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この項目では、飲料の茶について記述しています。その他の用法については「茶 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
茶(ちゃ)とは、チャノキ(学名:Camellia sinensis (L.) Kuntze)の葉や茎[1]を加工して作られる飲み物である。
また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。
詳細は「チャノキ」を参照
チャノキ(茶樹)は、主に熱帯及び亜熱帯気候で生育する常緑樹である[2]。品種によっては海洋性気候でも生育可能であり、最北でイギリスのペンブルックシャー [3]やアメリカのワシントン州[4]で栽培されている。
茶樹は種子から、あるいは挿し木によって繁殖する。茶樹が種子を付けるまで4年から12年ほどかかり、新しい木が収穫(摘採)に適するまでには3年ほどかかる[2]。年平均気温が12.5 - 13℃以上(適温は14 - 16℃)、年間降水量が1300 - 1400mm以上、土壌はpH4 - 5程度の酸性であることが望ましい[5]。茶の品質は一般に窒素を多くするほど向上する(ある程度以上では効果は薄い)。そのため多施肥化が進み、日本などでは硝酸態窒素による地下水汚染が問題になっている[6]。
世界で主に栽培されているのは基本変種であるチャノキ(学名 : Camellia sinensis (L.) Kuntze)とその変種であるアッサムチャ(学名 : Camellia sinensis (L.) Kuntze var. assamica (J.W.Mast.) Kitam.)の2変種である。基本変種は幹が枝分かれした低木で、寒い冬にもよく耐え、100年程度栽培可能である[7]。葉は比較的小さく、成長時の長さは5センチメートル程度である[8]。比較的カテキン含有量が少なく、酵素の活性も弱く酸化発酵しにくいことから、一般に緑茶向きとされている。中国、日本などの緑茶生産国のほか、イラン、グルジア、トルコなど冬の寒さが厳しい場所で栽培されている[9]。また、インドのダージリンやスリランカでも栽培されている[7]。アッサムチャは単幹の高木で、放置すれば6メートルから18メートルの高さにも達する。葉が大きく、15-35センチメートルまで成長する[8]。栽培に適した高さに刈り込みながら摘採した場合、経済的に利用可能なのは40年程度である。アッサムチャの中に5つの亜変種があるとの説もある。[7]。アッサムチャはカテキン含有量が多く、酵素の活性が強く発酵しやすいことから、紅茶向きとされている。生育の良さと葉の大きさのため収量があり、インドのアッサム地方、スリランカ低地、インドネシア、ケニアなどで栽培されている[9]。
新芽が成長してくると摘採を行う。摘採時期が遅れると収量は増えるものの、次第に粗繊維が増加して葉が硬化し、主成分であるカフェイン、カテキン、アミノ酸(テアニン)も急激に減少するため、品質が低下する。そのため、品質を保ちながら収量を確保するため、摘採時期の見極めが必要である[10]。
成熟した茶樹のうち、摘採するのは上部数センチメートルの葉と葉芽だけである[11]。成長期には摘採後7日から15日で新しい葉が生え、葉がゆっくり成長するほど風味豊かな茶となるとされる[2]。
詳細は「製茶」を参照
茶は、加工の方法(発酵のさせ方)により、様々な種類があり、世界的に知られているのは、酸化発酵を行わせた紅茶と行わせない緑茶である。茶葉に含まれる酵素が、茶葉の中のカテキン(ポリフェノールの一種)など300種類以上の成分と反応するにつれ、テアフラビンなどが生成する。これらの成分によって茶の味や香りが左右される[12]。酸化発酵が進むにつれ、クロロフィル(葉緑素)も酸化されるため、色は緑から暗色に変化していく。
中国茶では、緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶の大きく6種類の区別が用いられている[13]。
緑茶 | 不発酵茶。中国茶の場合、摘採後、発酵が始まらないうちに速やかに釜炒りすることで酵素を不活性化する(殺青)。その後、揉捻、乾燥して仕上げる[13][14]。 日本茶の場合は、釜炒りではなく茶葉を蒸す[15]。煎茶は揉捻を行うが、抹茶の原料である碾茶は揉捻を行わない[16]。 |
