出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2017/12/13 10:09:08」(JST)
この項目では、植物としてのカカオについて説明しています。食品としての加工の詳細については「ココア」をご覧ください。 |
カカオ | ||||||||||||||||||||||||
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カカオの実
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分類 | ||||||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||||||
Theobroma cacao L. | ||||||||||||||||||||||||
和名 | ||||||||||||||||||||||||
加加阿(カカオ) | ||||||||||||||||||||||||
英名 | ||||||||||||||||||||||||
Cacao |
カカオ(学名:Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。学名の Theobroma はギリシャ語で「神 (theos)の食べ物 (broma)」を意味する[1]。
樹高は4.5 - 10メートル程度。本種の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要である。標高約300メートル程度の丘陵地に自生する。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。 樹齢4年程度で開花し、直径3センチメートル程度の白い(品種によって赤~黄色味を帯びる)幹生花を房状に着ける。結実率は1%未満。花期は原産地では周年、栽培地では気温による。日本では5月以降に開花することが多い。
果実は約6か月で熟し、長さ15 - 30センチメートル、直径8 - 10センチメートルで幹から直接ぶら下がる幹生果で、カカオポッドと呼ばれる。形は卵型が多いが、品種によって長楕円形、偏卵型、三角形などで、外皮の色も赤・黄・緑など多様である。中に20から60個ほどの種子を持ち、これがカカオ豆 (cacao beans)となる。種子は40 - 50%の脂肪分を含む。果肉はパルプと呼ばれる。
収穫期は産地によって異なるが、概ね年2回で乾期と雨期に行われ、収穫された果実は果皮を除いて一週間ほど発酵させ、取り出されたカカオ豆は、ココアやチョコレートの原料とされる。
現在栽培されているカカオの品種は、3系統が知られている。
西アフリカと東南アジアで多く生産され、主流となっている。 南米のアマゾン川、オリノコ川源流地域原産で、成長が早く耐病性に優れるなど栽培しやすい。果実は黄色で苦味が強い。ガーナ、コートジボワール、ナイジェリア、ブラジルなどの品種がある。
ベネズエラ、メキシコなどで、僅かに生産されている。独特の香りから、フレーバービーンズとされる。 メキシコからベネズエラにかけて分布し、古代から利用されてきた。病害虫に弱く大規模栽培に不向きなことから、19世紀半ばにほとんど壊滅した。果実は赤や黄色で、苦味が少ない。
ベネズエラ、トリニダード・トバゴなど中南米で栽培されている。 フォラステロ種とクリオロ種を交配したハイブリッド種で、トリニダード島で育種に成功したことから命名された。栽培が容易で品質も優れる。
原産地であるメソアメリカでは紀元前1900年ころから利用され、オルメカ文明の時代から栽培食物とされていた事が、グアテマラのリオ・アスール遺跡など、マヤ文明、アステカ遺跡の土器、壁画、石碑から判っている。カカオという名は、ミヘ・ソケ語族の語彙で、もとは「カカワ」と発音されたとされる。当時は飲料としてよく用いられたほか、貴重品だったため通貨としても用いられ、カカオ豆の皮に灰などを詰めた贋物も存在していた。
1502年、コロンブスは第四次航海で現在のホンジュラス付近でカカオの種子を入手し、スペインへ持ち帰っている。もっとも利用法が不明で、その価値に気付いた者はなかった。1519年、コンキスタドールのエルナン・コルテスはアステカでカカオの利用法を知る。砂糖や香辛料を加えたショコラトル(チョコレート)は上層階級に歓迎され、1526年にはトリニダード島に栽培地が建設された。
