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この項目では、1991年以後のロシアについて記述しています。その他のロシアについては「ロシア (名称)」をご覧ください。 |
(国旗) | (国章) |
公用語 | ロシア語[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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首都 | モスクワ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
最大の都市 | モスクワ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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通貨 | ロシア・ルーブル(RUB) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
時間帯 | UTC +2 - +11(DST:+3 - +12) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
ISO 3166-1 | RU / RUS | ||||||||||||||||||||||||||||||||
ccTLD | .ru, .su, .рф | ||||||||||||||||||||||||||||||||
国際電話番号 | 7 |
ロシア連邦(ロシアれんぽう、ロシア語: Российская Федерация)、またはロシア(Россия)は、ユーラシア大陸北部に位置する大統領制の連邦共和制国家。首都はモスクワ。ロシア・ツァーリ国、ロシア帝国(帝政ロシア)、ソビエト連邦(ソ連)の継承国とみなされている。
世界最大の面積をもつ国土はヨーロッパとアジアにまたがり、北西から順にグリーンランド(デンマーク自治領)、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベラルーシ、リトアニア、ポーランド(リトアニア、ポーランドとの国境はバルト海とリトアニアに囲まれた飛び地領であるカリーニングラード州である)、ウクライナ、グルジア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中国、モンゴル、北朝鮮、日本、アメリカ、カナダと陸上または海上で国境を接し、北は北極海、東は太平洋に囲まれている。
なお、右図に示すロシアの領土(実効支配地域)は概ね国際的に承認されたものだが、ロシア政府はこれに加えてウクライナ南部のクリミア半島を実効支配し、自国領とみなしている。また、日本政府は北方領土の領有権を主張し、それ以外の千島列島および南樺太は帰属未定としている。
詳細は「ルーシ (地名)」を参照
正式名称はРоссийская Федерация(ラテン文字転写: Rossíjskaja Federácija、ラスィーイスカヤ・フィヂラーツィヤ、IPA: [rɐˈsʲijskəjə fʲɪdʲɪˈratsɨjə] 発音[ヘルプ/ファイル])、またはРоссия(Rossíja、ラスィーヤ、[rɐˈsʲijə] 発音[ヘルプ/ファイル])。これはそれぞれ日本語表記のロシア連邦、ロシアに相当するが、憲法で双方とも正式名称であるとされている[1]。略称はРФ (RF)。
キリル文字のラテン文字転写、ロシア語のカタカナ表記にはいずれも多数の方式、表記があり、ここにあげたものは一例である(本記事の以下の転写も同じ)。
日本語表記は以前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが、1980年代頃からギリシャ語風の(つまり他のヨーロッパ諸国の名称に合わせた)ロシアという表記が完全に主流となった。なお1991年(平成3年)の内閣告示『外来語の表記』には、細則的な事項として「イ列・エ列の音の次のアの音に当たるものは、原則として「ア」と書く。」とあり、これに従った場合の表記はロシアになる[2]。現代日本語の漢字表記は露西亜で、略称は露[3]。江戸時代にはオロシャ、をろしやとも呼ばれた。これは、中国語の「俄羅斯」及びモンゴル語のОрос(オロス)に近い呼び名である。日本の江戸時代から戦前にかけては魯西亜という表記が主流で、1855年に江戸幕府とロシア帝国の間で初めて結ばれた条約は「日本国魯西亜国通好条約」という名称になった。この漢字表記について1877年(明治10年)にロシア領事館から「魯は魯鈍(愚かなこと・様子)を連想させる」との抗議をうけた当時の日本政府は、ロシア側の希望を容れ表記を露西亜とした。だが露の字も「日(=日本)が昇ると露(ろ・つゆ)は消える」というマイナスイメージがあることから、この様な表記の変更をあえて受け入れたことに当時の対ロシア観があらわれているとする見方もある[4]。
ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語[5]はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」[6]現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」[7]と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」[8]という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたこと等)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された[9]。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった[10]。
詳細は「ロシアの歴史」を参照
現在のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているのでその起源をひとつに絞ることはできないが、国家や文化、言語の変遷において「ロシア民族」の祖となる人々は、北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており、言語や文化、習慣において大きな影響を受けた[11]。やがてその多くは同化し[12]、ほかの地域の東スラヴ人とは異なる文化を築いていった。遺伝子的に白人のロシア人には、先住民であるモンゴロイドの遺伝子は見られないとされる[13]。
