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漢方医学(かんぽういがく)とは古代~近世まで、大陸から断続的に伝来する伝統中国医学・経験医学を独自に体系化した、日本固有の医学である[1]。特に江戸期には黄金時代を迎え、この時代の成果の多くが中国に逆輸出され、近年、現代中医学が形成される上で大きな影響を与えた。漢方医学は、伝統的診断法によって、使用する生薬の選別と調合を行う。このように処方された生薬方を漢方薬と称す。また一般に漢方医学と呼ぶ場合、そこには、生薬方に加えて鍼灸・按摩、食養生などが含まれる。
明治以降は、皇方・皇漢方・和方・和漢方・東洋医学などと呼び名は統一性がなかったが、現在では、東洋医学あるいは、昭和初期に使われるようになった漢方医学が一般的呼称である。日本漢方という用語は、昭和後期より使用されている。
漢方医学の特徴としては、処方については、『傷寒雑病論』(現在では、『傷寒論』(しょうかんろん)及び『金匱要略』(きんきようりゃく)と呼ばれる2つのテキストとして残る)を基本とした古い時代の処方に、日本独自のマイナーチェンジを加えたものであるが、その証を立てるための診断法には、精密化した脈診法や独自の腹診法などが体系的に組み込まれており、現代中医学など大陸の伝統医学とは異なる独立した治療技法となっている。
症状を含めたその患者の状態を証(しょう)と呼び、証によって治療法を選択する。証を得るためには、四診を行うだけではなく、患者を医師の五感でよく観察することがまず必要である。
西洋医学では、患者の徴候から疾患を特定することを「診断」と呼び、これに基づいて疾患に応じた治療を行う。しかし漢方医学では、治療法を決定すること自体が最終的な証となる。例えば葛根湯が最適な症例は葛根湯証であるという。
証の分類と治療法の選択について、以下のようにさまざまな理論化がなされた。
例えば気血水理論では、
の3つの流れをバランスよく滞りない状態にするのが治療目標になる。
本ページ「気血水」の項、参照のこと。
また、陰陽五行説も理論化に用いられた。
治療法を決定するためには四診(望、聞、問、切)を行う。
「寒熱」も参照
陰陽は様々な文脈で用いられた。例えば『傷寒論』では病状を陽と陰に分類し、それを更に三分類する。これを三陰三陽といい、太陽病、少陽病、陽明病、太陰病、少陰病、厥陰病がそれらである。
大略病状が活動的で、表に現れる場合を「陽」と表現し、逆の場合を「陰」と表現する[3]。
『傷寒論』では分類用語であった陰陽は、宗代になると哲学的な文脈でも用いられた。同時に五行説が取り入れられるようになった。五行と五臓(西洋医学の臓器とは異なる概念である)との対応は次のように考えられた。
実は体力の充実している状態、虚は体力の衰えている状態であるが、体のどこが虚しているかが重要である。
気血水説は古医方を唱えた吉益東洞の考えを、長男の吉益南涯が敷衍した理論であると日本では言われているが、『黄帝内経』に同じような記述も見られる節もあり、表現が違うだけで東洞が考えたというのは甚だ疑わしいとする声もある[4]。
漢方医学における体からの毒素を排出(いわば「瀉」)する際に重視したもの
などの施術があげられる。
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漢方医学のこれらの理論は、近代以降主流医学となった西洋医学から「非還元主義的である」「非科学的である」「あんなものは医学ではない」などと批判されることとなる。
しかし、漢方医学はもともと非還元主義的な、直感主義的な診察を選り好んで採用してきたのではなく、漢方医学が発達を遂げた古代から中世までの時代においては、そうした診察法しか方法論的にありえなかった、という反論がなされている。
また逆に現代の医療が、「還元主義的な医療」を念頭に置くあまり臨床検査データに頼りすぎ、それゆえにかえって見えなくなる領域、治せなくなる病症がある状況を鑑みれば、非還元主義的な漢方医療が現代においては、それに対する欠くべからざる補完的役割を果たしていることが指摘される。
