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子殺し(こごろし)とは、親が子を殺すことである。人間の場合、自分の子を殺すことに限定して使われることが多い(Filicide)が、動物の場合、同種の子供を殺すことまで含める(Infanticide)。
目次
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人間の場合、21世紀初頭の通称先進国では、親は一般に子を守るものと考えられる。子は親が扶養すべきものとされ、民法でも明確な扶養の義務づけが記載されており、通常、子供は大人にとっては愛すべき対象と見られている。
現代においては建前上は子も親同様、個人としての人格を持った人間であると考えられている。しかしその一方で、子は親に従属すべきもの、あるいは親の所有するものであるとの価値観も厳として存在しており、両者の折衷状態である。そのため、親の都合で子の生命や人生を左右する事例は多々ある。日本では親が自殺する際に巻き添えで子を殺す例も多く、無理心中といわれる(殺害動機として「残すと可哀想なので連れて行く」という理由付けがなされることが多い)。
他方、過去に遡れば、親が子を殺すということはそれほど珍しい現象ではなく、親のために子を犠牲にする事例は親の正当な権利として広く認められていた。江戸時代の刑法は、その傾向が顕著である。当時の日本では生後間もない子を殺す事例があり、間引きと呼ばれた。これは必ずしも貧しさから起こるものではなく、生活水準を保つためにも行われていた(20世紀前半までは日本でも出生率は高く、夫婦が産む子供の数も多かった)。 また、普遍的にみられる事象であるが、生まれてきた子供が奇形児や障害を持った子供であった場合、適応価が低いので投資が無駄になりやすいため多く殺された。現代日本その他でも、優生学その他の影響もあり、このような子供は処分することが通例である。現代でも、近代医療による出産前の子殺し(中絶)が普及していない地域では、出産後の新生児の間引きが行われている所もある(ヤノマミ族など)。
また、他のオスが孕ませた子供を始末させるという意味での中絶・間引きも人間社会ではふつうにみられる。この場合オスにとっての無駄な投資を避ける意味がある。
江戸時代の「磐城志」巻2に、「子間引はうろぬくの義なり、即空抜の省言なり、其の間を空くするの意也、木苗物の蕃殖せるを抜き捨るより出たる詞とみえたり」とある。 江戸以外でも、明和4年10月の令には、「百姓共大勢子供有之候得ば出生の子を産所にて直ちに殺候国柄も有之段相聞、不仁之至にて以来右体之儀無之様村役人は勿論百姓へも相互に心を附可申候、常陸、下総辺にては別て右之取沙汰有之由、若外より相顕るるにおいては可為曲事者也」とある。
間引きの風習を根絶しようとしたものもあり、松平定信は白河藩でこの風習を矯正し人口増加策を講じ、天明5年から寛政4年までの7年間に領内人口3500人を増加させた。また、同じ頃に常陸・下総の天領代官を務めた竹垣直温は、間引きを止めさせる代わりに、小児養育金を出して子供を育てさせ、結果的に人口の回復と田畑の増加をもたらして村々を再建させたとして、つくば市の金村別雷神社に竹垣を称える碑が残されている。
最近では昭和45年ごろにも貧しさを原因とする子殺しが多発している。こうした手法がとられた理由として、堕胎よりも簡単であり、母体への負担が少ないことが挙げられる。
旧刑法において、子が親を殺す犯罪には尊属殺人罪が適用され、通常の殺人罪よりも極めて重い死刑又は無期懲役が課せられていたが、親が子を死なせる犯罪にはほぼ全てに傷害致死罪が適用され、殺人罪が適用されるケースはほとんどなかった(子が生存している場合は殺人未遂罪が適用されようが、それでも尊属殺人の未遂罪よりはるかに刑が軽いケースが多かった)。これは子の行動や法律行為を完全に制限できる親権や懲戒権を逆手に取ったもの、あるいは乱用したもので、「お仕置き」と称して激しい折檻で死亡させたとしても、折檻時に殺意があったかどうかを判断するのは不可能であり、結果として「行き過ぎた懲戒権の行使」として、殺意があったとは見なされないためである。
