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ヒツジ | ||||||||||||||||||||||||||||||
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分類 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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学名 | ||||||||||||||||||||||||||||||
Ovis aries | ||||||||||||||||||||||||||||||
和名 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ヒツジ | ||||||||||||||||||||||||||||||
英名 | ||||||||||||||||||||||||||||||
Sheep |
ヒツジ(羊、学名 Ovis aries)は、動物界 脊椎動物門 哺乳綱 ウシ目 ウシ科 ヤギ亜科の1種である。角をもち、主に羊毛のために家畜化されている。
ヒツジは反芻動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、羊毛と呼ばれる縮れた毛をもつ。
原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある。
家畜のヒツジは54本の染色体をもつが、野生種は58-54本の染色体を有し、交雑可能である。自然状態の雑種の中には55本や57本の染色体をもつ個体も存する。
品種によってまったく角をもたないもの、雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に1対だが、古品種にはヤギのように後方に湾曲しながら伸びる2-3対(4-6本)の角をもつものもいる。
野生のヒツジの上毛の色合いには幅広いバリエーションがあり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色などがある。毛用のヒツジは主に染色に適した白い羊毛を産するように改良が加えられているが、ほかにも純白から黒色まであり、斑模様などもある。白いヒツジの群れのなかに有色の個体が現れることもある。
ヒツジの体長や体重は品種により大きく異なり、雌の体重はおよそ45–100kg、雄はより大きくて45–160kgである。
成熟したヒツジは32本の歯を持つ。ほかの反芻動物と同じように、下顎に8本の門歯がある一方、上あごには歯がなく、硬い歯茎がある。犬歯はなく、門歯と臼歯との間に大きな隙間がある。
4歳になるまで(歯が生え揃うまで)は、前歯は年に2本ずつ生えるため、ヒツジの年齢を前歯の数で知ることができる。ヒツジの平均寿命は10年から12年であるが、20年生きるものもいる。
前歯は齢を重ねるにつれ失われ、食べるのが難しくなり、健康を妨げる。このため、通常放牧されているヒツジは4歳を過ぎると徐々に数が減っていく。
同じヤギ亜科に属するヤギと違い、草だけを食べる(ヤギは木の芽や皮も食べる)。食草の採食特性は幅広いとされる[1]。
ヒツジの聴力はよい。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は 270–320°で、頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで先に進まなくなることがある。
暗いところから明るいところに移動したがる傾向がある。
通常は、妊娠期間150日ぐらいで仔を1頭だけ産むが、2頭あるいは3頭産むときもある。
ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった。
なお、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさない。
群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向がある。混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動く。
ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい。
ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがあるが、イリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低くウシと同程度であることが明らかになった。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から心理状態を識別することもできる。
