出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2013/08/21 12:06:48」(JST)
人種差別(じんしゅさべつ、英語: racial discrimination)、人種主義(じんしゅしゅぎ、英語: racism、レイシズム、人種差別主義)とは、恣意的に人間を分類して区別・差別することである。世界的、歴史的に、各種の事例が存在している。
「植民地」、「植民地主義」、および「奴隷」も参照
ローマ時代を古代欧州と定義するかは、欧州懐疑論者からしばしば聞かれる疑問である。仮に含めた場合、北アフリカの属州に居住する住民を通じて一定の異人種間の交流が見られたが、属州アフリカの大多数の住民はコーカソイド系のベルベル人であって、中南部の黒人種との交流はごく限定的なものであった。封建的無秩序といえる中世時代においては身近な貴族同士の対立が一番の関心事で、次に宗教的対立がより重要な課題であり、次いで民族対立が垣間見えるといった程度であった。なお肌の白さが優位性の印と考えられるようになったのは後世の話である。古代ローマ時代のガリアやゲルマンは文明の中心地であった地中海世界や中東から離れた未開地であり、ローマ人にとって金髪碧眼のコーカソイドは蛮族の象徴のように書かれた。
大航海時代以後の西欧人が新大陸のインディアン、サハラ砂漠以南のネグロイドを差別したことは歴史上では顕著である。また、同じ西欧人であってもアイルランド人など差別を受けた歴史をもつ民族も多い。風説などにより、一方の人種が生物学的に原始的であるとしたり、知能が劣る・野蛮であるとして、野生動物のように考えていた時代もある。大航海時代以後の西欧人は近代的な軍隊により世界の大半を侵略、植民地化していった。植民地支配を正当化するため西欧人の優勢が主張され「優等人種である白人が、劣等人種である非白人に文明を与えるのは義務である」とされた。この優位性は、「白人こそが最も進化した人類である」という価値観さえ生む結果となった(ラドヤード・キップリング『白人の責務』、セシル・ローズの“神に愛でられし国・イギリス”思想、ヒュー・ロフティング『ドリトル先生』シリーズの『アフリカゆき』『航海記』など)。この考え方は次第に肥大し、学術分野においても各人種間に特徴的な差異を「一方の人種が劣っている証拠」とする説が発表され、優生学の名で正当化された。この中にあって進化論は大いに捻じ曲げられ、後の文化人類学発達を大きく妨げたと考えられる。
反ユダヤ主義を掲げたナチスは、「セム人種」や「ユダヤ人種」という生物学的分類を主張し、主に民族的・宗教的な分類であるユダヤ人を生物学的にも区別しようとした。
サハラ砂漠以南のアフリカに集中的に居住していた黒人は古代においてアラブ人やペルシア人の奴隷として扱われた時期があり、人種差別の対象であった。イスラム圏の偉大な哲学者であるイブン・ハルドゥーンでさえも黒人を差別の対象としている。アッバース朝時代には南イラクの大規模農業で使役していた黒人奴隷が過酷な労働環境に不満を抱き反乱を起こしている(ザンジュの乱)。なおヨーロッパからアフリカを見た用語としてブラックアフリカがある。
大航海時代以降はヨーロッパ人が黒人を奴隷として使役した。ヨーロッパ人は主に西〜中央アフリカに住む黒人を奴隷として使役してきた。ヨーロッパ人及びアフリカ人の奴隷商人が戦争などで狩集め、ヨーロッパ人に購入された黒人は奴隷船の船倉に積み込まれ、新大陸等の市場へ輸送された。奴隷船船倉の条件は過酷であったので市場に着く前に命を落とす黒人もかなりの割合にのぼった。奴隷市場では商品として台の上に陳列され、売買された。彼ら黒人奴隷は人格を否定され、家畜と同様の扱いであった。軽い家内労働に従事できる者や奴隷身分から解放される者はごく少数だった。こうしたヨーロッパ人による奴隷制度は、1888年にブラジルが奴隷制度を廃止するまで続いた。こうして奴隷労働に支えられて成り立った世界的な商品がサトウキビと綿花であった。「新大陸」での極度に集約的な大量生産のために奴隷が好都合だった。
「ネグロイド#呼称とポリティカル・コレクトネス」も参照
詳細は「アメリカ合衆国の人種差別#アフリカ系住民に対する差別」を参照
「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」、「公民権運動」、「アフリカ系アメリカ人#アフリカ系アメリカ人への主な差別」、および「アメリカ合衆国の歴史」も参照
