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(州旗) | (州の紋章) |
州都 | (ウィーン) |
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最大の都市 | - |
州首相 | ミヒャエル・ホイプル (SPÖ) |
面積 - うち陸面積 |
414.89 km² (第9位) 395.49 km² (95,33 %) |
人口 - 総計 |
(2016年1月1日) 1,840,573 人 [1](第1位) |
与党 | SPÖ, Grüne |
前回選挙 | 2015年10月11日 |
次回選挙 | 2020年10月 |
連邦議会議席数 | 11 |
区 | 23 |
測地系 | 北緯48度7分-48度19分 東経16度11分-16度34分 |
最高点 | ヘルマンスコーゲル (542 m) |
最低点 | ローバウ (151 m) |
ISO 3166-2:AT | AT-9 |
ウェブサイト | [1] |
ウィーン[2](標準独: Wien(ヴィーン)、バイエルン・オーストリア語: Wean(ヴェアン)、仏: Vienne(ヴィエンヌ)、英: Vienna(ヴィエナ))は、オーストリアの首都。人口は182万6030人(2015年10月1日)。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。位置は、北緯48度12分5秒、東経16度22分38秒。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである。シュテファン寺院や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮(ホーフブルク、現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的にみても、上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。オスマン帝国の隆盛時にはヨーロッパからみてアジアへの入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。
その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。
また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となったことで有名な世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。
現在のウィーンは、国際機関の本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。
2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第16位の都市と評価された[3]。欧州ではロンドン、パリ、ブリュッセル、マドリードに次ぐ第5位。
ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
中世にもドナウ河沿いの交易地として発展したウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに都を移したことに起因する。1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。この時代にシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)やウィーン大学が建てられている。やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。一時はオスマン帝国による第一次ウィーン包囲(1529年)など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあったが、ハプスブルク家のもとで帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。
19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは農村からの人口流入により急激な人口増加を経験した。1869年に63万人であった人口は、1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではウィーンは、ロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。1873年にはウィーン万国博覧会も開催されている。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状の道路(リング)と置き換え、路面電車を導入するとともに、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。現在のウィーン旧市街の外観はこの改造によっている。
オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%あまりを占めるにすぎなかった。帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。
帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。
