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アリストテレスの著書については「政治学 (アリストテレス)」をご覧ください。 |
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政治学(せいじがく、英: politics, political science, political studies,また特に科学性を強調する場合はscience of politicsという[注釈 1])は、政治を対象とする学問分野。なお政治学の研究者を政治学者と呼ぶ。日本では主に法学部で研究・教育が行われているが一部の私立大学では政治学と経済学両方の修養が国家統治にとって有用とされた経緯から政治経済学部で教えられている。
大別すると広義の政治哲学と広義の政治過程論の二領域にわたるが、狭義には政治過程論のみを指す。
政治とは、人間集団、とくに国家や国家間における権力(Power)の配分やその行使のされ方をめぐる事象であるという見解が20世紀以降、とくにアメリカ合衆国を中心に有力なものとなっている。このような見方の代表例として、デイヴィッド・イーストンによる、政治とは「社会に対する希少価値の権威的配分」という著名な定義がある[1]。ここでいう「価値」とは富(貨幣)や天然資源、名誉、食糧など、広く誰もが必要としておりながら、全員に等しく、必要としている分だけ配分できるほどには量のない(これを「希少性」という)ものの総称であり、権力そのものも希少な価値に含まれる[1]。
他方で、政治とは、対立する利害を調停し、人々の集合体における取り決め、決定を行うことであるとも定義される。すなわち権力と利害対立は政治学の中心的なテーマである。しかし、これら(権力および利害対立)の概念については必ずしも明確でない部分がある[注釈 2]。
政治については2つの主要な見解がある。
また政治の基本的性質については2つの主要な見解がある。
政治研究としての政治学は、さまざまな公共政策の内容とその目的を対象としており、個々の具体的政策の検討から、それらが含まれている一連の包括的政策、政策プロセスなどを研究するものである。サイモンによれば、このような公共政策の構造は一般に政策の目的と手段の連鎖からなるピラミッド構造で把握される。このピラミッド構造において、その頂点に近づくにつれ、より漠然として抽象的な価値の領域、すなわち政治の道徳的基礎や倫理的当為を必然的に考察の対象とするようになる。したがって政治学の下位領域として政治思想も主要な対象として成立する。
政治学が一つの学問領域(ディシプリン)として認識された19世紀末以降、政治学は科学的手法を採り入れ科学化してきたと言える。それまでの政治に関わる研究の手法は、哲学や歴史学、或いは法学といった他の学問領域に由来するものであった。そこでは政治史の研究に見られるように政治現象を記述することや、政治哲学もしくは制度論に見られるように政治の望ましいあり方を研究することに重点が置かれた。このようなアプローチは多分に規範的であり、また価値判断を伴うものであった。政治学の科学化は、政治学の研究において記述することもしくは価値判断を行うことから政治現象を観察の上で説明し分析することへの力点の変化をもたらした。すなわち現代の政治学では或る政治現象が何故起こったのか、政治において何故特定の変化が起こったか(例えば政権交代や政府の政策の転換)或いは当然Aという帰結が予測されるはずなのに何故Bというまったく異なる結果となったかを説明・分析することが求められる。もっと言えば特定の政治現象についてその因果関係を割り出し、現象の起こるメカニズムを解明することを目的とする学問といえる。そこでは起こった政治現象が望ましいものかそうでないかというような価値判断は要求されないし、むしろ可能な限り排除されることが求められる。すなわち、政治学の研究にはある程度の価値中立性が前提となる。
政治学は政治現象もしくは一般に政治といわれる概念を研究するという、研究対象によって規定される学問である。従ってどのように研究を行うかという、方法によって規定される学問ではない。すなわち、政治学に独自かつ固有の方法論または政治学的方法論というのは存在しないと言ってよい。このことは他の社会科学、端的には経済学と対照的である。このため政治学における方法論や分析のための理論的枠組・モデルといったものは、隣接する学問領域からの借り物であるという印象をしばしば与える。このように政治学における方法は実に多様なものである。また現代政治学は政治学の科学化を推進してきたが、そのことは伝統的な規範的で価値判断を含む研究の重要性を損なうわけではない。特に政治に関わる倫理的基盤を考察する政治哲学は、政治の原理的・本質的な研究と言えるだろう。
