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引退(いんたい)は、官職や地位等から退いたり、スポーツ選手などが選手としての身分を離れたりする事である。プロスポーツ選手の他、スポーツを行っている学生・生徒らが最終学年となって高校・大学受験・就職活動等で試合出場の機会が無くなり、所属するクラブや部活動から離れる事も引退と呼ばれる。
プロスポーツの場合、あらかじめ引退が予告される事があり、その場合、引退試合とされることがある。大相撲の引退においては取組としての引退試合はなく、引退決定後の断髪式が有名である。
機械の場合は「退役」と呼ぶ。
目次
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プロ野球選手が引退する際、その手続きには次のような種類がある。但し、引退の為ではなく、移籍、傷病の治療等を前提にこれらの措置が執られる場合がある。
原則として契約期間中又は保留期間(契約更改の為の期間)中、選手の希望により[1]行う引退のことを言う。
現在では、任意引退とは日本のみならず世界各国のプロ野球に所属することが出来なくなるが、野茂英雄がメジャーリーグに移籍した際には、まだ他国のプロ球団については規定がなかった為、日本において任意引退選手となって移籍している。この他に練習生制度がありかつ支配下登録選手が60人までしか認められなかった時期には、長期間の故障やマイナーリーグに野球留学をする際に任意引退選手公示されることは珍しくなかった。日本ハムの河野博文は、ケガによる一時的な任意引退選手公示を戦力外通告だと勘違いし失踪して騒動となったが、この騒動も一因となって、練習生制度廃止および支配下登録選手70人につながった。
任意引退した選手が現役に復することも可能であるが、原則として任意引退は選手の希望によるものであるため、プロ野球界に復帰する場合には最終所属球団に復帰しなければならず、他球団に復帰する場合には最終所属球団の許可が必要である。
また、戦力外通告による必ずしも本人が望まない引退でも、翌年にチームスタッフ(コーチ、バッティング投手、ブルペン捕手、スカウト、スコアラーなど)として契約することが決まっている場合など、他球団と交渉させないために任意引退選手公示する場合がある。そのような場合でなくても、それなりの実績を残した選手で本人が他球団での現役続行を望まない場合などは、チームへの貢献者に対する球団側の配慮として任意引退にする場合もある。
なお、1999年の規約変更によりプロ野球選手であった者がアマチュア野球の選手・指導者に転身するためには最終所属球団からの自由契約となる必要があるため、任意引退後に改めて自由契約公示がなされる場合がある。そのような選手には1979年の外木場義郎(2004年に広島東洋カープから自由契約公示)、1985年の定岡正二(2006年に読売ジャイアンツから自由契約公示)、2005年の初芝清(2006年に千葉ロッテマリーンズから自由契約公示)などがいる。
日本プロフェッショナル野球協約(以下、野球協約)の規定により、球団との契約を解除されたり、球団が保有権を失った選手のことを「どの球団も自由に契約できる選手」ということにより自由契約選手という。この自由契約選手になることそのものが即座に引退に直結するものではなく、いずれの球団であっても自由に契約を結べる選手であるということに過ぎない。しかし何れかの球団との契約を結べなかった場合には実質的に引退となり、自由契約公示後に選手側が契約をあきらめて引退を発表することもある。ただし任意引退公示に切り替わるわけわけではない(黒木知宏や田口壮など)。なおひとたび契約締結できずに翌シーズンに入り、実質的に引退となった場合であっても何れかの球団と契約を結ぶことで現役に復することもある(2003年シーズン終了後に中日ドラゴンズから自由契約公示が為された後、2004年シーズン途中にオリックスで復帰した栗山聡など)。