カカオが飲料としてヨーロッパにもたらされた最初の記録として、1544年のケクチ・マヤ族の使節による、スペインのフェリペ皇太子(のちのフェリペ2世)への訪問がある。フランスにはスペインから嫁いだ王妃アンヌ・ドートリッシュが広めた逸話があり、17世紀にココア飲料が流行し、1660年代にマルティニークでの栽培を開始した。
その後もカカオ栽培は拡大し、1830年頃から西アフリカのポルトガル領サントメ島などで栽培されるようになる。19世紀半ばに中米のプランテーションが病害により生産量が激減すると、アフリカが替わって生産の主体となった。さらにイギリスが、スペインから租借中のフェルナンド・ポー島(現在の赤道ギニア)でプランテーション経営を始め、1879年には黄金海岸(現在のガーナ)にテテ・クワシが導入している。 1890年代末、フランスが象牙海岸(現在のコートジボワール)で植民地会社を組織し、生産を奨励した。
インドネシアには、1560年にスペインによってジャワ島に伝わっているが、生産が広まったのは20世紀で、特に1980年の市場暴落後の30年で生産を伸ばしている。
詳細はココア、カカオマスを参照。
カカオはI型アレルギー原因物質のチラミン、ニッケルを含み、チョコレートアレルギーの原因となる。 なお、チラミンは血圧や心拍数を上昇させる効果があり、チョコレートの食べ過ぎで鼻血が出るという俗信の元となったが、実際には健常者に出血させるほど強い作用はない。
2012年のカカオ豆の全世界における生産量は約500万トンである。[2]以下に生産量上位国の内訳を示す。
カカオ生産の特徴として、バナナやコーヒーといったほかの熱帯性商品作物と違い、大規模プランテーションでの生産が一般的ではないことが挙げられる。これは、カカオの植物学的特性に理由を求めることができる。カカオの木は陰樹であり、大きくなるまではほかの木の陰で生育させる必要がある。つまり、単一の作物を広大な面積で一挙に栽培することが困難であり、規模のメリットが得られにくい。一方で、プランテン・バナナのような大きくなる木との混栽には適しているため、自給的な小規模農家が片手間に商品作物として栽培するにはきわめて適している。[3]。ガーナにおいては、労働者が未開発の土地を開発する契約を地主と結び、バナナやキャッサバなどの主食用の作物を育てながらその陰でカカオの木を育て、カカオが生長し十分に利益が出るようになると開発地を折半して半分を地主のものに、もう半分を労働者のものにする契約がかつて盛んに行われ、カカオ生産成長の原動力となった。
カカオの生産には、歴史的に奴隷労働が多く使われてきた。古くは、アジア人のクーリーが、最近でも西アフリカ地域では児童奴隷が労働力として使用されている。2001年10月に最悪の形態での児童労働を禁じる「ハーキン・エンゲル議定書」が米国議員とチョコレート製造業者協会の間で締結された。
しかしその後も、コートジボワールのカカオ農場のうち90パーセントが維持のために児童も含む奴隷を何らかの形で使っているとされている[4]。カカオの価格が下落すると、西アフリカの農民がしわ寄せを受けることとなる[5]。
カカオ豆の貿易に参加している国は少ない。輸出では、コートジボワール(100万4,000トン)、インドネシア(36万6,000トン)、ガーナ(31万1,000トン)、ナイジェリア(18万1,000トン)、カメルーン(12万9,000トン)の5カ国で約9割を占める。これ以外の国では、カカオ豆の形ではなく、自国の食品工業で加工してから輸出しているためである。
輸入国は、オランダ(49万5,000トン)、アメリカ(32万3,000トン)、ドイツ(20万5,000トン)、マレーシア(16万4,000トン)、フランス(13万9,000トン)の5カ国でほぼ100パーセントとなる。マレーシアは加工能力に優れるため、インドネシア産のカカオなどを輸入し、製品を輸出している。
カカオ豆の価格は、買い上げ制度があるガーナなど一部の国を除き、ロンドン(主にアフリカ産)とニューヨーク(主に中南米産)の商品先物市場による国際相場が握っている。 トンあたりの価格が数年で500ポンド(945ドル)から3,000ポンド(5672ドル)まで乱高下するなど、生産者は不安定な世界市場の直撃を受けている。
カカオ先物市場のうち、現物のやり取りがあるのは3 - 4パーセントに過ぎず、マネーゲームとして現実に存在する量の7~9倍が取り引きされている。価格が低迷しても投機家は自由に投げ売りできるが、生産者はそのようなことはできず、収穫した実をムダにしたり、農園のカカオの木を売り払う羽目となる。
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