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「馬」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「馬 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
ウマ | ||||||||||||||||||||||||
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尾花栗毛のウマ(ハフリンガー種)
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分類 | ||||||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||||||
Equus caballus Linnaeus, 1758 | ||||||||||||||||||||||||
和名 | ||||||||||||||||||||||||
ウマ | ||||||||||||||||||||||||
英名 | ||||||||||||||||||||||||
Horse |
ウマ(馬)は、ウマ目(奇蹄目) ウマ科に属する動物の総称。現生は、いずれもウマ属に属するウマ、シマウマ、ロバの仲間、5亜属9種のみである。狭義の「ウマ」は、このうち特に種としてのウマ Equus caballus のみを指す。
社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパンが家畜化したという説もある。
古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を桜肉(さくらにく)と称する。
学名(ラテン語名)は「Equus caballus(仮名転写:エクゥウス・カバッルス)」。equus、caballus ともにラテン語で「馬」の意[1]
目次
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首と頭が長く、長い四肢をもつ。角はない。各脚とも第3指を残し他の指は退化している。よく発達した蹄(ひづめ)をもち、硬い土の上を走ることができる。長い尾と、頭から首の上部にかけての鬣(たてがみ)を除くと、全身の毛は短いが、ある程度の寒冷地での生活にも耐えられる。優れた嗅覚をもつが、毒草や血のにおいなどを嗅ぎ分けることはできない。顔の両側に目が位置するため視野が広いが、反面、両眼視できる範囲は狭いため、距離感をつかむことは苦手とする。走るときに背中が湾曲しないため、乗用に用いることができる。 一般に、立ったまま寝る事でも知られるが、本当に安全な場所であれば、横になって休むこともある。
草食性であり、よく発達した門歯と臼歯で食べ物を噛み切り、すりつぶす。ウマは後腸発酵動物であり、反芻動物とは異なり胃は一つしかもたない。しかし大腸のうち盲腸がきわめて長く(約1.2m)、結腸も発達している。これらの消化管において、微生物が繊維質を発酵分解する。胆嚢がないことも草食に適している。 なお、日本ではウマはニンジンが好物だとされることが多いが、国によってリンゴや角砂糖(トルコ)など様々に言われており、硬くて甘味の強い食物全般を好むとされている。
寿命は約25年、稀に40年を超えることもある。繁殖可能な年齢は3-15/18歳。繁殖期は春で、妊娠期間は335日。単子であることが多い。
牡(オス)馬は歯をむき出しにして、あたかも笑っているような表情を見せることがある。これを「フレーメン」と呼び、ウマだけでなく様々な哺乳類に見られる。このフレーメンによって鼻腔の内側にあるヤコプソン器官(鋤鼻器)と呼ばれるフェロモンを感じる嗅覚器官を空気にさらすことで、発情した牝(メス)馬のフェロモンをよく嗅ぎ取れるようにしている。発情した牝馬の生殖器の臭いをかがせるとこの現象を容易に起こせるため、ウマのフレーメンに関する歴史的エピソードがいくつかある。また、ウマはレモンなどのきつい匂いをかいだり、初めて嗅いだにおいを嗅いだときにもフレーメンをし、牝馬もフレーメンをすることがある。[要出典]