1914年に始まった第一次世界大戦は1918年にドイツ・オーストリア側の敗北をもって終戦した。ハプスブルク家の帝国は解体し、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、ポーランドなどが次々と独立、ウィーンは経済的困窮に追い込まれる。新しい共和国の首都となったウィーンでは社会主義系の市政が発足し、保守的な地方の農村部からは「赤いウィーン」と呼ばれて、両派の政治的確執は国政全体の不安定へとつながった。また、ほぼドイツ人だけの国となった新オーストリアで、東端に位置しなお濃厚な東欧色を残すウィーンは微妙な立場でもあった。このような時代をウィーンで過ごしたアドルフ・ヒトラーはやがてドイツで独裁者となり、やがてヒトラーは母国オーストリアをドイツに併合し(アンシュルス)、ウィーンは約700年ぶりに首都でなくなった。
1945年、第二次世界大戦でナチスは崩壊し、ウィーン攻勢でソ連軍に占領され、その後連合国の合意で米英仏ソ四ヶ国の共同占領下に置かれた。映画『第三の男』はこの時代のウィーンの雰囲気をよく伝えている。1955年にオーストリアは主権国家として独立を回復した。旧ハプスブルク帝国の継承国家のほとんどが共産圏に組み込まれる中で、オーストリアでは共産党は国民の支持を得られず、経済的には西側との関係を保ったまま永世中立国として歩むことになった。ブルーノ・クライスキー首相はウィーン国際センター(英語版)の建設を提案し、ウィーンをニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市にすることに成功した。ウィーンは国際連合ウィーン事務局として数々の国際機関の所在地となった。しかし鉄のカーテンにより、かつての後背地であった東欧を失ったウィーンの人口は、ゆるやかに減少を続けた。人口100万人以上の大都市のうち、20世紀を通して人口が減少したのはウィーンだけである。
1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2035年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。これは2004年に中東欧8ヶ国がヨーロッパ連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリアが加盟、その後もクロアチアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。
ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。このため2005年に法人税などが引き下げられた。
ウィーン市は現在バイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenterなどを積極的に整備している。またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。 他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。国際会議の開催件数では06年はパリを上回り世界1位であった。
市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は19世紀に大規模な治水工事が行われたことで、現在のようなまっすぐな姿になった。旧市街に接して、ドナウ運河が流れており、こちらをドナウ河であると誤解する観光客も多い。ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、近年左岸は地下鉄の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。
ウィーン市西部はウィーンの森として知られる森林地帯になっている。散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、現在は市民に開放されている。
元皇室の料地でヨーゼフ2世が一般市民に開放したプラーター公園があり、公園内に映画『第三の男』で有名な観覧車がある。
ウィーン中央墓地は帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。著名な作曲家の墓は一ヶ所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。
サンクト・マルクス墓地は、モーツァルトが埋葬された事で有名だが、遺骨は不明のため、現在は中央墓地に墓碑がある。グスタフ・マーラーの墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区のグリンツィング墓地にある。
ウィーンの気候はケッペンの気候区分によれば、海洋性気候と湿潤大陸性気候の変わり目に位置する。夏は適度な暑さで平均気温は22-26℃の範囲で経過し、最高気温は30℃を超えることもあり最低気温は15℃位である。冬は比較的寒く平均気温は氷点下付近まで下がり降雪も12月から3月にかけ見られる。春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。年間平均降水量は620mm程度で、ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で年平均降水量が700-800mmになる。平坦な東側は年平均降水量が500-550mmと市内では乾燥した区域である。