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白茶 | 弱発酵茶。中国福建特産の希少な茶。原料は茶葉の芽に白い産毛がびっしりと生えているもの(白毫)を用いる。摘採後、萎凋(放置して水分を飛ばすとともに酸化発酵を行わせる)のみを行い、火入れして酸化発酵を止める[17]。 | |
黄茶 | 弱後発酵茶。白茶同様希少な茶である。萎凋を経ずに加熱処理を行うが、その際、低い温度から始め、徐々に温度を上げ、その後徐々に温度を下げることにより、一定の酸化発酵を行わせる。その後、高温多湿の場所に置いて悶黄と呼ばれる後発酵を行わせる[18]。この悶黄は、酸化酵素や微生物の働きによらず高温多湿の環境でポリフェノールやクロロフィル(葉緑素)を酸化する過程であり、これにより葉は黄色くなる[19]。 | |
青茶 | 半発酵茶。烏龍茶に代表される。萎凋を行い、その途中で茶葉を撹拌する揺青という工程を加えることにより、発酵を助長する。釜炒りで酸化発酵を止めた(殺青)後、茶葉の香りと味を引き出すため茶葉を揉み(揉捻)、最後に焙じて仕上げる[20][21]。 | |
紅茶 | 完全発酵茶(全発酵茶)。萎凋を行った後、揉捻を行うことにより、茶葉の細胞組織を壊し、酸化発酵を進行させる。さらに、温度、湿度、通気を調整し、茶葉が赤褐色になるまで急速な酸化発酵を行わせる(転色)。最後に乾燥・加熱して仕上げる[22][23]。 | |
黒茶 | 後発酵茶。中国雲南省を中心に作られ、プーアル茶が最も有名。緑茶と同様、摘採後すぐに加熱して酸化発酵を止め(殺青)、揉捻する。その後、高温多湿の場所に茶葉を積み上げて(渥堆)、微生物による発酵を行わせる。この点で、茶葉自体に含まれる酸化酵素の働きにより発酵させる烏龍茶、紅茶などと異なる。再び揉捻(復揉)した後、乾燥させて仕上げる[24]。 | |
花茶 | 以上6種に加え、花で茶に香りを付けたものを花茶と呼ぶ。緑茶、青茶、黒茶、紅茶などの茶葉に花自体を混ぜたもの、花の香りだけを移したものがある(花自体を茶として飲むものもあるが、これは茶外茶である)[25]。ジャスミン茶(茉莉花茶)が知られる。 |
ウィクショナリーに茶、荼、teaの項目があります。 |
漢字の「茶」は中唐以後に成立した字で、それまでは「荼(ト)」で代用されていた。「荼」は草本植物を表す草冠と、「苦い」ことを意味する「余」からなり、本来は苦い味のする植物であるニガナを指す字である。原産地の雲南方面から四川・江南へと長江流域に茶が広まるにつれ、デャあるいはテャのような発音(反切で澄麻の切)に荼字を当てて使うようになったと推定されている。唐の陸羽が『茶経』を著して、「荼」を1画減らして区別することが広まったと言われる。『茶経』には「茶」「檟(カ)」「蔎(セツ)」「茗(メイ)」「荈(セン)」の5種の名が揚げられているが、他に当て字もあって、それらも合わせると10種以上の字が使われていた。「茗」に関しては、現代中国語でも茶を総称する「茗茶」という言い方が残っている。
世界で茶を意味する語の起源は、「チャ」系統のものと「テー」系統のものがある[26]。
中国のほとんどの地域では、茶は「チャ (cha)」と呼ばれている。インド、中央アジア、イラン、ロシア語でも「チャ」と呼ばれ、これらは中国から伝播したものと考えられる。ペルシア語辞典やヒンディ語辞典にはチャ (chā) とチャーイ (chāi) の両項目が挙げられている[27][28]。「チャー」に由来する呼び名を持つ言語としては以下のような例がある。
これに対して西欧の多くの国では「テー」系統の発音が用いられている。これは、福建南部から台湾にかけて用いられている閩南語のテェ (te) に由来すると考えられている。すなわち、17世紀に茶を中国からヨーロッパに持ち込んだのはオランダ人であったが、清代中期から貿易を認められていた広州の特許貿易商である広東十三行は、福建省厦門(アモイ)出身者が多く、彼らが自らの母語でテェと呼んだことによるとされる[29]。この系統の言語としては次のようなものがある。
他方、ポルトガルは広東省のマカオから直接茶を輸入していたことから、広東省での呼び名に従い、西欧では例外的にcháと呼んでいる(現在では「シャ」と発音されるが、かつての発音は「チャ」であった)。
