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無意識(むいしき、独: Unterbewusstsein, das Unbewusste、英: subconscious または英: unconscious ※現在は「意識を失う(to be unconscious)」との誤解を避ける為に「subconscious」が使われるようになった)には、大きく以下の二つの意味または使用法がある。
ユングはフリードリヒ・シェリング(対象化された自己意識を「無意識」(独: Unbewusstsein 意識でないもの、独: Bewusstlosigkeit 意識を欠いた状態)とした)が西洋における無意識の発見者であるとしている。無意識の領域を、簡単な表現で、「無意識(独: Unbewusste、英: the unconscious)」とも呼ぶ(ここでいう「無意識」は、「意識されていない心(英: unconscious mind)」などとは異なる概念である)。 ちなみに、AD4世紀頃現れた仏教の唯識思想、「唯識三十頌」では、前五識(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)と言う意識のほかに無意識とも解釈できる末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という二つの深層意識層を想定した。(八識説)
無意識とは何かということは、その前提に、意識とは何かということの了解がなければならない。「意識」とは、人間一般において、「わたしが意識していると、意識しているとき、自明的に存在了解される何か」であるとされる(デカルトの「我思う、ゆえに我あり」。哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視された)。
このように意識は、主観的に把握されてきたが、近代に成立した科学がその研究対象とするには、客観的な規定としては適切ではなく、曖昧であり、かつ定量的把握も困難であった。そのため心の学である心理学においても、心や魂、あるいは意識は科学的に定義されないとして、刺激と反応で心理学を築こうとした行動主義心理学などが出現した。現在でも心の概念と同様、意識の概念も主観的に把握されるものに過ぎず、その存在を客観的に把握するのが難しいものであると考える心理学派もある。
しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識する者には、意識の存在は自明である」という命題もまた真理であると考えられることから(主観的把握)、科学的客観的には観察されないにしろ、心の概念と同じように意識の概念も存在していると最初から前提している心理学も多い。少なくとも一般人は意識が無いとは考える人は少ない。そのため科学的に証明されていなくても、意識は自明のものとして扱われたりしているのが現状である。もちろん意識もまた存在しないと考える学派もあり、確定していないのが現状である。
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無意識は、「意識がない状態」と「心のなかの意識でない或る領域」の二つの主要な意味がある。
「意識がない 独: unbewusst, bewusstlos, 英: unconscious」とは、強い意味だと、大脳の働きがほとんどない状態を意味する。しかし大脳の働きは、人間が生きている限り、完全に停止するということはなく、「ほとんどない」とはどこまでないことなのか、客観的な基準が曖昧である。
他方、弱い意味で「意識がない」という場合は、「気づかない」という意味でもある。例えば、音楽を聞きながら本を読んでいると、最初は本の文章の内容と、音楽の両方が意識される。しかし、読書に集中していて、ふと何かで中断されると、「音楽が急に聞こえて来る」ということがある。音楽はずっと鳴っていたのであるが、読書に集中していたため、音楽の進行に「気づかなく」なっていたのである。
人間は時間のなかで、非常に多数の感覚刺激や意味の刺激を受け、その多くを意識している。しかし、「意識していない・気づいていない」感覚刺激や意味の刺激で、大脳は感受し、記憶に刻んでいるものは、もっと膨大な量が存在する。記憶に関する心理学の実験からそのことが言える。
人間は様々なものを意識するが、目前、あるいは「いまここの感覚的・意味的刺激のパターン」以外で、「意識するもの」は、広義の「記憶」である。記憶の再生は、ある言葉や知識などが再現されることもあるが、また内的なイメージの形で、過去の情景(視覚的・聴覚的等)が思い出されることもある。
記憶は日常的に再現されており、複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を「意識しない」で、機械的に遂行することが可能である。例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではない(参考:手続き記憶)。
「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことが、この現在に想起され、イメージや感情や意味で構成される「意識の流れ」が持続している。
しかし、その他方で、何かを思い出そうとして、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在し、このとき、意識の滑らかな流れは滞り、記憶を再生しようとする努力が意識に昇る。
思い出そうとして、努力などが必要な記憶は、「滑らかに流れて行く意識の領域」には、想起が成功するまでは、存在しなかったことになる。では、そのような記憶はどこにあったのか。無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであるが、主観的な経験としては、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされる。
日常的に流れて行く意識のなかでは、様々な「意識の対象」が存在している。この現在の意識の対象は、現前している感覚・意味・感情等のパターンであるが、また、滞りのない自然な、「気づくことなく」想起されている記憶の内容が、その対象である。
「意識」という言葉自体が、「覚醒意識がある」、「何かに気づいている」という通常の意味以外に、主体が意識している「対象の総体」が存在している「領域」の意味を持っている。何かを「意識している」、または、何かに「気づく」とは、対象が、「意識の領域」に入って来ること、意識に昇って来ることを意味するとも言える。