ウィーンの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 16.7 (62.1) |
19.1 (66.4) |
25.5 (77.9) |
27.8 (82) |
30.7 (87.3) |
35.9 (96.6) |
36.0 (96.8) |
37.0 (98.6) |
31.1 (88) |
26.4 (79.5) |
20.8 (69.4) |
16.1 (61) |
37.0 (98.6) |
平均最高気温 °C (°F) | 2.9 (37.2) |
5.1 (41.2) |
10.3 (50.5) |
15.2 (59.4) |
20.5 (68.9) |
23.4 (74.1) |
25.6 (78.1) |
25.4 (77.7) |
20.3 (68.5) |
14.2 (57.6) |
7.5 (45.5) |
4.0 (39.2) |
14.5 (58.1) |
日平均気温 °C (°F) | 0.1 (32.2) |
1.6 (34.9) |
5.7 (42.3) |
10.0 (50) |
15.2 (59.4) |
18.2 (64.8) |
20.2 (68.4) |
19.8 (67.6) |
15.3 (59.5) |
9.9 (49.8) |
4.6 (40.3) |
1.5 (34.7) |
10.2 (50.4) |
平均最低気温 °C (°F) | −2.0 (28.4) |
−0.9 (30.4) |
2.4 (36.3) |
5.8 (42.4) |
10.5 (50.9) |
13.5 (56.3) |
15.4 (59.7) |
15.3 (59.5) |
11.7 (53.1) |
7.0 (44.6) |
2.4 (36.3) |
−0.5 (31.1) |
6.7 (44.1) |
最低気温記録 °C (°F) | −19.6 (−3.3) |
−17.2 (1) |
−15.3 (4.5) |
−2.7 (27.1) |
1.0 (33.8) |
4.8 (40.6) |
8.4 (47.1) |
7.0 (44.6) |
3.1 (37.6) |
−4.5 (23.9) |
−9.6 (14.7) |
−18.1 (−0.6) |
−19.6 (−3.3) |
降水量 mm (inch) | 37.2 (1.465) |
39.4 (1.551) |
46.1 (1.815) |
51.7 (2.035) |
61.8 (2.433) |
70.2 (2.764) |
68.2 (2.685) |
57.8 (2.276) |
53.5 (2.106) |
40.0 (1.575) |
50.0 (1.969) |
44.4 (1.748) |
620.3 (24.422) |
降雪量 cm (inch) | 18.6 (7.32) |
15.6 (6.14) |
8.3 (3.27) |
1.5 (0.59) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
0.0 (0) |
7.9 (3.11) |
16.4 (6.46) |
68.3 (26.89) |
平均降水日数 (≥ 1.0 mm) | 7.3 | 7.6 | 8.3 | 7.5 | 8.5 | 9.1 | 9.0 | 8.0 | 7.0 | 6.0 | 8.3 | 8.2 | 94.8 |
平均降雪日数 (≥ 1.0 cm) | 13.9 | 10.0 | 4.0 | 0.4 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 2.7 | 8.3 | 39.3 |
平均月間日照時間 | 60.9 | 90.1 | 131.5 | 173.8 | 228.0 | 222.8 | 241.8 | 239.2 | 167.6 | 131.2 | 65.5 | 52.0 | 1,804.4 |
出典: Central Institute for Meteorology and Geodynamics[4] |
ウィーンは市であると同時に連邦州である。伝統的にオーストリア社会民主党(SPÖ)の牙城であり、市議会でも過半数を握っている。 市長(=州首相)は直接選挙ではなく市議会で選ばれ、現在はミヒャエル・ホイプルである。
前市長の故ヘルムート・ツィルクは「男はつらいよ_寅次郎心の旅路」に出演するなど親日家としても知られる。
2008年、プライスウォーターハウスクーパースが公表した調査によると、ウィーンの都市GDPは1220億ドルであり、世界第50位である[5]。金融業、観光業が盛んで、オーストリアの国内総生産の約5分の1を占める。21年から2年に1度開かれるウィーン見本市は、中央ヨーロッパの経済活動に重要な役割をはたしている。第二次世界大戦後のウィーンを特色づけるのは、外国人観光客の増加である。
ウィーン国際空港(空港コードVIE)
都心から東南東に約20キロメートル離れた、ドナウ河沿いのニーダーエスターライヒ州シュヴェヒャートにある国際空港。オーストリア航空グループ、Fly NIKI、Eurowingsがこの空港をベースに多くの路線を開設している。2015年の利用者は2277万5044人。冷戦期は小さな空港であったが、現在は西欧と東欧、中東を結ぶハブ空港として大きく成長している。フランクフルト空港を凌ぎ、最も多くの東欧路線をもつ空港である。3本目の滑走路の計画があるが、現在環境影響評価などの手続き中である。2009年には新しい鉄道駅が開業した。日本からは成田空港よりオーストリア航空便が就航している。