北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々「ヴァリャーグ」が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した[14]。後代に書かれた原初年代記[15]には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった[要出典]。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴルによって征服され、キプチャク・ハン国の支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された。
数多くいるルーシ諸公のひとりに過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られており、侮蔑を込めて「モスコーヴィヤ」(モスクワ地方)と呼ばれていた[要出典]。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ(英語版))たちはツァーリの宮廷の権威をないがしろにし、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはこともあろうにポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍とともにモスクワを占領するという売国行為に及んだのである。いっぽう、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増していった。そしてついに1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮のもと、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日までにこれを一人残らず玉砕に追い込むことに成功、モスクワを解放したのであった。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の完全なる大勝利は、現在でも国民の祝日となっているのである(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
詳細は「ロシア帝国」を参照
1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年、1787年 - 1792年)に勝利すると共に、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照[16])され日露関係史が実質的に始まった。
アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス軍に侵攻されたが、大損害を負いながらこれを撃退し、戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して[17]、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。
1831年に始まるエジプト・トルコ戦争以降は、ロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し、中央アジア、アフガニスタン、ガージャール朝ペルシア(現在のイラン)を巡って、露英両国の駆け引きが続いた(グレート・ゲーム)。1853年に勃発したクリミア戦争ではイギリス・フランス連合軍に敗北し、帝国の工業や政治、軍事全般の後進性が明確になった。1861年に皇帝アレクサンドル2世は農奴解放令を発布し、近代的改革への道を開いたが、農村改革や工業化のテンポは遅く、ナロードニキによる農村啓蒙運動も政府の弾圧を受けた。政治的自由化の遅れへの不満は無政府主義者による皇帝暗殺まで発展した。この時期、極東ではアロー戦争の仲介料として沿海州を清から獲得しウラジオストクを建設した。
19世紀末には、ロシアはそれまでのドイツ・オーストリアとの三帝同盟からフランスとの露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加によりシベリア鉄道の建設が行われている。1904年に日本との間で日露戦争が始まったが、1905年に血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約で敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマ(国会)の開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。
詳細は「ソビエト連邦」および「ソ連型社会主義」を参照
1914年に勃発した第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアの中央同盟国と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェビキを改称したロシア共産党を率いて内戦に勝利し、1922年の年の瀬にソ連共産党の一党独裁によるソビエト連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。
ソビエト体制でのロシア連邦共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが、面積・人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内に「ロシア共産党」は創設されず、第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシア(現在のベラルーシ)と異なり単独での加盟が認められなかった。
1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリン独裁的な主導の下で農業集団化と重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的の収奪にもとづく閉鎖的な工業化であった。農村弾圧の結果、特にウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みが政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖にもとづく支配をもたらす結果となった。
1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチス・ドイツとモロトフ・リッベントロップ協定を結んで協調し、バルト三国を併合してソビエト連邦の一部とし、ポーランド第二共和国をソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域をドイツに占領され、危険な状況に陥った。しかし、1942年初頭に首都モスクワの攻防に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦及びクルスクの戦いを境に1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利し、更にポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月に日本との日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦。満州国やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに割譲され、ロシア連邦共和国の領土は現在のロシア連邦にあたる領域になった。
