出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/05/17 16:25:53」(JST)
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野球におけるリリーフ(relief)、救援、または継投とは、先発投手の降板後、他の投手が登板すること。
リリーフを担う投手を日本では「リリーフ投手」や「救援投手」、アメリカ合衆国(以下アメリカ)では「リリーバー(reliever)」などと呼び、その役割によって特別な名称が用いられる場合もある(#リリーフ投手の種類を参照)。
リリーフ投手は、試合途中にブルペンで投球練習を行い、あらかじめ出番に備えたうえで登板する。チームによってベンチ入り登録されるリリーフ投手の人数は異なるが、日本プロ野球(以下NPB)の場合は6 - 8人ほどである。シーズンあたりの試合数が160試合以上になり、また原則として引き分けもないため長時間の試合になりやすいメジャーリーグベースボール(以下MLB)の場合は10人ほどがベンチ入りしている。先発投手が先発ローテーションに従い中4日以上の間隔を空けて登板するのに対し、リリーフ投手は数試合連続登板することも多い(登板記録に関しては登板#登板に関する記録を参照)。
NPBにおいては「中継ぎ降格」という表現が存在することからも読み取れるように、リリーフ投手を先発投手やクローザーよりも一段劣った存在とみなし、先発ローテーションに加われない・通用しなくなった投手がこなす役割であるとされ、先発争いから脱落した投手が中継ぎに回っている例が散見される。また抑え(後述)投手が炎上しやすくなるなどして中継ぎに回されることもある。
規定投球回数を満たしにくいこともあってリリーフ投手の活躍を明確な数値として表すことは容易でなく、勝利数や奪三振数などの伝統的に主要な投手記録では先発投手を上回ることが事実上不可能に近いことも、低い評価を受けてしまう一因である。しかし「投手分業制」が浸透し、先発投手の完投が減少するに従って、優秀なリリーフ投手の存在がチームの勝率に与える影響は大きくなっていった。また後述するようにリリーフ投手を表彰する各種タイトルも制定されるようになり、その評価は徐々に高まっていく。
フィラデルフィア・フィリーズ監督のエディ・ソイアーは投手のジム・コンスタンティーを1948年よりリリーフ専門で起用しはじめた。コンスタンティーは1950年に16勝7敗22セーブ、防御率2.66を記録する活躍を見せ、最優秀選手にも選ばれた。さらにフィリーズはこの年のナショナルリーグで優勝した。
こうしたリリーフ専門投手の登場により、MLBでは1960年に非公式ながら最も優秀な抑え投手を表彰するファイアマン賞が制定された。さらに1969年には最多セーブが公式タイトルに制定された。
1974年にはマイク・マーシャルが106試合登板・15勝21セーブの成績を残し、リリーフ投手として初めてサイ・ヤング賞を獲得した。
また、1976年にはローレイズ・リリーフマン賞、2005年にはDHL デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーという表彰がそれぞれ開始されていった。
1979年、ニューヨーク・ヤンキースは7、8回にロン・デービスを、9回にリッチ・ゴセージを登板させる継投パターンを確立した[1]。この年14勝を挙げたデービスはセットアップマンの先駆となり、1981年には中継ぎ投手として史上初めてMLBオールスターゲームに選出された[1]。
1986年にはジョン・デュワンとマイク・オドネルによってホールドという中継ぎ投手を評価するための指標が発明され、1999年から正式に集計が開始された。しかし、MLBの公式記録にはなっておらず、最多ホールドや最多ホールドポイントなどの公式表彰もされていない。
アメリカ野球殿堂入りを果たしているリリーフ投手は、1985年のホイト・ウィルヘルムを皮切りに、ローリー・フィンガーズ(1992年)、デニス・エカーズリー(2004年)、ブルース・スーター(2006年)、リッチ・ゴセージ(2008年)の5人である。
NPBにおけるリリーフ投手の草分けは、1965年に20勝を挙げ「8時半の男」の異名をとった巨人の宮田征典と、中日投手コーチの近藤貞雄が提唱した「投手分業制」を体現して1966年から2年連続でオールスターゲームに出場した中日の板東英二とされる[要出典]。