ウィーン・ミッテ駅よりノンストップ16分のCAT (City Airport Train) があるほか、Sバーンによってウィーン市内と結ばれている。またリムジンバスがウィーン西駅、南駅や、スロヴァキア、ハンガリー、チェコなどを結んでいる。 2015年にはリンツ方面からの長距離列車が中央駅経由で乗り入れを開始した。
西方のリンツやザルツブルク、そしてドイツ方面と結ぶA1はオーストリアの背骨といえる。これに南のグラーツやイタリア、スロベニア方面と結ぶA2は冷戦期に既に開通していた。90年代になり、ウィーン国際空港まで開通していたA4がブダペストまで延伸された。またA4から分岐してブラチスラヴァに至るA6が2007年に開通した。
2004年のEU拡大にともない、新規加盟国からの通過車両が増え、市内のA23では渋滞が激しくなっていたが、A4とA2を結ぶ環状道路の役割をもつS1が2006年4月に供用開始され、リンツおよびグラーツ方面からウィーン空港、ブダペスト方面への渋滞なしに行けるようになった。
ブルノ方面への高速道路A5は2010年2月にSchrickまで部分開通、併せて環状線S1の北部区間も開通した。 2013年にA5のチェコ国境までの開通が予定されている。
オーストリアの高速道路は、料金所をもたない。自家用車はVignetteと呼ばれる有効期限のあるシールを購入して貼らなければならないが、年間72ユーロと割安である。2か月有効や、10日有効のものもある。貼らないで走行していることが見つかると高額の罰金を徴収される。トラックについては車両に積載された装置により走行キロ数に応じて料金を徴収するシステムになっている。
主要幹線はオーストリア連邦鉄道 (ÖBB) により運行されている。政府から莫大な補助金を受け取りながらも赤字であるため、リストラが進められる一方、巨額のインフラ投資を行っている。これはEUの拡大による交通量の増大と、オーストリアの二酸化炭素排出抑制目標達成が極めて困難視されていることによるものである。
かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならない。また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。このため、全ての国際列車が発着するウィーン中央駅 (Wien Hauptbahnhof) が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区ができる。
ウィーン西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かうオーストリア西部鉄道はEUからTENの指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。このため現在、高規格路線化の工事が順次進められている。2008年末の新車両の導入により最高時速200キロで運行されている。ラインツ・トンネルの工事が完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れてるようになった。
また、ポーランド南部までのびている軌間の広いシベリア鉄道をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。
市内の主要駅は以下の通り。
市内にはUバーン(→ウィーン地下鉄)とSバーン(近郊電車)、路面電車(→ウィーン市電)およびバス路線がくまなく走っている。Uバーンと路面電車はウィーン市交通局が運営している。かつてウィーンは地下鉄の整備が遅れていたため、世界最大の路面電車王国であったが、現在地下鉄の整備も進み、路面電車は地下鉄の補完的な役割になりつつあるが、それでも尚市交通局の路線総延長は188km、路線系統は32系統と、大規模なネットワークを誇る。路面電車の車両はバリアフリーの超低床車(右上写真)が順次導入されている。これは通称ULFと称し、ポルシェ社のデザインで、世界一の超低床を誇る。ウィーン市21区にあるシーメンスで製作されたものである。また、オーストリア連邦政府の支援の下、貨物輸送を行っており、現在ウィーン市交通局の車両工場と車庫を結ぶ部品配給用の事業用列車が運行されている。2006年にはそれに加え、試験的ながら"ULF"を使用して、クリスマスシーズンのショッピング小荷物の配送を請け負った実績を残している。 ウィーン国立歌劇場横にあるオーパー停留所では、保養地であるバーデンまでの間を結ぶウィーン地方鉄道の電車が乗り入れてくる光景が見られる。
地下鉄はU1、U2、U3、U4、U6の5路線であり、このうちU4とU6は19世紀末のシュタットバーン (Stadtbahn) を1970年代末に地下鉄として改築・再利用したもの(一部区間は延伸)であり、建築家オットー・ワーグナーの手になる建築・インフラ群が現在も多く使用されている。他の3路線は1980年以降に新たに開通したものである。
2006年9月にはU1が北にLeopoldauまで、2008年5月にはU2が翌月開催されたサッカー欧州選手権決勝の会場であるスタジアムまで延伸された。2010年には更にドナウ川を超え、22区のAspernstraßeまで延長された。昔の飛行場跡地であるFlugfeld Aspernには新しいニュータウン Seestadt Aspernが建設中で、2013年にはU2が更にここまで延伸された。現在はU1の南部Oberlaaへの延伸が工事中で2017年の開業を予定している。