知能は家畜の中ではかなり高い。脳の発達度を示す指標の一つである脳化指数は犬猫に次ぎ、少なくとも長期記憶は非常に高いことが知られている。乗り手(騎手)が初心者或いは下手な者であれば、乗り手を馬鹿にした様にからかったり、わざと落馬させようとしたりする行動をとる事もある。
逆に常日頃から愛情を込めて身の回りの世話をしてくれる人物に対しては、絶大の信頼をよせ従順な態度をとる。大切にしてくれたり何時も可愛がってくれる人間の顔を生涯忘れないといわれる。それを物語るつぎのような逸話がある。日中戦争中、農耕馬を軍馬として徴用された日本の農民が、自身も兵士として徴兵され中国大陸に送られた。数年後、戦地で偶然かつての愛馬に遭遇し、馬の方が自分を覚えて懐いてきた姿を見て涙し、周囲の兵士達もその姿を見て感動した話が残っている。また、1932年のロサンゼルスオリンピック馬術で、日本の五輪史上唯一の馬術での金メダルを取得した西竹一(通称バロン西)の愛馬ウラヌスは、その後、1944年に、余生を過ごしていた馬事公苑に、硫黄島の激戦地へ派遣直前の西が尋ねてきた折、西の足音を聞いて狂喜して、馬が最大の愛情を示す態度である、首を摺り寄せ、愛咬をしてきたという逸話も伝わる。なお、ウラヌスは硫黄島において西が消息不明となった後(西は激戦の中に消息を絶っており、正確な死亡日時に関しては不明)、後を追うかのように1945年3月28日に亡くなっている。[要出典]
計算をして答え数字の書いてあるカードを選ぶことの出来ると言われた馬(賢馬ハンスも参照のこと)が知られているが、実際は訓練によって、調教師の顔の表情と組み合わせて選ぶカードが決めてあり、調教師が示したいカードを馬がその表情から読み取って選んでいるのに過ぎない。これは馬は抽象的な思考能力はないが、微妙な人間の表情を読み取る認識能力は備えている事を示している。
詳細は「馬の毛色」を参照
馬の特徴の中でも、一見して最初に目につくのが毛色である。日本馬事協会は、栗毛、栃栗毛、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、芦毛、粕毛、駁毛(ぶちげ)、月毛、河原毛、佐目毛、薄墨毛、白毛の14種を定めている。
家畜馬では、鹿毛、栗毛が特に多い。家畜化以前は薄墨毛が多かったと考えられている。
毛色の他に個体の識別に使われるものとして白斑がある。白斑は主に頭部、脚部などに見られる白い毛の事で、毛色やその他の特徴(旋毛等)と合わせると無数の組み合わせがあり、個体識別に利用する事ができる。そのため血統登録の際記載が義務づけられている。代表的なものに、頭部では星・曲星・流星・環星・乱星・唇白・白面・鼻白・鼻梁白・作、肢部では白・半白・小白・微白・長白・細長白・長半白等がある。なお、白斑に至らない程度のものを刺毛という。
馬のつむじのことを旋毛(せんもう)という。位置に個体差があることから、白斑と同じく個体識別に利用する事ができる。位置によって「珠目」、「華粧」といった名称がある。
白斑・旋毛の詳細については馬のマーキング参照
右の図に基づき説明する。
右の図に基づき説明する。
ウマの前肢の構造を見ると、体の外側にあるのは肘から先の前腕のみで、上腕は体の内側にある(躯幹に密着している)。前腕を構成するのは橈骨と尺骨で、主に橈骨によって形成されている(尺骨の下半分は退化しており、橈骨とくっついている(癒合))。前腕の先には手根関節(前膝)がある。手根関節は7つの手根骨からなる。手根関節の先には中手骨がある。このうち最大のものが第3中手骨で、第2・第4中手骨は小さく退化している。第1・第5中手骨は退化して消滅している。第3中手骨の一部はその先にある繋骨(基節骨、第1指骨)とともに球節と呼ばれる関節を形成する。球節の後ろ側には種子骨がある。球節の先には指骨がある。指骨は繋骨(基節骨、第1指骨)・冠骨(基節骨、第2指骨)・蹄骨(末節骨、第3指骨)の3つの骨からなる。なお、ウマの指は第3指(ヒトの中指に相当)のみ存在する[2]。つまり、人間に当てはめるとウマは手足の中指の指先だけで歩いているという事になる。
後ろ脚の構造を見ると、大腿骨があり、その先に膝関節(ヒトの膝に相当)がある。膝関節の中には膝蓋骨がある。その先にあるのが下腿で、脛骨と腓骨からなるが、腓骨は前脚における尺骨と同様下半分は退化して脛骨にくっついている。その先にあるのが飛節と呼ばれる大きく屈曲した関節で、ヒトの足首に相当する。その先は前脚とまったく同様の構造をしており、第3中足骨が大きく発達した中足骨、球節、指骨(趾骨)と続く[3]。