日本語の茶の字音は呉音「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」である。「チャ」という音は院政時代の『色葉字類抄』から見られ、漢音と唐音の間の時期に流入したと考えられる。また、朝鮮語漢字音も「タ」と「チャ」があるが、植物・飲料の茶だけを指す場合、「チャ」を用いる。
茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある[30]。
中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる[31]。
しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」、「茗(めい)」、「荈(せん)」、「檟(か)」といった文字が当てられていた[32]。
書籍に現れるものとしては、紀元前2世紀(前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある。
陶弘景は注釈書『本草集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は茶に疾病を治癒する薬効は認められないとしてこれを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではないと陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある[33]。
「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」、「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から100キロほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる[34]。この「僮約」には神爵3年(前59年)という日付が付されており、紀元前1世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる[35]。
後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、晋代の張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している[36]。南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた。顧炎武(清初)によれば、南朝の梁代(502-57年)に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている[37]。
茶の文化を初めて体系化したのは、唐の陸羽(? - 804年)であった。南北朝が統一され、政局が安定し、民生が充実するとともに、茶が北方に広がっていった時代であった。この頃「茶」の字も全国的に普及した[38]。陸羽は安史の乱を避け呉興(現在の浙江省湖州市)に移り住み、名茶を求めて諸方に旅をするかたわら、茶を通じて文人らと交わったが、この頃『茶経』を著して、「茶は南方の嘉木なり」と述べた[39]。『茶経』には茶の飲み方として、觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餠茶(へいちゃ)があるとされている。觕茶はくず茶、散茶は葉茶をいうとされ、餠茶は乾燥した茶葉を圧搾して固形にしたものである。末茶(抹茶)は餠茶を搗いて粉にしたものであり、7世紀にはこの末茶が主流であったと考えられている[40]。
陸羽は、『茶経』の中で、野生の茶が上であり畑の茶はこれに次ぐ、陽崖(日当たりの良い山の斜面)で陰林(適当に陰を作る林)にあるもの、緑よりも紫のもの、笋のもの(タケノコの形をしたもの)、葉の巻いたものが最も上質であるとしている。湖州顧渚山の最高級の茶は「紫笋茶(しじゅんちゃ)」と呼ばれた[41]。
大暦5年(770年)に、茶を朝廷に献上すること(貢茶)が始まったとされ、地方官の関心はより高級な茶の調達に向かった[42]。太湖沿岸の常州(現在の江蘇省宜興市)と湖州で産した陽羨茶は毎年長安の都に送られた[43]。
一方で、茶の庶民化も進んだ。建中3年(782年)に初めて茶への課税が行われ、その後税は廃止されたり復活したりを繰り返した[44]。