ヒツジは非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人にエサをねだることもある。羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもある。エサを食べる順序は身体的な優位性により決定され、他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向がある。
オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっていて、角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争わないが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こる。
新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡がある。家畜化が始まったのは古代メソポタミアで、紀元前7000-6000年ごろの遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられている[2]。
家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していた4種の野生ヒツジに遡ることができる。中央アジアのアルガリ、現在の中近東にいるアジアムフロン、インドのウリアル[3]、地中海のヨーロッパムフロンがこれにあたる。これら4種は交雑が可能であり、遺伝学的手法によっても現在のヒツジの祖を特定するには至っていないが、いくつかの傍証からアジアムフロンが原種であるとの説が主流となっている。
ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は1000-2000年程度先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される。
毛の利用については、現代[いつ?]のヒツジと最初期のヒツジとでは様相が大きく異なる。
野生のヒツジの毛(フリース)は2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛、ケンプ)」に覆われ、肌に近い内側に産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、ウール)」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、利用されていなかった。一方、野生のヒツジは春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前から人類は、この抜け落ちた上毛(ケンプ)によってフェルトを作っていたらしい[4]。現在われわれが通常に羊毛(ウール)として親しんでいるのは、主にこの下毛を発達させるように品種改良された家畜用ヒツジの毛である。現代の家畜化されたヒツジは換毛しない。
家畜化されたヒツジは改良によって、上毛(ケンプ)を退行させる代わりに、ヘアー(適当な訳語がない)と呼ばれる中間毛と緬毛(ウール)を発達させた。紀元前4000年ごろにはヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化している。紀元前2000年ごろのバビロニアはウールと穀物と植物油の三大産物によって繁栄した。バビロンの名は「ウールの国」の意味であるとする研究者もいる[5][6]。
野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアからエジプトに伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前1500年頃から、地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちにギリシア人によって再発見され、黄金羊伝説となった。このヒツジはローマ時代には柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。ローマ人が着用した衣服はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ、1300年頃のカスティーリャで現在のメリノ種(en)が登場した。
理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった。18世紀になるとスペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った。1796年、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。この羊を買い取ったニュー・サウス・ウェールズ州のジョン・マッカーサーはヒツジの改良に努め、オーストラリアの羊毛産業の基礎を築いた[7]。