このことを考慮すると、政治学の方法は次のように大別される。
なお、科学的アプローチにおいては社会選択理論やゲーム理論といった数学的方法および統計学的な手法がしばしばとられる。
また政治学の研究対象は以下の3つに大別される。
なお、このような方法論的多様性からしばしば政治学の名称に関する問題が浮上する。日本語において政治に関する研究を指す語としては政治学しか存在しないが、英語などの他言語ではいくつかの語が政治学に対応するものとして挙げられるからである。ここでは特に英語のケースを例に、この問題を考えてみたい。政治に関する研究を指す語として最も一般的なのは、political science(政治科学)である。この名称は現代政治学において科学的方法が主流であるという事実に基づく。しかしながら政治学が本当に科学的であるかに関しては常に論争がある上に、概観したように政治学の方法は科学的手法に収まらない。このことからより幅広いアプローチを含むことを意識して、political studies(政治研究)という呼び方を好む向きもある。特にこの問題がクロースアップされたのは、イギリス政治学会が設立された1950年であった。設立に当たってイギリスの主要な政治学者の間で、学会の名称を巡る論争が展開されたからである。当初political scienceの語を名称に入れるのが有力であったが、ハロルド・ラスキらの強硬な反対でPolitical Studies Associationという名称に落ち着いた。大学及び大学院教育では、Department of Political Science(政治学部)のようにpolitical scienceの語を入れたものを政治学教育のための機関の名称として採用している。だが、コーネル大学、ダートマス大学、ジョージタウン大学、ハーヴァード大学或いはロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)では政治学部をDepartment of Governmentと呼称している。
なお、国際連合教育科学文化機関では1948年9月に政治学会議を開催して政治学の範疇について定めた。その際に政治学を「政治理論」・「政治制度」・「政党・団体及び世論」・「国際関係」の4分野から構成されるものとされ、「政治史」は含まれていない。近代的な議会・行政制度を外国から導入した日本では政治史は政治学を理解するために必要なものとして常に関連付けられ、大学では政治学部・学科に設置される場合が多かったが、そうした背景のないイギリス・アメリカでは政治学は純粋な歴史学の一分野として扱われ、オックスフォード・ケンブリッジ大学をはじめとしてイギリスやアメリカの大学では政治史は歴史学部・学科の範疇と考えられているからである。
政治についての認識は個人によって異なり、政治は必然的に党派性を帯びるものであるから、政治思想はつねにイデオロギー化する傾向がある。今日の政治思想がまずイデオロギー論として語られるのはこのためである。イデオロギー研究では、イデオロギーの思想そのものよりも、それが現実の社会でどのような影響力、機能を持つかを研究することが重要視されている。
政治を対象とする学問は政治学だけではない。社会学・経済学など多くの社会科学が政治を主要な対象領域の一つとしており、政治学自体も法・経済・道徳・宗教・教育・人間心理などを研究対象として含む。また、政治学から主に経営学に影響されて独立した学問分野として行政学があり、現在では別個の学問分野として扱われるのが一般的である[注釈 3]。
ここでは政治学で特に頻出される用語について、政治学上の定義・命題を簡単に示す。
詳細は政治学史を参照