アメリカ合衆国は領土拡大の際の邪魔者として、インディアンを徹底的に排除する政策を採った。トーマス・ジェファーソンはインディアンの保留地(Reservation)への囲い込みを推し進め、アンドリュー・ジャクソンは「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と合衆国議会で演説した。軍人のフィリップ・シェリダンの「よいインディアンとは死んだインディアンの事だ」という発言や、ウィリアム・シャーマンの「インディアンを今年殺せるだけ殺せば、来年は殺す分が少なくて済む」といった発言は、合衆国の民族浄化の姿勢をよく表すものである。
「インディアン強制移住法」の違法を合衆国最高裁が認め、「インディアンは人間である」と判決文に添えたのは1879年になってようやくのことである。それ以後もインディアンは「Colored(色つき)」として1960年代までジム・クロウ法の対象とされたのである。
スペイン人侵入後の南米は、マヤ、アステカなどの征服地で彼らの国家を武力で滅ぼし、虐待・大量虐殺によって植民地支配し、インディアン、インディオを差別の中に置いた。
スペイン領では、ラス・カサスらキリスト教伝道師がインディアン保護に奔走するが、これは、結果的に労働力の代替としての黒人奴隷導入につながる。近代以降も白人、混血、インディアン(インディオ)で社会階層が分かれている国家が少なくない。
黄色人種は白人社会からは卑屈で劣った人種だと思われながらも、勤勉さや教育熱心な文化が評価され、確実に白人社会に食い込んでいったこともあり、20世紀後半以降は一方的な搾取を受ける事態には至っていない。北米やイギリスなどにおける東アジア系移民の学歴や生活水準は有色人種の中にあって高く、平均して白人をしのぐことすら珍しくない。その現れとして、アメリカの大学選考においてアファーマティブ・アクションによる優遇は無く、むしろ不利に設定されている。
一方、20世紀前半のアメリカやカナダでの中国系移民や日系移民の境遇をみると、苦力などの奴隷的境遇に落とされたり、また苦労して経済的地位を築いた後も黄禍論を背景とした排斥の動きに遭遇したという歴史がある。特に日系人は太平洋戦争中は市民権を停止され強制収容所に収容されるに至った。同じように米国と交戦していた他の枢軸諸国出身者やその子孫はほとんど制限をうけることはなかったため、有色人種の日本人に対する人種差別とみなされている。
「日系人の強制収容」および「アメリカ合衆国の人種差別#アジア系住民に対する差別」も参照
韓国では侵略され滅亡した百済、任那系耽羅系住民に対する差別が激しく、パンチョッパリ、ペクチョンなどと蔑称され古来より差別を受けている。現代においてもこれらの人々への差別と迫害は続いており聞慶虐殺事件、済州島四・三事件など少数民族に対する虐殺が行われ、大量の少数民族が日本へ難民として流入した。
「日本の民族問題」も参照
日本は16世紀に初めてヨーロッパ人と接触した。当時の日本人にとって白人や黒人は大変珍しい存在だったため、驚きや奇異の目で見る傾向があった。白人のことはその外見から「紅毛(毛髪の色による)」「毛唐(毛深いことによる。唐は中国唐王朝のことで、漠然と外国全般を指した言葉)」、又は中国の言葉を借りて「南蛮人(“南方の野蛮人”の意。主として東南アジア方面つまり南方から九州や琉球に渡航してきたため)」などと呼んでいた。
江戸時代にはオランダ人やイギリス人などは紅毛人、スペイン人やポルトガル人は南蛮人と区別されることが多かった。なお、欧米で奴隷扱いであった黒人は宣教師の従者として日本に連れられてきたのが最初とされるが、日本では当時の最高権力者織田信長の従者になるという破格の好待遇を受ける(ヤスケの項目を参照)。その一方で日本人はポルトガル・スペイン商人によって奴隷として輸出された。