旧約聖書には、子供を異教神モレクに奉げる因習があったと記され、これを行う事は石打ちに値する大罪として記載されている[1]。しかし後代のキリスト教世界でも、教会の建前上の堕胎や間引きへの忌避観とは反対に、親が必要のない(私生児、障害児、無駄飯食い)子供を間引きや中絶で葬ることは当たり前の行為として見られた。無論、これらの中絶間引きの実態は近代のプロライフが唱えるような、フェミニズムが中絶の原因であるというような議論とは無縁である。
アラブ世界では、かつては中絶間引きは家父長の当然の権利であり、いわゆるジャーヒリーヤ時代には女児がよく間引かれたが、7世紀に発祥したイスラム教では子殺しが大罪として明確に否定された[2]。しかし現実には今のアラブ世界でも女児の間引きは農村部などで行われている。また、キリスト教原理主義者を称する人々同様の中絶反対派もいる。無論、ムスリムの間引きや中絶とフェミニズムとは関係ない。
古代中国では「親は子を産むが子は親を産まない」「子が盾となり親を守ることが義である」とする思想が社会通念化しており、親の都合で子供を殺すことは正当行為であると考えられていた。例えば前漢の劉邦は、戦に敗れ追っ手から逃れる最中に、足手まといになるから自分の子と娘を馬車から蹴り落としたと『史記』および『漢書』は伝える(すぐに御者の夏侯嬰が彼らを拾い上げたため事なきを得ているが)。
古代で神に捧げる供犠の中には、今日でいう子殺しも含まれていたことを暗示させるような伝承もある。例えば『旧約聖書』のアブラハムによるイサクの殺害未遂(イサクの燔祭)、アガメムノンとイーピゲネイアの例が知られ、後代様々な解釈を呼び起こした。これらは時と共に衰退したが、神に祈るための生贄(植物の場合は収穫祭)という観念は広く分布していて、時代による価値観の変遷を窺わせる。
現在の日本では、胎児の時期に人為的に流産させる技術があるが、法律上、これを医師、助産師、薬剤師又は医薬品販売業者等が行うことは業務上堕胎罪という犯罪となる。そして、たとえば、妊娠の継続や分娩が母体の健康を著しく害するおそれがある場合や、暴行若しくは脅迫によって又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠をした場合に限り、人工の妊娠中絶が認められる。これを(強姦の被害による妊娠であっても)認めない国や宗教もあり、よく論争になる点である。また、日本では実際にはほとんど自由に中絶ができる。なお、すでに生まれてきた子を殺した場合には、現代の日本では殺人罪が適用される。しかし、もちろん過去の世界では上に述べたように、中絶も生まれた子供の殺害も正当な親の権利であるのが普遍的であり、現代でも中絶も間引きも何も問題のない社会も多数存在する。
江戸時代の江戸では堕胎を業とする者があったらしく、正保3年江戸町触に、看板を懸けて子おろしの商売をすることを禁じている。 延宝8年8月に堕胎致死の医者が閉門に処され、貞享3年6月に薬物を用いて堕胎をさせついにこれを死に致した者が死罪に処され、安永6年6月中追放に処された。 天保13年11月に市中女医者の堕胎を行なう者があり、今後は依頼人までも 逐一穿鑿をとげ急処分すべき旨を命じている。
ヒト以外の動物の場合、親が子を殺すのは、いくつかの場合がある。
一つは、子であることを知らずに殺す、あるいは食べてしまう場合である。例えば金魚やメダカは、産卵させた水槽に親をそのまま置いておくと親が卵を食べてしまう。いわゆる共食いである。このような生物の多くは多産戦略を採っており、子は素早く分散するなどして親が子を識別する必要がない。また、人間飼育下の猫やハムスターが子を産んだ時に、飼い主があまり干渉すると親が子を食い殺してしまうことがある。ラットに見られるブルース効果は通常は子殺しには含まれないが、後述する適応的な子殺しの一種と見なすことができる。
飼育下の魚類、ネコ、ラットなどで見られる子殺しは特異な状況下で起こった事故として説明可能であったが、次節で述べる野生の哺乳類で観察された事例は説明が困難であった。特に当時主流の学説であった群選択説は、「動物の行動の目的は種の保存のためである」と考えており、子殺しはこの視点に真っ向から対立すること、そして進化は自分の子を残すことで起こるものであり、子を自ら殺すという行動が進化の中で淘汰されないはずがないというのがその理由のひとつである。