日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島および南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地となっている[18]。なお、ロシア(当時はソ連)はサンフランシスコ講和条約に調印していない。
戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年の北大西洋条約機構(NATO)結成に対抗して1955年にワルシャワ条約機構(WTO)を結成し、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国を衛星国として東側諸国の盟主となり、自国と同様の人民民主主義体制を強要して世界の二大超大国の一つとしてアメリカ合衆国を盟主とする西側諸国と冷戦を繰り広げた。しかし、既に1948年にはバルカン半島にてチトー主義下のユーゴスラビア社会主義連邦共和国がソ連から離反しており、1956年のフルシチョフ第一書記によるスターリン批判後は自由主義陣営との平和共存路線を進めたが、このスターリン批判により衛星国であったハンガリー人民共和国でハンガリー動乱が発生し、さらに自由主義国との妥協を批判する毛沢東が率いていた中華人民共和国や毛沢東思想に共鳴するアルバニア人民共和国の離反を招くなど、新スターリン主義によるソ連の指導性は揺らいだ(中ソ対立)。1965年にブレジネフ書記長が主導権を握った後、ベトナム戦争にてアメリカ合衆国と戦うホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、ブレジネフ在任中の1968年には衛星国であったチェコスロバキア社会主義共和国で「プラハの春」が始まり、翌1969年にはかねてから対立していた中華人民共和国と珍宝島/ダマンスキー島を巡って中ソ国境紛争を戦うなど、共産圏に於けるソ連の指導性はさらに揺らぎ、1970年代に入ると計画経済の破綻等から次第に共産主義の矛盾が露呈していった。1979年から1989年にかけてアフガニスタンを侵略した。この際ソ連軍がアフガニスタンの大統領官邸を急襲し、最高指導者ハフィーズッラー・アミーンと警護隊を皆殺害するというテロ行為(嵐333号作戦)を行っている。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終結させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、かえって各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。
党内抗争に敗れた改革派のボリス・エリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し、1990年に最高会議議長となると、同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い、翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年のソ連8月クーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し、連邦を構成していた共和国は、そろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、ソビエト連邦は崩壊した。
詳細は「ロシア連邦の歴史(英語版)」を参照
1991年12月25日、ソビエト連邦崩壊とともにロシア連邦が成立し、エリツィンが初代大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを歴史の終わりと見る向きも現れた。
ロシア連邦は、ソ連構成国の連合体である独立国家共同体 (CIS/СНГ) 加盟国のひとつとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持している。
国名は1992年5月、ロシア連邦条約により、国名が現在のロシア連邦と最終確定した(ロシア連邦への国名変更は、ゴルバチョフ・ソ連大統領辞任の当日である1991年12月25日、当時のロシア最高会議決議による)。
エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが、急激な移行によってロシア経済は混乱し、長期的な低迷を招いた。その一方で、この時期には「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が台頭し、政治的にも大きな影響力を持つようになった。1993年には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争(10月政変)が起こったものの、同年12月12日には国民投票によってロシア連邦憲法が制定された。
1999年12月8日には、当時のエリツィン大統領と、ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領との間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連邦国家創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したプーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は、事実上、停滞状態となっている。