詳細は「ウマの進化」を参照
ウマ科は主要な系統の化石証拠が豊富であり、そこからその進化史が跡付けられている。最古の化石は、北米で5,000万年前(始新世)の地層から発見されたヒラコテリウム Hyracotherium sp.である。ヒラコテリウムは、一般にはエオヒップス Eohippus という別名で知られる。ヒラコテリウムはキツネほどの大きさで、前肢は第1指がなく、後肢は第1と第5指が退化している。森林に生息し、葉食性(ブラウザ)であったと考えられている。
その後、始新世のオロヒップス、エピヒップス、漸新世のメソヒップス、ミオヒップス、中新世のパラヒップス、メリキップスという系統進化が明らかになっている。約1,000万年前(中新世前-中期)のメリキップスは、真の草食性を示す高冠歯を獲得したことと、より高速での走行を可能にした下肢骨(尺骨と橈骨、脛骨と腓骨)の癒合の2点で画期的であった。当時は乾燥気候が広がるとともに大草原が拡大しつつあり、メリキップスの出現は、草原への進出の結果だった。
約400万年前(中新世中-後期)のプリオヒップスは、第2・第4指を完全に消失させることで指が1本になり、現在のウマに近い形態をしていた。ウマの仲間は、更新世の氷河期にベーリング海を渡り、ユーラシア大陸やアフリカ大陸に到達し、現在のウマであるエクウス(ウマ属)に分化する。
南北アメリカ大陸に残ったウマ科の動物は、氷河期に絶滅した。ミオヒップスやメリキップスからも多様な種分化が起こり、ウマ類は一時、大きな発展を示したが、系統の大半はすでに絶滅し、現存する子孫が、ウマ、シマウマ、ロバの仲間のみとなっている現状は、反芻類の繁栄と対照的である。
ウマ類は反芻類に比べ、植物を消化してタンパク質に再構成する能力が劣っているため、反芻類に駆逐されたものと考えられているが、ウマは高い運動能力を獲得することで生き残った。野生のウマはほとんど絶滅に近いが、内燃機関が発明されるまでの長い間、人類にとって最も一般的な陸上の移動・運搬手段となることで、家畜動物として繁栄した。
馬は31対の常染色体と、XYの性染色体、計32対64本の染色体を持つ。この他に細胞小器官ミトコンドリアに小さな環状(約1万7千塩基対)のDNAを持っている。馬ゲノムプロジェクトは、犬や牛など他の主要な家畜に比べれば若干遅れたが、2006年に開始された。このプロジェクトでは、日本の競走馬総合研究所も参加している。
約18億円の巨費を賭けたこのプロジェクトでは、2007年2月にまず雌のサラブレッドについて全塩基配列の解読を完了した。総配列は約27億塩基対、遺伝子の総数は約21000個と考えられている。現在読まれているゲノムは全て雌のものであり、Y染色体の配列は決定されていない。
2009年、同定された遺伝子は2万322個であることが発表され、このうち約4分の3に当たる1万5027個についてヒトの遺伝子と一致することが判明した。
「馬の品種の一覧」も参照
ウマの分類に関してはいくつかの方法があるが、どの分類方法も曖昧さをはらんでいる。動物分類学的にはこれらすべてがウマ(正確にはイエウマ)という単一の種である。現在は主に登録された血統に基づいて分類を行うのが主流である。たとえば、サラブレッドとして然るべき団体から登録を受けたウマがサラブレッドであり、サラブレッドであれば軽種である。仮にこれとまったく同一の遺伝子を備えていたとしても登録がなければサラブレッドとは認められない。
現在では、野生種はほとんど絶滅したとされる。アメリカのムスタングや、宮崎県都井岬の御崎馬などは、半野生状態で生息しているが、いずれも家畜として飼育されていたものが逃げ出し、繁殖したものである。
モンゴルに生息する「タヒ」(モウコノウマ:Equus ferus przewalskii)は、現在、世界で唯一とされる真の野生ウマであるが、1968年以降、生息が確認されなくなり、本国では一度絶滅したとされる。その後、海外の動物園で飼育されていたものを里帰りさせ、自然保護区のホスタイ国立公園内で繁殖を重ね、200頭を超えるまでになっている。
主に乗用や、乗用の馬車をひくために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。