宋代(北宋、960年-1127年)になると、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研(す)って粉にするようになり、これを研膏茶と呼ぶ。宮廷(皇帝)への献上品として、最高級の研膏茶を固形の団茶にした「竜鳳茶」が作られたが、その後蔡襄によって更に上等の「小竜団」が作られ、進貢された。献上茶には、竜脳、珍果、香草などを混ぜて香り付けしたものもあった。元豊年間(1078-85年)の「密雲竜(のち瑞雲翔竜)」、大観年間(1107-10年)の「御苑玉芽」、「万寿竜芽」、「無比寿芽」、宣和2年(1120年)の「新竜園勝雪」と次々に高級団茶が開発され、金では買えない宝として扱われた[45]。
産地としては、中唐の頃には知られていなかった福建が献上茶の筆頭となり、皇室御用の茶を栽培する北苑が福建に設けられ、「竜鳳茶」などを製造した[46]。蔡襄の著した『茶録』にも、北苑系の建安の茶が第一とされている。南宋から元にかけて、北苑が衰えると、福建北部の武夷山がこれに取って代わった[47]。武夷山は岩ばかりの山であり、わずかな土壌に生える茶が武夷岩茶として珍重された[48]。
乾徳3年(965年)、宋は茶の専売制を敷いた。ただし、当初は茶の生産から運搬、流通まで官が行うこととされたが、困難であったため、後に、商人に茶を払い下げる際に徴税することとなった[49]。熙寧3年(1070年)にいったん自由売買が認められたが、財政難から元豊7年(1084年)に専売制が復活した[50]。
専売制は交易上も大きな意味を持った。中国本土に少し遅れて、青海付近のチベット人が茶を飲むようになった。茶を産しないチベットでは宋から茶を入手する必要があり、宋にとっては茶が絹に代わるチベットへの輸出品となった。宋初に、チベット系政権西夏との国境付近の原州、渭州、徳順(現在の甘粛省鎮原、平涼、静寧)3郡に茶と馬との交易場が設けられた。元豊6年(1083年)、茶場司と買馬司を統合した茶馬司という役所ができ、交易を管理することになった[51]。その後、茶の産地から遠く離れた塞外民族も、茶を不可欠とするようになった。肉食の塞外民族はビタミンCの補給のために茶を必要としたとの説がある[52]。南宋(1127 - 1279年)の時代には、茶はチベットに対してだけではなく北の金に対しても主要な輸出品となった[53]。
明代(1368 - 1644年)になると、太祖洪武帝が洪武24年(1391年)に団茶の進貢をやめさせ、葉茶のままにするよう命じたことを機に、団茶(抹茶)は廃れた。『明史』食貨志に「旧(も)と皆な採りて之を碾(ひ)き、銀板を以て圧(おさ)え、大小の竜団を為(つく)る。太祖、其の民を労するを以て、造るを罷(や)め、惟(た)だ茶芽を採りて以て進めしむ。」とある[54]。明は尚武の精神が強い重農主義的な王朝であり、洪武帝も社会の最下層から身を起こした人物であったため、余りに洗練されたぜいたくな団茶を嫌ったのではないかと指摘されている[55]。また、それまでの葉茶(散茶)が、蒸して乾燥させた茶葉に湯を注いで飲む方法であり青臭さがあったのに対し、明代には、葉を釜炒りする方法が主流となり、飲みやすくなったことも、中国の茶が葉茶のみになった理由であると考えられている[56]。
産地については、許次紓が17世紀初頭に書いたと思われる『茶疏』に、松蘿(しょうら、安徽省屯渓区西北)、虎丘(江蘇省蘇州市)、龍井(ロンチン、浙江省杭州市付近)の茶を「香気濃郁」として挙げている[57]。
清代(1644 – 1912年)の宮廷(紫禁城)では、夏期に龍井茶(緑茶)を飲み、冬期に普洱茶を飲んだ。江南を愛した乾隆帝(在1735-95年)も、江南への3回目の行幸で龍井を訪れ、「龍井の新茶 龍井の泉/一家の風味 烹煎(ほうせん)を称す」と始まる詩を作っている[58]。普洱茶は雲南省西双版納で生産され、緊圧茶の形で進貢された。紫禁城では、頤和園の玉泉山の水で普洱茶を煮、乳酪に加工した牛乳を加えて飲んだ[59]。
清代後期、18世紀から19世紀にかけて、イギリス商人が中国で盛んに茶を買い付けた[60]。当初は、中国の緑茶をそのまま仕入れ、ヨーロッパでも緑茶を飲んでいたが、18世紀初頭から紅茶が増え始め、18世紀半ばに紅茶の方が優勢となった[61]。イギリス商人は、福建産の茶の中でも粗悪なものをボヒア(「武夷」の転訛)と呼んだのに対し、丁寧に製茶したものを工夫茶(コンゴウ)と呼んだ[62]。福建の工夫茶の成功を見て、19世紀後半、緑茶の産地であった安徽省祁門県も、紅茶生産に転換し、祁門紅茶(キーマン)が生まれた[63]。