動物行動学・行動生態学の発展の中で、子殺しの行動が見直しをされるようになったきっかけは、インドのサルの一種であるハヌマンラングールの例である。
このサルは、成獣の雄が多数の雌の群れをハーレムとして持ち、雌たちとの間で子供を作る。群れで生まれた雌は群れに残るが、雄は群れから出て若い雄の群れを作る。成長した雄はやがてハーレムを持つ雄に攻撃を仕掛け、勝てばハーレムを所有するに至る。この時、群れを乗っ取った雄は、その群れの雌が抱えている乳児を、全て食い殺してしまうというのである。これは突発的、異常などではなく、群れを乗っ取った雄は必ずこうするのだという。
この行動は1962年に杉山幸丸によって初めて発見された(発表は1965)。当初はその行動の突飛さ、残虐さと、そして当時は普通であった種の利益の観点にそぐわず、ほとんど認められなかった。しかし、その後1975年にアフリカのライオンにおいても同様の行動が発見された。タンザニアのライオンも、単独の雄が複数の雌を抱えて繁殖し、雄が入れ替わった際に新しい雄は群れの中の乳児を殺すことがある。この発見によって、ハヌマンラングールの例も広く認められるようになったのである。その後さらに、複数のサル類やジリス、イルカなどいくつかの分類群でも同様の行動が確認されている。
人間も含めた動物の子殺し行動は、子殺しや堕胎に抵抗感を覚えるようになった国民国家時代以降の規範を持つ人間の価値判断では残虐に見える。しかし一部の人間の倫理観や種の利益を離れ、「個体や遺伝子の利益(血縁選択説)」の視点から個体を中心に据え、最適化モデルによって考えることで説明が可能である。この場合、自分の子を殺すのか、他の子を殺すのか、親子関係を認識しているかなどを区別する事が重要である。
適応説の一つが女性霊長類学者サラ・ブラファー・ハーディによって提唱された性選択説(性的対立説)である(Hrdy,1974)。
ハヌマンラングールの場合で、前代の雄が負けて新しい雄がハーレムを所有することになった時点を考える。新しい雄にとっては、ハーレムの所有は永遠ではない。現実的には雄の群れ占有期間は平均で2年程度である。将来に他の雄に自分が負けるまでに、できるだけ早く、より多くの自分の子を雌に産ませなければならない。ところが、雌は乳児を持っている間は発情しないから、そのままでは群れを守りながら子供が独り立ちするまで待たなければ、自分の子を産ませることができない。しかも、その場合に自分が守ってやる子は自分の遺伝子を引き継いでいないから、雄にとっては全く(進化的、適応的な)利益がない。そこで、群れを手に入れてすぐに乳児を殺してしまえば、雌は発情が可能になるから、自分の子を持つまでの時間を大幅に短縮できる。つまり、新しい群れの雄にとっては、乳児を殺してしまうことは雄が支払った投資(先代雄と戦った苦労や、今後当分の群れを維持防衛するためのエネルギーなど)に対する利潤(自分の遺伝子を受け継ぐ子の獲得)を非常に大きくする、すぐれて適応的な行動と言える。もちろんオスが投資と利潤を理解している必要はない。様々な繁殖戦略の中で、もっとも利潤を最大化する戦略が進化的に発達すると言うことである。
一方、雌にとっては仔を殺されるのは明らかに適応的ではない。そのため、ライオンなどでは群れの雌同士が協力して(ふつう群れの雌は近縁個体である)仔を隠したり守ったりすることがある。しかし多くの場合雄が思惑通り、子殺しを達成する。生き延びられるのは成熟目前の仔だけである。雄の思惑が達成されるのは、究極要因としては、子殺しによる雄の利益と(あるいは子殺しをしなかったときの雄の不利益と)仔を殺されることによる雌の不利益を比較した場合、前者の方が大きいからと推測されている。またこの行為から、雄と雌は必ずしも協力的であるのではなく、利害が対立することもあるのではないかと考えられるようになった。至近要因としては雌が雄に抵抗すると体格差からして雌が負傷、あるいは死亡する危険があることを指摘し、そのためにそのような行動が進化しなかったと考えられている(伊藤、2006)。