さらに「患者を医師の五感でよく観察すべし」という診察法は、どのような医学を修めた医師にとっても共通の指針であるともいえよう。
漢方医学など現代における標準的な医療と体系が異なる医療を支持する人間は、現代の主流医学(mainstream medicine)を指して「西洋医学」と好んで称する。しかしいわゆる西洋医学と言われる医療体系は、その起源を西欧に置くのは確かであるが、現代においては、中華人民共和国及び中華民国を除くほぼすべての国における医療制度はこれを標準としており、「西洋」という地域的な冠称はすでにそぐわない。また、西洋発祥の医療の中にも、カイロプラクティックやホメオパシーなど、主流医学と体系が異なる、非標準的な代替医療(alternative medicine)とされるものもある。欧米では東洋医学は代替医療ないしは補完医療(complementary medicine)のひとつとされており、マッサージ、サプリメントやアーユルヴェーダなどと同列の位置づけである。しかし、日本では歴史的には漢方の方が主流医療であった時代が長く、西洋医学の代替ではなく西洋医学と並ぶ医学体系としてとらえられていた点が、欧米とは事情が異なる。近年は日本・欧米とも漢方の処方や方法論が主流医学にも積極的に取り入れられており、漢方薬と一般薬(西洋薬)が併用されることも多くなっている。中国では、現代医療の方法論を用いる「西洋医」と、中国伝統医学を発展させた「中医」が並立しており、「東洋医学」と「西洋医学」を並立させる考え方に近い医療制度を構築している。
「中医学」の歴史で漢方医学が日本に入ってくるまでの歴史を記す。
殷代の甲骨文などには「医」「薬」といった文字は見当たらず、未だ人々のあいだに医療という概念がなかったものと思われるが、やがて巫祝(ふしゅく)と呼ばれる、集落の神事とともに人々の病も癒す呪術師的存在があらわれることになる。最初の医療は、今でいう「占い」「魔よけ」にあたるものが主流であったが、やがてそこへ生薬などの「薬物療法」や、鍼灸の原初的段階が組み入れられていく。それとともに巫祝も、巫を専門とする神官的な存在と、医を専門とする医師的な存在に別れていったと考えられている。
こうして秦以前にも扁鵲(へんじゃく)などの名医の存在が数々の記録に残っており、たとえば扁鵲は六不治の一つとして「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」をかかげ、すでにこの時代に医者と呪術師的な存在、すなわち医学と宗教とは明確に分離されていたことをうかがわせる。
前漢(紀元前202年~紀元8年)の時代には『黄帝内経』という現在知られている最古の医書が編纂されている。後漢(25年~220年)の時代に張仲景により『傷寒雑病論』が編纂される。ただ、この『傷寒雑病論』は、長い戦乱で散逸し、雑病の部分だけが見つからず、『傷寒論』だけが残り、孫思邈]の『千金要方』などに、引用文などが書かれてはいたものの、『雑病』にあたる部分は発見されずにいた。北宋時代に王洙が『金匱玉函要略方』を発見し、その後半部分が『雑病』の部分にあたるとして、林億らによって、『傷寒論』と重複する部分を分けられ、『金匱要略(正式名称は金匱要略方論)』として、世に出回ることになる。張仲景は『傷寒雑病論』の序文において、『黄帝内経』を理解してから読まなければならないと書いているため、『黄帝内経』も読まずに『傷寒論』『金匱要略』を軽々しく扱うことを疑問視する流派もある。『傷寒論』は現在医学での流行性感冒と推測される急性熱性疾患をモデルに病勢の進行段階と治療法を論じたとする流派もあるが、『傷寒』とは狭義の意味は急性熱性疾患であるが、広義は熱性疾患のみに留まらぬ意味もあるため、これもまた意見の分かれるところでもある。伝統中国医学は張仲景によって初めて理論的に体系化されたともいわれる。
金・元時代(960年~1367年)には金元四大家と呼ばれた劉完素、張子和、李東垣、朱丹渓らが現われる。『黄帝内経』の理論を元に六淫理論、四傷理論といった新しい理論が表された。一方南宋では「太平恵民局」という公立の薬局が設けられて医者や官民に良質な薬を提供するシステムが構築され、宋慈が『洗冤集録』という世界初の本格的な法医学書を著しており、こうした成果は南宋を滅ぼした元王朝にも継承された。