半発酵茶である烏龍茶は、福建北部の武夷山で始まったが、18-19世紀にイギリスの買い付けに有利な福建南部の安渓で盛んに作られるようになった。安渓で産する烏龍茶の代表が鉄観音である[64]。さらに、烏龍茶は安渓から台湾に伝えられた[65]。
清朝は輸出港を広州に限定し、茶の売上げと輸出税で収益を上げた[66]。一方、茶や陶磁器、絹の輸入によって清に対する大幅な輸入超過に陥ったイギリスは、反対商品としてインド産のアヘンを清に密輸する三角貿易を組み立てたが、このことがアヘン戦争(1840 – 42年)を招いた。以後、イギリスは割譲させた香港を拠点にして対清通商を進めた。
イギリスは、清からの輸入を減らすため、インドでの茶生産も図った。アヘン戦争後中国内地へのアクセスが可能になると、1848年、イギリスのロバート・フォーチュンが東インド会社からの委嘱を受け、インドへの移植にふさわしい茶樹の苗・種子を採集するため中国に入った。彼は、中国の産茶区を巡り、安徽省の松蘿山一帯が最高の緑茶の産地であると報告している[67]。実際、19世紀後半から、インド、スリランカで本格的な茶樹栽培が始まると、中国茶は市場を失うようになった[68]。
詳細は「日本茶」を参照
茶がいつ中国から日本に伝わったのかははっきりしていないが、最近の研究によればすでに奈良時代に伝来していた可能性が強い。ただし、古代に伝わった茶は纏茶(てんちゃ)であったと考えられる[要出典]。
平安時代初期に、空海(806年に唐から種子を持ち帰り製法を伝えた)や最澄も持ち帰り栽培したという記録がある[要出典]。『日本後紀』には、弘仁6年(815年)4月、嵯峨天皇の近江行幸の際、梵釈寺(滋賀県大津市)の僧永忠が茶を煎じて献上したと記されている。永忠は在唐35年の後、805年に帰国しており、この時茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られる[69]。815年6月、畿内、近江、丹波、播磨の諸国に茶を植え、毎年献進することが命じられた[70]。『凌雲集』の嵯峨天皇御製に「詩を吟じては厭わず香茗(こうめい)を搗(つ)くを/興に乗じては偏(ひと)えに宜しく雅弾を聴くべし」との聯があり、搗いて喫していたことが分かる[71]。平安朝の宮廷人も茶を飲んでいたことがいくつかの詩に残っており、菅原道真も、「煩懣(はんまん)胸腸(きょうちょう)に結び/起ちて飲む茶一椀」と詠んでいる[72]。しかし、遣唐使が廃止されてからは、唐風のしきたりが衰え、茶もすたれていった[73]。
茶の再興は、栄西が1191年に宋(南宋)から種子や苗木を持ち帰ってからである。栄西は、1187年から5年間の2回目の渡宋中、素朴を尊ぶ禅寺での抹茶の飲み方を会得して帰ったと考えられる[74]。当初は薬としての用法が主であった(戦場で、現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていた、等)が、栽培が普及すると共に嗜好品として、再び飲まれるようになった。
一時(貴族社会の平安時代の遊びとして)中国のように闘茶が行われることもあったが、日本茶道の祖・南浦紹明により、中国より茶道具などと共に当時、径山寺などで盛んに行われていた茶会などの作法が伝わり、次第に場の華やかさより主人と客の精神的交流を重視した独自の茶の湯へと発展した。当初は武士など支配階級で行われた茶の湯だが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになる。煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期である。茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化した。
茶は江戸時代前期では贅沢品として、「慶安御触書」や「直江四季農戒書」[75]でも戒められていたが、やがて有利な現金作物として生産が増えて大いに普及した。生産者にとっては現金収入となる一方で、金肥といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料を購入しなければならなかったので、生産地では農村への貨幣経済浸透を促した。
