような例外か記述し、「throw」以降に、それの処理を記述しておくことができる)
Windowsでのブルースクリーンが表示される「例外0E」なども例外にあたる。
また、CPUが0での除算などの実行できない処理に遭遇することについても言う。UNIX 系 OS で「ハードウェア例外」が発生すると、カーネルはプロセスに対して SIGFPE や SIGSEGV などのシグナルを生成する。
自然言語に文法や語法にも例外がある。
たとえば英語の動詞の規則活用には、例外である不規則活用が存在する。
例外のパラドックスは、嘘つきのパラドックスやラッセルのパラドックスに似たパラドックスで、『例外のない規則はない』という規則たる命題を仮定し、その命題に対して
このように、例外のない規則に例外があると仮定してもないと仮定しても自己矛盾してしまう。ゆえに、元の命題自体が偽である。そこで、『例外のパラドックスはこの法則自体にも適用できる』と付け足す例もあるが、付け足したとしても元の命題を真にすることはできないため、これはナンセンスである。
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