出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2012/05/03 14:00:08」(JST)
この項目では、国立高度専門医療研究センター(ナショナルセンター)の一つである国立がん研究センターについて記述しています。その他のがんセンターについては「がんセンター」をご覧ください。 |
国立がん研究センター中央病院 | |
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情報 | |
英語名称 | National Cancer Center Hospital |
標榜診療科 | 内科、消化器科、循環器科、呼吸器科、精神科、小児科、外科、呼吸器外科、脳神経外科、整形外科、形成外科、眼科、耳鼻いんこう科、気管食道科、皮膚科、泌尿器科、婦人科、放射線科、麻酔科、歯科、歯科口腔外科 |
許可病床数 | 600床 一般病床:600床 |
機能評価 | 一般500床以上:Ver5.0 |
開設者 | 独立行政法人国立がん研究センター |
管理者 | 嘉山孝正(中央病院長)[1] |
開設年月日 | 1962年2月1日 |
所在地 |
〒104-0045
東京都中央区築地五丁目1番1号
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位置 | 北緯35度39分56秒 東経139度46分05秒 |
二次医療圏 | 区中央部 |
PJ 医療機関 |
国立がん研究センター東病院 | |
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情報 | |
英語名称 | National Cancer Center Hospital East |
前身 | 国立柏病院・国立療養所松戸病院 |
許可病床数 | 425床 一般病床:425床 |
機能評価 | 一般200床以上500床未満:Ver5.0 |
開設者 | 独立行政法人国立がん研究センター |
管理者 | 江角浩安(東病院長) |
開設年月日 | 1992年7月1日 |
所在地 |
〒277-8577
千葉県柏市柏の葉六丁目5番地1
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位置 | 北緯35度54分04秒 東経139度56分29秒 |
二次医療圏 | 東葛北部 |
PJ 医療機関 |
独立行政法人国立がん研究センター(こくりつがんけんきゅうセンター、National Cancer Center)は、日本におけるがん征圧の中核拠点として、がんその他の悪性新生物に対する診療、研究、技術開発、治験、調査、政策提言、人材育成、情報提供を行う日本の独立行政法人である。2010年4月1日に厚生労働省所管の施設等機関であった旧国立がんセンターから独立行政法人へ移行し、初代理事長嘉山孝正のもとで改革が進められている。
目次
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高度専門医療に関する研究等を行う独立行政法人に関する法律第3条第1項によると、その目的は「がんその他の悪性新生物に係る医療に関し、調査、研究及び技術の開発並びにこれらの業務に密接に関連する医療の提供、技術者の研修等を行うことにより、国の医療政策として、がんその他の悪性新生物に関する高度かつ専門的な医療の向上を図り、もって公衆衛生の向上及び増進に寄与すること」とある。
具体的な業務は次の通りである(同法第13条)。
日本では第二次世界大戦後、それまでの感染症に代わり悪性新生物(がん)による死亡率が急速に上昇し、1953年には死因の二位となり、その翌年から全国の国立大学にがん診療施設が設けられることになった。やがて、そうした各地のがん診療施設の拠点となる国立機関の必要性がうたわれるようになり、1959年、厚生省が「がんセンター」を発表。翌1960年、「国立がんセンター設立準備委員会」が立ち上げられた。当初の構想では、財団法人癌研究会(癌研)を吸収するかたちでの一本化も考えられていたが、設立準備委員会での議論の結果、癌研と並立するかたちで設立されることになった。
そして、1961年度予算で建設費、初年度運営費など9億5千万円が計上され、予定地となった東京都中央区築地の旧海軍軍医学校の建物の改装が始まる(築地の跡地利用は、癌研の再建計画にも入っていた)。初代総長には田宮猛雄(日本医学会会長)が選ばれた。当時の日本医師会会長でがんセンター設立の立役者の一人であった武見太郎が、脱学閥、脱派閥による人物本位の人材起用を提言しており、派閥中立的な田宮に白羽の矢が立ったのである[2]。