2000年に大統領となったプーチンは、国内の安定と政府権力の強化を目指し、ロシア経済を半ば私物化していた新興財閥「オリガルヒ」の解体に乗り出し、石油・ガス会社ガスプロムの国有化をはじめ、親欧米・反政府的なオリガルヒはプーチン時代を通してほぼ一掃された。また、政権初期に頻発したテロの報復としてチェチェンへの軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締め付けも図った。報道管制も強化し、反政府的な報道機関は露骨な圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中華人民共和国との関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西欧政権ができると、ガス供給停止措置を採ることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。また、就任当初は蜜月と言われた米国との関係も、イラク戦争・イラン核疑惑といった諸問題を扱う中で悪化、米国による東欧のミサイル防衛構想によって冷却化しているが、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも強圧的で批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させている。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復した事も寄与している。2007年には2014年の冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。
2008年に側近のドミートリー・メドヴェージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ大統領下で南オセチア問題を原因とする南オセチア紛争が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる[誰によって?]。事実、「アメリカの裏庭」であるベネズエラ、エクアドルなどの反米的な中南米諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」であるウクライナ、グルジアなどとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている[19]。
世界金融危機が表面化した2007年頃から、ロシアの経済を牽引していた新興財閥が打撃を受け、没落の危機に瀕するようになった。また、金融危機に伴い外国資本も一気にロシアを去り、今まで貯め込んだ国のオイルマネーが財界にとっての唯一の頼りとなっている。そして、グルジア紛争以降ロシアの株式市場の株価下落が続いている[要出典]。それに加え、2008年後半になって原油価格が急落した。こうしたことが原因で2009年にはGDPが1999年以来のマイナス成長となった。ロシアは、世界金融危機で最も経済に打撃を受けた国だと言われている。メドベージェフ政権は危機を乗り越える為、財界の国家による統制を強めているが、政権支持率は低下している。世論調査機関レバダ・センターによると、政権支持率は2008年9月の61%をピークに、2009年4月時点で43%にまで落ちている[20]。また、有力シンクタンク、モスクワ・カーネギーセンターのリリヤ・シェフツォワ上級研究員は、産経新聞と会見(2009年5月)した際、金融危機の進展次第ではプーチン人気が急落し、2012年に大統領選が実施された場合、プーチンが当選するかは疑問との考えを述べている[21]。更に、プーチンが金融危機の責任を取り2009年秋で辞任するという専門家の観測も出ている[22]。しかし、2009年現在、ロシアの連邦議会、多くの地方議会はプーチン派であり、マスコミも政権の強い影響下にある為、プーチン再登板の流れは揺らがないとの見方もある[誰によって?]。例として、あるテレビ番組では討論番組と銘打っておきながら実際はプーチン政権の与党「統一ロシア」の宣伝番組であったりしている[23]。新聞も「ノーヴァヤ・ガゼータ」以外の新聞は軒並み政権の強い影響下にある[要出典]。その為、ロシア以外の欧米諸国とロシア国内の民主化勢力は、ロシアは民主的ではないと批判している[要出典]。また、ロシア連邦共産党は世界不況を機に支持を伸ばしたい考えだが、プーチン与党の支持基盤は磐石であり、難しいとの見方がある。しかし、2012年のロシア大統領の前哨戦と位置づけられていた2011年ロシア下院選挙で、プーチン与党の統一ロシアが予想外の苦戦をし、磐石と思われていたプーチン体制にほころびも見え始めている。
2014年ウクライナ騒乱により、財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が解任されるとロシアのプーチン大統領は反発し、オレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。2月後半から、ロシア政府は公式に認めていないものの、ロシア軍部隊と見られる武装勢力がクリミアに展開し、1954年までロシア領で親ロシアの住民が多いクリミア半島のクリミア自治共和国・セヴァストポリ特別市を掌握した(ロシアのクリミア侵攻)。
クリミア自治共和国とセヴァストポリは3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施し、その結果を受けて翌3月17日に両者はクリミア共和国として独立しロシアへの編入を求める決議を採択した。翌3月18日、プーチン大統領はクリミア共和国の要請に応じ、編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。
アメリカ合衆国、欧州連合、そして日本政府等の諸外国はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとし、ロシアとの間で対立が続いている(2014年クリミア危機)。
詳細は「ロシアの政治(英語版)」を参照
ロシア連邦政府の組織に関する詳細はロシア連邦政府を参照
国制は連邦制を取るが、国家元首である大統領が行政の中心として強い指導力を発揮する。大統領は、首相(議会の信任を要する)を含む政府の要職の指名権・任命権と、議会の同意を得ないで政令(大統領令)を発布する権限を持ち、軍隊と国家安全保障会議の長を兼ねる。
ソビエト連邦からの独立以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の法改正によって6年となった[24]。
21世紀に入ってからは、豊富な原油や天然ガスなどエネルギー資源をてこに、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。ソ連崩壊後の弱体ぶりから比べると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシアとの協議無しに東ヨーロッパへのミサイル防衛基地の展開を進めているアメリカや、NATOとの緊張状態は高まりつつある(新冷戦)。
ロシア連邦議会 (Федеральное Собрание Российской Федерации, Federal'noe Sobranie Rossijskoj Federatsii) は二院制で、各連邦構成主体の行政府と立法府の代表ひとりずつからなり上院に相当する連邦院(連邦会議、Совет Федерации, Sovet Federatsii 、定員178名)と、下院に相当する国家院(国家会議、Государственная Дума, Gosudarstvennaja Duma 、定員450名)からなる。下院議員は、任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を得るためのハードルがあげられ、プーチン政権、シロヴィキおよび与党統一ロシアに有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同じく2008年に任期が5年に延長された。