軽種と重種の中間的な性質を持ち、軽快さと比較的温厚な性質を持つ。
主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。
北海道特有の競馬競走の一種、ばんえい競馬で用いられているのは、この重種でもペルシュロンやベルジャンの混血馬や、これらと北海道和種などの在来種の混血(重半血)が多い。軽種馬以外の登録を管轄する日本馬事協会では、平成15年(2003年)度以降に生産されるばんえい競馬向けの馬については、純系種同士の馬による配合馬のみ一代限りで「半血(輓系)種」とし、それ以外については「日本輓系種」として登録されている。
ポニーは、鬐甲(きこう)までの高さが147センチメートル以下の馬の総称である。かつては、14ハンド2インチ(14.2ハンドと表記する)=約147センチ(1ハンドは4インチ=10.16センチメートル)に満たないウマをポニーと称し、それ以上のものを馬として機械的に分類していた。近現代になって血統登録による品種の分類が確立するまでは、例えば下に示すシェトランドポニーでも大柄であれば「馬」と考えられていた。今でも日常的には、品種に関わらず小柄な馬をポニーと称することが多い。
詳細は「日本在来馬」を参照
日本在来種は以下の8種。北海道和種以外は非常に飼育頭数が少ない。日本では馬の品種改良の概念が存在しなかったため、時代が下るごとに小型化する傾向があり[要出典]、ファラベラのような小型ポニーや、シェトランドポニーのような中型ポニーではなく、蒙古馬系に属する比較的大型のポニーに含まれる。
「馬の家畜化」も参照
Equus(エクウス:ウマ属)の学名で呼ばれるウマやロバの直接の先祖は、200万年前から100万年前にあらわれたと考えられている。ヒトは古い時代からウマを捕食し、あるいは毛皮を利用していたことが明らかにされており、旧石器時代に属するラスコー洞窟の壁画にウマの姿がみられる。純粋な野生のウマは、原産地の北アメリカを含め、人間の狩猟によりほとんど絶滅した。
紀元前4000年から3000年ごろ、すでにその4,000年ほど前に家畜化されていたヒツジ、ヤギ、ウシに続いて、ユーラシア大陸で生き残っていたウマ、ロバの家畜化が行われた[4]。 これは、ウマを人間が御すために使う手綱をウマの口でとめ、ウマに手綱を引く人間の意志を伝えるための道具であるはみがこの時代の遺物として発見されていることからわかっている。同じく紀元前3500年ごろ、メソポタミアで車が発明されたが、馬車が広く使われるようになるのは紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることができるようになってからである。
馬車が普及を始めると、瞬く間に世界に広まり、地中海世界から黄河流域の中国まで広く使われるようになった。これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、戦車として軍隊の主力となった。また、ウマの普及は、ウマを利用して耕作を行う馬耕という農法を生んだ。
一方、メソポタミアからみて北方の草原地帯ではウマに直接に騎乗する技術の改良が進められた。こうして紀元前1000年ごろ、広い草原地帯をヒツジ、ヤギなどの家畜とともに移動する遊牧という生活形態が、著しく効率化し、キンメリア人、スキタイ人などの騎馬遊牧民が黒海北岸の南ロシア草原で活動した。騎馬・遊牧という生活形態もまたたくまに広まり、東ヨーロッパからモンゴル高原に至るまでの農耕に適さない広い地域で行われるようになった。彼ら遊牧民は日常的にウマと接し、ウマに乗ることで高い騎乗技術を発明し、ウマの上から弓を射る騎射が発明されるに至って騎馬は戦車に勝るとも劣らない軍事力となった。遊牧民ではないが、紀元前8世紀にアッシリアは、騎射を行う弓騎兵を活用して世界帝国に発展した。中国では紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が胡服騎射を採用し、騎馬の風習は定住農耕民の間にも広まっていった。さらに騎乗者の足や腰を安定させるための鐙(あぶみ)や鞍(くら)が発明され、蹄鉄が普及して、非遊牧民の間でも、西ヨーロッパの騎士や日本の武士のような騎兵を専門とする戦士階級が生まれた。