政治現象または政治という概念に関する研究と政治学を定義した場合、その歴史は古代ギリシアにまで遡れる。古代ギリシアにおける政治学研究の代表格が、プラトンとアリストテレスによる著作である。しかしプラトン以前にも政治学の萌芽と考えられる著作は存在する。ホメロス、ヘシオドス、エウリピデス、アリストパネスらの詩作には政治に関する記述が見受けられるからだ。さらにトゥキディデスの『ペロポネソス戦争史』等の歴史記述は、プラトンに先立つ政治学的な文献としては最も重要なものの一つである。これらの歴史記述にはトゥキディデス自身の政治思想が反映されており、その思想は後の現実主義の系譜につながり国際政治学に影響を与えることとなる。プラトンとアリストテレスは政治を扱う際に哲学的な方法を持ち込んだという点で、政治学の歴史に大きな転機をもたらした。この後政治学は倫理学(道徳哲学)と分かち難い連関を持ちつつ発展することになるが、こうした伝統的な政治学のあり方はプラトン及びアリストテレスに多くを負っている。さらにアリストテレスは、当時ギリシアのポリスで見られた様々な政治体制もしくは制度を分類し比較することを試みている。これは後のモンテスキューの体制の分類など法学的・制度的アプローチに多大な影響を与えたといえる。
古代ローマにおいては、政治学も他の学問の例に漏れず古代ギリシアの影響を受けた。そのため理論的な部分では古代ギリシアの政治学を継承したという側面が強く、顕著な進展が見られたというわけではない。しかしローマの政治体制の変遷を記述したポリュビオス、リウィウスら歴史家の著作は大変示唆に富んでいる。特にポリュビオスの政体循環論はローマ時代を代表する知見であると言える。さらにローマ時代は多くの哲学者が政治家として政治に関わり、哲学者ではない政治家も積極的に自らの政治思想・信条に関する文献を残した時代である。特に共和政末期のマルクス・トゥッリウス・キケロとユリウス・カエサルはその最も顕著な例である。キケロは共和政を擁護し、正当化するための哲学的著作を残した。一方でカエサルは共和政の改革者として現れ、活発な活動を行った。このように古代ローマにおける政治学は理論的な発展というよりも、実践的な発展を遂げたといえる。ローマは都市国家からいわゆる世界帝国へと拡大する中で政治体制の複雑な変遷を経験したため、その多様な政治体制の経験、体制を正当化する理論、さらにその変遷の記述は後代に多大な影響を与えた。特に共和政の経験はルネサンス以降の政治学に強い影響を与えた。
西洋古典古代における政治学の誕生、発展に対して東洋でもやはり古代に同様な政治に関する考察が見られる。ここでも政治に関わる研究は哲学とりわけ道徳哲学と密接に結びついていた。特に中国では規範論的な政治論が盛んで、諸子百家と呼ばれる一連の哲学の学派は様々な形で政治を論じてきた。そのなかでも後世に影響を与えたものとしては、孔子・孟子・荀子らの儒学と荀子に影響を受けた韓非の法家が挙げられる。
ヨーロッパの中世にあっては、教会権力の世俗の権力に対する優位が確立された。一方で教皇と皇帝を頂点に、封建制が成立した時代でもある。キリスト教が社会全体に強い影響を与えていたため、政治に関わる研究においてもキリスト教の影響が濃厚であった。すなわちキリスト教の神学が、古代における道徳哲学に代わって政治に関する考察の方法論的基礎を与えていた。中世の政治学は古代に引き続いて正義に適う政治のあり方を考察するものであった。しかし、人間世界における世俗的な政治社会では正義は実現されないとするのが神学の立場である。すなわち、「神の国」においてこそ正義が実現すると主張するわけである。そこで問題になるのは、「神の国」に対する「地の国」すなわち世俗的政治社会でありながら「神の国」の入り口であり従って「神の国」に最も近いものとしての教会である。つまり中世における政治学は教会と他の世俗的政治社会、或いは世俗的権力との関係に最大の焦点が置かれる。このような中世の政治理論の基礎を成したのがヒッポのアウグスティヌスと彼の著作『神の国』である。
古代・中世の政治理論の継承・発展の末、近代的な政治理論と呼ばれうるものがやがて登場した。近代的政治理論が初めてはっきりと形を現したのは、ニッコロ・マキャヴェッリとトマス・ホッブズの著作においてであった。マキャヴェッリは古代ローマの共和政の伝統に影響を受けつつ、次第に現実主義的な思想を形成していった。彼は政治においては何よりも現実認識が重要であることを説いた。すなわち政治的な目的のためには現実に最も適合した手段がとられなければならず、場合によっては道徳が犠牲にされることもありうるという主張である。これまで政治学は倫理学と不可分に発展してきたため、政治と道徳もまた不可分であった。政治においては常に道徳的に正しい手段がとられなければならなかったわけである。マキアヴェッリは政治を道徳から解放し、政治学と倫理学が峻別される可能性を示したといえる。一方のホッブズは、自由で自立した個人から如何にして政治的な共同体が成立しうるか、もしくはこのような個人の集合としての政治的共同体のあり方はどのようなものが相応しいかを考察した。ホッブズの理論は方法論的にはプラトン以来の哲学的方法を継承し、政治学と倫理学の密接な関わりに疑問を投げかけたわけではない。彼の理論の斬新さは、個人に着目しその個人間の契約として社会の成立を捉えた事にある。これがいわゆる社会契約論であり、ホッブズの理論はジョン・ロックの批判的継承を経て近代政治の背景思想を提供した自由主義に影響を与えることになる[注釈 5]。