明治時代になって西洋文明が入ってくると、コーヒーと共に紅茶が持込まれて徐々に普及していくこととなる。昭和期に芸能マスコミの話題(人気絶頂期のピンク・レディー[76]が減量のためにウーロン茶を飲んでいると言ったこと)から半発酵茶の烏龍茶が注目を集め、伊藤園やサントリーから缶入り烏龍茶が発売されると一般的な飲み物として定着した。また、この流行のため中国では烏龍茶が主であるかのようなイメージが広がった。缶入り烏龍茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、ひとつの市場を形成するに至った。また定常的に新しい茶製品が開発されている。
茶道は、その苦しい礼儀作法が敬遠される傾向が強まり、一般的な嗜みから、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつある。その一方で、茶道を気軽に日常に取り入れる動きが根強く存在し、文化誌、婦人誌では、日本を含めた様々な茶の紹介、正式・略式・個人式の茶会の記事も繰り返し紹介されている。その中でも、緑茶のみならず、世界の茶が紹介されることが多い。旅茶セット、野点セットなど、趣味人だけではなく一般を対象とした入門商品が開発されている。
朝鮮半島には首露王の妃である許黃玉がインドで茶の種子を持ってきたという伝説があるが、新羅興徳王3年(828年)12月に大廉が茶の種子を唐から持って来て智異山に植えたという記録が最初である(『三国史記』)。しかし、緯度が高く気候が茶の栽培には適さず、生産量は限られたものであった。また、その品質も悪く、後述の『高麗図経』では「土産茶、味似苦渋不可入口(高麗産の茶は苦く渋くて、口に入れることができない)」と記されている。『三国史記』や『三国遺事』に現れる茶に関する記述は、大部分が僧侶にまつわる話であって、当時寺院を中心に喫茶が儀礼と関係して用いられていた様子が窺われる。さらに、中国宋王朝の使節である徐兢の記録『高麗図経』(正確には『宣和奉使高麗図経』)からは高麗の喫茶法が確認されるが、その記述が不十分なことから、当時の喫茶法については明確でない。熊倉功夫氏などは抹茶法であったと推測しているが[77]、宋時代の抹茶法では用いない「湯鼎」を使う、あるいは、明時代の茶書『製茶新譜』で団茶法(鼎や鍋で茶葉を煮出す方法)に対して用いられている動詞「烹」を使うなど、疑問点が多い(抹茶の場合は通常「点」を用いる)。
李氏朝鮮時代には崇儒廃仏によって仏教的な文物の多くは破棄されており、この時期に喫茶の風習も途絶えていたとみなされる場合が多い。しかし、慶尚道慶州府、全羅道羅州牧、南原都護府などで茶が生産されており、王宮では贈答用の「天池団茶」という固形茶も製造されていた(さらに「青苔銭」と呼ばれる固形茶もあったようである)。なお、日本による併合後に持ち込まれた茶の品種に対して、DNAの形質から区別される在来種を「韓国野生茶」と呼んでいる。このように李朝においても製茶自体は存続していたが、しばしば記録に登場する高級茶は中国からの輸入品であったようである。
李氏朝鮮の喫茶法は古い喫茶道具や文献資料の不足から不明な点が多いが、『朝鮮王朝実録』の記録からは中国明王朝の使節を迎える際に、茶を用いた儀礼(茶禮)が行われていた様子が確認、文禄・慶長の役の時に明の楊鎬が南原の茶は高品質と言った記録もある[78]。また、清への朝貢物品の中で1637年から1645年まで茶千包が含まれていた。とは言え、前述のように茶葉の産出量が少なかったことから、使用される茶葉は北京からの輸入品が主であった。
このように、茶の国内への供給量がごく限られたものであったことから、茶葉を用いた喫茶の習慣は上流階級や一部の寺院のみのものであった。このため、朝鮮半島で「茶」と言う場合は、中国・日本などで言われる「茶」ではなく、木の根などを煎じた薬湯や、果実を湯に浸した物(柚子茶)等を指す場合が多い(韓国伝統茶)。また、茶の代用として炒米に湯を注ぐ「こがし」も日本同様に行われていた。なお、李氏朝鮮時代の文献『朝鮮歳時記』には、中国で茶の新芽を意味する「雀舌」が、杉など他の植物の新芽を指している例も見られる。
李氏朝鮮の末期には大興寺の禅僧草衣が現れ、『東茶頌』『茶神伝』などの著書を遺しているが、同書の章立は宋・明の茶書に近いものがある。
