出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/10/08 20:55:54」(JST)
移民(いみん、英語:immigrationまたはemigration)は、異なる国家や異なる文化地域へ移り住む(移住)する人(immigrant、emigrant)・移住した人々、またそれらの事象を指す。
移住は長期にわたる居住を意味しており、観光や旅行は通常含まない。ただし、通常1年以内の居住を指す季節労働者は移民として扱う場合が多い。出ていった移民を移出民(emigrant)、入ってきた移民を移入民(immigrant)と呼ぶ。受け入れ国の法的手続きによらず移入した人々を不法移民と呼ぶ。
国連の推定によれば2005年には1億9000万の人たちが移民したが、これは全世界の人口の3%に満たない。残りの97%は生まれた国もしくはその後継国に住んでいる。1990年には国連で全ての移住労働者及びその家族の権利の保護に関する国際条約が採択された。またSFなどで宇宙移民について描かれることもある。
移民、特に貧困層の移民は、移民元では余剰人口の排出、移民先では安価な低賃金未熟練労働力の供給源となる一方、文化摩擦や失業などを背景に犯罪集団を形成し各種犯罪を起こすことも各国で発生しており、両方にプラスマイナスともにさまざまな影響を与える。一般に移民問題とは移入民に関する問題を指すが、移民による頭脳流出が移出国で問題となることもあり、特に医療従事者の流出による医療崩壊は発展途上国で深刻な社会問題となっている[1]。
異郷の地において同郷の者たちが一つの地区に住むことによってコミュニティが形成される場合もあり、日本人による日本人街・リトルトーキョーや中国人による中華街(チャイナタウン)、 コリア・タウンなどがある。これらは数ブロック程度の「一区画」であることが多いが、規模が大きくなって村や市がまるごと移民によるコミュニティになっている場合もしばしばある。例えば、ボリビアにおけるサンフアン・デ・ヤパカニ市は集団移民した日本人が作り上げた市である。
移民労働者の増加で自国の労働者の所得格差が増大する[2]ことがわかっている。1965年に米国が移民政策を転換して以来、欧州からの比較的熟練した労働力とアジア・ラテンアメリカからの比較的非熟練労働力の両方が米国に流入しつづけた。全ての移民労働者に対する非熟練移民労働者の割合と全ての自国籍労働者に占める非熟練自国籍労働者の割合の比率はルイジアナ州、ワイオミング州、イリノイ州において高くそれぞれ10.4, 7.29, 7.23であった。この数字が10%増加すれば熟練労働者と非熟練労働者の賃金比率は0.22%増加[2]する。この数字の全米平均値は3.61であり、アラバマ州では3.58であった。この条件では自国籍の熟練労働者と非熟練自国籍労働者の平均賃金の比率は1.44であった。アラバマ州では、非熟練自国籍労働者の平均賃金は熟練自国籍労働者の平均賃金のおよそ0.694倍ということになる。賃金格差の増大は1970年代より始まり、NAFTAが発効された1990年代における所得格差の増大は顕著であった。
スイス政府統計によれば、住居を有しているスイス居住者は全体の3割しかない。スイスでは住宅所有はすこしの贅沢である。だが超低金利、移民の増加、そしてスイスが投資家達にとっての金融避難所としての魅力的な国家であることから、スイスでは不動産抵当の貸付が急上昇している[3]。スイス政府は2014年2月以降、資産価格の急激な上昇を抑えるべく努力している。スイス政府は2014年6月、新規に住宅を購入する者が年金基金をその住宅の頭金として使うことを認めない声明を出した。スイス連邦参事会員であるヨハン・シュナイダー=アマンは、この政策によって住宅価格高騰が鈍化することを期待すると述べた[3]。
他方、金融政策の観点ではスイス国立銀行は既に対ユーロでの為替ターゲットを維持しているために、政策金利をあげることができず、スイスの住宅価格高騰に対して有効な術をうしなっている[3]。そしてスイス銀行は抵当ローンへの条件を厳しくすると表明した。
数十万年前からおこなわれてきた人の移動に対して、移住とはある国家の国民が別の国家に移り住むことを指す事が多い。市民権や国籍を管理するようになったのは国民国家の形成以降であるから、移民とは一般に近代の概念である。19世紀に進展した国民国家の形成において国籍法の整備と国境の画定により国民を登録して管理するようになり、国民と移民が法律上、明確に分けられることになった。
ヨーロッパ諸国のアジア・アフリカ植民地では、植民地経営のために政策的にヨーロッパからの植民がなされた。また、世界的な奴隷制度廃止にともない鉱山や農園(プランテーション)開発や鉄道建設のため、アジアからの労働移民が東南アジアやアフリカ大陸にわたった。