ヒツジの皮の利用は最古のものとしては紀元前2500年頃まで遡ることができるが、羊皮紙としては、紀元前2世紀頃のペルガモン(現在のトルコ)で本格的な加工が始まったとされる。
羊乳はヤギの乳に比べると、脂肪とタンパク質に富んでおり、加工に適する。中近東やヨーロッパ大陸では羊乳は伝統的にチーズやヨーグルトに加工されており、現在でも多くの乳用種が飼育されている。しかし、より遅く家畜化に成功したウシと比較すると単位面積当たりの収量は劣り、ウシを飼養できる地域ではヒツジの乳利用は主流ではない。
日本列島には古来より、旧石器・縄文時代のイヌや弥生時代のブタ・ニワトリ、古墳時代のウマ・ウシなど家畜を含め様々なものが海を越えて伝わったが、羊の飼育及び利用の記録は乏しい。寒冷な土地も多く防寒用に羊毛が利用される下地はあったが、動物遺体の出土事例も報告されていないことから、ほとんど伝わらなかったものと考えられている。
考古資料では鳥取県鳥取市の青谷上地遺跡において弥生時代の琴の部材と考えられている木板に頭部に湾曲する二重円弧の角を持つ動物が描かれており、ヒツジもしくはヤギを表現したものとも考えられている[8]。
文献史料においては、『魏志倭人伝』(『魏書』東夷伝倭人の条)では弥生時代末期(3世紀前半代)において日本列島にはヒツジがいなかったと記されている[9]。
8世紀初頭に成立した『日本書紀』では、推古天皇7年(599年)に、推古天皇に対し百済(朝鮮半島南西部)からの朝貢物として駱駝(らくだ)、驢馬(ろば)各1頭、白雉1羽、そして羊2頭が献上されたという[10]。西域の動物であるラクダやロバとともに献上されていることから、当時の日本列島では家畜としてのヒツジが存在していなかったとも考えられている[11]。
奈良時代、天武天皇の時代に関東で活躍した人物に「多胡羊太夫(たご ひつじだゆう)」という人物がいると伝わり、関連して地元に羊神社などが残る程度であり、羊自体の存在や飼育記録は確認できない。
8世紀には、奈良県の平城宮跡や三重県の斎宮跡から羊形の硯(すずり)が出土している[12]。8世紀中頃には、正倉院宝物に含まれる「臈纈屏風(ろうけちのびょうぶ)」にヒツジの図像が見られる[13]。
『日本紀略』によれば、嵯峨天皇の治世の弘仁11年(820年)には、新羅からの朝貢物として鵞鳥2羽、山羊1頭、そして黒羊2頭、白羊4頭が献上されたという[14]。さらに、醍醐天皇の治世の延喜3年(903年)には唐人が“羊、鵞鳥を献ず”とあり、他の記録も含め何度か日本に羊が上陸した記録はあるが、その後飼育土着された記録はない。故に日本の服飾は長く、主に植物繊維を原料とするものばかりであった。
仏教の影響を色濃く受けた故に肉食があまり推奨されてこなかったことから食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではなく、貿易品としての羊の毛織物は人気は高いが高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていた。
江戸時代、文化2年(1805年)に江戸幕府の長崎奉行の成瀬正定が羊を輸入し、唐人(中国人)の牧夫を使役して肥前浦上で飼育を試みたが、失敗。
幕府の奥詰医師であった本草学者の渋江長伯は行動的な学者であったらしく、幕命により蝦夷地まで薬草採集に出向いたりしていた。長伯は幕府医師だけではなく、江戸郊外にあり幕府の薬草園であった広大な巣鴨薬園の総督を兼ねていたが、文化14年(1817年)から薬園内で綿羊を飼育し、羊毛から羅紗織の試作を行った。巣鴨薬園はゆえに当時「綿羊屋敷」と呼ばれていた。
明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりである。戦前から戦後間もない時期まで、日本製の毛織物は重要な輸出品だったが、化学繊維にとってかわられた。
家畜用のヒツジは、毛用種、肉用種、乳用種に大別されるが、代表種のメリノをはじめ、兼用の品種も多い。
Source: FAO [15]
2008年の羊の頭数 (単位は百万頭) |
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中国 | 136.4 |
オーストラリア | 79.0 |
インド | 65.0 |
イラン | 53.8 |
スーダン | 51.1 |
ニュージーランド | 34.1 |
ナイジェリア | 33.9 |
イギリス | 33.1 |
世界総計 | 1,078.2 |