明治9年(1876年)7月に、日本政府が日朝修好条規に基づき、条規付録や通商章程を協議決定するため宮本小一外務大丞を京城へ派遣した際の記録で、宮中での食事、建物、一般情勢の記録には茶について「茶(緑茶)は無い。干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり、煎じ薬を飲むにも似ている」とある。 1894年から1897年にかけ、李氏朝鮮を訪れ『朝鮮紀行』を記したイザベラ・バードは、朝鮮には茶はなく、柑橘類を溶かしたものを飲む風習があることを紹介している。
なお、文献資料からは朝鮮半島において例外的なものを除いて「茶道」という言葉が使われておらず(確認される限り『茶神伝』の1箇所だけである)、儀式としての「茶禮」(タレ)に重点が置かれていた。朝鮮半島における「道」の語は通常道教(道家思想)を意味するものであり、芸道修行意図で用いられている日本の「茶道」とは無関係であり、朝鮮で抹茶(点茶法)が飲まれていた資料も無い。
インド人が茶を飲んでいたことは、17世紀の文献に見える。また、大英博物館の植物標本室に、東インド会社の外科医サミュエル・ブラウンとエドワード・バルクリーが、インドのマラバル地方で1698年から1702年にかけて採集したとされる茶樹があり、中国から移植したものと考えられる[79]。
19世紀後半から、インドやスリランカで本格的な茶樹栽培が始まった[80]。
ヨーロッパに茶が本格的に紹介されたのは、1609年、オランダが日本の平戸に商館を設け、翌年、日本の茶がジャワ経由でヨーロッパに輸出されてからである。そのため、ヨーロッパで当初飲まれたのは日本の緑茶であった。薬屋で量り売りされる高価なもので、聖職者が眠気覚ましの薬に用いたとも言われる。17世紀前半には、オランダの医師が、茶は万病に効き、長生きの妙薬だと述べたのに対し、ドイツやフランスの医師が、茶の害を説いた文章を発表している[81]。
イギリスでも、茶について賛否両論があったが、18世紀半ばには、「午後の茶」(アフタヌーン・ティー)の習慣が定着した。同じ頃、緑茶よりも紅茶が優勢となった。サミュエル・ジョンソンは、1757年、喫茶否定論に反論して、「私の湯沸かしは、ほとんど冷める暇はない。晩に茶で楽しみ、夜でも茶で慰み、朝でも茶で目が覚める。」と書いている[82]。イギリスでは、他のヨーロッパ諸国に比べて喫茶の風習が広く浸透したが、その理由として、イギリスの水が茶に合ったこと、フランス、イタリアのワインや、ドイツのビールに当たるような飲み物がイギリスになかったことなどが挙げられている[83]。
茶貿易もオランダではなくイギリスが主導権をとり、中国産の茶がヨーロッパで主役となった[84]。中国貿易を独占していたのがイギリス東インド会社であったが、その三角貿易がアヘン戦争につながった(前述清代)。
アメリカのイギリス植民地でも、中国産の茶が飲まれていたが、フランスやオランダの商人がイギリスの課税を免れて安い密輸茶を運んでいた。イギリス本国政府は、1773年、茶法(茶税法)を制定し、密輸茶を取り締まり、東インド会社の市場独占を確立しようとした。しかしこれがアメリカ市民の反発を招き、同年ボストン茶会事件が起こり、アメリカ独立戦争につながった[85]。
アメリカ合衆国は、独立後、自前で中国貿易に参入し、アメリカ人参、ラッコやアザラシの毛皮、綿花、鉛、胡椒、羽紗などを清に輸出して、見返りに茶などを買った[86]。このことが太平洋航路の開発につながった。
国連食糧農業機関 (FAO) の統計によれば、2010年における世界の茶葉生産量は、約452万トンである。地域別では、アジアが生産量の約84%、アフリカが約14%、南北アメリカが約2%を占める。上位5か国は中国、インド、ケニア、スリランカ、トルコであり、国別生産量は次表のとおり[87]。
国 | 2008 | 2009 | 2010 |
---|---|---|---|
中国 | 1,274,984 | 1,375,780 | 1,467,467 |
インド | 987,000 | 972,700 | 991,180 |
ケニア | 345,800 | 314,100 | 399,000 |
スリランカ | 318,700 | 290,000 | 282,300 |
トルコ | 198,046 | 198,601 | 235,000 |
ベトナム | 173,500 | 185,700 | 198,466 |