東南アジアにおける植民地経営をささえていたのはマレー半島のゴムや錫、インドネシアの農業生産などであり、そこで必要とされた労働力は中国南部やインド南部から調達された。かれらの多くは契約労働者であったが、現地に定住する者も少なくなかった。これにともない商業活動に進出する者も増え、これらの中国系移民(華僑・華人)とインド系移民(印僑)は、その後、東南アジア各地で大きな影響力をもつこととなった。
アフリカへの移民としてはインドからが多く、イギリス帝国のもとではイギリス植民地相互の植民もおこなわれた。
18世紀までのヨーロッパからの移民がおもに年季契約のかたちをとった労働移民であったのに対し、19世紀には自由移民が主流となった。19世紀のヨーロッパでは、人口の増大や交通機関の発達などにより大規模な人口移動がおこった。各国では人口の都市への集中がみられるいっぽう海外移民も増加した。第一次世界大戦までの100年間に新大陸に渡ったヨーロッパ人は6000万人におよび、19世紀はまさに「移民の世紀」であった。
最大の移民受け入れ国はアメリカであり、その数は1821年から1920年までの100年で約3300万人とされる。その前半には北・西ヨーロッパから、その後半は南・東ヨーロッパからの移民が多くみられ、これは各国の工業化の進展の時期のずれを示している。人口増加や貧困などの経済的な要因だけでなく、迫害を受けたユダヤ人のように政治的な要因からの移民もおこなわれた。また19世紀半ばに黒人奴隷が解放されると中国やインドから労働者を雇い入れ、不足する労働力をおぎなった。
なお、アメリカ大陸・オーストラリア・南アフリカのアジア系移民は白人労働者と競合したため、黄禍として排斥されたり移民を制限されることもあった。1870年代にはカリフォルニア州で中国人排斥の動きが高まり、1882年には中国人移民禁止法がアメリカ合衆国議会で成立した。1924年にはアメリカ合衆国で移民を制限する排日移民法が制定され、日本でアメリカ政府は人種差別的であるとする反米感情が生まれた。
オーストラリアではアジア系移民を認めない白豪主義が採用され、南アフリカではこののち厳しい人種隔離政策・アパルトヘイトが長い間つづいた。
近年はEU統合と加盟国内の旅行が自由となった影響で、東ヨーロッパから西ヨーロッパへの移民が増えている。
ヨーロッパにおける移民は、おおむね欧州圏内での移住と、北米(アメリカ合衆国とカナダ)からイギリスへの移住、イスラム圏(北アフリカ・中近東諸国・インドネシア)からの流入が大勢を占めている。主に欧州で問題となっているのは宗教的・文化的背景が大きく異なるムスリムの移民であるが、イタリアなどではルーマニアなど東欧からの移民があまりに増加したために不動産価格の上昇・土地の不法占拠などの問題が深刻化し、ムスリム・アジア系の移民だけでなく東欧系移民への地元民の反感も強まっている。エマニュエル・トッドは西欧四大国(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ)の移民の統合状況に大きな違いがあるとした[4]。
移民の多くは多くの産業のいわゆる下流工程と言える職につくことが多く、ヨーロッパ経済の下支えとしての役割を果たしている。とりわけ天然ガスの採掘によって危機的な自国通貨高に見舞われたオランダでは、第一次、第二次産業に従事する移民が経済復興の足がかりにもなった。ドイツにはトルコ人が、イギリスには旧植民地のインド人、パキスタン人が移民または労働者として流入している。
フランスは東欧からの移民の統合には成功しているとされる(元大統領のニコラ・サルコジはハンガリー移民2世である)が、旧宗主国として北アフリカ諸国から受け入れた移民の統合はうまくいっておらず、移民の多い大都市の郊外では治安の悪化・暴動(2005年パリ郊外暴動事件など)が頻発するなどの問題が深刻化している。
またドイツ・ベルリンの移民集住地区ノイケルン区では2006年3月に、全校生徒の約80%を移民子弟で占めるリュトリ基幹学校(Rütli-Schule)では、教師が生徒に暴力を振るわれ、強盗が日常茶飯事になるなど学校崩壊が進んだため、全教員が廃校要望書をベルリン市教育長に送付した事件が発生し、ドイツにおける移民統合や多文化主義の失敗としてドイツのメディアでは報道された[5]。2010年にはメルケル首相が「多文化主義は失敗」と公言した[6][7]。