1970年代までは、多くのエース投手がセーブポイントが付く場面での登板もこなし馬車馬のように投げていた(安田猛、新浦壽夫など)。一方で初期の代表的なリリーフ投手である南海ホークスの佐藤道郎や、中日ドラゴンズの鈴木孝政といった投手は、谷間先発やロングリリーフなど「穴埋め」もこなしており、そのため最多セーブが先発投手につくことも、リリーフ投手が規定投球回数に達することもあった(NPBでは1974年に最多セーブが公式タイトルに制定されたが、こうした起用法もあり2004年まで最多セーブポイントに改定されていた)。
1979年の日本シリーズ第7戦での投球がノンフィクション「江夏の21球」として書籍化された江夏豊は、この年に、救援投手として初のシーズンMVPを受賞した。
1985年には中西清起、福間、山本和行の「NHKトリオ」が大活躍し阪神の日本一に貢献、1988年には抑え投手の郭源治が救援投手としては2人目のMVPを受賞。1990年代には長嶋茂雄が勝ちパターンのリリーフ継投を「勝利の方程式」と命名し、1996年からは最優秀中継ぎ投手賞が制定された。
この頃までは、救援投手が1試合に複数のイニングにまたがって登板する「イニングまたぎ」は当たり前だったが、その後、1イニング限定が一般的になっていった[2]。
1998年には当時の流行語大賞にも選ばれた「ハマの大魔神」こと佐々木主浩が3人目となるMVP受賞。その後の彼のメジャーリーグにおける活躍が注目を集め、2003年には日本プロ野球名球会規則が改定される。通算250セーブ投手の入会が許可され、その時点で250セーブを達成していた佐々木(日米通算)と高津臣吾が入会した(2010年には岩瀬仁紀も入会)。
リリーフの地位も徐々に向上していったが、ようやく2005年に入り、阪神監督の岡田彰布が、1試合での球数や投球イニング、キャッチボールや登板間隔まで細かく管理するような、メジャーリーグに多く見られる継投策を導入。阪神の勝ちパターンの継投であるJFKの3人(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)は長きにわたり好成績を残した。2011年には中日の浅尾拓也が中継ぎ投手としては初のMVPを受賞している。
試合の最終盤に味方がリードあるいは相手ときわめて伯仲している場面で、最後に投げる投手を「抑え(おさえ)」あるいは「クローザー」(英:closerまたはclosing pitcher)という。「ストッパー」(和製英語)と言うこともある[3][4]。また、打たれ出して上がった小火を大炎上前に消し止めるという意味で「火消し」あるいは「ファイアマン」(英:fireman=消防士の意)と呼んだり[4]、日本では自チームのリードを最後まで守り抜くという意味で「守護神」と呼ぶこともある。
通常は3点以内のリードで、最終回の1イニング、もしくは裏の一死以後を投げ、相手チームに追いつかれずに試合を終了させる役割を負う(それまでは先発や中継ぎが投げる。監督が先発に完投勝利を付けさせる場合は出番さえない事がある)。相手の反撃を抑え、チームを勝利へ導くポジションである抑えはチーム内でもっとも信頼の高いリリーフ投手が任される役割である[5]。
相手チームからランナーが出ている状態では、たとえ凡打であっても犠牲フライや進塁打などによって打点を許してしまえばリードを奪われる可能性がある。そのため通常、抑えに求められる適性は奪三振率の高さである。そのため佐々木主浩やマリアノ・リベラ、馬原孝浩のように球威のある速球と、大きく、鋭く変化する変化球を有する投手が起用されることが多い。その一方で、ダン・クイゼンベリーや高津臣吾、武田久のような軟投派の抑えも存在する。また、ピンチに動じない精神力も求められる。
1試合あたりの出場イニング数が少ない一方、登板試合数が多くなりがちなため、スタミナよりも回復力と安定性、そして立ち上がりの良さが要求される。試合終盤には、例えば味方チームが8回裏に逆転したり、あるいは9回裏に追いつかれそうになるなどの緊急の起用をほぼ毎試合想定する必要がある。
チームの戦術によっては抑えの役割を1人に固定せず、2人以上の抑えを起用する場合がある。その場合は、登板間隔や相手打者が右か左かなどで誰が抑えを務めるかは変化し、日本では2人の場合は「ダブルストッパー(和製英語)」と呼び、アメリカでは2人以上の場合には「クローザーバイコミッティー」(closer by committee=委員会によるクローザー)と呼ぶ[3]。