一番多い形態としては保留選手名簿に記載されないことによる自由契約である。日本プロ野球においてはシーズン終了後に球団が次年度も引き続き契約する意思のある選手のリストである保留選手名簿をコミッショナーに提出し、12月2日にコミッショナーはこれを公示するが、この名簿から外れた場合、自動的に自由契約選手となる。なお、各球団はこの保留選手名簿の提出、コミッショナー公示に先立って当該選手に対して次年度は契約を結ばないことを告げる戦力外通告を行っている。これはプロ野球選手会との協定によるもので、保留選手名簿の公示が為される12月2日以前にトライアウト、入団テストなどが行われることが通例である為、公示までに契約を結ばないことを明らかにすることで当該選手が翌年も他球団に所属できる可能性を残す為である。
契約更改の際に減額制限を超えた年俸が提示された場合、選手側からその契約を拒否することが可能でそのような場合でも自由契約となる。
また、自由契約選手公示を行うことはシーズン中であっても可能であるが、その場合にはトレード禁止期間であってもこの自由契約選手公示を行うことで実質的にトレードが行えるようにならないよう、自由契約選手公示に先立ってウエイバー公示[2]が為される。この公示が為された後の7日間、下位球団から順に当該選手の契約譲渡を受ける権利を有することになり、どの球団も契約する意思を示さなかった場合に限って自由契約選手となる。
なお、英語においては自由契約選手もフリーエージェント(Free Agent)と表記されるが、これはいわゆるフリーエージェント制度によるものとは別個のものである(選手が「自分の意志で」自由契約を宣言できるのがフリーエージェント制度)。
失格選手とは、野球協約により日本野球機構の構成員たる資格を失った選手を言う(構成員には選手の他に、監督、コーチその他の職も含まれる)。失格選手には有期、無期、及び永久の三つがあるが、このうち永久失格選手は原則として処分が永久のものであり必然的に引退を余儀なくされる。永久失格となる要件としては、所属球団を故意に敗れさせる敗退行為(八百長)などが挙げられており、これにより引退した例としては1969年から1971年の間に起こった黒い霧事件によって永久失格となった6人の選手(下記参照)がある。永久失格は一般には「永久追放」といわれることが多い。
「除名#日本野球機構の除名」も参照
なお、2005年までは永久追放された場合には現役に復する余地がなかったが、2005年の野球協約改正により、処分より15年が経過し、改悛の情が認められる者については処分を未来に向けて解除する条項が新設された。このため現在では失格選手となった場合であっても現役に復する余地はあるが、この規定自体、黒い霧事件で永久失格となった池永正明について当時の所属球団西鉄ライオンズや後継となった西武ライオンズ、福岡ソフトバンクホークスのOBやファンから名誉回復運動が起こっていたことに対応したもので、これにより現役に復した選手はいない(現実問題として、15年のブランクを経て現役復帰できる実力を維持しているケースはありえず、事実上池永ら当該事件関係者のための条項である)。
詳細は「池永正明#復権」を参照
また、無期失格選手となった場合も資格を失っているため、必然的に引退を余儀なくされる。無期失格選手は永久失格選手と異なり、コミッショナーの判断により失格を解除できるが、これまでに現役に復した選手はいない。
選手名 | 理由 | 備考 |
---|---|---|
永易将之 | 八百長により追放 | |
池永正明 | 35年後に解除、球界復帰 | |
与田順欣 | ||
益田昭雄 | ||
小川健太郎 | ||
森安敏明 | ||
高山忠克 | 失踪 | |
バール・スノー | 無断帰国 | |
小林浩二 | 不祥事による処分 |
類似の概念に資格停止選手がある。
支配下登録にある選手がそのまま死去した場合、支配下登録を抹消する。これは当該選手がすでに死去している為の措置であり、引退とはやや趣旨の違うものである(相撲やプロレスと異なり「各球団の支配下登録選手名簿」が存在するため、それから抹消する手続きが必要となるもの)。
選手名 | 抹消年 | 死因 |
---|---|---|
北井正雄 | 1937年 | 腸チフス |
黒沢俊夫 | 1947年 | |
加藤斌 | 1965年 | 交通事故 |
宇佐美和雄 | 1969年 | 練習中に事故死 |
ルー・ジャクソン | 1969年 | 膵臓壊死 |
湯口敏彦 | 1973年 | 心臓麻痺 |
板沢峰生 | 1980年 | 急性心不全 |
