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この項目では、燃焼物質について説明しています。飲食物の薬味については「加薬」をご覧ください。 |
火薬(かやく)や 爆薬(ばくやく)は、熱や衝撃などにより急激な燃焼反応をおこす物質(爆発物)のことを指す。狭義には最初に実用化された黒色火薬のことであり、ガン・パウダーの英名通り、銃砲に利用され戦争の歴史に革命をもたらした。また江戸時代には 焔硝(えんしょう)の語がよくつかわれ、昭和30年代頃までは、玩具に使われる火薬を焔硝と言う地方も多かった。
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火薬と爆薬の分類方法には色々な種類があるが、日本の火薬類取締法上では「推進的爆発の用途に供せられるもの」を火薬、「破壊的爆発の用途に供せられるもの」を爆薬、火薬や爆薬を加工したもの(雷管、導火線、花火、銃砲弾、爆弾など)を火工品(かこうひん)と区別している。科学的な分類では、その燃焼速度が音速以下のものを火薬、音速以上のものを爆薬とする場合が多いが、まとめて火薬ということもある。また、さらに火薬を 推進薬(すいしんやく)、発射薬(はっしゃやく)、爆薬を 炸薬(さくやく)、起爆薬(きばくやく)、爆破薬(ばくはやく)、発光剤(はっこうざい)に分類することもある(日本以外の国では、容易に爆発しない安全な爆薬を「爆破剤」と分類することもある)。 いずれも爆発する物質であるため、本稿では火工品以外の全てを取り扱う。
通常の燃焼と同様に火薬を構成している物質が酸素と結びつくことで(これを酸化という)、火薬に蓄えられていたエネルギーが解放され、熱や光や衝撃が発生する。火薬の燃焼が通常の燃焼と異なる点は空気中の酸素を必要としないことである。例えばニトログリセリンでは炭化水素に結合した硝酸エステル (-O-NO2) が酸化剤の役割になっている。また、黒色火薬のような混合火薬では、燃料に硝酸カリウムなどの酸化剤を混合している。つまり、黒色火薬の場合、黒色火薬に含まれる炭、炭素を燃料とし、硝酸カリウムは反応を高速にする役割を果たしているに過ぎない。ちなみに、黒色火薬は硝酸カリウム、炭素、硫黄を配合して作る。混合火薬の場合、高効率で酸化反応を起こすため、酸化剤の配合比率を最適化することが重要である。また、組成中に酸素を含まなくても、フッ素のように酸化剤として働き、酸化反応を引き起こすことができる物質が存在する。マグネシウムとフッ素が結びつく反応は大きなエネルギーを発生するため、これらの原料を用いることで酸素を用いない火薬を作ることができる。[要出典]このような酸化反応で、大きな反応熱を発生する物質が火薬の材料に適している。こういった自己反応性物質は外部の酸素を必要としないため、二酸化炭素消火器のような酸素遮断による消火が不可能である。
火薬の反応には色々な種類がある。火薬にマッチなどで火をつけても、必ずしも爆発するとは限らない。一部の火薬では、マッチで点火してもロウソクのようにゆっくり燃えるだけだが、雷管で点火すると一瞬で全体が反応する(爆発)。またダイナマイトなどの一部の爆薬では、雷管の威力により低速爆発と高速爆発の2種類がある。ガソリンや木材が燃えるのを通常燃焼といい、火薬が高速で燃焼するのを爆発という。さらに音速以下の爆発を「爆燃」、音速以上の爆発を「爆轟(ばくごう)」と分類している。「爆轟」状態では燃焼速度が音速を越えるため、衝撃波を投射し周囲の物体を破壊する。「爆轟」発生の有無によって火薬と爆薬を分類することもある。「爆轟」によって生まれた衝撃波が弱まったものが「爆音」になる。
火薬が燃焼を始めると、反応熱により酸化反応が促進され、継続的な燃焼が起きる。これに対し爆薬では、酸化反応は爆轟の衝撃波による断熱圧縮によって促進される。このため、熱伝導に律速されることのない急激な燃焼が発生する。
火薬類の最大の特徴はそのエネルギーの発生速度にある。単純な熱量の比較だけなら火薬類よりもガソリンなどの方が大きい。しかし、半径 10cm の球体のトリニトロトルエン (TNT) を鋳造した場合、この塊が爆轟して反応が終わるまでの時間はわずかに 14.7ナノ秒しかかからない。
半径 10cm の鋳造トリニトロトルエンの重量は 6.49kg であり、この爆発熱は約1.17×107 J である。これだけのエネルギーがわずか 14.7ナノ秒の間に放出されるのである。
つまり、エネルギーの発生速度という点で見れば 1.16×1012J/秒となり、これは日本の総発電能力の数倍にもなる数字である。