イラン | 165,717 | 165,717 | 165,717 |
インドネシア | 150,851 | 146,440 | 150,000 |
アルゼンチン | 80,142 | 71,715 | 88,574 |
日本 | 96,500 | 86,000 | 85,000 |
合計 | 4,211,397 | 4,242,280 | 4,518,060 |
100 g (3.5 oz)あたりの栄養価 | |
エネルギー | 1,320 kJ (320 kcal) |
炭水化物 | 58.66 g |
- 糖分 | 5.53 g |
- 食物繊維 | 8.5 g |
脂肪 | 0 g |
- 飽和脂肪酸 | 0 g |
- 一価不飽和脂肪酸 | 0 g |
- 多価不飽和脂肪酸 | 0 g |
タンパク質 | 20.21 g |
水分 | 5.09 g |
ビタミンA相当量 | 0 μg (0%) |
- βカロテン | 0 μg (0%) |
- ルテインおよびゼアキサンチン | 0 μg |
ビタミンB1 | 0 mg (0%) |
ビタミンB2 | 0.985 mg (66%) |
ビタミンB3 | 10.8 mg (72%) |
パントテン酸(ビタミンB5) | 4.53 mg (91%) |
ビタミンB6 | 0.356 mg (27%) |
葉酸(ビタミンB9) | 103 μg (26%) |
コリン | 118.3 mg (24%) |
ビタミンB12 | 0 μg (0%) |
ビタミンC | 0 mg (0%) |
ビタミンD | 0 IU (0%) |
ビタミンE | 0 mg (0%) |
ビタミンK | 0 μg (0%) |
カルシウム | 118 mg (12%) |
鉄分 | 2.26 mg (18%) |
マグネシウム | 272 mg (74%) |
マンガン | 133 mg (6650%) |
セレン | 5.3 μg (8%) |
リン | 239 mg (34%) |
カリウム | 6040 mg (129%) |
塩分 | 72 mg (3%) |
亜鉛 | 1.69 mg (18%) |
カフェイン | 3680 mg |
テオブロミン | 71 mg |
%はアメリカにおける成人向けの 栄養摂取目標 (RDI) の割合。 |
茶を嗜好品として特別視せしめたのはカフェインが含有されている事であるが、茶には他にも各種有効成分が知られている。モンゴルなど野菜が不足する地域では、茶を飲むことでビタミンを補給する習慣がある。
チャの葉や種子のテアサポニン(theasaponin)類、アッサムサポニン(assamsaponin)類には小腸でのグルコースの吸収抑制等による血糖値上昇抑制活性が認められた[88](詳細はサポニンを参照のこと)。動物実験で日本茶、特に番茶での血糖降下作用が認められた[89]。
また、北タイのラーンナー地方では茶葉をチューインガムのようにして噛むという[90]。
これら以外にも、茶葉を使った料理は日本や中国を中心に様々なものがある[91]。
詳細は「茶外茶」を参照
茶葉を使用しない嗜好性飲料も総じて「茶」と呼ばれることがある。こういった茶ではない「茶」の多くはチャノキ以外の植物に由来するものであり、葉や茎、果実、花びらなどを乾燥させたものを煎じて使用する。 また、それら「茶ではない茶」を中国語では「茶外茶」と呼び、本来の茶を「茶葉茶」と呼んで区別することも行われている。[92][93]
ほかにも、真菌類・動物に由来するものがわずかながら存在し、さらに中国の華中地区では、白湯(さゆ)さえも「茶」と呼ぶことがある。
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1907年に、アメリカのお茶商トーマス・サリヴァンは、絹の小さなバッグの中にお茶を入れ、配布したのが始まり。 再利用することができる点が便利である。
その他、茶製造に関する労働歌、民謡として「茶摘み歌」「茶揉み歌」などが各地にある。またこれらに、茶に関する童謡や歌謡曲を含めて「茶歌」と言われることがある。
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リンク元 | 「川きゅう茶調散エキス」 |
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