久保寺雄二 | 1985年 | |
藤井将雄 | 2000年 | 肺癌 |
ミゲール・デルトロ | 2001年 | 交通事故 |
小瀬浩之 | 2010年 | 転落死 |
大相撲においては、現役力士として取組に挑むことを辞めても、引き続き角界に身を置く場合を「引退」と表現し、現役を退き角界に残らない場合や、親方が停年前に角界から離れる場合を「廃業(はいぎょう)」と呼んでいた。
公式には1996年(平成8年)11月17日以降、その後の去就に関わらず現役を退くことを「引退」、親方を停年前に辞めることを「退職」と表現するように改めた。そのきっかけは、同年10月に現役中だった旭道山和泰が突如衆議院議員立候補を決意、当時の境川日本相撲協会理事長に廃業届を提出した時の「廃業」の語感・イメージが悪かったからとされる。なお、このほかにプロ野球の失格選手に相当するものとして「解雇」「除名」がある。解雇は理事会の決定によって可能で、近年では琴光喜啓司・若ノ鵬寿則らの例があるが、除名は全年寄・力士代表・立行司の四分の三以上の賛成が必要で戦後適用された例がない。
幕内を30場所以上務めた力士に対しては引退相撲が行われる。力士の後援会等が主催し、ふれ太鼓、相撲甚句、髪結い実演、横綱土俵入り等、1日に渡って盛大な催しとなる。その内最も有名なものが断髪式で、力士の大銀杏を交替で多数の人々(数百人規模になる事がある)が少しずつ鋏で切り取り、最後に師匠(何らかの理由で不可能な場合は一門を代表する親方などが代わって行う。詳細については断髪式の項を参照のこと)が止め鋏を入れて完全に切り取る儀式である。また横綱の場合は断髪前に最後の横綱土俵入りを行う。また、現役時代の好敵手や息子を相手にして実際に相撲を取ることもある。なお、プロ野球に見られるような「引退を公表した上で『引退試合』と銘打った公式戦に出場」ということは大相撲では滅多にない[3]。これは「死に体になった人間が出るのは相手に失礼」ということからであり、大鵬や小錦などの例が有名である。琴ノ若や潮丸のように師匠の定年をもって引退して部屋の後継者になることが確定している場合でも、実際に引退表明するまでは決して「師匠の定年で引退」とは公言しないのが普通である(「東関親方は近く定年」「定年後の後継者は潮丸」という二つの事実が公表されていても、「では、その二つの事実からして潮丸は師匠の定年で引退ではないか?」とは本人も周囲もマスコミも口にしない)。
行司でも定年退職すると引退相撲が行われることがある。特に立行司は軍配を次の立行司に継承させる儀式を行う為に開催することが多い。
サッカーの場合、引退と定義する一つのケースとして日本サッカー協会への選手登録を取り消した場合が挙げられる。これは野球と違いプロとアマチュアの垣根が低い為であり、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)以外の国内クラブでの活躍により再びプロ選手となる事もよくあるからである。
選手が引退をするケースには、本人の意思により契約を更新しない場合と、所属クラブから11月末までに来季契約をしないという通知(いわゆる「0円提示」)が出される場合がある。前者はプロ野球における「任意引退」、後者は「自由契約」に類似するが、保有権は生じない。
選手によってはその後、日本サッカー協会による「移籍リスト」に掲載されてトライアウト等により自由に所属先を探すことになるが、リストの有効期限内に引退となるケースも多い。又協会への登録は残したまま所属不定の為に事実上「引退」となるケースもあり、翌年のトライアウトには「所属なし」の選手として参加する事も多く見られる。
プロバスケットボールの場合、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)と日本バスケットボールリーグ(JBL)が存在し、それぞれ引退の定義が異なる。
bjリーグの場合、選手契約が満了あるいは解除となり、競技を続行する意思がない場合に引退とされる。
JBL及び日本バスケットボールリーグ2部機構(JBL2)の場合は引退選手リストに登録される、あるいは移籍選手リストに登録されて移籍先が決まらなかった場合に引退とされる。ただし引退選手リストに登録されても実業団やクラブチームなどでのプレー、海外移籍など現役を続ける場合もある。なお、引退選手リストに登録された場合、最終所属を除いたJBL及びJBL2のチームに1年間は選手登録できないことになっている。