田宮は、病院長に久留勝(大阪大学癌研究所長)を、研究所長に中原和郎(癌研究所長)を指名し、がんセンターの組織作りにあたった。このときの組織作りで特徴的だったのが、武見太郎の見識によって、病院と研究所を有機的につなぐために、両者のコーディネーター役として運営部を独立させたことである。運営部の存在によって組織内の医師や研究者がその本来の職務に専念できるようになり、また、同時に運営部は、全国的ながん対策の中核としての機能も果たすことになった。そして、総長は、これら病院、研究所、運営部の三組織を統轄する者として位置づけられた(がんセンターのシンボルマークは、病院・研究所・運営部が一つの共同体であることを象徴させたものでもある)。
当初の計画が大幅にずれ込み、1962年5月、センター病院が開院。久留が「年増芸者がお白粉を塗ったくったようだった」[3]と振り返るように、当時の建物は亀裂の入った壁や雨漏りのする病室があちこちにある、ひどい環境であった。また、開院当初は、学閥を無視して全国各地の大学から業績主義によって気骨のある医師を集めたために[4]、カルテの様式も手術の方式もまちまちであり、たとえば、手術の場合は、久留院長は久留外科方式、東大の人は東大方式、慶応の人は慶応方式といったありさまであった[5]。しかし、やがて、こうした初期の混乱期は、「久留天皇」の異名をとった久留院長の陣頭指揮と、各分野のエキスパートたちの切磋琢磨によって乗り越えられていくことになった。とくに、大学病院流の各科並列のセクショナリズムを廃し、臓器単位の横断的な診療体制が確立され、各臓器の症例検討は、深夜に及ぶまで活発な議論が交わされた。
また、開院後のもう一つの混乱として、当時の石本茂総婦長が推進した「高レベルの看護体制」に対する医師の反発が挙げられる。石本は、がんセンターが通常の病院と異なり、重傷のがん患者を抱えており、充実した身体的、精神的ケアが要されることから、「単なる医師の小間使いや雑役係を乗り越え」なければならないと考えたのである。この構想は、多くの医師の反発にあいながらも、着実に実践されていくことになった。しかし、病院職員の定員は限られており、看護体制の充実という理想と定員増のない現実の間の葛藤は、今日まで続いている。
他方で、研究所の方では、中原研究所長が、病院附属臨床研究所といった色彩の強かった当初の構想を飛び越え、基礎研究重視の研究所づくりを進めた。しかも、若い人材が多く、生化学、分子生物、生物物理、薬理、有機化学、実験病理など分野も多岐にわたっており、病理畑の勢力の強かった当時の癌学会のなかでは「あんなやり方で、がん研究など出来る訳がない。あれは、中原先生のホビーだ」[6]という声もあがっていた。しかし、幅広い基礎研究を土台にした研究所は、臨床研究では得られない数多くの国際的な成果を挙げていくことになった。
開設後最初の十年は、胃がん、肺がんの早期診断法、肝硬変、肝がんの安全な外科手術法ががんセンターを中心に確立され、研究所では動物に実験胃がんを発生させることに成功するなど、「がんの学問の世界では、国立がんセンターの業績が一頭地を抜いて輝いた時代であった」[7]。さらには、1968年以後、タイ国立がんセンターの設立に参画したり、1971年にはWHOの国際胃がん情報センターを附設するなど、国際的にも注目と期待を集めるようになった[8]。
1992年に旧国立柏病院と旧国立療養所松戸病院を統合・移転して柏キャンパス(千葉県柏市)に東病院を開設。現在、柏キャンパスにある緩和ケア病棟は、このときに旧国立療養所松戸病院に開設されていたターミナルケア病棟を発展的に引き継いだものである。翌94年には、柏キャンパスに研究所支所が開設。柏では、主に肺がん、肝がんを中心とする難治がんの診断・治療・研究ならびに終末期がん患者に対する緩和ケアの実施に取り組まれることになった。さらに、1997年には、陽子線治療棟が完成し、世界で二番目となる臨床専用の陽子線治療装置が設置された。
この東病院が「国立病院としては超一流の建物」であったことに触発され、当時のバブル経済下、築地キャンパスの病院についても「世界で最高」の新棟建設が計画された[9]。阿部薫が総長に就任した1994年には、基礎工事も終わっており、外枠の組上げが始まろうとしていた。阿部は設計書を見るや、あまりに非現実的な計画に驚き、「舞い上がった計画をいかに現実に戻すか」に腐心することになった[9]。こうした計画は、病院長が病院建設にほとんど関与できず、厚生労働省から出向した役人を中心とした『運営局』が、民間に比べて破格の建設費用をつぎ込んだためであり(一般に病院の建設コストは一床あたり約3千万円であるのに対して、センターの場合は7~8千万円に達した)、これらの結果、独法化前の借金は500~600億に達したとされている[10]。