中央政界で活動する主要な政党については、ロシアの政党を参照のこと。
ロシアの国家元首は頭髪がツルツルとフサフサの交互になるというジンクスがある(いわゆるつるふさの法則)。
第2次プーチン政権が発足してから「プーチンなきロシア」を叫ぶ市民のデモが開催されたり、反プーチンの運動が活発化している。そのためこれらの運動の封じ込めの一環として、プーチン大統領は「宗教信者の感情を害した者に禁錮刑と罰金を科す法案」「『同性愛のプロパガンダ(宣伝)』行為に罰金を科すことを定めた法案」に2013年7月1日にそれぞれ署名した[25]。とくに「『同性愛のプロパガンダ(宣伝)』行為に罰金を科すことを定めた法案」は外国人にも適用されることもあり、海外のLGBT団体の批判を受けたほか、レディガガがロシアを批判するツイートを出したほか、俳優のウェントワース・ミラーはサンクトぺテルブルク映画祭への招待を「私はゲイだから」と辞退した。2014年のソチオリンピックに影響があるのではと言われている。
ロシアの司法は憲法裁判所を置いている大陸法型である。1996年に陪審制を連邦各地に順次導入することを決定、2010年までに全ての地域で導入された。
以前から死刑の執行を停止していたが、2009年11月19日に、憲法裁判所は死刑の廃止を規定している欧州人権条約を批准するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所の命令でロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日、ロシア下院は、欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し、名目上も死刑が廃止された。同国は欧州会議の加盟国47カ国中、同議定書の最後の批准国となった。
詳細は「ロシアの国際関係(英語版)」を参照
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詳細は「日本の国際関係#ロシア連邦」を参照
両国の間では、経済的な交流も盛んだが、北方領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じており、その関係は必ずしも円滑ではない。しかし、多くの日本人はロシア連邦との関係は悪くないと感じており、また、ロシア人も日本との関係は悪くないとも感じている[26]。
詳細は「ロシア連邦軍」を参照
ロシアはソビエト連邦が保有していた核兵器を継承保有している。
ロシア連邦は、83の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。連邦構成主体としては、46の「州」(область ; oblast')、9の「地方」(край ; kraj)、2の「市」(連邦市 город ; gorod)、21の「共和国」 (республика ; respublika)、1の「自治州」(автономная область ; avtonomnaja oblast')、4の「自治管区」(автономный округ ;avtonomnyj okrug) がある。
詳細は「ロシア連邦の地方区分」を参照
ウラジーミル・プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、83の連邦構成主体とは別に、2000年5月13日に全土を8つに分けた連邦管区を設置した。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。
名称 | 人口(人) | 州都/主府/本部 | 備考 |
---|---|---|---|
中央連邦管区 Центральный федеральный округ |
37,142,300 | モスクワ Москва |
|
北西連邦管区 Северо-Западный федеральный округ |
14,282,900 | サンクトペテルブルク Санкт-Петербург |
|
南部連邦管区 Южный федеральный округ |
21,471,300 | ロストフ・ナ・ドヌ Ростов-на-Дону |
|
北カフカース連邦管区 Северо-Кавказский федеральный округ |
8,933,889 | ピャチゴルスク Пятигорск |
|
沿ヴォルガ連邦管区 Приволжский федеральный округ |
32,017,800 | ニジニ・ノヴゴロド Нижний Новгород |
|
ウラル連邦管区 Уральский федеральный округ |
12,603,200 | エカテリンブルク Екатеринбург |
|
シベリア連邦管区 Сибирский федеральный округ |
20,792,500 | ノヴォシビルスク Новосибирск |
|
極東連邦管区 Дальневосточный федеральный округ |
7,169,400 | ハバロフスク Хабаровск |
さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名し地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。
詳細は「ロシアの都市の一覧」を参照
ロシアには人口100万人を超える都市が13(以下、2002年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1012万6000人)。続くサンクトペテルブルク(466万人)の2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体(連邦市)として他の州や共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパ・ロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。
都市 | 行政区分 | 人口 | 都市 | 行政区分 | 人口 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | モスクワ | モスクワ | 10,126,424 | 11 | ウファ | バシコルトスタン共和国 | 1,042,437 | |||