日本のプロボクサーの場合、日本ボクシングコミッション(JBC)によるプロボクサーライセンスが失効となった時点で引退となる。ただしあくまで国内でのライセンス失効(国内引退)であり、海外で資格を得れば当該国で選手活動を行うことができる。そのため、JBCライセンスを失効しても海外で現役を続行する選手も少なくない(竹原真敬・辰吉丈一郎など)。
日本のプロボクサーがライセンス失効となるケースは以下の通り。
選手自らの意思で引退する場合に適用。大半のボクサーはこれに該当する。所属ジムに引退の意思を告げた後に、JBCが定める「引退届」をJBC事務局に提出し、それが受理されてライセンス失効となる。成績不振や傷病などを理由にマネージャーから引退を勧告されることもあるが、この場合も引退届提出が原則となる。ただし、ほんの一部ではあるが、引退届を提出せず期限を待って自動的に失効となった選手も存在する。また、このルールで一度ライセンス失効になった場合でも、JBCがライセンス再付与を認めれば現役復帰が可能となり、再度プロテストで合格して現役復帰した選手も存在する。
1980年代に規定された。原則的に37歳の誕生日で自動的にライセンスが失効される。世界王座経験者では辰吉丈一郎(国内引退)、内藤大助、富樫直美がこれを適用した。
網膜剥離や脳内出血など健康上重大な問題が発覚し、競技の継続が困難になった場合、JBCから引退勧告を受けることになる。コミッションドクターの検査結果を踏まえて勧告を出すことが多い。また、ライセンス更新時の健康診断で同様の異常が見つかった場合、ライセンスの更新がなされない。世界王座経験者では鬼塚勝也、竹原慎二、山口圭司がこれを適用した。
プロ野球における失格選手に相当する。JBCルールに違反し、日本国法律に抵触し、その他ライセンスを交付される資格に欠けると裁定された場合、JBCライセンス剥奪となる。この場合は、ボクサーのみならずトレーナー・オーナー・プロモーター・マネージャー・セコンドなどJBCから給付されるすべてのライセンスが対象となる。
競走馬の場合、日本中央競馬会 (JRA) では競走馬登録を抹消するか、競走馬が死亡した時点で引退となる。また未勝利の3歳馬は11月開催の段階で3歳未勝利戦が無くなる関係からほとんどの場合引退となる。(例外として地方競馬に移籍、障害レースに転向、3歳以上500万円以下のレースに格上挑戦するケースがある)
引退式については、
など、競馬発展に多大な功績を残した馬で希望すれば競馬開催日に行うことができる。ただし、引退式に掛かる経費は馬主の負担となる。また、重賞を1勝でもすればJRAにより公式サイトなどで競走馬登録を抹消した旨と今後について告知がなされる[4]。ただしJRAで競走馬登録を抹消した競走馬が海外で再デビューする例もある(シャドウゲイトやキングストレイルがその例)
騎手の場合、騎手免許取消願が受理された時点で引退となる。騎手には定年制は設けられておらず、引退は体力の限界を判断した場合、成績低迷により騎手としての収入が少なく、生活の維持の為には比較的収入が安定する調教助手や調教師への転向が必要と判断した場合など、自らに委ねられる。
中央競馬の調教師には定年制が導入されており、70歳を過ぎた最初の2月末を以て調教師免許が自動的に失効となり、調教師としての資格を返上することになる(そのため内藤繁春元調教師は定年の無い騎手に転向しようと考え、騎手免許試験を受験した)。また実績に乏しい調教師は定年が間近になってくると、管理する馬が集まらなくなる傾向にあり、また、優勝劣敗の厳しい勝負の世界であるがゆえに、管理馬の成績不振を直接の原因として厩舎経営に行き詰まるなどして、そのため定年前に自ら調教師免許を返上して厩舎を解散、引退する調教師も少なくない。
地方競馬の調教師については、主催者により千差万別である(定年制の有無など、競馬場・競馬組合毎に規定が定められている)。
