出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/12/31 17:54:13」(JST)
<toggledisplay showtext="[Wiki ja表示]" hidetext="[隠す]">
「オイラー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「オイラー (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
レオンハルト・オイラー | |
---|---|
Leonhard Euler
|
|
人物情報 | |
生誕 | 1707年4月15日 スイス バーゼル |
死没 | 1783年9月18日(満76歳没) [OS: 1783年9月7日] |
出身校 | バーゼル大学 |
学問 | |
研究分野 | 数学、物理学、天文学 |
研究機関 | ロシア科学アカデミー プロイセン科学アカデミー |
博士課程 指導教員 |
ヨハン・ベルヌーイ |
主な指導学生 | ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ |
主な業績 | オイラー図、オイラー数、オイラー積分、オイラー線、オイラーの公式、オイラーの等式、オイラーの五角数定理、オイラーの定数、オイラーの定理 (数論)、オイラーのφ関数、オイラー標数、オイラーの分割恒等式、オイラー法、オイラー予想およびオイラー路の発見 |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 | |
テンプレートを表示 |
レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。微積分成立以後の18世紀の数学の中心となって、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いたとされる[1]。スイスのバーゼルに生まれ、現在のロシアのサンクトペテルブルクにて死去した。
オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、父はオイラーに自分の後を継いで牧師になることを望んでいた。しかしヨハン・ベルヌーイによって才能を見いだされ、オイラー自身の数学への興味もあって数学者になる道を選んだ[1]。1727年に、オイラーはサンクトペテルブルクの科学学士院に赴任し[1]、ダニエル・ベルヌーイの同僚となった。この地で、彼はバーゼル問題を解決したことで有名になった。だが、エカチェリーナ1世の突然の死でロシアは政情不安となり、視力の悪化も伴って、研究生活は不安定なものとなった。1741年、プロイセン王国のフリードリヒ2世の依頼でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住[1]。その業績からフリードリヒ2世に「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」と賞賛される(右目を失明していたため)。彼は『無限解析入門』 "Introductio in analysin infinitorum" と『微分学教程』 "Institutiones calculi differentialis" という2冊の数学書を出版した。また、オイラーはアルンハルト=デッサウ公女の教育のために科学への入門書を執筆し、その後、『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』 "Lettres à une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie" として出版された。この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった。当時ベルリン・アカデミーには、ヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。エカチェリーナ2世が帝位についたことで、1766年ごろオイラーは再びサンクトペテルブルクに戻った[1]。1738年ごろより視力が低下し[1]、1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を完全に失明したものの、その後も研究意欲が衰えることは全くなく[1]、彼は論文の執筆を口述筆記に頼りながら、1783年に76歳で亡くなるその日まで精力的な研究生活を続けた。墓はアレクサンドル・ネフスキー大修道院にある。
解析学(無限小解析)においては膨大な業績があり、微分積分の創始以来もっともこの分野の技法的な完成に寄与した。級数や連分数、母関数の方法、補間法や近似計算、特殊関数や微分方程式、多重積分や偏微分法など、古典的な解析学のあらゆる領域に、基礎から応用にいたるまでの広い業績があり、自身の発見を教科書を通して広く一般に普及させた。あまりにも膨大な量のため、彼の解析学における仕事、例えば公式ひとつひとつまでも完全に伝わっているということがなく、新たな公式の発見とされたことが実はオイラーの発見の再発見に過ぎないということがしばしば起こる。その名前は、指数関数と三角関数の関係を与えるオイラーの公式、オイラー=マクローリンの和公式、オイラーの微分方程式、オイラーの定数などに残っている。更に複素数の変数を積極的に用いて、解析学に限らず数学全分野に大きな業績を残した[1]。
フェルマー以降進展がなかった整数論において、ラグランジュの出現まではほとんど一人で研究し続け、二次形式や原始根、フェルマーの小定理の拡張など、部分的ではあるが広大な結果を残した。数論的関数の一つであるオイラー関数(オイラーのφ関数)に現在も彼の名前が残っている。またゼータ関数を初めて扱って(ゼータ関数の名称自体はリーマンによるもの)、後に解析的整数論の重要な主題となるいくつかの非常に重大な結果を得ている。彼は ζ(2)=π2/6 を求めることに初めて成功し(1735年)、更に、ζ(4) = π4/90, ζ(6) = π6/945, ζ(8) = π8/9450, ζ(10) = π10/93555 ζ(12) = 691π12/638512875 を求めた。彼はゼータ関数と素数の関係を表すオイラー積の公式を発見(1737年)、素数の逆数の和が発散するという新しい結果を得た。更に彼は超人的な数学的直感に基づき、ゼータ関数の負の数における値に意味付けを与えた(後にこれは数学的に正当化されることとなる)。数の分割の理論においては、母関数の方法の応用が著しく、五角数定理をはじめ様々な組み合わせ的、あるいは楕円関数論的な恒等式を得た。
幾何学においては、位相幾何学のはしりとなったオイラーの多面体定理(ただしオイラーは証明を与えていない)や「ケーニヒスベルクの橋の問題」が特に有名である。特性類の一つであるオイラー類は本質的にこのオイラーの多面体定理によって特徴付けられるものである。「ケーニヒスベルクの橋の問題」は一種の一筆書きの問題だが、これに取り組んでオイラーは一筆書きの可能になる必要十分条件を求めた。それにちなんで今日では一筆書きのできるグラフはオイラーグラフと呼ばれる。これはグラフ理論の起源となった。解析幾何学でも古代ギリシャのアポロニウスによる円錐曲線の理論を解析幾何学的手法による近代化をはかっている。
物理学では、ニュートン力学の幾何学的表現を解析学的に修正して、現代的なスタイルに変更した。彼は1736年に初めて力をはっきり定義し、解析的な形で運動方程式を与えた。そしてそれ以後、この定式化に基づいて振動弦の問題を論じ、また地球の章動の研究において運動方程式による3体問題の定式化を行った。そして1755年には流体力学の基礎方程式(オイラーの連続方程式と運動方程式)を導いて体系化し、さらに1760年には剛体の力学を論じ、剛体に固定した運動座標系を導入してオイラーの運動方程式を得、これを発展させた。剛体の方位を規定する3つの角は「オイラーの角」と呼ばれる。だが、彼は1760年代までニュートンの重力理論を容認できず、デカルトの充満理論、エーテル理論に固執した。その他、変分法に関する業績も多い。
ライプニッツによって定義された関数を初めてy=f(x)の形で表したのもオイラーである。このような近代的関数の概念は1748年に導入され、物理学など応用方面でも使いやすいものとなった[1]。
オイラーは人類史上最も多くの論文を書いた数学者であったと言われ、彼の論文は5万ページを超える全集にまとめられて1911年から刊行され続けているが、その全集は100年以上たった今日でも未だに完結していない[1]。1980年~2000年にかけて流通していたスイスの第6次紙幣の10フラン紙幣にその肖像を見ることができる。
ウィキメディア・コモンズには、レオンハルト・オイラーに関連するメディアがあります。 |
|
.