ヒツジは羊毛や肉(ラム、マトン)を目的として世界中で広く飼育され、2008年には全世界で10億頭を超えるヒツジが飼育されていた。世界で最もヒツジを多く飼育しているのは中国で、1億3000万頭以上に上る。飼育頭数は漸増傾向にあるが、2006年からは減少に転じている。2位はインドで、1992年から2010年までに飼育頭数が約1.5倍となり、現在も漸増傾向が続く。次いで飼育頭数が多いのはオーストラリアである。かつては長らく世界最大のヒツジ生産国であり、1992年には1億4800万頭以上のヒツジが飼育されていたが、飼育頭数は急激に減少しており、1996年には中国に抜かれて第2位となり、2010年にはインドにも抜かれて3位となった。2010年の飼育頭数は約6800万頭であり、1992年の半分以下にまで減少している。オーストラリアのヒツジはメリノ種が主であり、羊毛を主目的としていたが、近年では食肉種も盛んに飼育されるようになった。4位はイランであり、1992年の4600万頭から2010年の5400万頭と微増している。5位はスーダンであり、1992年から2010年までに飼育頭数は倍増した[16]。6位のニュージーランドは古くからのヒツジの大生産国であり、1834年にヒツジが本格導入されてからすぐに羊毛の大輸出国となり、さらに1882年に冷凍船が導入されてからは羊肉も輸出できるようになって、産業革命期にあったイギリスを主要市場として発展していった。ニュージーランドではオーストラリアとは違い、羊肉・羊毛兼用種が主に飼育されている[17]。
日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭であり、世界では第158位である[18]。都道府県別では北海道での飼育数が飛び抜けて多く、他は秋田県、岩手県、福島県などの東北地方、栃木県や千葉県などの関東地方で飼育されている。東日本ではある程度飼育されているが、西日本ではほとんど羊の飼育は行われていない[19]。
羊肉は広い地域で食用とされている。羊の年齢によって、生後1年未満をラム(lamb、子羊肉)・生後2年以上をマトン(mutton)と区別することもある。生後1年以上2年未満は、オセアニアでは「ホゲット」と区別して呼ばれているが、日本ではマトンに含まれる。
日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案されたジンギスカンや、ラムしゃぶ、スペアリブの香草焼き、アイリッシュシチューなど特定の料理で使われることが多い。カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされている。
ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつある。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われる。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法がある。
海外では、飼育が盛んなオーストラリア、ニュージーランドをはじめ、特にペルシャ湾岸諸国やギリシャ、イギリス、アイルランド、ウルグアイで盛んに消費される。湾岸諸国を除いては、いずれも羊が盛んに飼育される国家である。これらの国では、羊肉の年間一人当たり消費量が3kgから18kgにのぼる[20]。湾岸諸国で消費が多いのは豚肉を避けるイスラム教が広く普及しているからであり、他の中東諸国でも羊肉の消費量は多い。マグリブやカリブ海、インドでも多く消費される。また、東アジアでも、モンゴル、中国西北部などでは、代表的な食肉となっており、さまざまな調理法が用いられている。ヨーロッパではラムが、中東や中央アジアではマトンが好まれる傾向にある[21]。
インドのマクドナルドには「マハラジャマック」と呼ばれるメニューがあり、これは牛を神聖な生き物とみなすヒンドゥー教の信徒ためにマトンを用いたハンバーガーのことである。
一方、アメリカ合衆国においては羊肉の消費量はわずかである。アメリカ人の年間羊肉消費量は0.5kg以下で、牛肉(29kg)や豚肉(22kg)に比べてはるかに低い消費量となっている[22]。これは、アメリカでは牛や豚など他の食肉が大量に生産できるうえに安く、さらにアメリカで食用にされるヒツジは羊毛用ヒツジの廃家畜が主であったため、食味などの品質で他の食肉に太刀打ちできなかったからである。さらに他食肉の価格下落に伴い、1960年代から1980年代にかけて羊肉消費量はさらに60%以上減少した[23]。
ヒツジの乳は主にヨーグルトやチーズなどの加工用に使用される。生乳の飲用は牛に比べて生産効率が悪いためにほとんど行われない。特にチーズへの加工が多く、フランスのロックフォール・チーズやイタリアのペコリーノ、ギリシャのフェタチーズなど羊乳を原料としたチーズも多い。羊乳の代替品として、生き血も広く用いられる。
羊の飼育上もっとも重要な利用対象はメリノ種などから取る緬毛(ウール)である。詳細は緬毛の項目を参照。
羊皮紙はヒツジの皮を原料とするが、ヤギやウシなど、ヒツジ以外の生き物の皮が使われることも多かった。
中近東や中世の西洋などでは、東洋から製紙の技術が伝播するまで、羊皮紙はパピルス、粘土板と共に、宗教関連の記録や重要な書類の作成に、長い間使用されていた。
羊毛の根元に付着しているワックスエステルを主成分とする油分をウールオイル(ウールファット、Wool fat)またはウールグリース(Wool grease)という。これを精製したものをラノリンといい化粧品、軟膏の原料にする。また、これとは別に肉から羊脂をとることができ、調理用などに使用される。