鎖国をやめて文明開化をなしたあとでは、白人はその軍事力、科学力から畏敬の対象となる。逆に白人の世界観を受け入れたことにより、東洋人である自己認識に劣等意識を植え付けられる日本人も生まれた。また同時に、黒人やインディアンは「未開人」という白人の人種的偏見をそのまま受け入れることとなった。日本を含む東アジア地域に居住する黒人が少ない事もあり、その偏見はあまり表面化することなく、現代まで続くこととなる。[要出典]日露戦争後の日本は、非ヨーロッパ系国家として唯一の列強であり、欧米帝国主義から自分たちの権利を守るため人種差別反対の立場をとることが多かった[1]。 第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種差別撤廃条項を提案するも、イギリス・アメリカなどの議長拒否権により不成立に終わっている。しかし、満州で発生した朝鮮民族に対する襲撃・殺傷を伴った万宝山事件や、その翌日から日本統治時代の朝鮮で発生した中華街に対する襲撃や華僑・中国人に対する殺傷を伴った朝鮮排華事件は、日中関係に影を落とした。
第二次世界大戦では人種差別を国是とするナチス・ドイツと軍事同盟を結んだが、人種差別的な主張と政策には否定的非協力的であった。戦前から満州国にユダヤ人自治州を作る河豚計画が存在しており、三国同盟成立でそれが頓挫したあともドイツからの引き渡し要求には応じようとしなかった。そのため欧州から脱出するユダヤ人にとってソ連-満洲-米国他へのルートは重要なものとなっていた。日本では五相会議の決定や河豚計画などもあり、ユダヤ人の受け入れは国策となっており、人道上の理由から大量のビザを発給した外交官杉原千畝などもいる。
国連の人種差別撤廃条約の締約国により設置されている、人種差別撤廃委員会は、2010年3月「在日韓国・朝鮮学校に通う生徒を含むグループに対する不適切で下品な言動、及び、インターネット上での、特に部落民に対して向けられた有害で人種主義的な表現や攻撃という事象が継続的に起きている」ことへの懸念を、日本政府に対して表明している。[2]
詳細は「人種的差別撤廃提案」および「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を参照
「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める第20条の第2項については「市民的及び政治的権利に関する国際規約#個別的人権規定」を参照
アメリカの南北戦争は、奴隷解放戦争としての性格を性格の一つとして帯びていた。多くの黒人奴隷に経済基盤を支えられ、奴隷解放に反対していた南部の各州が敗れると、制度としてのアメリカの奴隷は、撤廃・解放されたが、実質的な差別は、根強く残った。第二次世界大戦後の世界では、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師による公民権運動が多くのアメリカ市民に影響を残した。
第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議では、日本が「人種的差別撤廃提案」を行なった。イギリスやオーストラリアが強く反対する中で採決が行われ、結果11対5で賛成多数となったが、議長のアメリカ大統領・ウッドロウ・ウィルソンが例外的に全会一致を求めた為、否決された。
1963年11月20日、国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際連合宣言」を採択。
1965年に国際連合が「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を採択、1969年に同条約が発効、1996年に日本で同条約が発効。
1976年に、「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める第20条の第2項を含む市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権規約)が成立した。
2001年、南アフリカのダーバンで開催された「国連反人種差別主義会議」(WCAR)では、南半球の国家代表たちによる人種差別、植民地主義、大西洋横断の奴隷売買、およびシオニズムに対する人種差別非難が相次いだ。会議は、パレスチナ人の権利保護要求、シオニズムに対する満場一致の非難を決議した。米国、イスラエルの代表団は、これに猛反発し、決議をボイコットした。
2009年4月20日からスイスのジュネーブで開催されたWCARでは、米国、イスラエルに加え、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、ポーランド、オランダがボイコットした。
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