また、明の時代に医師の李時珍が『本草綱目』を著して薬学・本草学の分野でも大きな進歩があった。
日本には遣隋使・遣唐使によって、また朝鮮経由で中国から伝えられた。8世紀に日本に戒律を伝えた鑑真は医学にも精通したとされ、756年に崩御した聖武天皇の御物を納めた東大寺正倉院には多くの薬品が納められている。982年には現存する日本最古の医書『医心方』が丹波康頼によって編纂された。13世紀頃には禅宗の僧が医学の担い手となった。14世紀を代表する医師として『頓医抄』の梶原性全や『福田方』の有隣が知られている。
日本で現在の漢方医学といわれるものが発展するのは16世紀になってからであった。明に留学した田代三喜は金元医学を学んだ。その弟子であり織田信長に重用された曲直瀬道三は金元医学を解説した『啓迪集』を著わし、また医学舎「啓廸院」を創り息子の曲直瀬玄朔をはじめとして多くの弟子を教えた。金元医学を元にした医学はのちに後世派(ごせいは)と呼ばれる。この時代に医学と宗教の分離が行われた。
17世紀には名古屋玄医が『傷寒論』への回帰を訴えた。後藤艮山が玄医の考え方を発展させ、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞らがこれに続いた。この流れは古方派(こほうは)と呼ばれる。後世派が陰陽理論や五行理論といった抽象的な理論に基づくのに対し、古方派は実証的に『傷寒論』を解釈することに務めた。これは杉田玄白ら蘭学医にも影響を与え、華岡青洲による世界最初の麻酔手術にもつながっていく。しかし古方派の実証主義が結果的には西洋医学流入に伴い漢方医学が衰退する一因となる。
後世派と古方派はしばしば対立したが、後世派の祖である曲直瀬道三も『傷寒論』を軽視していたわけではなく、古方派の後藤艮山は「一気留滞論」を唱え、香川修庵は医学における陰陽五行説を否定するなど、『傷寒論』などの古典を無批判に肯定していた訳ではない。
明治政府の政策により1874年以降は西洋医学を学び医師免許を取得しなければ医師と名乗ることが出来なくなった。現在でもこの規程は有効であり、純粋の漢方医は日本には存在しない(なお、漢方医の運動により1895年に医師法改正案が出されたものの、わずか28票差で否決されている)。ここに至り遂に漢方は壊滅の危機に瀕したが、医師免許を取得した医師が漢方医学の研究・診療することまでは否認されていなかった。1910年に和田啓十郎が『医界之鉄椎』、その弟子の湯本求眞が『皇漢医学』(1928年)を著わし漢方医学の復権を訴え、西洋医学を学んだ医師が漢方も学び実践する形で生き長らえた。
また僧侶の森道伯が後世派の流れを汲む一貫堂医学を築き上げたが、森道伯自身は医師免許が無く、矢数格や矢数道明など多くの医師が弟子として一貫堂に入門してきたため、門人たちによって一つの流派を形成するにいたった。なお、矢数道明はのちに大塚敬節と出会い、日本漢方医学会を結成して、ともに昭和漢方の復興を牽引することとなった。
1950年には日本東洋医学学会が発足した。1976年には漢方方剤のエキス剤が健康保険適用になり、広く用いられるようになった。現在、漢方の担い手の主体は医師というよりは薬剤師や鍼灸師であり、漢方薬局であるが、昨今では漢方医学に関心や理解を示す医師も多くなった。ただし、現代医学と体系を異にする漢方医学を十分に理解して実践している医師は一握りと言われているが、これは当然薬剤師や鍼灸師にも当てはまる事である。
漢方医学(あるいはそれに類するもの)は中国、日本以外にも、韓国(韓医学)、北朝鮮(高麗医学)、ベトナム(東医学)など広い範囲で行われている。
近年、韓国において韓医学についてユネスコ無形文化遺産の認定申請を行う動きがあり、漢方医学のルーツを自認する中国との間で論争が起こっている(韓国起源説)。
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