15世紀から16世紀に進んだ火薬・銃の普及による軍事革命は騎士階級の没落を進めたが、騎兵の重要性は失われず、また物資の運搬にもウマは依然として欠かせなかった。各国は軍馬に適したウマを育成するために競馬を振興し、競馬を通じて馬種の改良が進められた。
やがて大航海時代に入り、白色人種はアメリカ大陸に到達した。彼らが手にする鉄器や火薬の威力、乗りこなす馬の機動力や威圧感、そして彼らが持ち込んだ天然痘などの伝染病はそれらを知りえなかったアメリカ先住民を恐怖に陥れ、白人による中米や南米の民族の征服は短期間で完了。結局、インカ帝国やアステカ帝国など、独自の文明をもって栄えていた社会はほぼ壊滅させられる。しかしスー族など北米のインディアンの中には、馬の機動性をいち早く取り入れ、生活様式を向上させるものもあった。
20世紀に至り、2度の大戦を経て軍事革新が進んで軍馬の重要性は急速に失われていったが、軍隊、警察においては儀典の場で活躍している。さらに競馬・乗馬は娯楽、スポーツとして親しまれ、世界では現在も数多くの馬が飼育されている。また近年では、世界最小のウマであるアメリカンミニチュアホースを盲導犬のウマ版と言える盲導馬として使用する試みも始まっている。その他、乗馬を通じ心を癒すホースセラピーも注目を浴びている。
先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。わが国に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期ではないかといわれ、4世紀末から5世紀の初頭になって漸く乗馬の風習も伝わったとされる[5]。
高千穂地方には、これより以前の神代の時代の神武天皇が龍石という馬に乗っていたとか、垂仁天皇の時代に野見宿禰が馬の埴輪を作ったとか、ヤマトタケルも東征に際して馬に乗っていたとか、神功皇后が朝鮮半島を攻め(三韓征伐)、降伏した新羅王が自ら馬飼いになる事を申し出て、鞭や馬の手入れに使う刷毛や櫛の献上を誓ったといった伝承も存在する。
しかし、これらの神話や伝承は馬事文化の始まりを示す学問的な物証とは考えられていない。
考古学的には縄文時代の貝塚から発見された馬骨が存在しているが、これはフッ素年代法による検討により、縄文期の馬骨ではなく鎌倉時代の土坑に埋葬された馬骨が貝塚中から発見されたのではないかとする説が有力となっており、弥生時代以前の日本列島に馬が存在し馬産が行われた証拠となる馬骨や馬具等は発見されていない。
「うま」という言葉自体、昔から和語と認識され訓読みとされてきた(今でも教科書・辞典等では訓読みとされている)が、馬の「マ」という字音が転じたものというのが定説である。
一方、3世紀前半から中期にかけての日本について記述した『魏志倭人伝』では倭国には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいないとの記述があり、これを信頼するならば当時の倭国には馬が存在しなかったことになる。
考古学的に馬事文化の存在を示す国内最古の遺物は、箸墓古墳(3世紀中頃)の周壕から出土した木製輪鐙である。4世紀初めの土器と共に出土したため、このころに投棄されたと推定される。
しかし、この木製輪鐙だけが他の出土馬具に比べ出現時期が余りにも早いため、この時期に馬事文化が広く普及していたとは考えられない。大きな権力を持った者だけが所有できた稀少な存在として考えられる。
4世紀末から馬骨・馬具の出土は古墳の築造と連動して東国など広範囲で確認されており、この頃に馬事文化が大陸から日本へと運ばれたのではないかとされている。
5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡、鐙などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。
その後の古書や伝承には馬にまつわる記述がみられる。『日本書紀』にはアマテラスが岩戸に隠れたのはスサノオが斑駒の皮を剥いでアマテラスの機織小屋に投げ込み、機織女が驚いて死んだためであるとのくだりがある。『古事記』では、スサノオの息子であるオオクニヌシが出雲国からでかける際に鞍と鐙を装した馬に乗っていたと書かれる。
