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大学(だいがく、英: college、university)は、学術研究および教育の最高機関である。
日本の現在の学制では高等学校もしくは中等教育学校卒業者、通常の課程による12年の特別教育を修了した者、またはこれと同等以上の学力を有する者を対象に専門的な高等教育をおこなうものとされている。学生の教育課程と修了要件の充足に応じて学位(短期大学士・学士・修士・博士・専門職学位)の学位授与をおこなう(なお、学位の名称・定義も国や地域によって異なる)。
大学の定義によるが、単に高等教育機関という意味でとらえれば、その歴史は、紀元前7世紀創設のタキシラの僧院が最古のものとなる。タキシラ僧院では、卒業生に学位にあたるものを与えており、世界遺産の遺跡がある現在のイスラマバード北西、パキスタンのタキシラにあったが、西暦6世紀に街と共に破壊された。古代インドでは、タキシラ、ナーランダ、ヴィクラマシラー、 カーンチプラムは学問の中心地として存在していた。
紀元前5世紀設立のナーランダ大学は、インドのナーランダに所在し、仏教を中心とした学問研究で有名で、仏教だけでなく、天文学などの知識も教授していた。学位にあたるものの授与のほかに、今の大学院にあたるコースもおこなっており、西域、ペルシア、アラブ世界からも人々が学びに来ていた。地元の熱心な仏教徒らの寄進・布施によって運営費や学生らの食費などがまかなわれ、最盛期には学生の数はおよそ1万人、教師数1000人、蔵書数500万冊にも達しており(世界最大級)、建物群は仏教を大切にした歴代の王たちによって増築が重ねられ、キャンパスの広さはおよそ10km × 5kmほどにも達し、中央には大きな塔(タワー)もあった。西暦12世紀ころのイスラム教徒による破壊まで続いた。
紀元前387年にギリシャの哲学者プラトンが作ったアカデメイア(ギリシャ・アテナイ, Αθήναι)では、数学、哲学等を教えており、十字軍以降イスラム世界を通じて中世ヨーロッパの大学成立に多大な影響を及ぼした。その他にもギリシアでは、ヒポクラテスの故郷コス島には医学校、ロドス島には哲学の学校があり、アレクサンドリアには博物館・図書館があった。
紀元前124年に漢朝では、官僚養成学校である太学が設立された。中国の古代の伝説によると、『漢書』儒林伝では「夏は校と曰い、殷に庠と曰い、周に序と曰う」とある。周朝では辟雍と呼んだともいう。しかし、高等教育機関の名として大学の名称が周のものとして伝えられるものに由来することが有名である。礼記王制「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟癰、諸侯曰頖宮」。隋朝以降は、国子監が最高学府としての役割を担った。
6世紀には、サーサーン朝ペルシャで、グンデシャープール大学(ジュンディーシャープール)があった。
日本では、7世紀の天智天皇の治世に官僚養成を目的とした「大学寮」が創設された。
カロリング朝には、アーヘン(今のドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州の街)に、シャルルマーニュが scola palatina, palace school, 宮廷学校 という名の学校をつくった。Brexgata University Academy もカロリング朝指導者により、798年、今のフランス、Noyon 近郊に設立、学者、統治者、聖職者、シャルルマーニュ自身などが参加して、一般市民の教育について、統治者の子どもの(次世代の統治者としての)教育;統治、侵略者からの領地の防衛、浪費を防ぐ術など議論していた。これらの活動は大学 (universitas) の下準備となった。
ヨーロッパにおける中世最初の大学は、849年にビザンツ帝国アモリア王朝3代皇帝ミカエル3世の摂政 Bardas Mamikonian によって建てられたコンスタンティノープル大学(あるいはマグナウラ宮殿の大学)で(次代のマケドニア朝ルネサンスの先駆)、9世紀にはサレルノ大学が作られた。
988年創設のアル=アズハル大学(966年設立のモスクに由来)は、エジプトのカイロに所在し、イスラーム法学、プラトン、アリストテレスなど古代ギリシアの研究が行われ、大学院にあたるコースも行っていた。
大学を近代西欧語の大学(伊: Università、英: university、仏: Université、独: Universität)という意味でとらえれば、その歴史は、11世紀-12世紀に始まる。最古の大学として、イタリアの"Alma Mater Studiorum" (1088年設立、現在のボローニャ大学)が、自由都市国家のボローニャに市民達によって開設された[1]。その後、イングランドのオックスフォード大学(同大学より1209年に分離してケンブリッジ大学が誕生)、フランスのパリ大学などが開設されていった。もともとはラテン語の "universitas" (ウニベルシタス)を起源とし、学生のギルド(組合)から始まる。世界最初の校則は、学生のギルドから教師達への規則(「学生ギルドに無断で授業を休まない」「学生ギルドに無断で都市からでない」など)として作られた。その後、教師のギルドも作られ、連合体を意味するようになる。ギルド=組合を意味する大学は、学生間で上下関係がなく、日本語の訳語としては「大学」ではなく「組合」とした方が原義に近い。[2]。
中世の西ヨーロッパにおいて、大学は、神学部(キリスト教聖職者の養成)、法学部(法律家の養成)、医学部(医師の養成)の3つの上級学部と哲学部ないし学芸学部との4学部からなり、専門職を養成することが大きな役割であった。12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は修道院に託されていた。修道院は、もっぱら典礼と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。教会法と秘蹟の研究についてのグレゴリウス改革の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための大聖堂附属の学校 (cathedral schools) を組織した。西欧の多くの中世の大学はカトリック教会の後援により生まれた。
学習は、教会のヒエラルキー内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた大聖堂附属学校の容量を越えた。なお、そのうえ、大聖堂附属学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、大聖堂附属学校はパリやボローニャのような大都市へ移転した。
