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この項目では、伝染病について説明しています。
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ペスト | |
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ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画
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分類及び外部参照情報 | |
ICD-10 | A20.a |
ICD-9 | 020 |
MedlinePlus | 000596 |
eMedicine | med/3381 |
Patient UK | ペスト |
MeSH | D010930 |
ペスト(ドイツ語: Pest, 英語: plague)とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。
日本では感染症法により一類感染症に指定されている。ペストは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行する病気で、人間に先立ってネズミなどの間に流行が見られることが多い。
ノミ(特にケオプスネズミノミ)がそうしたネズミの血を吸い、次いで人が血を吸われた結果、その刺し口から菌が侵入したり、感染者の血痰などに含まれる菌を吸い込んだりすることで感染する。人間、齧歯類以外に、猿、兎、猫などにも感染する。
かつては高い致死性を持っていたことや罹患すると皮膚が黒くなることから黒死病と呼ばれ、恐れられた。14世紀のヨーロッパではペストの大流行により、全人口の約3割が命を落とした[要出典]。
ただし、現代英語で"pest"と言えば、ハエ、ダニ、あるいはイエネズミなどのような人間に害を与える小動物一般を指すので注意が必要。
ペスト菌が体内に入って2~5日経つと、全身の倦怠感に始まって寒気がし、高熱が出る。その後、ペスト菌の感染の仕方によって症状が違い、次のような病型に分類されている。
リンパ腺が冒されるのでこの名がある。ペストの中で最も普通に見られる病型。ペストに感染したネズミから吸血したノミに刺された場合、まず刺された付近のリンパ節が腫れ、ついで腋下や鼠頸部のリンパ節が腫れて痛む。リンパ節はしばしばこぶし大にまで腫れ上がる。ペスト菌が肝臓や脾臓でも繁殖して毒素を生産するので、その毒素によって意識が混濁し心臓が衰弱して、多くは1週間くらいで死亡する。死亡率は50から70パーセントとされる。
ペスト菌が血液によって全身にまわり敗血症を起こすと、皮膚のあちこちに出血斑ができて、全身が黒いあざだらけになって死亡する。ペストのことを黒死病と呼ぶのはこのことに由来する。
腺ペストの流行が続いた後に起こりやすいが、時に原発することもある。かなり稀な病型。腺ペストを発症している人が二次的に肺に菌が回って発病し、又はその患者の咳によって飛散したペスト菌を吸い込んで発病する。気管支炎や肺炎をおこして血痰を出し、呼吸困難となり2~3日で死亡する。患者数は少ないが死亡率は100パーセントに近い。
ノミに刺された皮膚にペスト菌が感染し、膿疱や潰瘍をつくる。
感染症指定医療機関に隔離され、株ごとに異なる感受性のある抗生物質による治療が行われる。適切な治療がなされれば死亡率は20パーセント未満に下がる。
予防策として、
が挙げられる。
紀元前429年、ペロポネソス戦争の最中ギリシャのアテナイを襲って多数の犠牲者を出した疫病は、「アテナイのペスト」と呼ばれていたが、記録に残る症状の分析により、今日では痘瘡(天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)と考えられ、ペスト説は完全に否定されていると言ってよい。これは有名な歴史家トゥキディデス自身がかかり回復した記録から判明した(激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱)。
アントニヌス帝(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)のペストと呼ばれる小流行が165~180年に起こっている。
ヨーロッパで最初に記録に残っているペストの流行は、542年から543年にかけて東ローマ帝国で流行したものである。「ユスティニアヌスの斑点」と呼ばれている。当時帝国は、かつての西ローマ帝国の故地再征服を目指して大規模な戦争(ゴート戦争)を継続して行っていたが、ペストの流行により大混乱に陥った。ユスティニアヌス自身も感染したが回復している。帝国は8世紀と14世紀にもペストの流行に襲われた。1340年代からの流行は、最後の攻勢に出ていた帝国に大打撃を与えた。
流行はアジア、北アフリカ、中東、ヨーロッパに広がり、当時の人口の半分に当たる3,000~5,000万人(またはそれ以上)が死亡したと言われる。
ドイツで発掘された遺体のDNA解析結果が2014年に発表され、病気の起源は今まで考えられたアフリカではなくアジアであるという。また過去の流行とも関係なく、その後の流行とも無関係であったという。