大化の改新(646年)による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では騎馬隊が戦いに登場している。
『出雲国風土記』ではこの頃、既に神格化された大国主に馬肉を奉納したと記されており、既に馬肉食の文化も存在していたことが伺えるが、大化の改新に際して馬肉食も禁止されている。また『日本書紀』天武天皇5年4月17日(ユリウス暦:676年6月3日)のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食を禁止されている。
平安時代には、いわゆる競馬が行われていたというはっきりとした記録があり、盛んに行われていた。「競馬式(こまくらべ)」、「きおい馬」、「くらべ馬」、「競馳馬」等と称して、単に馬を走らせて競う走馬、弓を射る騎射などが行なわれ、勝者と敗者の間では物品をやり取りする賭け行為が行われる場合もあった。この競馬の起源は尚武(武術の研鑽)にあったと考えられるが[6]、平安時代の貴族社会では、もっぱら神事などの行事事、娯楽へと変遷したと考えられる。宮廷儀礼として様式化された「競馬」はやがて神社にも伝わり、祭礼としての競馬も営まれるようになった。このなかでは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で毎年五月に行われる賀茂競馬が有名である。賀茂競馬は古代から中世を通じて継続し、応仁の乱による荒廃の際でも万難を排して開催され、日本の馬事文化ではもっとも歴史のある行事とされる。また藤原道長は馬を好み度々天皇の行幸を仰いでまで馬比をおこなっている。 また、平安時代の大乱天慶の乱の平将門は騎馬に巧みで、関東平野を中心に騎馬による機動的な戦闘を行ったとされ、その後の源平合戦でも関東地方の武者達が騎馬に巧みであったことが平家物語などに記述されている。馬は金と並んで東国の産物とされ、「後撰和歌集」には尾駮(おぶち)の牧が歌われ、藤原秀衡が木曾義仲に軍馬を贈る等、軍事物資としても貴重な存在であった。
10世紀に武士が誕生すると、大鎧を着て長弓を操る武芸、いわゆる「弓馬の道」が正当な武士の家芸とされ、朝廷や国衙による軍事動因や治安活動は、この武士の騎馬弓射の戦闘力に依存するようになった。またに古代に於いて直刀だった刀剣が、馬上での斬撃に適するよう、刃に反りがつけられ日本刀への進化を促した。彼ら平安時代半ばから鎌倉時代にかけての武士の馬術への深い関心は、軍記物語である『平家物語』に記された一ノ谷の戦いで馬に乗ったまま崖を駆け下りた源義経の鵯越え(ひよどりごえ、なお畠山重忠は馬を背おって下りたという)などの逸話によって多くの日本人によく知られている。馬事はふたたび武術としての性格をもちはじめ、武士のたしなみとして「競馬」、騎射、流鏑馬、犬追物などが盛んになり、やがて鎌倉競馬として厳格に体系化された。武士の騎乗戦闘の様子や騎乗抜刀の様子は数多くの絵画史料で見る事ができる。
『蒙古襲来絵詞』には白石通泰勢百余騎の騎馬隊が騎射をしながら敵陣に突進する様子が描かれている[2]。室町時代以降大坪流馬術の「乗用三段」に見られる騎馬隊で突撃して敵陣を切り崩すような集団騎馬戦術が発達していった。大坪流馬術は戦国時代・江戸時代を通じて多くの武士が学ぶ軍事的素養となっていた。江戸時代初期に描かれた『江戸図屏風』には御鞭打といわれる皮竹刀を使った騎馬集団による軍事演習の様子が描かれている[3]。また、領主としての土着性が強かった初期の武士にとっては、馬が排出する馬糞は自己が経営する農地の肥料としても貴重なものであった。
この武士による競馬の伝統は中世を通じて維持され、政治史にあわせた盛衰はあるものの江戸時代中期まで続いた。特に徳川家康、徳川家光、徳川吉宗らは武芸としての馬事を推奨し、江戸の高田に馬術の稽古場をつくった(高田馬場)。