なお、ハヌマンラングールはインドから東の地域にも分布するが、その地域では、雄は単独でハーレムを維持するのではなく、雌の群れに複数の雄がつく。その地域では上記のような子殺しの行動は見られないという。このような子殺しの行動は、単独の雄と複数の雌でハーレムを形成するタイプの動物特有のものと考えられている。またチンパンジーにも子殺しが見られるが、チンパンジーは乱婚性でオスにとってはどの子が自分の血を引いていないか明確ではない。チンパンジーの子殺しの意義は不明である。
種のために数を間引くという意味ではなく、自分自身や自分の子のために、エサなどの競争相手となる可能性のある他の個体を取り除くと言う意味である。
カモメのコロニーでは一定の割合で他のペアの子を捕食する「共食い屋」が存在する(Parsons,1971)。競争者の排除とエサの獲得を同時に行うことができる。なぜ全ての個体が共食い屋にならないのかについてはESSによって説明される。ミツバチの中には天敵に巣をおそわれた場合に、働きバチが子を食べてしまう場合がある。これは天敵に食べられるよりは自分で食べた方が無駄にならないと考えられる。いずれも個体選択の立場から説明可能である。
行動生態学的な説明以外では、例えばその典型は雄の交代による群れ内部のストレスの増大などを原因とする病理的なものだと言う説がある。杉山、河合雅雄、小原秀雄らは行動生態学的な説明を受け入れず、このような解釈を主張した。チンパンジーの子殺しを発見したジェーン・グドールも当初はこの立場であった。しかしこれは異なるレベルでの解釈であり、共存し得ないものではない。
より具体的な異論としては、先述のように同種でも他地域ではそれが見られないこと、また同様な社会を持つ他のサルで見られないことから、その適応的な意味づけを疑問視する声もある。しかし、例えばゲラダヒヒでは雄交代の際に雌が流産することが知られており、これが雄による何らかの操作ではないかとの説もあり、また、他の動物群でも類似の行動が広く見つかったことから、現在では上記のような考えが主流である。
なお、チンパンジーの場合、雌にもその行動が見られることから、このような説明が難しく、むしろ病理的なものと見た方がよい、との意見もある。しかし伊藤(2006)は、恒常的に見られる行動であれば、それを進化学的に見る必要があるとの判断を示している。
この行動は、雄にとって自分の子ではないから子殺しという言い方は必ずしも正しくないが、自分の群れにいる子を殺すという点でも、はっきりと子供を自分の子であるかどうか判断できる状態で殺す点でも、それまでに考えられたことのなかったものであり、大きな衝撃を与えた。それまでは、同種個体間の争いは、他方を殺すまでには至らないようになっているものと考えられており、その点でも驚くべき行動と考えられた。
一般の人々からは、動物は人間のように高度な心を持たないから野蛮なまねをすることも多いのだと考えられ、「獣のような」とか「動物的な」といった言われ方をされることがあるが、他方でそれは、動物には分別がないからで、分からないでやっているんだから仕方がない、言わば無知によるものだから罪とは言えないという感覚がある。さらに、動物の行動の研究家は、逆に動物は意外に野蛮でもないし、無意味に殺し合ったりするものでもなく、むしろ過度な攻撃を避けるものだ、言わば動物は意外に高潔なのだという印象を持っていた。
しかし、ここに見られる子殺しは、そのどちらの感覚にも反するものであった。無知と見なすには筋が通り過ぎているし、しかも残虐に見える。そのため衝撃も大きかった。同時に、それを説明しきれる行動生態学の理論に対しても驚きと一部では警戒が生まれたと言ってよいだろう。動物は人に善悪を教えるために存在しているのではないし、動物の行動が人から見て道義的、道徳的である必要はないが(自然現象に人間の道徳の基礎を求めることを自然主義の誤謬という)、それが人間に適用された場合、人道的見地からは問題のありそうな議論がたやすいことが見て取れるからである。
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