472年以降、西ヨーロッパから姿を消していたが、14世紀には全ヨーロッパにまたがるペストの大流行が発生した。当時、モンゴル帝国の支配下でユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが、この大流行の背景にあると考えられている。1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。
1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。
1377年にベニス(ベネツィア)で海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の40を表す単語からquarantine(検疫)という言葉ができた。
イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転換が促進した。イングランドの総人口四百万人の1/3が死んだと言われ、当時通用していたフランス語や聖職者が使用していたラテン語の話者人口が減り英語が生き延びた。
また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったとされ、彼らが井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、迫害や虐殺が行われた。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーに則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという考えがある一方、実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったなどの見解もある。
ユダヤ教徒の人々は、各国での迫害を逃れ、カジミェシュ3世大王治世下のポーランドに大量移民した。アルコール(蒸留酒)で食器や家具を消毒したり腋や足などを消臭する習慣が国民に広く定着していたほか、原生林が残り、ネズミを食べるオオカミや猛禽類などが多くいたポーランドではペスト被害が発生しておらず、また、他国のようなユダヤ人迫害事件も発生していなかった。当時は蒸留酒(ウォッカ)を飲む習慣がなく、蒸留酒は消臭・消毒薬として使われていた。そのうえ、ポーランドではその1世紀前の1264年に発布されていたカリシュの法令により、ユダヤ教徒の人権と広範囲の自治権が常に保障されていたのである。
地中海の商業網にそって、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラーム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。
その後も、ペストは17世紀~18世紀頃まで何度か流行している。1629年10月ミラノにペストが到達した時に検疫の重要性が明らかになった。1630年3月のカーニバルのために検疫条件を緩和した結果、ペストが再発し、最盛期には1日当たり3,500人が死亡した[1]。1665年にはロンドンで流行し、およそ7万人が亡くなった。後にダニエル・デフォーは『疫病の年』(A Journal of the Plague Year、1722年)で当時の状況を克明に描いている[2]。
フランスでは1720年にマルセイユで大流行(en:Great Plague of Marseille)した。しかし、集権化にともなう防疫体制の整備と衛生状態の改善から、これ以降の大流行はみられなかった。こうして先進諸国では19世紀までにほとんど根絶されたが、発展途上国ではなお大小の流行があり、インドでは1994年に発生、パニックが起きたほどであった。
19世紀の中国とインドで1,200万人が死んだという世界的流行は、中世のペストが、香港から世界中に広がったとされる。
日本にペストがはじめて上陸したのは1896年で、横浜に入港した中国人船客が横浜の中国人病院で死去した。1899年(明治33年)11月、台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が広島で発病し死亡、その後半月の間に神戸市内、大阪市内、浜松で発病、死亡者が発生した。1899年は45人のペスト患者が発生し、40人が死亡した。翌年より東京市は予防のために一匹あたり5銭で鼠を買上げた。1901年(明治34年)5月29日警視庁はペスト予防のため屋内を除き跣足(裸足)にて歩行することを禁止した(庁令第41号)[3]。ペスト患者数のピークは1907年で患者数は646人であった。紡績工場での患者発生が続き、国内での発生源はペスト流行地のインドから輸入される綿花に混入してきたネズミによるものであるというのが通説になった。1930年に2人の死亡者をだしたのを最後に国内のペスト発生は終わった[4]。本来日本国内にはケオプスネズミノミは生息せず、したがってペストはなかったとされている[5]。
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