8世紀初頭に制定された大宝律令では馬寮(左馬寮・右馬寮)が設置された。また、8世紀の文武天皇の時代には、関東に大規模な御料牧場が設けられ、年間200~300頭規模の馬産が行なわれていた。御料牧場は、戦国時代に関東を制覇した北条氏政によって整備され、上総・下総の広い地域にまたがっていた。これを監督していた千葉氏は後に豊臣氏に滅ぼされて新領主である徳川氏の直轄地域(千葉野、後の小金牧・佐倉牧)となり、同氏が幕府を開いた江戸時代に入ると代官が設置されて最盛期には年間2000~3000頭規模の馬産を行った。これが明治時代の下総御料牧場の前身である。ただし牧場や馬産といっても、大陸の遊牧民、牧畜民によって発達し、現在も行なわれているような体系的なものではなく、大規模な敷地内に馬を半野生状態で放し飼いにして自由交配させ、よく育った馬を捕らえて献上するというやり方であった。この方法は、優れた馬ほど捕らえられ戦場に送り込まれることになり、劣った馬ほど牧場に残って子孫を残し、優れた馬ほど子孫を残しにくくなるため、現代の馬種改良とは正反対の方法だった[7]。このような手法で生産された馬は野駒と呼ばれた。一方、仙台や薩摩藩では、種馬として藩主の乗用馬が下賜され、管理された繁殖が行われた。こうして生産された馬は里馬と呼ばれた。
古い文書の記述を信用するのであれば、日本の馬は江戸期に小型化した。平将門の愛馬「求黒」が160センチ[8]もの大型馬で人を踏み殺したと言うのは誇張だとしても、平安期の名馬といわれる馬は概ね体高140センチ以上の馬格を有していた。奥州藤原氏が献上した名馬はみな体高150センチで高幹[9]とされた。戦国時代まで馬の大きさの基準は概ねこの程度であったが[10]、江戸末期の御料牧場の繋養馬は平均して10~15センチほど小型化していた[11]。
改良が全く行われなかったわけではない。徳川家では東南アジア経由で外国産馬をしばしば輸入しており、これを「日本の馬とは違って体が大きく、おとなしい」と称賛している。下北の蠣崎氏は15世紀から代々モンゴル馬を輸入したといわれており、[要出典]薩摩の島津貴久や、南部駒の産地を支配した伊達政宗は、ペルシャ種馬を導入して在来種の改良を行ったと伝えられている[12]。江戸時代の将軍徳川吉宗や家綱は諸外国から種馬を輸入し品種改良しようとした[13]。しかし、全体としての馬産の方法論は前時代のままであり、継続的な選抜と淘汰による体系的な品種改良という手法は導入されていない。これを象徴する出来事として知られているのが、江戸時代にフランスからアラブ馬を贈られた一件である。1863(文久3)年、14代将軍徳川家茂の時代にフランスで流行病によって蚕が全滅した際に、江戸幕府が代わりの蚕を援助した。この返礼として品種改良の一助になればとナポレオン3世からアラビア馬[14]16頭が贈呈された。しかし当時の幕府首脳にフランス側の意図を理解する者がおらず、珍貴な品扱いで全て家臣や諸侯等へ下賜してしまった[15][16][17]。明治に入ると、日本の小型の馬では欧米に対抗できないと考えた政府によって外国から多くの種馬が輸入され、日本の在来馬の改良に充てられた。
江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬に用いられるものが増えてきた。(既に中世から荷馬として多く用いられていた→馬借)西洋とは異なり日本では馬車は発達せず、馬に直接荷を背負わせる方法が主流であった。また、農馬は田の耕作や木材の搬出、副次的に馬糞を田畑への肥料とするため飼養された。なお、日本には明治に至るまで蹄鉄の技術が伝来せず、馬には専用のわらじを履かせていた。
明治に入り、明治4年6月5日(1871年7月22日)に平民の乗馬が許可され[18]、民間での娯楽としての乗馬の道が開けた。日清戦争・日露戦争以降には軍馬の改良をすすめるため軍馬資源保護法を制定し日本在来馬の禁止などの政策がとられ[19]、本格的な品種改良を伴う洋式競馬も創設された(詳しくは競馬の歴史 (日本)参照)。太平洋戦争後の経済復興期に日本国内の道路網の舗装が整備されて自動車が普及するまで、ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる最もポピュラーな実用家畜であり、ピーク時には国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。
昭和20年(1945年)、連合国軍最高司令官総司令部指令により国による馬の施策、研究、団体の解散と再編が実施された。