2 | サンクトペテルブルク | サンクトペテルブルク | 4,661,219 | 12 | ヴォルゴグラード | ヴォルゴグラード州 | 1,011,417 | |||
3 | ノヴォシビルスク | ノヴォシビルスク州 | 1,425,508 | 13 | ペルミ | ペルミ地方 | 1,001,653 | |||
4 | ニジニ・ノヴゴロド | ニジニ・ノヴゴロド州 | 1,311,252 | 14 | クラスノヤルスク | クラスノヤルスク地方 | 909,341 | |||
5 | エカテリンブルク | スヴェルドロフスク州 | 1,293,537 | 15 | サラトフ | サラトフ州 | 873,055 | |||
6 | サマーラ | サマラ州 | 1,157,880 | 16 | ヴォロネジ | ヴォロネジ州 | 848,752 | |||
7 | オムスク | オムスク州 | 1,134,016 | 17 | トリヤッチ | サマラ州 | 702,879 | |||
8 | カザン | タタールスタン共和国 | 1,105,289 | 18 | クラスノダール | クラスノダール地方 | 646,175 | |||
9 | チェリャビンスク | チェリャビンスク州 | 1,077,174 | 19 | ウリヤノフスク | ウリヤノフスク州 | 635,947 | |||
10 | ロストフ・ナ・ドヌ | ロストフ州 | 1,068,267 | 20 | イジェフスク | ウドムルト共和国 | 632,140 | |||
2002年国勢調査 |
詳細は「ロシアの地理(英語版)」を参照
世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km²(本州の約3倍程度)大きい)。国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパ・ロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大なタイガがその大部分を占めており、さらに高緯度になると、樹木の生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰のエルブルス山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。
面積をみるとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端にあたるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。
国土を囲む海域には北極海の一部であるバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は37,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島(千島列島)がある。 特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。
ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川、大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川、カマ川、オカ川、アジア部のオビ川、エニセイ川、レナ川、サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河があげられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川、北上川や四万十川よりも川幅が広く、いずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。また、アジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ、北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。この他、ソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。
詳細は「ロシアの気候(英語版)」を参照
ロシアには基本的に大陸性気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと、亜寒帯(冷帯)(D) に分類される地域が大半を占める。西部は大西洋の影響を受けるものの、東に進むにしたがって大陸性気候の特徴がはっきりしてくる。東シベリアには冬にシベリア高気圧が発達し、放射冷却のために気温が下がる。北半球でもっとも寒くなり、寒極と呼ばれる。例えば-71.2度(オイミャコン)、-66.7度(ベルホヤンスク)。しかしながら夏季には最高気温が30度を超える。
典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ、南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ、混交林、プレーリー、ステップに移行していく。
右図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。
詳細は「ロシアの経済」を参照
IMFによると、2011年のロシアのGDPは1兆8504億ドル(約150兆円)であり、世界第9位である[28]。一方、一人当たりのGDPは12,993ドルであり、先進国と比較すると依然低い水準である。
ソビエト連邦解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このためにかえって急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア通貨危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。
しかし、ロシアはサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油生産国であり、同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し、市場経済転換後の長い経済停滞を脱し、急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油産業を中心とする成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者(オリガルヒ、新ロシア人、ニュー・リッチに代表される)とそうでない者の貧富の格差の拡大、チェチェン人によるテロのリスクなど、不安定要因もいくつかは見られるが、2000年にはGDP成長率が10%を越える一方、インフレーションも抑制され、好調が続いた。一人当たり名目GDPも、1999年には1334ドルに過ぎなかったのが、2006年には6879ドルと5倍強の増加を見せた。ロシアはまた、ブラジル・中国・インド・南アフリカと共に「BRICs」と呼ばれる新興経済国群の1つに挙げられているが、BRICsではロシアは最も一人当たりのGDPが先進国に近く、ロシアは超大国の地位を得ようとしている。