こうした火薬の能力は主にその分子構造に依存している。一般に複雑で緻密な構造の分子ほどその中に蓄えられているエネルギーが大きく、高い爆発力を持つ火薬となる。近年ではヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン (HNIW) の様に、コンピューターシミュレーションにより理想的な分子構造を決定し、それを基に合成された高性能火薬も登場している。
火薬は主に、以下の用途に用いられている。
銃や大砲は火薬の燃焼により発生する圧力によって、銃弾(砲弾)に大きな初速度を与え、目標物を破壊する。
固体燃料のロケットでは火薬の燃焼が長時間持続し、燃焼ガスの反作用により飛翔する。所定の時間、所定の推力を安定して得るために、ロケット内部の火薬の固まり(グレイン)の形状を最適化することが非常に重要である。
爆薬は「爆轟」によって発生する衝撃波や破片によって周囲の物体を破壊する。爆弾や砲弾の弾頭として軍事用に用いられる他、発破(はっぱ)として鉱物資源の採掘やトンネルの掘削に用いられる。外国ではビルや野球場のスタンドなどの建造物の解体に際して、内部に爆薬を仕掛け、崩すように一気に解体する手法が行われる。通常、爆薬に火をつけてもゆっくりと燃えるだけで「爆轟」にはならない。爆薬を起爆するには、雷管や信管を用いて爆薬に衝撃波を与える必要がある。
なお、軍事において単に火薬と呼ぶ場合は装薬(発射薬)を指し、破壊用の火薬は「爆薬」もしくは「炸薬」と呼ばれるのが普通。
導火線、雷管として爆薬の起爆等に用いられる。
花火は、火薬に炭酸ストロンチウム(紅色)や硫酸銅(青色)などを混ぜることで炎色反応により、様々な色で発光する。
金属容器などを作るとき、水中に爆薬を入れて爆発させて金型に押し付けるという方法がある。 また、通常溶接できない2種類の金属を、爆薬の力で溶接させる爆発圧接もある。
瞬間的な大電力を得る方法として爆薬発電機が開発されている。
兵器における照明弾、信号弾などで使用され、強い光を発生させる、特殊火薬。黒色火薬にアルミニウム微粉末を適当量(科学的な値に基付く)混合させ、燃焼することによって、強力な光を出すことが出来る。
また、粉末単体では写真などのストロボ撮影の光源としても用いられた。
身近なところでは、車載されている発煙筒などがある。
ジェット戦闘機などの一部の航空機ではエンジンの初期起動に外部からの力が必要な物がある。この際、エンジンを起動させるための地上設備が無い場合の応急的な起動用に用いられる。
中国の唐代(618年 - 907年)に書かれた「真元妙道要路」には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすいことが記述されており、既にこの頃には黒色火薬が発明されていた可能性がある。
日本人が初めて火薬を用いた兵器に遭遇したのは13世紀後半の元寇においてである。当時の様子を描いた『蒙古襲来絵詞』[1]写本には、元軍が用いた「てつはう」と呼ばれる兵器が描かれている。「てつはう」は鉄球に火薬をつめた炸裂弾で、強力な弓の先端につけて発射された。ただし、この「てつはう」(とモンゴル兵)は江戸時代の加筆とする説もある[2]。
1250年代、モンゴル帝国がイラン侵攻した際、中国人技術者が操作する投石機で、火薬弾が投げられている[3]。1280年には、地中海東部のマルクス・グラエクスとシリアのハッサン・アッ・ラムマが中国の火器、火槍について記述している[4]。
また、イスラム文明圏のシリア、マムルーク朝でも火薬情報は豊富であった[5]。
1288年当時の青銅製の銃身が発掘されたことで、モンゴル支配下の中国が火槍から銃へ装備を変えたことが明らかになり、さらにこれまで銃は西欧発明と考えられてきたが、銃はモンゴル帝国を通じて、ヨーロッパへ伝わったとされる[6]。1326年のスウェーデンにおける壷型の銃も発見されているが、これはモンゴル帝国に支配されていた南ロシアから伝わった銃が変形したものと考えられている。同1326年にはフィレンツェで大砲が開発され、以後、ヨーロッパでは大砲が発達する。イベリア半島では1330年代までには銃だけでなく大砲も使用されていた[7]。
ヨーロッパで火薬を製造したのは13世紀イギリスのスコラ学者であるロジャー・ベーコンとされていたが、その火薬の製法の写本は偽書とされており現在は疑問視されている[要出典]。また、ドイツではベルトルド・シュバルツなる人物が火薬を発明したとされているが、これも伝説のようである。
14世紀には、イングランドやドイツに火薬工場があった。エリザベス1世(1558年 - 1603年)の時代、火薬製造はイングランド王室の専売事業であった。