なお、競馬法に違反する事件・行為などにより、資格を管理する組織(日本中央競馬会・地方競馬全国協会)から騎手・調教師などの免許の取り消し(剥奪)の処分がなされ、資格を喪失する形で強制的に引退(あるいは管理団体からの解雇)となった場合には、引退という言葉が用いられる事は少ない。特に競馬マスコミなどでは『競馬界追放』などの表現がなされ、これが引退を事実上意味するものとなる(田原成貴の逮捕と、河野通文の暴力団交際による調教師免許剥奪時にこの表現が使用されていた)。
プロレスラーの引退は、事実上の引退でない場合が多い。エースであるレスラー等は興行上休む事が許されない為に、怪我等をしても無理を押して出場し続ける事も多く、体調上の問題から引退を宣言する場合も多いが、引退後体調がよくなると復帰を宣言する場合が多々ある(プロレス以外でもテニスの伊達公子やボクシングのジョージ・フォアマン、F1のミハエル・シューマッハのように引退後復帰した例はあるが、プロレスに比べると非常に少ない)。その為に大仁田厚など複数回の引退宣言を行った選手もいる。引退時の興行は観客の入りもよく、ご祝儀的な事でもある為、その後の復帰等については批判も多い。体調不良で引退→体調回復で復帰という流れは、日本のプロレス界ではテリー・ファンクが作ったといわれている。テリー・ファンクが復帰した際には「引退試合」で涙したファンを中心に大きな批判が起こり、人気は大幅にダウンした。小林邦昭は引退する際に「絶対に復帰しない」事を明言したが、1試合限定復帰(後述)をしている。また、川田利明は「俺がプロレス辞める時は『引退』ではなく『休業』という事にしてくれ。」とコメントしている。アントニオ猪木は日刊スポーツのインタビューで「俺がコスチューム着てリングに立てば、東京ドームを満員にする自信はある。でも、それをやったらおしまい。」と自身の現役復帰を否定した[5]。
このような背景もありレスラーが傷病により一時的にリングを離れる場合、比較的軽いものだったとしても「引退危機」と報じられるケースが多々ある。しかし近年は長期離脱となった場合でも引退を否定した上で復帰をした選手も少なくない(天龍源一郎の場合、引退どころか「生涯現役」を宣言した)。
一方、これもプロレスラーにありがちな事情であるが、明確な「引退宣言」がなされていないものの長期間に渡り選手としてリングに上がることがなく、事実上の引退状態となっている選手も存在する。
かつての全日本女子プロレスでは「25歳定年制」が布かれていたが、他団体やフリーで現役続行あるいは復帰するケースが多く、後に定年制も有名無実化された。定年制無実化のきっかけとなったのは、ブル中野とされている。中野は25歳を過ぎても現役を続けていたが、「引退宣言」すらないまま29歳で静かにリングを去った。
なお、日本で引退興行を大々的にやった最初のレスラーは吉村道明だが、引退後の吉村は復帰どころか、プロレス界とのかかわりもほとんど持たなかった。
また、プロレス特有の事情として、ストーリーラインの都合上で「1試合限定復帰」というアングルが組まれることがある。有名な例では坂口征二やバディ・ロジャースなど。
フィギュアスケート選手の引退も特殊なケースと見られる。オリンピックを筆頭とするISU管轄の競技会はアマチュア選手に限定しているため、プロスケーターに転向することはすなわち競技生活から身を引くことである。そのため、プロ転向した場合も「引退」と表現されるが、プロ参加可能なISU非公認の競技会も存在する。
プロゴルファーの引退もまた特殊である。いわゆる「プロゴルファー」は統括機関が定めるプロライセンスを持った者を指すが、このライセンスにはトーナメント出場資格を持つ「ツアープロ」とレッスンのみ行う「ティーチングプロ」が存在するからである(他競技でもサッカーやボクシングなど指導者資格を設けている競技は存在するが、プロとはみなされない)。
そのため、「ツアープロ」資格を喪失した際にトーナメントから退くことになるが、「ティーチングプロ」として活動する場合は「プロゴルファー」の肩書きを失うことはない。ゴルフ界では「ツアー引退」はあっても「プロ引退」は基本的に存在しない。
政界における引退とは政治家が政界から身を引くことを言う。身の引き方は任期による退任、自発的辞任、解任、落選を問わないが、一般的に引退を宣言以降、自分自身が当選するための選挙活動、政治活動はしないとされる。当然ながら、法的には引退には全く根拠のないものであり、引退を撤回して、再度政治家を目指してもなんら差支えない。例外的なケースではあるが、藤井裕久のように、衆議院議員選挙で落選して引退表明した後に比例復活での繰り上げ当選により政界復帰することもある(藤井はその後党税制調査会長、財務大臣にまで就任している)。