ラムスキン、シープスキン、ムートンとして衣服に用いられる。
砂漠や山岳地帯など、さまざまな環境に適応した固有の種がある。
現代の代表品種メリノ
顔や四肢の黒いサフォーク
カラクルの子
野生種のムフロン
キリスト教、またその母体となったユダヤ教では、ヤハウェ(唯一神)やメシア(救世主)に導かれる信徒たちが、しばしば羊飼いに導かれる羊たちになぞらえられる。旧約聖書では、ヤハウェや王が羊飼いに、ユダヤの民が羊の群れにたとえられ(エレミヤ書・エゼキエル書・詩篇等)ている。
また、旧約聖書の時代、羊は神への捧げもの(生贄)としてささげられる動物の一つである。特に、出エジプト記12章では、「十の災い」の最後の災いを避けるために、モーセはイスラエル人の各家庭に小羊を用意させ、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗り、その肉を焼いて食べるように命じた。のちに、出エジプトを記念する過越祭として記念されるようになる。
また、羊の肉はユダヤ教徒が食べることができる肉として規定されている。カシュルートを参照のこと。
新約聖書では、「ルカ福音書」(15章)や「マタイ福音書」(18章)に「迷子の羊と羊飼い」のたとえ話の節がある。愛情も慈悲も深い羊飼いは、たとえ100匹の羊の群れから1匹が迷いはぐれたときでも、残りの99匹を放っておいて、そのはぐれた1匹を捜しに行くものだとある。隠喩で、このはぐれた羊はキリストへの信仰が薄い逸脱者とみなされる。しかしこの羊は迷っただけであり、完全な反抗者でも異端信者でもないため、キリスト信者への復帰が認められている。
「ヨハネ福音書」では、イエスが「私は善き羊飼いである」と語るが、イエス自身も「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれる(1章29節)。
この「神の小羊」は、イエスが後に十字架上で刑死することにより、人間の罪を除くための神への犠牲となる意味があり、イエスが刑死したのも前述の過越祭の期間であったことから、パウロは第一コリント5章7節で、イエスは「過越の小羊として屠られた」と表現する。→ミサ・ミサ曲
また、「ヨハネ黙示録」において、天上の光景のなかで啓示されるイエスの姿は「屠られたような」「七つの目と七つの角」を持つ小羊の姿である(5章他)。
イスラム教国においてはヒツジはもっとも重要な家畜の一つであり、特にサウジアラビアや湾岸諸国においてはハラールに適応するようオーストラリアなどから生きたまま羊を輸入し、自国にて屠畜し食肉とすることが行われる。また、ヒツジはイスラム教の祭日であるイード・アル=アドハー(犠牲祭)においてもっとも一般的な生贄である。この日はハッジの最終日に当たり、メッカ郊外のムズダリファにおいてヒツジやラクダ、牛など50万頭にものぼる動物が生贄にささげられる[24]。メッカ以外の、巡礼に参加しなかったムスリムも動物を1頭捧げることが求められており、イスラム教諸国においてヒツジが買われ、神に捧げられる。捧げられた肉は自らの家庭で消費するほか、施しとして貧しい人々に分け与えられる。
犬種にShetland Sheepdog(シェットランド・シープドッグ)の様にsheepdogと付くものがあるが、これは「ヒツジに似た犬」ではなく、牧羊犬に適した犬種であることを示している(シェパード Shepherd も同様)。これらは、英語圏を始めとする欧州地域でのヒツジが比較的身近な家畜である顕著な例でもある。
怒った雄羊の突撃には相当な威力がある。ここから転じてローマ軍で用いられた破城槌の先端には、鉄や青銅で出来た雄羊の頭の像が取り付けられた。
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沈降精製百日せきジフテリア破傷風混合ワクチン「北里第一三共」
(0.1%未満)
(0.1%未満)
(頻度不明)
(頻度不明)
百日せきは罹患小児の回復期血清で、抗PT抗体及び抗FHA抗体をELISA法により測定した結果から、両抗体共少なくとも10EU(ELISA単位)以上が血中に存在すればよいと考えられている。3)
ジフテリアに対する感染防御は、0.01IU(国際単位)/mLの抗毒素(抗体)が、また破傷風に対する感染防御は、0.01IU/mLの抗毒素がそれぞれ血中に存在すればよいと考えられている。4) 5)
沈降精製百日せきジフテリア破傷風混合ワクチンを2回接種後4週間すると、一時的に百日せき、ジフテリア、及び破傷風、いずれも前述の防御レベル以上の抗体価が得られるが、含まれる抗原成分が不活化されたものであるため、漸次各々の抗体価は低下する。したがって、それ以後少なくとも数年にわたり、感染防御効果を持続(抗体価レベルの維持)するためには、初回免疫及び追加免疫が必要である。
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