ロシアの人口は減少しつつあり、そのペースは年々早まっているが、経済成長は今後も続くと見られている。ただ2009年のロシアのGDPは1兆2292億ドルであり、インドに抜かれ世界12位に後退している[29]。一人当たりのGDPは59位の8,694ドルであり、60位のブラジルにほぼ追いつかれている。公用語であるロシア語は世界でも総話者数の多い言語であり、ドイツやイギリス、フランス、イタリア、スペインに並ぶヨーロッパの経済規模の大きい大国だが、開発の遅れなどの要因もあり、経済力の割には人口が多いので西側諸国よりもロシアは若干物価が安い。
ロシアは最も鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は「鉱業便覧 平成14年版 経済産業調査会」による2002年時点のものである)。
有機鉱物資源では、天然ガス(21807千兆ジュール、21.9%、2位)、原油(3.5億トン、10.3%、2位)、燃料に用いられる亜炭(8668万トン、9.5%、4位)、石炭(1.6億トン、シェア4.4%、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビア、アメリカ合衆国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。
これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭 (88%) と天然ガス (69%) である。一方、原油の国内消費比率は29%と低く、主に輸出されている。ロシアの原油輸出量は世界第2位(1億6211万トン、2001年)である。
ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年に至ると、国民総生産4885億ドルに対し、輸出は1260億ドル、輸入524億ドルに増加している。輸出の伸びが著しい。これは原油及び、石油関連の生産・輸出拡大によるものだ。ロシアの貿易構造は1992年から2003年に到る10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油、石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。
1992年時点の輸出品の品目別の比率は、United Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械 (35.0%)、原油(天然ガスを含む、14.7%)、化学品 (10.6%)、軽工業品 (8.1%)、鉄鋼 (6.9%)。同輸入品は、建築機械 (36.2%)、軽工業品 (20.4%)、食料 (16.7%)、化学品 (7.5%)、鉄鋼 (5.0%)。2003年時点の輸出品の品目別の比率は、原油 (27.6%)、石油ガス (13.0%)、石油製品 (10.4%)、鉄鋼 (6.1%)、アルミニウム (2.6%) である。2003年時点の貿易相手国は輸出相手国が順に、オランダ (6.2%)、中国、ベラルーシ、ドイツ、ウクライナ、輸入相手国が順にドイツ (14.1%)、ベラルーシ、ウクライナ、中国、アメリカとなっている。
日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で50%弱を占め、アルミニウム(アルミニウム合金を含む)、石炭、白金が次いだ。これが2003年になるとアルミニウム(アルミニウム合金を含む、22.4%)、魚介類、石炭、木材、原油となった。輸入は、機械類 (26.7%)、鉄鋼、電気機械、自動車、プラスチックであったものが、乗用車 (62.1%)、建設機械 (6.4%)、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。
ロシアにとって軍需産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後も積極的に輸出拡大を続けるとしている。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、宇宙・航空・情報通信産業等多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出が出来なくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている。
詳細は「ロシアの人口統計(英語版)」を参照
20世紀のロシアの人口動態は、第一次大戦・干渉戦争期そして第二次世界大戦期と二度にわたって激減したが、その後は回復。しかし1992年以降ふたたび人口の減少が続いており、1992年で最大1億4800万人いた人口が、2050年には1億1000万人程度まで減少すると見られている[30]。原因には、出生率が著しく低下していること、男性の平均寿命が極めて短くなっていることがある。現在のロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり、世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復したが、2008年でも61.8才である。女性は、1993年に71.2歳まで低下したが、2008年には74.2歳と上昇、男女差は12歳と極めて大きいままである。ちなみに2008年、OECD諸国の平均は男性77.2歳、女性82.8歳と男女差は6歳程度である。
詳細は「ロシアの医療」を参照
ロシア憲法においては、全市民へ無料のユニバーサルヘルスケアが保障されている[31]。しかし無料で医療受けられる範囲は、法定の範囲に限定されている[32]。ロシアの人口一人あたりの医師数・病院数・医療従事者数は、世界の中で最も多く[33]、一時はソ連崩壊によって社会・経済・生活様式の変化を受けて悪化したが[34]、しかし近年は回復しており、平均余命は2006年と比べて男性で+2.4年、女性で+1.4年ほど長くなってきている[35]。
2009年には、ロシアの平均余命は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった[36]。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死(アルコール依存、喫煙、交通事故、暴力犯罪)であった[35]。このような男女の余命差と第二次世界大戦の戦死者によって人口男女差は大きく、女性1人あたり0.859の男性がおり、
ロシア政府は2006年から本格的に少子化対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や死亡率は徐々に改善されている。
