出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/03/21 15:43:43」(JST)
吉岡 彌生 (よしおか やよい) |
|
---|---|
1901年に撮影された吉岡彌生
|
|
人物情報 | |
生誕 | 1871年4月29日 (明治4年3月10日) |
死没 | 1959年5月22日(満88歳没) 日本・東京都世田谷区 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 済生学舎 |
学問 | |
研究分野 | 医学 |
研究機関 | 東京女医学校 東京女子医学専門学校 |
主な業績 | 女性医学者の育成 |
主な受賞歴 | 勲六等瑞宝章(1924年) 勲五等瑞宝章(1940年) |
テンプレートを表示 |
吉岡 彌生(よしおか やよい、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1959年(昭和34年)5月22日)は、日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校・東京女子医学専門学校・東京女子医科大学創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。俗に吉岡 弥生(よしおか やよい)とも表記される。
東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。鳩山春子(共立女子学園創立者)、津田梅子(津田塾大学創立者)、成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)、戸板関子(戸板学園創立者)などと並ぶ、日本の女子高等教育の基盤づくりに活躍した教育家である。
また、日本女医会会長、教育審議会委員、日本医師会参与、厚生省顧問などの公職も歴任した。
遠江国城東郡土方村(現:静岡県掛川市)に、漢方医・鷲山養斎の娘として生まれる。1889年(明治22年)に上京し、済生学舎(現:日本医科大学)に入学した。当時の済生学舎は、入学試験がないため女子も入学できる医術開業試験(現:医師国家試験)のための最も古い私立医学校であった。
1892年(明治25年)、内務省医術開業試験に合格し、日本で27人目の女医となる。
1895年(明治28年)に再上京し、昼間は開業をしながら夜はドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学。同年10月に、同学院院長の吉岡荒太と結婚した。
1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知り、同年12月5日、日本初の女医養成機関として東京女医学校を設立した。1912年(明治45)に東京女子医学専門学校に昇格、1920年(大正9年)に文部省指定校となり、卒業生は無試験で医師資格が取れるようになった。
太平洋戦争中、「婦人国策委員第一号」他、愛国婦人会評議員、大日本連合女子青年団長、大日本青年団顧問、大日本婦人会顧問など要職に就き、多数の青年・婦人の戦争協力を指導。空襲後、疎開。
戦後、東京に戻り学校の再建に取り組むが、1947年(昭和22年)~1951年(昭和26年)教職追放ならびに公職追放。
1955年(昭和30)危篤に際し、勲四等宝冠章を賜る。しかし、叙勲の知らせで奮起し、奇跡的に回復した。
1959年(昭和34)5月22日、世田谷区の自宅で死去。遺言により遺体は解剖に付された。死後、正五位勲二等瑞宝章を賜る。
東京女子医科大学の河田町キャンパスには、吉岡の像が建立されており、吉岡の名を冠した彌生記念講堂が設置されている。また、掛川市の吉岡彌生記念館や東京女子医科大学の吉岡彌生記念室などの施設では、吉岡の資料を収集、展示している。
現・学校法人東京女子医科大学理事長吉岡博光は孫。吉岡と同じく土方村出身の東京学芸大学学長鷲山恭彦は、本家筋にあたる。
関連記事 | 「生」 |
.