こうした状況下で、阿部が実施したのは、具体的には、当初の旧棟、新棟のツインタワー構想の撤回、実体の見えない臨床研究棟2フロア新設の廃止、各部の重複設備(トイレ、休憩室など)の共有化などである。結果として、1998年10月に新棟が竣工され、1999年1月より「中央病院」として診療を開始した。新棟では、HCUや計画治療棟、グループ診療制など、当時の診療の弊害をなくすための幾多の方策が実施された。
また、2000年には、厚生労働省が「ミレニアム・ゲノム・プロジェクト」におけるがん研究の中枢として国立がんセンターを指定し、翌2001年に築地の研究所に疾病ゲノムセンターが設置され、がんに関する遺伝子研究の充実が図られている。
1962年に創立されて以降、胃カメラ、消化管二重造影法、気管支鏡の開発など世界的な業績を挙げてきた国立がんセンターもやがて制度疲労を見せ始める。
始めに、病院と研究所をつなぎ両者を補佐するとされた運営部の権限の肥大化である。杉村隆がこの点を指摘した2002年の段階では、すでに、運営部長が、がんセンターの現場を補佐、代表する役割から離れ、本省の意向を単に伝達する職になってしまっていた[11]。この運営部長は、総長に次ぐポジションであり、病院長よりも上に位置しているにもかかわらず、本省から出向した現場を知らない官僚が座っていたからだ。総長をはじめセンター幹部の人事権は厚労省に握られているため、運営部長は本省の威光をかさに絶大な権限をふるったのである[10]。加えて、看護師、放射線技師、臨床検査技師、事務職員についても、その任命権者は総長にありながら、実際の指名者が本省になってしまっており、総長や病院長によるガバナンスが機能不全に陥っていた。こうしたガバナンスの不在は、病院事務職員の3,040万円の横領事件や麻酔科医一斉退職、数々の週刊誌沙汰などとして現れることにもなった。
また、前述したように官僚主導の病棟新設による莫大な借金(600億)の存在も重荷となった。国の特別会計からの借り入れで金利は4-5%で、返済期間は25年。年間の診療報酬収入250億円に対して、この借金の利息だけでも30億円を費やしてしまうありさまであった[10]。そして、そのしわ寄せは現場に及び、レジデント、リサーチレジデントの劣悪な就労環境(医師の約半数は非常勤で手取りの月給が20万円ほど)ならびに臨時職員化など、人件費節約による収支あわせのみを考えた経営姿勢が進み[11]、研究業績の低迷などとなってあらわれることになった[11]。
独法化前の病院長であった土屋了介の当時の発言を借りれば、「日本を代表するがんの臨床現場であり、専門家がそろったこのセンターで、いま必要とされているのは、現場の自主独立だ。官僚管理を脱しない限り、世界と伍してやっていけるはずがない」状況にあった[10]。
国立高度専門医療センター等を除く国立病院・療養所は2004年から独立行政法人国立病院機構へ移行していたが、国立がんセンターは厚生労働省直営の施設等機関としてそのまま残されていた。2010年4月1日に国立高度専門医療センターの各組織も独立行政法人へ移行し、国立がんセンターは独立行政法人国立がん研究センターに改称されることになった。
2009年11月末、行政改革の一環として独法化後のナショナルセンターのあり方を検討するため、仙谷由人行政刷新相が主宰する「独立行政法人ガバナンス検討チーム」が発足し、12月に報告書をまとめ、国立がん研究センターと国立循環器病研究センターで理事長公募が行われることになった。この公募に対しては、当時の総長の廣橋説雄を含めて5人の応募があったが、選考委員会による選考の結果、国立がん研究センターの初代の理事長予定者には、山形大学医学部および附属病院の改革で名を馳せていた嘉山孝正が選ばれた[12]。
しかし、嘉山は、当初、各界から理事長公募への要請を受けていたものの、山形大学の改革、および全国医学部長病院長会議や国立大学医学部長病院長会議の立場から取り組んできた日本の教育改革が途上にあったこと、さらには、「がんセンターの役割、必要性に疑問を持っていた」ことから固辞していた。しかし、最終的には、「理事長就任を要請した方の、『国立がんセンターの独法化、改革は、単にセンターだけにとどまらず、全国各地にある公団、特殊法人等の改革の先鞭を付けるものだ』との一言で決断」することになったのである[13]。
また、この結果を受けて3月には中央病院長の土屋了介が辞意を表明したため[14]、嘉山が中央病院長を併任することになった。