人間は一生のなかで、膨大な量の記憶を大脳の生理学的な機構に刻む。そのなかで、再度、記憶として意識に再生されるものもあるが、大部分の記憶は、再生されないで、大脳の記憶の貯蔵機構のなかで維持されている。
このような膨大な記憶は、個々ばらばらに孤島の集団のように存在しているのではなく、連想が記憶の想起を促進することから明らかなように、感覚的あるいは意味的・感情的に、連関構造やグループ構造を持っている。そして、このような構造のなかで記憶に刻まれている限りは、いかなる記憶であっても、再生、想起される可能性は完全なゼロではないことになる。
人の一生にあって、再度、想起される可能性がゼロではないにしても、事実上、一生涯において二度と「意識の領域」に昇って来ない、膨大な量の記憶が存在する。主観的に眺めるとき、一生涯で、二度と想起されないこのような記憶は、「意識の外の領域」に存在すると表現するのが妥当である。
「意識の外」と言っても、科学的には、大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、「意識の外」とは、主観にとって、現象的に「意識でない領域」に、膨大な記憶が存在するという意味である。このような、「意識でない領域」が、無意識の第二の意味となる。
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意識が対象とするものは、記憶だけではない。また記憶は、何らかの意味で「構造化」されており、「無意識の領域」の膨大な記憶がどのように構造化されているのかということも問題である。
人間には経験や学習によって得た記憶・知識以外に、生得的または先天的に備えていたとしか言えない「知識」や「構造」が存在する。その一つの例は、「人間の言語」であり、人間の言語は、現在の知見では、人間しか完全には駆使できない。ノーム・チョムスキーの生成文法は、人間の大脳に、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっていることを主張している。
子供は成長過程で、有限数の単語を記憶する。単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶される。しかし、子供の言語生成能力は、それまで聞いたことのない文章、従って、記憶には存在しない文章を言葉として話すというところにある。「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか。
それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと言える。チョムスキーの考えた普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する整序構造である。言語の自然な生成、言語の流れの生成は、意識の外で、すなわち意識の深層、無意識の領域で、言葉と意味をめぐる整序が行われているということを意味する(生成文法では、無意識とか深層意識という表現を後に避けたが、言語の先天的な構造性の主張に変化はない)。
このように、意識の領域に現れる訳ではないが、意識の外の領域、すなわち無意識の領域に記憶や知識や構造が存在し、このような記憶や構造が、意識の内容や、そのありように影響を及ぼしているという事実は、仮説ではなく、科学的に実証される事実である。脳が無ければ言語は存在しないのであるから。
とはいえ、「無意識」という用語は、定義が曖昧で、通俗性が高く、恣意的な意味で使用される危険性が大きい。[要出典]現在では、精神分析学に対する批判も含めて、「無意識」という言葉・概念を使用することに対する消極的な傾向が存在する。[要出典]
深層心理学の理論の代表とも言えるジークムント・フロイトの提唱した精神分析学では、無意識に抑圧の構造を仮定し、このような構造において、神経症が発症するとして、その治療法の理論を展開した。(批判:「抑圧する無意識」は実証できない)。
また、精神分析の理論の応用として、個人における「良心」、社会における「道徳」の起源を、無意識の抑圧構造の文化的な作用として説明した。例えば癖や一見偶発的に見える言い誤りに対し、本人は後に説明を試みる(合理化)が、客観的に辻褄の合わない場合も多々あるためそこに個人的な抑圧構造を見られるとした。これはユングの言語連想法にも受け継がれている。
分析心理学を提唱したカール・グスタフ・ユングは、「自我である私」が「なにゆえ私である」のかを問うた。「私である意味」は、魂の完全性、円球的完全性の実現にあると考えた。無意識は、自我を自己(ゼルプスト)すなわち「神」へと高めて行く構造を持つと仮定した。(批判:「神へとみずからを高める無意識の構造」は実証できない。しかし、「ユングの基本理論」と「ユングの思想」は分けて考えねばならない。ユングの理論は反証可能性を持たず、現代的な範疇での科学としては、成り立たない)。
分析心理学は、「神話の意味」、「死と生の意味」などを思想的に解明するに有効であった。ユング自身は、科学理論として慎重に理論を構成したが、それは表層構造において、容易に、宗教やオカルトに転用可能な理論であった。
「意識でない領域」に関しては、様々な解釈が行われている。催眠状態での意識状態や、宗教的な儀式や薬物摂取で生じる「変性意識(変成意識)」なども、通常の意識でない状態である。
また、このような広義の変成意識などの他に、サブリミナルなどの「意識でない状態・領域」が考えられてきた。「意識でない領域」の存在は確実であるとしても、主観的に把握されるそのような領域について、客観的な記述や説明が行えるかというと困難である。
フロイトやユングの理論における「無意識」は、彼らが理論的に想定した構造の存在は、結果的に実証されないものであることが判明したが、20世紀前半に生まれた、このような「無意識の概念」は、文化的に大きな影響を与えたことも事実であり、思想や芸術において、現在もなお影響を有している。
しかし、無限定に無意識を述べることは、個々人の主観的な把握になり、またトランスパーソナル心理学における無意識もそうであるが、あまりに仮説的要素の大きい無意識は、実証性がますます困難であり、疑問となる。サブリミナルも、何を意味する概念なのか、不確定要素が多すぎる。主観的要素や解釈があまりに大きなそのような言葉の用法や概念については、疑問があると言うべきである。
「意識喪失状態」についての項目
「集合的無意識」の項目
広義の「無意識」に関する項目
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リンク元 | 「unconsciousness」「意識消失」「無感覚」「unconscious state」「意識喪失」 |
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