EU諸国からスイスへの移民の数は毎年8万人であり、この数は当初2007年に見積もられていた数の10倍であることがスイス国民党によって指摘されている。そして移民超過の結果、教育システムや交通、公的医療システムに負荷をかける事態になっており、健康保健・年金など移民への社会保障のためのコストを誰が負担するかについての議論がある。そしてスイス国内労働者の賃金の下方硬直性が移民労働者の低賃金と競争にさらされることで脅かされる状態になっている。この状況を受け、2014年スイスは、EU諸国からの移民の数を制限する是非についての国民投票[8]を行い、移民規制強化への賛成が過半数を占めた。スイス国民党代表のトニー・ブルンナーは、この国民投票の結果はスイスの移民政策のターニングポイントだとする声明を出した[9]。
これをうけてスイス政府は2017年からEU諸国からの移民の数を制限する声名[10]を出した。EU側は先行する条約に反する[11]と批判したが、「もしスイス有権者が我々を信頼しなくなったら、民主主義の危機となってしまう」とスイス司法・警察担当の連邦参事会員シモネッタ・ソマルーガは述べた。その移民制限法はスイス国内に4か月以上在住する全ての外国人が対象[10]となり、またスイス在住ではないが国境をこえて通勤しスイスで仕事をする外国人も対象となる。
「日系人」も参照
労働力としての人の移動は、室町時代にはすでに存在していた。しかし中世においては、男女を奴隷として輸出する場合もあった。後漢書によれば、107年に倭国王帥升が生口160人を、漢に献じたとある。阿倍仲麻呂のように、唐で高官に出世した者もいる。アユタヤ日本人町のような、大規模な街を作る者たちもいた。
江戸時代に入ると鎖国政策がとられて以後、幕末までは大規模な移民は行われなかったようである。
開国後の日本は、第二次世界大戦後にいたるまで労働力が過剰だったために移民を送出する側にあった。明治元年(1868年)、駐日ハワイ総領事ヴァン・リードの要請を受けて、いわゆる元年者153名がハワイ王国に送られたが、その待遇は劣悪極まりないものであったため、国際問題に発展した。
その後、アメリカ合衆国本土やブラジル、ペルーやパラグアイなどの南米諸国等への移民が徐々に増加した。この頃のアメリカへの移民については政府による政策や移民斡旋業者に頼らないやり方をした女性伊東里きなどがいる。その他の受入先としてはアメリカ統治下にあったフィリピンのダバオ市、満州国、日本の委任統治下にあったパラオなどの南洋群島などがある。
ただし、日本統治下にあった地域への移住は国内移住と同等であると考え、移民とは呼ばないことがある。これは韓国併合時代に日本に移住した朝鮮人や台湾人に対しても同様である。
移住先の職業は農業の担い手だけでなく、フィリピンのバギオの例のように道路建設などの土木作業に従事する者も少なくなかった。
昭和初年の経済恐慌の農村への影響は大きく、昭和9年の冷害は特に大きな打撃を与え、その一方で満州国の成立によって大量の移住が国策として必要であるとされた。拓務省が設置され、月刊拓務時報が刊行され、拓務省内には海外移住相談所が開設された。戦前、戦後を問わず農業を目的とした移民がたどり着く先は開墾すべき原野であることが多く、労苦があった。中には開発の可能性がほとんどない荒地に住むことを余儀なくされた、ドミニカ共和国への移民のようなケースもあった。ドミニカ共和国移民の場合には、当時の日本政府の喧伝内容と実際の現地の状況・待遇にかなりの相違があり、事実上の棄民[12]ではなかったのかと後年日本の国会などで議論されている。横浜、神戸には移民希望者が集まり、彼らを相手に出国手続や滞在中の世話をする移民宿が誕生した。またその出身地にちなんだ「薩摩町」・「加賀町」などの町名が残されている。 日本人の政策的な移民はあまり行われなくなった。だが、日本人が労働力としてアジアや北米などの海外に移住する動きは続いており、2007年以降、日本の失業問題や労働環境の悪化に伴い、海外に職を求めて流出する若者が増加している[13]。
日本統治下の朝鮮からは日本へ、朝鮮人労働者が多数移住、また密航した。戦後の動乱や朝鮮戦争などによって日本に密入国してきたものも含め、在日朝鮮・韓国人問題がある。
1947年5月の外国人登録令で朝鮮人や台湾人らは外国人とみなされるようになり、1952年のサンフランシスコ講和条約発効と併せ外国人登録法が施行され、日本籍を持っていた在日外国人らは日本国籍から外れた。