この他16世紀以降の概念で後世の政治理論に大きな影響を与えたものとして、フーゴー・グロティウスの自然法がある。自然法自体は古代の哲学やキリスト教神学にも存在する概念であるが、グロティウスは古来の自然法から近代自然法の理論枠組を生み出した。またモンテスキューは、各国の諸制度をモデル化してそれらを通じて体制の分類を行った。その上で理想の政治制度についての考察を行い、いわゆる三権分立論を展開した。これ以降、憲法・法制度・政治制度を中心に政治の制度的側面の研究すなわち法学的・制度的アプローチが盛んになった。
このような近代的な理論もしくは概念の影響下に、ドイツの国家学や英米の伝統的政治学のような近代の政治学が19世紀まで展開された。
19世紀半ば以降、20世紀初頭にかけて政治学は独立した学問領域として最終的に確立されたといえる。1880年には政治学の専門教育機関として、世界初の政治学部(政治学大学院)がコロンビア大学に設置された[注釈 6]。さらに1903年には初の政治学の学術団体としてアメリカ政治学会が誕生している。この時期に政治学には新たな動きが見られた。実際にどのように政治が作動しているかという点に関する動学的な研究の登場である。これを以って現代政治学が成立したとされる。これまでの政治学の研究は哲学的・歴史学的・法学的(制度的)のいずれのアプローチを取るにせよ、政治の枠組がどのようになっているか、或いはどのような枠組が望ましいかという静態的・形式的な研究に留まっていた。新しい政治学のアプローチにおいては、政治の枠組の中で生起する現象のメカニズムを観察し解明するというよりダイナミックな研究が求められた。このような新しいアプローチは主にアメリカやイギリスで提唱された。主な提唱者としてはアーサー・ベントレー、グレアム・ウォーラスが挙げられる。
こうした政治学の新しいアプローチの流れから、1920年代に政治学の科学化が始まった。科学化の初期の推進者は、チャールズ・メリアム、ハロルド・ラズウェルらいわゆるシカゴ学派の人々である。とりわけシカゴ学派の創始者としてのメリアムは、政治学と心理学・統計学などの「隣接諸科学との重婚」を主張しこれらの学問の方法を政治学に導入した。第二次世界大戦後、このシカゴ学派の系譜から社会学や行動科学の影響を受け行動科学政治学が成立した。この行動科学アプローチは「行動科学革命」と呼ばれるほどの衝撃を学会に与え、政治学における主流の方法論となった。行動科学政治学の担い手は、デイヴィッド・イーストン、ガブリエル・アーモンド、ロバート・ダールらであった。行動科学政治学は政治学の科学化の一つの帰結であった。
しかし、行動科学政治学はその後各方面からの批判を受けた。その結果現在でも一定の影響力を持つものの、かつてのような政治学の中心的パラダイムの座を失っている。こうした中で現代政治学の展開とともに軽視されてきた伝統的な政治学のあり方も見直されてきた。その中でも政治哲学は1970年代に見事に復権を遂げたといえる。また制度論的アプローチは、様々な科学的方法が制度を分析対象として採り入れ始めたことによって新制度論に発展した。また1950年代以降にはアンソニー・ダウンズらにより経済学的方法の政治学への導入が本格化し、合理的選択理論が政治学において台頭し始めた。合理的選択理論は、ウィリアム・ライカーによるゲーム理論などのフォーマル・セオリー、数理的分析の導入により精緻化され主要な方法論の座を占めるに至った。このように現代において政治学の方法はさらなる多様化の様相を見せている。
詳細は政治学者の一覧を参照。
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功利主義(こうりしゅぎ、英語:Utilitarianism)は、善悪は社会全体の効用(英:utility)あるいは功利(功利性、公益)・機能(有用性)によって決定されるとする立場である。基本的に倫理学上の立場であり、それは法学や政治学でも応用される。