評価の指標には、登板数、防御率、勝利数のほか、セーブが用いられる(かつてはセーブポイントという記録も存在した)。防御率に関しては、失点を許せない場面で起用されることが多いため、他の投手よりも低い数字が求められる。
先発投手と抑えの投手の間を担当する投手を「中継ぎ(なかつぎ)」または、「ミドルリリーフピッチャー(middle relief pitcher)」と呼ぶ。抑えと違って味方がリードしている時だけでなく同点やリードされている場合にも登板する。特に実力のある中継ぎの事を「中継ぎエース」、「リリーフエース」と呼び、リードを許している時や勝ち負けに関係なく大量点差が開いた場面で登板する投手とは区別される。
評価の指標には登板数や防御率、勝利数のほか、ホールドやホールドポイントが用いられる(かつてはリリーフポイントという記録も存在した)。
試合終盤のリード時、または同点時を中心に登板する中継ぎを日本では特に「セットアッパー(和製英語)」、アメリカでは「セットアップピッチャー(setup pitcher)」または「セットアップマン(setup man)」と呼ぶ。文字の通り先発投手から抑え投手までの間を繋ぎ(主に8回を投げる投手を指す)、抑えと同等の力量を持つ投手が起用される[1]。
打者1人ないし2人など限定した場面で登板する投手を「ワンポイントリリーフ(和製英語)」または、「ショートリリーフ(short relief)」、「スポットリリーバー(spot reliever)」と呼ぶ。特に“左打者は左投手を打ちにくい”とされるセオリーに基づいて、しばしばピンチのときに左打者を抑えるために起用される左投げのワンポイントリリーフを日本では「左殺し」「左のスペシャリスト」、アメリカでは「シチュエーショナルレフティ(situational lefty)」「レフトハンドスペシャリスト(left handed specialist)」「LOOGY(left handed one out guy)」などと呼ぶ。NPBでこの役割の先駆けとなったのは1970年代後半から1980年代に西武などで活躍した永射保である。また、阪神の遠山奬志は松井秀喜に対して勝負強く、「松井キラー」と呼ばれた。当時の監督・野村克也は遠山をすぐに降板させず、右打者に強い葛西稔をマウンドに上げて遠山を一塁手に回し、右打者を抑えた後に登場する左打者に対し再度遠山を投手、一塁手を葛西に、という変則的な戦法を用いた事がある。
なお、少数の打者と対峙することを主任務とするワンポイントリリーフの投球イニングは多くの場合1/3もしくは2/3イニングで、四死球や安打などで出塁を許した場合には1アウトも取らない0/3イニングで降板することも珍しくない。後続のリリーフ投手が被打し、出塁を許した走者が得点して負けた場合は敗戦投手となり、更に取られた点が自責点として加算され、防御率が(場合によっては無限大にまで)跳ね上がってしまう。一方、交代前の投手が出塁を許した走者が得点しても自責点としては記録されず、負けても敗戦投手にはならないため、ピンチの場面において活躍を期待されることの多いワンポイントリリーフを防御率や勝敗だけで評価することは難しい。
試合序盤で先発投手が降板した場合などに登板し、概ね3イニング以上を投げ続けるリリーフ投手を特に「ロングリリーフ」と呼ぶ。
先発もしくは先に登板したリリーフが打ち込まれ、相手に大量のリードを許した時に登板するリリーフ投手のことを日本では「敗戦処理」、アメリカでは後始末をする清掃員という意味から「モップアップマン(mop up man)」と呼ぶ。
敗戦処理という言葉にも表れているように、ベンチが半ば試合をあきらめた場面で起用される。したがって連日の起用によって登板過多になりやすい中継ぎや抑えを温存するため、やや格の落ちる投手や場合によっては野手が起用される[6]。
プレッシャーのかからない状態で投げることができるので、若手投手のテストの場としたり、故障明けや登板間隔の開いた投手を調整目的で登板させることもある。敗戦処理であっても好投すれば、先発や接戦での中継ぎに起用されるようになる場合もあり、幸いチームが逆転すれば勝利投手に輝くこともある。
しかし千葉ロッテマリーンズなどで監督を経験したボビー・バレンタインは、敗戦処理を任されて打ちこまれた若手投手が自信を喪失してしまう可能性を考慮し、もっぱらベテラン投手に敗戦処理を任せていた(小宮山悟がその代表格)。
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