終戦直後の昭和25年(1950年)に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超すが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、昭和40年代初頭には30万頭に、昭和50年(1975年)には僅か42000頭まで減った。平成13年(2001年)の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18000頭にすぎない。※食肉用に肥育されるウマ(肥育馬)は、農用馬に分類されている。
平成17年(2005年)現在では日本在来馬は8種、約2000頭のみとなった。
なお、道路交通法上、馬が引く車および人の騎乗した馬は軽車両に分類される。
昔から馬を大切にしていた地方では現代でも、馬は「蹴飛ばす」=「厄を蹴飛ばす縁起物」などと重宝しているところもある。
詳細は「乗馬」を参照
詳細は「馬肉」を参照
モンゴル高原の遊牧民の間ではウマは重要な乳用家畜の一つであり、馬乳は馬乳酒(アイラグ)などの乳製品の原料とされる。
民間療法として、馬肉には解熱効果があるとされ、捻挫などの患部に湿布として使用される(民間薬)。女子柔道家の谷亮子が使用したことでも有名。また馬肉パックと称して美肌効果を期待する向きもある。また馬脂(馬油は商品名)は皮膚への塗布用のものが販売されている。人間に最も近い自然の油であるため、大やけど、日焼け、虫刺され、しもやけ、しみ、しわ、白髪等に効果があると言われる。
詳細は「馬毛」を参照
太く長いので、ヴァイオリンや胡弓、ヴィオール、二胡など擦弦楽器の弓毛に用いられる。またモンゴルの馬頭琴など、騎馬民族の擦絃楽器では弓毛に加え、弦も本来馬尾毛である。この他、織物に使用することがある。
詳細は「軍馬」および「騎兵」を参照
軍事に使用される馬。軍馬。歴史的には戦車(戦闘馬車)や騎馬兵の乗用動物として駆使され、モンゴル帝国が騎馬弓兵で世界を圧し、英国やフランスの騎士や日本の武士が弓馬を専らにした。やがて、鉄砲・大砲に代表される火器が普及すると相対的に騎兵の重要度は下がったが、それでも馬の突進力を生かした突撃は、時に勝敗を分ける事もあるほど強力な物であった。第二次世界大戦までは世界各国軍に当たり前に存在した。
アメリカの騎馬隊が有名で、アメリカ陸軍に歴史的経緯上、騎馬隊という名称が残り、軍パレードなどセレモニーに駆り出されるような場合以外はさほど活躍しない。 なお、今のところ実戦で最後に本格的に騎馬隊が運用されたのは、1945年(昭和20年)に行われた老河口作戦での騎兵第4旅団の戦闘であるといわれる。同旅団は日本最後の騎兵旅団である。3月27日に老河口飛行場の乗馬襲撃、占領に成功し、世界戦史における騎兵の活躍の最後を飾った[20]。
詳細は「騎馬警官」を参照
警察が市内パトロールのために使用した。現在でも一部の国の衛視が使っているが、日本では主に明治時代から昭和初期までであり、それ以降は警察車両に取って代わられたため殆ど無用となってしまった。
警視庁では伝統を重んじる姿勢から、第三方面交通機動隊の中に騎馬隊を維持しており、平成19年6月現在16頭の警察馬を徴用している。また、京都府警でも「平安遷都1200年」を記念して1994年2月10日に京都府警平安騎馬隊が創設されている。しかし、活躍の場はいずれも交通安全パレードの時の市中警戒に使用される程度である。
騎馬警官が市街地の警備や交通整理を担う場合もある。自動車と比べ環境を劣悪化させる排気ガスや騒音を出さないクリーンな乗り物であるが、乗馬者にとっての環境が未整備ということもあり、大々的には行われていない。海外では、ニューヨークやロンドンなどの大都市で使用されている。これは騎乗することにより遠くまで見渡すことができ、威圧感もあることと、もともと街中に乗馬のための設備がそろっていることによる。
なお、カナダ国家警察は現在でも王立カナダ騎馬警察を称している。
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なお、日本語で馬の鳴くのを特に「いななく」(動詞)ということがあり、古くは「いばゆ」(下二段動詞)といった。
中国の百家姓のひとつに「馬」(マー)がある。陸上競技の「馬軍団」(馬家軍)も、軍閥の馬家軍も馬姓の人の率いた集団である。 日本にも、「馬場」(ばば)、「白馬」(はくば)など、馬が付く姓がある。
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