1980年代には一部の中小企業や農林業、ブルーカラー職種で人手不足が深刻化、外国人労働者によって人手不足を埋め合わせる機運が生まれる。1990年の出入国管理及び難民認定法改正により、日系3世まで就労可能な地位が与えられ、日系ブラジル人、日系ペルー人や中国人を中心に外国人労働者が増大した。1991年には日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法が施行され、特別永住者という地位が法的に規定された。また中国残留孤児やフィリピンの日系人家族などを想定した「定住者」という法的地位も新設された。その後、ブルーカラーの労働環境の改善や日本で就職難が深刻化するに伴い人手不足は徐々に解消に向かうが、外国人労働者の増加は2007年頃まで続き、2007年の時点で日本には約100万人の外国人労働者が在留している。その家族や特別永住者等を含めると200万人の在留外国人がおり、日本に定住・永住する者も増えている[14]。
近年、少子高齢化が深刻化し、若く安価な労働力を確保するため、財界と政界の双方から移民の受け入れを求める声が上がっている。しかし、欧州などの移民政策への評価が分かれており、若者の失業問題が深刻な日本であえて移民政策を推進することへの疑問や反対意見も多く、日系人や一部の専門職を除き、外国人労働者を積極的に受け入れることについて政府は慎重な姿勢は崩していない。建設業界からは「国内の若年者の雇用確保が本筋」、「外国人材の活用は言葉や習慣の違いなど課題も多い」という声も出ている[15]。 日本介護福祉士会は、外国人の労働者を受け入れることに反対している[16]。ただ、法的手続きをとらないまま永住する外国人が多く存在していることも事実であり、不法滞在の外国人やその子息らの処遇についての問題が顕在化しつつある[17]。
厚労省によると、生活保護を受給している外国人は2011年現在、4万3479世帯であり、年間5,000世帯のペースで急増している[18]。
米国では中途半端な移民政策が政治問題になっている。中南米の国々から米国メキシコ国境付近へ、毎年多くの子供達がやってくる。それら子供達は、祖国での暴力や貧困から逃れるために米国への移民を希望している。米国大統領バラック・オバマは、政治的議論を捨てて、それら子供達を米国に受け入れる必要性を唱えた[19]。だが米国メキシコ国境付近へやってくる中南米の子供達の数は、年を追って増え続け、その対処は政治問題になっている [20]。2013年10月から2014年6月までに間に、グアテマラやホンジュラスなど中米から米国へ逃れてくる子供達の数は約5万2千人にのぼっている [21]。その収容負担を軽減するために、米国政府は移民の家族をテキサスや南カリフォルニアの都市などへ移送している。だが、その移民の移送先で新たな問題を引き起こしている。カリフォルニア州マリエータ市長であるアラン・ロングは、米国政府がすべきことはその不法移民をテキサスやカリフォルニアに留めておくことではなく粛々と法に基づいて強制送還させること[21]だと述べる。ニューメキシコでは、現地住民が、その移民が米国で就業し現地住民の仕事を奪ってしまうことを恐れ、移民に住居を与え留めておくことに反対の声をあげた[21]。8年間続いたジョージ・ブッシュ政権下での不法移民の国外追放者数は200万人であったが、オバマ政権では6年目にして既にほぼ同じ数の国外追放を行っている[19]。また国外追放するにしても、アメリカ合衆国憲法に基づいて検査官らの法的聴取が先行されなければならない。その法的聴取には人員と時間がかかる。
米国政府は2014年度に米国へ流入する子供達の数は6万人から8万人に達すると見込んでおり、それら子供達の宿泊場所を手配する政府の負担が急増している。テキサス州知事リック・ペリーは、バラック・オバマがこの問題に十分対処できていない[22]と述べる。オバマは国境地域の治安を軽んじている[22]ために、彼は集中してこの問題に取り組んでおらず、結果としてそれら子供達への施設提供が不足しているのだ、とペリーは述べた。その他の共和党議員は、国境地帯にやってくる中南米の子供達にオバマ政権がそれらの国外追放に猶予期間を与えたことで、他の中南米の子供達に誤った希望をあたえてしまい、それが彼らの越境に拍車をかけているのだとオバマ政権を非難した。移民政策の専門家[20]は、オバマ政権の移民容認姿勢が中南米の子供達の越境をあおってしまったことを示唆する強い証拠があると述べた。
これをみたオバマ政権は方針を転換し、それら子供達の国外追放のための法的聴取の検査員や国境警備隊の拡充に37億ドルの資金を出すと声明を出した[23]。その37億ドルのうち、子供達を本国に無事に送還するための移送費として約1.16億ドルが計上されている。また本国送還のサポートなどに3億ドルが使われることになっている。テキサス州の国境の治安向上には3000万ドルが使われる。それら子供達は法的聴取の間に施設に拘留されるが、その衛生・健康状態をケアするのに18億ドルがアメリカ合衆国保健福祉省によって費やされる[23]。
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