倫理学説としては私利のみを計る利己主義(エゴイズム、Egoism)とは異なる。現在でも、近代経済学は、基本的にこの立場にあると考えられる。そこでは消費者ないし家計は効用の最大化をもとめる部門とみなされる。また基数的効用と序数的効用が区別される。
功利主義的な考えはデイヴィッド・ヒュームの思想にもみられる。彼を功利主義の先駆者と見る向きもあるが、彼はあくまで我々の抱く倫理についての考えや判断がいかにして成立してきたか、そしてどう判断するかをメタ倫理学的に記述・説明しただけであって、功利的に判断すべしという規範として提示したのではない。立法の原理・法学の基礎、即ち規範として最大多数の最大幸福を置くという着想はベッカリア、エルヴェシウスを経てジェレミ・ベンサムにおいて体系として初めて結実した。
功利主義においては幸福は数量で表すことができると仮定される。ベンサムは快楽・苦痛を量的に勘定できるものであるとする量的快楽主義を考えたが、ジョン・スチュアート・ミルは快苦には単なる量には還元できない質的差異があると主張し質的快楽主義を唱えた(ただし、快楽計算は放棄しなかった)。また、J.S.ミルからヘンリー・シジウィックに至る過程で功利主義は立法的・法学的要素を失い、道徳・倫理学の理論としての色彩を強めていく。
20世紀には快楽計算を放棄した選好功利主義が登場した。リチャード・マーヴィン・ヘアやピーター・シンガーがその代表と目される。
「最大多数の最大幸福」がベンサムから続く功利主義のスローガンであるが、この幸福を快楽と苦痛との差し引きの総計とするか選好の充足とするかで、次の二つに分けられる。
また、最大幸福原理を個々の行為の正しさの基準とするか一般的な行為規則の正しさの規準とするかで、次の二つに分類される。
両者は功利原理(利益=善)の対象が異なる。前者は行為が利益をもたらすか(「それをすれば利益があるか?」)を基準にし、後者は「規則」(「皆がそれに従えば利益があるか?」)を基準にする。
例えば、行為功利主義では「貧しい人が子供のために食べ物を盗む」のは子供が助かるからかまわないとし、規則功利主義では「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」という規則があれば窃盗が横行して治安が悪くなるからいけない、とする。
量的功利主義とは異なり、質的快楽主義では快楽の種類による質的な区分を求める立場を取る。後者の代表者であるJ.S.ミルは、「満足した豚よりも満足しない人間であるほうがよい」と語っている。なお、ミル自身は求められるべき精神の快楽を、狭い利己心を克服した黄金律(他人にしてもらいたいと思うように行為せよ)に見出すよう主張した。
利己主義は、功利主義とは日常的にはあまり区別されないが、倫理学においては功利主義は「万人の利益」となることを善とする立場を指し、「私利」のみを図ることをよしとする利己主義とは異なるとする。
リバタリアニズムは、功利主義を基本理念とした政治思想である。アメリカにおいて幾分保守的・伝統的政治姿勢とされるが、保守からは革新的政治姿勢と見なされてもいる。「国家こそ盗人」であり、反国家・市場(経済)偏重を旨とする特徴的な思想を展開する者もいる。ときにグローバリズムと態度が共通するが、リバタリアニズムは税金の浪費につながると戦争を否定する点にみられるようにグローバリズムとは異なる。
功利主義への反駁、攻撃は多方面からなされている。
功利主義においては、異なる個人間で効用を比較したり足し合わせることも可能であるとする効用の基数性に基づく限界効用逓減の法則が前提された上、社会における全ての人々の効用の合計の最大化をはかるための所得再分配が肯定される。
ピグーの「厚生経済学」では、所得再配分はそれが経済全体のアウトプットを減少させないかぎり、一般に経済的厚生を増大させるものである(「ピグーの第2命題」)とした上、限界効用逓減の法則を前提するかぎり、所得再配分は貧者のより強い欲望を満たすことができるため、欲望充足の総計を増大させることは明らかであるとしている。
これに対し、新厚生経済学では、ロビンズの「経済学の本質と意義」では、内省によっては他人の内心を測定できない以上、異なった人の満足を比較する方法がないとして効用の可測性(基数性)が否定された上、ピグーの第2命題は、単なる倫理的な仮定にすぎないとしている。
らが古典的功利主義者に数えられる。
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