13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ(大修道院長、大司教、枢機卿)、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、トマス・アクィナス、ロバート・グロステストは、中世の大学の出身者であり、スコラ学はその産物といえる。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や新プラトン主義の人気の衰えと符合する。
中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、学生のギルドと教師のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世のイタリアから始まったものであり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接の派生的な関係はない。
大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。最初にできたタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので、教師は教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した――事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。従って、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。
大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、リベラル・アーツ(=自由七科)(算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞)を研究する哲学部 (faculty of the arts) に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。
ひとたび学士 (Bachelor of Arts) を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。
課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程はアリストテレスの書物あるいは聖書からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。
学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。
学生は聖職者と同様の保護を与えられた。学生に特権を与えたのは、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの勅法カピタによってである。だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる身体刑からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、ゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、(学生によって始められた)暴動が多数の学生を死に至らしめた後、1229年のパリ大学でストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。以上のように学生は聖職者的な地位をもつため、女性は大学に入学することは許可されなかった。
大学の研究のためのポピュラーな教科書は、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』といわれる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈をかくことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。
ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も神聖ローマ帝国によって「ストゥディウム・ゲネラーレ」(Studium Generale)として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。
米国では1636年にハーバード大学(最初はHarvard Collegeとして)が誕生する。
イギリスでは、教会の主導の下、中世のギルド的な大学の伝統に従った貴族による教育が大学で行なわれており、研究は民間のアカデミーで進められ、発表されていた。
フランスでは、1806年に、ナポレオン・ボナパルトによって、かつての地方大学が専門学校へと引き下げられ、新設された帝国大学(L'Université impériale)が指導監督し、国家が国民の教育にあたるというモデルが採用され、研究はやはりアカデミーで進められるものであった。
特に重要なのは、言語学者でプロイセンの政治家としても有名だったヴィルヘルム・フォン・フンボルトがその骨格をつくったベルリン大学である。ベルリン大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、法学、神学、医学といった伝統的な学問領域を軸として、哲学がこれら3つの学問のみならず、自然科学を含めたすべて学問の理論的な研究を指導するというモデルを採用した。ベルリン大学は、研究と教育の一体化を図るとの革命的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた[3]。19世紀に至ると、歴史学、社会学、教育学、民俗学など新たな学問分野が生じ、数学、物理学、化学など既存の学問分野も急速な発展を遂げただけでなく、哲学から心理学、哲学史が分離するなどして今日の大学の基本的な諸分野が、ほぼその骨格を現すことになった。
20世紀になってからは、欧米以外の世界の各国でも多くの大学が誕生してくるようになる。ヨーロッパでは、人文自然科学でも理論的な学問研究が、大学の主要学部とみなされた。また、経営学や音楽、美術、工学などの単科大学はやや差別的な位置づけをされていた[4]が、徐々に大学の構成学部として認知されるようになってきた。