2010年4月1日に新理事長として嘉山が着任すると、まずは、改革の進め方として組織改革に重点を置き、「一切の先入観をもたず、すべて白紙、一から行います。利権や縁故は一切排除し、大学の教授選考と同様に厳正に決定し」、責任の所在を明確化した上で、「今いる職員のモチベーションを高め、いかに仕事をしてもらうかを第一に考え」ることを明言[15]。同日の告辞のなかでは、「世界トップ10~20のがん研究・医療の展開」や「正規職員の増員、職員の福利厚生の向上」などの基本的プリンシプルが示された[16]。
そして、独法化後2か月の間で、診療体制の抜本的な見直し、各種委員会組織の再編・統合(病院と研究所の連結)、治験の実施状況・治療成績の公開、「がん対話外来」の設置、総合内科の新設、レジデントの処遇改善、東京大学との連携大学院構想など「新生NCC」の取り組みが進められるとともに、「世界最高の医療と研究を行う」、「患者目線で政策立案を行う」とする理念と「がん難民をつくらない」などの使命が発表された[17]。
こうした取り組みの成果も着実に見られ、たとえば、2010年10月の総合内科の設置によって、これまでのがんセンターでは見ることのできなかった合併症を抱えるがん患者にも対応できるようになり、「がん相談対話外来」については利用者のほぼすべての方が満足しているという結果が得られている[1]。経営改善についても、2010年4月から6月までの決算で当初の計画に比べて17億円ほど収支改善が見られ、これらを財源として、事務職員の常勤化による専門職化による管理運営部門の強化にも努めている[18]。さらに、ドラッグラグの解消を目指して、全国377のがん診療連携拠点病院をとりまとめ、がん治療薬の治験の共同実施を行う枠組みを整備している(2011年1月より実施)[19]。
研究面での改革は、病院と研究センターの連携を深めるために、2011年2月から「リサーチカンファレンス」を開始。病院と研究所、双方のスタッフが参加し、闊達な議論をたたかわせるカンファレンスを月1回開催し、臨床と研究の連携を強化するとともに研究成果の検証も行っている[20]。2011年5月からは、中央病院と東病院において「バイオバンク(検体バンク)」を試験的に実施、秋から本格的な稼働に入った[21]。さらに、島津製作所[22]をはじめ各企業と包括同意を結び、企業との連携を強化するとともに、産官学が連携する新研究棟の整備に入っている。産官連携では、すでに、CICSと世界初の病院設置型加速器によるホウ素中性子捕捉療法に関する共同研究が始まっている[23]。
教育面では、「築地ユニバーシティー」「築地医学会総会」などがスタートし院内の教育体制の整備が進み、2012年度からは、慶應義塾大学、順天堂大学との連携大学院制度が開始。これによって、レジデントがセンターに籍を置きながら医学博士号を取得できるようになった[24][25]。
また、人事面では、独法化以前の中央官庁や国立病院機構との「周り人事」が、独法化すぐの中央病院看護部長の異動辞令を機にとりやめられた。採用は公募制を取るようになり、11年度新卒採用の事務官公募には定員8名に対して800人の応募があった。さらに、後述の経営改善により、2010年度中に約150人の常勤職員が採用され、派遣・委託職員の削減、処遇改善がなされたことで職員のモチベーションが高まった(就任前に不足が問題になった麻酔科医も10人から15人に増加)[20]。
具体的な処遇改善は、派遣・委託職員の常勤化のほかに、レジデントの処遇改善(2009年度の年収350万円程度を、550万円以上に)、がん相談対話外来手当の創設(1回5000円)、観血的処置でリスクの高い業務に対する危険手当の創設(診療報酬の一定割合を医師に還元)、ガバナンス手当の創設(科長、副科長が対象。月3万円)、夜間看護手当等の改定(7600円から1万円に)、専門薬剤師手当の創設(月5000円)が挙げられる[26]。
そして、これらの改革が進んだことで経営面でも大幅な改善を見せ、全身麻酔の手術件数、病床稼働率がいずれも約5%増加するなど、2010年度の経常利益は29.6億円(目標は3.1億円)、経常収支比率は107.2%に達した[26]。独法化1年後のナショナルセンターに対する厚生労働省独法評価委員会高度専門医療研究部会(座長・永井良三)の業務実績評価では、6ナショナルセンターの中でトップとなった[27]。
世界保健機関により、1970年に「胃がんの第一次予防・診断・治療」の、また1981年には「喫煙と健康」の、各指定研究協力センターに指定されている。
カッコ内は前職など
柳田邦男の『ガン回廊の朝』に、本センターの研究者が深夜の帰宅時に電車の車中から東京医科歯科大学の研究室に煌々と灯りが灯っているのを見てショックを受け、その対抗心から本センターの研究者達も終電ぎりぎりまで研究に打ち込むようになったエピソードが記されている。
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