欠番となっているU5の建設計画も決定した。既存のU2の一部 (Karlsplatz方面〜Rathaus) をU5に転換し、それを更に北西部に向けて延伸するものである。延伸第一期はFrankuhplatzまで、第二期はAKHでU6と接続し、Elterleinplatzに至る。 U2は第一期はRathausから南進し、繁華街のNeubaugasseでU3と、PilgramgasseでU4と、MatzleinsdorferplatzでS-Bahnと接続させる。第二期は更にWienerbergのビジネスパークに至るという計画である。第一期の完成は2023年を予定している。
ウィーン郊外とウィーン市内を結ぶSバーンは増強計画があり、郊外からの通勤者が鉄道を利用するように、老朽化した駅を改築するなどの措置がとられている。また、地下鉄の終着駅付近を中心にパークアンドライド施設の整備が進められており、安い料金で丸一日駐車をすることができる。長期契約もある。
宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。
また、かつては世界屈指の学問の都であり特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出した他、カールス教会等、建築分野でも傑作が存在する。
ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍の忘れていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で現在でも多くの観光客を惹きつけている。なお、天津に天津飯が存在しないのと同様、ウィーンにもウィンナ・コーヒーなるものは存在しない。
ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。
ウィーンの歴史を反映して多数の美術館・博物館がある。
1365年創立のウィーン大学は現在のドイツ語圏で最古・最大の大学であり、教官や卒業生から11名のノーベル賞受賞者を輩出している。かつてウィーン大学医学部は医学研究において世界的な中心のひとつであった。例えば、精神科医のジークムント・フロイトや小児科医のハンス・アスペルガーなどを輩出しており、日本からも斎藤茂吉らが留学している。また世界で初めて胃切除を行ったのもウィーン大学教授のテオドール・ビルロートで、現代においてもビルロートの方法で手術がなされている。この際摘出された標本はウィーン大学で見学することができる。しかし、第二次大戦後はユダヤ人学者が流出したことや鉄のカーテンにより東欧からの人材の流入がとまり、アメリカの大学が著しい発展をとげたことにより、学問の中心としてのウィーンはその地位を失った。しかし現在は再び東欧やドイツなどからの学生の流入が多くなっている。学生数が著しく増加傾向にあるため、各大学の権限が拡大され、入学直後のセメスターを厳しくして選別を図る措置をとるほか、志望者の多い学科を中心に入学制限が順次導入されている。選考方法は主として入学試験による。 エゴン・シーレらの出身校であるウィーン美術アカデミーはヒトラーが受験して合格できなかったため、後に独裁者になる道を開いてしまったことでも知られる。アントニオ・サリエリが初代学長だった歴史があるウィーン国立音楽大学および、戦後市によって設立されたウィーン音楽院は多くの著名なクラシック音楽の演奏家を輩出している。この他に国立大学としてはウィーン経済大学、ウィーン工科大学、ウィーン農科大学、ウィーン医科大学(旧ウィーン大学医学部)、ウィーン獣医大学、グスタフ・クリムトの出身校であるウィーン応用美術大学がある。ウィーン経済大学 (WU) は13年にブラター内に移転。
従来のオーストリアでは大学は全て国立であったが、21世紀に入って私立大学 (Privatuni) を認める制度ができたため、多くの私立大学が設立されている。ウィーン音楽院(市立)やリンツのブルックナー音楽院のように既存の学校がこの制度で大学となったところも多い。
またオーストリア政府は、トップレベルの科学技術研究施設を目標に、Institute of Science and Technology Austriaを設立した。ウィーン郊外のクロースターノイブルクにあり、博士課程の学生およびポスドクを受け入れている。研究者の多くはアメリカやドイツなど国外から招かれており、教育、研究は英語で行われている。
ウィーンではモーツァルト、ベートーヴェンをはじめ、数多くの作曲家が活躍し、「音楽の都」と呼ばれている。
舞踏会の街でもある、ウィーンでは数多くの舞踏会がカーニバル(ファッシング)シーズン中に開かれている。
オーストリア・ブンデスリーガに属しているサッカークラブ、FKアウストリア・ウィーンとSKラピード・ウィーンが本拠地としている。
また、オーストリアを代表するスタジアムであるエルンスト・ハッペル・シュタディオンでは、UEFAの5つ星スタジアムとしてこれまでUEFAチャンピオンズリーグの決勝戦が4度開催された。2008年6月にスイスとオーストリアの共催で開かれたUEFA欧州選手権2008 (EURO 2008) の決勝戦もここで行われた。
市民の娯楽としてスケートなども盛んであり、冬季は通常のスケートリンク以外に市庁舎前広場にスケートリンクが開場する。
ほか
ウィキメディア・コモンズには、ウィーンに関連するメディアおよびカテゴリがあります。 |
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**ヴィーン3G輸液(200mLボトル)
リンク元 | 「酢酸リンゲル液」 |
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