21世紀に入ると、情報科学、社会福祉、都市開発などで従来にはなかったような新しいコンセプトの学部も、世界各国のそれぞれの国内事情に対応して誕生するようになってきた。
詳細は「日本教育史」を参照
大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的としている(学校教育法第83条)。換言すれば、大学教育の目的とは、広範にわたる知識の獲得と諸分野の専門的な教育研究を行うことで、拡大・深化した知見と柔軟な思考力を備えた知識人を育成することであるといえる。この目的に照らして、大学の内部は専門分野ごとに、学部や学科・課程などの教育研究組織に分かれている。教員と学生は、それら個々の教育研究組織に所属し、教育研究活動を行う。大学院重点化大学では、教員は、学部の専任教員ではなく、大学院の研究科の専任教員となる(学部については、兼務の一つとされる)。大学院の研究科に代えて、教員の所属(研究部)と学生の所属(教育部)を分けている大学もある(研究部・教育部制度参照)。また、大学院のみの大学、大学院大学も存在する。一方、短期大学は修業年限を2年または3年とする大学であり、その目的は、深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成することである(学校教育法第108条)。
大学は文部科学省が所管するが、それ以外の省庁が所管する機関として省庁大学校がある。独立行政法人大学評価・学位授与機構が省庁大学校の課程を大学に相当するものと認めた場合、その課程を卒業すると同機構より学士の学位が与えられる(学校教育法第104条第4項2号)。
大学教員としては、教授、准教授を必ず置かなければならず、必要に応じて講師を置くことができる。いずれも自分の専門とする研究をしていることが条件である。初等教育、中等教育などのような教員免許状は存在しない。多くの教員が、修士や博士の学位を持っている。また、他の大学を掛け持ちして教鞭を執る教員や、授業単位で学期ごとに大学と契約する非常勤講師(大学によって兼任講師、嘱託講師などの名称を用いる場合もある)といわれるシステムを採用している大学もある。
教員組織は学校教育法(昭和22年法律第26号)の第93条の規定に基づいて、どの大学にも重要な教育事項等を審議するために教授会が置かれる。教授会は学部や研究科毎に置かれることが多い。また、学問毎に更に細かい組織が主に学部の学科や大学院の研究科の専攻に置かれている。伝統的に講座制と学科目制がある。講座制は教員が階級関係であり、学科目制は緩やかな連合関係である。
日本の大学は、公的な性格を有する一条校たる高等教育機関として、主要な情報をWebページ等で開示している。文部科学省では2009年11月、今後「中退率」、在学者数等の公表を義務づける方針を中央教育審議会大学分科会に示した[5]。
主な開示情報: 研究概要・カリキュラムやシラバス・教員や学生数・入試状況(学科の応募状況・実質倍率・入学者数など)・学費・進路状況(就職・大学院等進学など)・機構や組織・財務状況・外部評価など。
→「Category: アメリカ合衆国の大学」も参照
アメリカの大学は私立大学と州立大学に分かれている。日本には国立大学もあるが、アメリカで連邦政府が運営する大学は、陸・海・空軍の士官学校と空軍大学校の他には存在しない。
また、米国の大学の数は日本に比べ圧倒的に多く、大規模大学・小規模大学をすべて含めると実に4000以上存在する。
学期はセメスター制をしく学校と、トライメスター制、クォーター制をしく学校の3種類がある。セメスター制は日本と同じ年2学期制(通常15週間/学期)、トライメスターは3学期制(通常10週間/学期)で、クォーター制は春夏秋冬の4期から構成されている。クォーター制の夏期は基本的に補講期間と考えられていて、メジャーな授業は開講されない。州立大学やコミュニティ・カレッジでは、学費は日本と異なり登録する単位数によって変動する。学校間の提携が非常に発達しており、既得単位の移動が学校間で比較的容易なため、編入が頻繁に行われている。特に費用の安いコミュニティ・カレッジである程度単位を取得してから同一州内の4年制大学へ編入する方法は、成績・経済的な理由から特によく見かけられる。
イギリスではほとんどの大学が総合大学。イギリスの大学は国に属する団体ではない。よって大学の教員は公務員ではない。あくまでも研究費や学生の授業料を国費で援助しているだけである。オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、インペリアル・カレッジ・ロンドン、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、ロンドン・ビジネス・スクールなどが有名。
ドイツの公立大学は、以前は授業料が無料であり、入学も学部によっては順番待ちによっておこなわれていた。学部の段階から学問と技術を学ぶ気風が高く、2年間ほど在学した後に退学する人も多かったといわれていた。21世紀に入る前後で改革がおこなわれ、州によっては公立大学の授業料が有償化されたが、徐々にRP州やNRW州のように無料化の方向に進んでいる。また、ほとんどが州立であり国立は無い、私立大学の数は比較的少ない。
フランスでは、大学と共にグランゼコールが発達し、エリートコースの一つともなっている。
詳細は「学費」を参照
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個々の競技会についてはCategory:日本の大学スポーツも参照。
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前段階の学校 | 現学校 | 次段階の学校 |
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大学 通常課程: 4年制 |
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大学 医歯薬獣: 6年制 |
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同段階の学校 | ||
以下は、医学、歯学、薬学、獣医学の課程のみ
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注1: 医学、歯学、薬学、獣医学の課程。 |
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