なお、国政から地方もしくはその逆で首長、議員に転身する場合は引退とは言わない。また、選挙で落選しただけで次回選挙へ立候補意欲がある人物の場合、資金管理団体が存続する場合も引退とは呼ばない。山崎拓や深谷隆司は落選の3年後の2012年に引退を表明したが、これは「復帰を目指して立候補する意欲がなくなった」ことによる引退表明である。
政治家が引退する理由には高齢により後進に道を譲るものが多いが、自らの不祥事を認めた場合(例:堀江メール問題における永田寿康)や自分が所属する党や派閥に対して不満があったり、意見が食い違ったりした場合に責任を取って引退する議員もいる(例:「郵政解散」での中村正三郎)。また、極稀なケースとして、近藤剛のように政治家以外の重要な役職に就任し、政治家との兼任が難しい場合(近藤の場合は日本道路公団総裁に就任するため、参議院議員を辞職)もある。竹中平蔵のように自分を政界に勧誘した人間(竹中の場合は小泉純一郎)の退陣に伴って議員を引退する例もあるが、この場合は「投票した選挙民への背信ではないか?」と批判されることもある。
ただし、引退後に長老、評論家、研究者などとして活動し、政界に一定の影響力を残すこともある(吉田茂、中曽根康弘など)。また、政党の中には引退した人物に後進の政治家の選挙活動の支援を依頼したり、政党内の政策研究組織への参加を許可しているケースもある。顧問・最高顧問などの肩書きを与える例も多い。
そのため、中曽根は定年制導入による衆議院選不出馬会見で「引退はしない」と公言しているが、これは「国会議員を引退しない」という意味ではなく、「国会議員引退後の政治活動は引退しない」あるいは「資金管理団体・近代政治研究会を解散しない」という意味である。また自民党の河本派では、派閥会長の河本敏夫が議員を引退した後も、後継難から河本が派を代表し続け、「旧河本派」と称していた。
また、日本共産党は、党の役職と国会議員であることが必ずしも両立しているわけではないので、野坂参三・宮本顕治・不破哲三の歴代党議長は、議員引退後もしばらくは党議長の役職に任ぜられていた。
アメリカ合衆国大統領の場合、大統領が議員を兼任できないこともあって、大統領退任は即政界引退となるのが一般的である。大統領退任後に返り咲いたのは19世紀のグローバー・クリーブランドが唯一の例であり、大統領選挙に出た大統領経験者もセオドア・ルーズベルト以来久しく絶えている。ジミー・カーターのように政界に顔を出し続ける例もあるが、大統領や議員に立候補するわけではなく長老・有識者としてのものである。
なお、以上に述べたのはアメリカ及び戦後の日本の政界の話であって、「第一線を退いた人物が功労経験を買われて就くポスト」が存在する場合には、そういうポストに就いた人間にとっては、たとえ政党や議会の第一線を退いたとしても引退という言葉は成り立ちにくい(例として戦前の日本の元老・重臣・枢密顧問官、イタリアの大統領経験者の終身上院議員、1980年代の中国の中央顧問委員会など)。日本では若槻礼次郎は、第2次若槻内閣が崩壊し民政党の党首を退いた時点で今なら政界引退であるが、実際にはその後も終戦まで重臣として政治に関わり続けた。幣原喜重郎のように、第2次若槻内閣の総辞職で外相の地位を退いて以来10年以上、貴族院議員を唯一のポストとして引退同然の生活を送っていた人間が、終戦直後の人材難で突如復活して首相となった例もある。中国では、かつての「八大元老」のように、ポスト上からは引退したはずの大物政治家がその個人的権威によって事実上政界を支配していたことがあった。