19世紀までは火薬といえば黒色火薬のことを指したが、1886年にフランス人科学者ポール・ヴィエイユ (Paul Vieille) が無煙火薬を発明すると、火薬の主流は黒色火薬から無煙火薬へと急速に移り変わっていく。ヴィエイユの発明した火薬はニトロセルロースをエーテルとアルコールの混合液でゼラチン化したものである。当時の陸軍大臣ブーランジェ将軍の頭文字からB火薬と命名された。
ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベルは火薬王としても知られている。高性能爆薬であるダイナマイトをはじめ、無煙火薬のバリスタイトなどを発明し、大量生産を行った。
1543年、種子島に漂着したポルトガル人が、東南アジアで改良された、今日マラッカ式火縄銃と呼ばれる形式の鉄砲と共に、日本に火薬を伝えた。ただし日本において最初に火薬が使用されたのは13世紀の元寇襲来の際に登場した“震天雷”(てつはう)であり、14世紀頃には朝鮮に火薬の製造技術が導入され、同時期に日本にも黒色火薬の製法についての知識が伝来したと考えられており、応仁の乱で火薬使用の記述もある。(詳細は「擲弾兵」の擲弾の出現の項を参照)
当時の火薬は黒色火薬であるが、原料の硝石(硝酸カリウム)は湿潤気候の日本国内では天然に産出しないため、南蛮貿易で硝石を輸入し、火薬を製造していた。
当時の日本は高い鉄の精錬技術と鍛鉄技術を有しており、鉄砲製造は急速に普及し、大量生産が行われた。1575年の長篠の戦いでは、織田信長が大量の鉄砲を用いることで武田勝頼に大勝している(この頃、武器として銃を大量に所持していた国は日本だった) 。中国地方の口伝では本願寺門徒の間で蓬(ヨモギ)の根に尿をかけたものを一定の温度で保存することにより、ヨモギ特有の根球細菌のはたらきで硝酸が生成されることを発見したという。馬の尿とヨモギでそれは量産(当時にしては)された。これらは当時の軍事機密であったので厳重に守秘されて一般に広まることはなかったが、本願寺派に供給された火薬の主体であったようである。信長が驚いた本願寺の鉄砲の数は、実は弾薬の量に支配されるものであり、安価な硝酸がそれを支えたのである。
江戸時代に入り鎖国がなされると、国内で硝石を供給せざるを得なくなる。軍事用の火薬使用は激減したが、狩猟用として鉄砲が農山村に普及したため、一定の火薬の需要が存在したのである。汲み取り便所の壁から床下の土中に染み出した窒素に富む糞尿などから生じたアンモニアに亜硝酸細菌と硝酸細菌が作用するため、古い民家の床下の土壌には硝酸カリウムが蓄積している。これを原料とすることで硝石を生産した。床下土を用いた硝石の製造は江戸時代を通じて主流の方法であったが、同様に床下で硝石を生成する東南アジアの伝統的手法と異なり、豚などの家畜を大規模に飼育しない日本の民家では硝石の生成量が少なく、一度掘り出してしまうと20 - 30年間は採集できなかった。ちなみに、明治時代の秩父事件においては、困民党は火縄銃等を用いて戦ったが、その銃に用いる火薬は前述の方法によって硝石を調達し、製造したものである。
江戸時代の越中五箇山(現在の富山県南砺市)や飛騨白川村では、積極的に硝酸イオンを蓄積させた焔硝土を用いて硝石を生産していた。焔硝土を用いる硝石の生産方法は、1811年(文化8年)に加賀藩の命令によって五十嵐孫作が提出した「五ヶ山焔硝出来之次第書上申帳」に最も詳細に記されている。主としてこの文書によると、合掌家屋のイロリ近くの床下を掘り下げてヒエの茎・葉を敷き、その上に良質の畑土、蚕糞、麻の葉・タバコの茎など栽培植物の不要部分、ヨモギ・アカソ等の山草を積み重ね、その上に人尿を散布して焔硝土を調製する。焔硝土から水で硝酸イオンを抽出し、抽出液を木灰で処理し、濃縮した後冷却すると硝石が析出する。この方法は毎年の再生産が可能な優れた製造方法であった。
1733年(享保18年)には隅田川花火大会が初めて行われた。これ以降、例年開催されている。
明治時代に入ると、南米のチリから莫大な埋蔵量を有した天然の硝酸ナトリウムであるチリ硝石の輸入を始める。硝酸ナトリウムは黒色火薬の原料の1つである硝酸カリウムの代わりとして用いることができる。
また、富国強兵政策によりヨーロッパから盛んに近代的な火薬技術を導入するようになる。日本独自の火薬技術も発展し、日本海軍に制式採用された下瀬火薬は、その強力な破壊力から日露戦争では大活躍した。
チリ硝石の生成原因にはさまざまな説があり、確定していない。有機原因説としては、海草など植物起源説、野鳥の糞など動物起源説、無機原因としては稲妻など気象現象起源説、地殻活動による説などがある。現時点で最有力視されているのは、最後の説である。[要出典]
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