民族構成(ロシア)[37][38] | ||||
---|---|---|---|---|
スラヴ人 |
|
82.7% | ||
テュルク系 |
|
8.7% | ||
コーカサス系 |
|
3.7% | ||
ウラル系 |
|
1.6% | ||
その他 |
|
3.3% |
ロシアには現在182の民族が存在しているが、80%以上は東スラブ系民族のロシア人(民族名)である。ロシア人以外にも、ウクライナ人、チェチェン人、イングーシ人、オセット人、カルムィク人、タタール人、バシキール人、チュヴァシ人、トゥヴァ人、サハ人、エヴェンキ人、タイミル人、マリ人、モルドヴィン人、カレリア人、イヌイット、ドイツ人、ユダヤ人など多くの非スラヴ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。
詳細は「ロシアの言語(英語版)」および「ロシアの言語一覧(英語版)」を参照
ロシア語が公用語である。ロシアの各共和国の公用語して以下の26言語がある。
詳細は「ロシアの宗教」を参照
ロシア人を含めた多くの民族が正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。
詳細は「ロシアの文化(英語版)」を参照
詳細は「ロシア料理」を参照
詳細は「ロシア建築」を参照
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詳細は「ロシア文学」を参照
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詳細は「ロシアの音楽」を参照
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詳細は「ロシアの美術(英語版)」を参照
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詳細は「ロシアの映画」を参照
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詳細は「ロシアの世界遺産」を参照
ロシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が7件存在する。さらにモンゴルとにまたがって1件の自然遺産が、リトアニアとにまたがって1件の文化遺産が、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニアにまたがって1件の文化遺産が登録されている。
クリスマスが1月7日なのは、キリスト教の宗教行事はロシア正教が公認しているユリウス暦に基づいて行われていることによる(正教会では他にエルサレム総主教庁、グルジア正教会、セルビア正教会、アトス山などがユリウス暦を採用している)。現在の暦であるグレゴリオ暦は歴史的にはカトリック側が作った暦であるためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)1月7日がユリウス暦の12月25日に相当する。2100年2月28日まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立した11月7日が革命記念日として最大の祝日になっていたが、プーチン政権は2005年にこれを廃止し、帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた11月4日を「国民団結の日」として復活させた。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月7日 | クリスマス | Рождество Христово | 正教会のクリスマス。ユリウス暦の12月25日に相当(2100年まで) |
1月14日 | 旧正月 | Старый Новый год | ユリウス暦の1月1日に相当(2100年まで) |
2月23日 | 祖国英雄の日 | День защитника Отечества | もとソ連地上軍とソ連海軍の日 |
3月8日 | 国際女性デー | Международный женский день | |
5月1日 | 春と労働の日 | Праздник весны и труда | 旧メーデー |
5月9日 | 対ドイツ戦勝記念日 | День Победы | 1945年にナチス・ドイツがソビエト連邦などの連合国に対して無条件降伏した日 |
6月12日 | ロシアの日 | День России | 1991年にロシア共和国がソビエト連邦に対する主権宣言を採択した日 |
11月4日 | 国民団結の日 | День народного единства | 1612年にロシア・ポーランド戦争において、ロシア国民軍がポーランド軍からモスクワを解放した日 |
12月12日 | 憲法記念日 | День Конституции Российской Федерации | 1993年に現行のロシア連邦憲法が制定された日 |
12月31日-1月1日 | 年末の休日 | Новый год |
詳細は「ロシアのスポーツ(英語版)」を参照
ロシアはソ連時代からオリンピックで毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。
ロシアは、1980年のモスクワオリンピックを始め、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。2014年には黒海沿岸のソチで冬季オリンピック(ソチオリンピック)を、2018年にはワールドカップ(2018 FIFAワールドカップ)を開催することが決定している。
国内リーグにはロシアサッカー・プレミアリーグ、アイスホッケーのコンチネンタルホッケーリーグ(KHL)などがある。また、ソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し、新体操やフィギュアスケートなどの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア発祥のスポーツとしてはサンボが挙げられる。
詳細は「ロシア人の一覧」を参照
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マレーシア |
2006年にチリ、ブルネイ、シンガポール、ニュージーランドの4カ国で発行した広域的な自由貿易協定(FTA)。
2010年03月から米国、オーストラリア、ペルー、ベトナムが 2010年10月からマレーシアが加わり、9ヵ国で拡大交渉を進めている。
日本は11月に情報収集を進めながら、国内の環境整備を早急に進め、関係国との協議を開始する]との基本方針を定めた。 交渉に参加するには交渉中の9ヵ国から合意を取り付ける必要がある。 特定分野の自由化を除外して交渉に加わることは認められていない。
.