将棋界では、フリークラス規定の年齢・年数制限によるもの以外は強制的な引退はない(つまり順位戦の参加資格があれば、理論上は半永久的に現役を続けることが出来る)。そのため、フリークラスに編入されるかフリークラス宣言をした場合であって引退規定に該当するまでは、引退せずに何歳まで指しても規定上は何の問題もない(ただしフリークラスの定年を過ぎて順位戦を指している棋士はC級2組からの陥落が即引退となる)。ただ病没などを別とすれば、実際には棋力や体力の限界を悟ったり順位戦で降級になったりという状況になった時に引退となる場合が主である。一流棋士においては、順位戦のA級(名人戦挑戦者決定リーグ)もしくはB級1組から落ちたことがきっかけとなって、規定上まだ指せるにもかかわらず引退する例が多い。むろん規定上指せなくなるまで指す例もあり、丸田祐三の現役最年長記録77歳は「一流棋士が規定上指せなくなるまで指した結果」の記録である。一流棋士における他の引退例としては、木村義雄は二度目に名人を陥落した際に、まだ50歳にもなっていなかったにもかかわらず「良き後継者を得た」との名文句を残して引退表明し、二上達也は50代でB級1組在位中、しかも落ちそうになったわけでもないタイミングで引退表明をしている。特殊な例として、西本馨は四段昇段後に失明した影響で戦績がふるわなくなり、特例として記録係による棋譜の読み上げを要請したが却下され、それが一因となって引退に追い込まれた(失明前は好成績を収めていた)。
引退表明は順位戦で陥落が決まった時期にされることが多いが、それ以外の時期にされる場合もある。どちらにしても、その時点でトーナメント表に名前が載っている対局は全て消化するのが決まりで、消化しない場合には「不戦敗」の扱いとなる。よって、場合によってはその残りの対局で勝ち進んでしまい、米長邦雄のように引退表明後1年近くたってもまだ現役で指していたという例もある。いくら勝ってもいずれ引退には違いないのだが、将棋界では「勝っても負けても同じ、という対局でも全力を出す」というのが不文律となっている(いわゆる「米長哲学」)。以前は順位戦陥落での引退は年度末である3月31日付となっていたが、2010年にC級2組から陥落し年齢制限による引退が確定していた有吉道夫が引退確定前に対局が組まれていたNHK杯戦で予選を突破し新年度の本戦に出場することが決定したのをきっかけに、最終対局日付での引退に規定が変更された(なお、有吉の引退は5月24日までずれこみ、引退決定後の対局は6勝4敗であった)。
一方、成績が振るわず順位戦のC級2組から陥落し、フリークラスの状態のまま10年が経過すると、その棋士は強制的に引退となる。待遇上は強制的でなく引退した者と同じ「退役棋士」として扱われる。退役棋士は将棋連盟会員の身分を保持し、奨励会員の師匠となることも出来る。一方で奨励会を辞めた者は引退ではなく「退会」と呼ばれ区別されている。一旦奨励会を抜けて四段になった棋士が将棋連盟を辞める場合にも「退会」ということになるが、その例は非常に少ない(2010年1月1日現在、棋士番号制度以降の棋士277人中では永作芳也一人)。
なお引退した棋士や退会した奨励会員は、一定期間アマチュア棋戦に参戦することはできない規定となっている(ただし、一旦四段になって引退した棋士がアマチュア棋戦に参戦した例はたとえ一定期間経過後でも絶無である)。
日本の囲碁界の事情は将棋界に近いが、順位戦という制度が囲碁にはないため、一流棋士の退き際は完全に本人の価値観にゆだねられる。ゲームの性質上加齢によるマイナスが少ないこともあって、87歳で死ぬまで現役だった橋本宇太郎をはじめ(橋本は75歳で本因坊戦のリーグ入りを果たした)、坂田栄男、藤沢秀行、梶原武雄など70代になっても打ち続けた一流棋士は数多く存在する。2009年に引退した窪内秀知は当時89歳であった。また、2012年4月現在の現役最高齢棋士は1920年生まれの杉内雅男である。
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芸能界における引退は主に6つのパターンが存在する。それは、
の6つである。
1.の形をとるのは一時代を築いた人物やグループのみである。
1.2.3.の場合は、引退前にそれまでの歩みを振り返る特別番組が放送されることが多い。
引退を発表しても世間から余り注目されない多くの芸能人は6.の道を余儀なくされる。公式ファンクラブが存在するなど一定のファンがついている芸能人に関してはファンクラブ会報誌で引退を告知したりすることがある。最近ではインターネットが広く浸透していることにより、公式HPやブログで引退を告知するだけという場合もある。
1.のパターンの場合には、公式ファンクラブが存在する場合などに、引退の公式発表の数ヶ月前から関連グッズが在庫処分を目的とした投げ売り状態になるなど、何らかの予兆が見られる場合もある。引退した後年、スペシャル特番時期になると一時代のスターとしてメインで放送される場合があり、さらには写真集やCDとかで再発売されるケースがある。
2.や3.の形で引退した場合は、正式引退した数年後にスペシャル特番などでなつかしの人物として現在の姿が取り上げられ、本人がテレビ出演することもある。また、他方面で活躍している場合は現役当時の姿や現在の姿がCMで採用されることがある。
4.や6.の形を取る場合は芸能界引退を正式に公表していない場合でも、マスコミからは雑誌などで芸能界引退扱いしてしまう場合がある。
5.の形を取る場合は、所属事務所からの一方的な発表がされるにとどまり、不祥事を起こした本人自らのコメントが聞けない場合も多い。一部のメンバーの不祥事・逮捕に伴うグループ解散の場合は、他のメンバーがコメントを出す場合がある。また島田紳助のように引退前の人気が高かった場合は、2.に準じて大きく報じられる場合もある。
芸能界を引退後、復帰するパターンは多い。1.の場合グループ解散後に単独や別グループで活動を再開する(前述するキャンディーズは3人とも復帰している)、2.3.の場合病気の治癒や学業が一段落する(例・紺野あさ美)など引退理由の解消により復帰する場合がある。4.の場合、それまでと異なる事務所に移籍して復帰する(例・鈴木亜美)、周囲の取り成しにより前所属事務所と和解して復帰する(例・大平サブロー)といった事例がある。なお、将来の復帰を前提とした活動休止は通常引退とされないが、復帰の意思が事前に公表されなかった場合は引退と報じられる場合もある。
1.2.3の場合は「芸能界を去った」と認知され、4.5.6の場合は、世間からは「芸能界から消えた」と認知され忘れられた状態となる。事務所との関係などによっては、事務所側が「最初からいなかった」扱いにすることもある(森且行など)。
また、本人が芸能活動をやめる前に死去した場合は“引退”とは表現しない。
作家、音楽家などの芸術家の場合も、死去するまで活動せずに生前に体力や創作意欲の衰えなどで引退することがある。指揮者のように単独では活動できない職業では、前記芸能界の場合のように人気が無くなっての引退もある。必ずしも全面的に活動をやめるわけでない場合もあり、指揮者ではカルロ・マリア・ジュリーニは引退表明後に学生オーケストラを指揮したことがあり、ブルーノ・ワルターは引退後にステレオ録音が登場したため、スタジオでの録音活動を再開している。ラファエル・クーベリックのように引退後に現役復帰した例もある(「体調不良及び作曲活動のため」として引退したが、祖国チェコスロバキアで社会主義政権が崩壊するという予想外の事態になり、現役復帰してチェコ・フィルハーモニーとの活動を再開した)。1969年に引退表明した作家の海音寺潮五郎の場合は新聞・雑誌の連載ものからの引退表明で、余命を考えて(8年後に死去)仕事を絞る意味からの引退であった。また、音楽家ではグレン・グールドのように「コンサートのみ引退、レコーディング活動は継続」という例もある。
なお、個人で活動できる芸術家の場合、上記のスポーツ関係者や芸能人と異なって不祥事が引退につながらないこともある。陶芸家の加藤唐九郎は「自分で焼いた壺を永仁年間のものとして重要文化財指定まで受けた」という永仁の壺事件を起こしたが、陶芸家を引退させられるようなことはなく、かえって「重要文化財を焼ける男」として名声が高まった。
サッカー、ラグビーなどの団体競技ではナショナルチームへ今後参加しない意思を表明する「代表引退」が存在する。この場合、クラブチームでの活動は継続される。あくまでも選手が公に意思表示をするだけのものであるため、代表引退後の代表再復帰に関しては特に制約はない。個人競技においても「国際大会からの引退」など、特定の活動からのみ退く引退も存在する。たとえばマラソン選手が「引退」を表明しても、市民ランナーとして走り続けることまでは否定しない例が多い。宗猛は第一線を退いていた時期にアジア大会代表選考レースで代表クラスの成績をあげてしまい、「代表に選ばれても辞退する」と表明したことがある。
鉄道路線や、鉄道車両、名称がある列車が廃止される場合も引退と言われることがよくある(路線の場合は廃止・廃線のほうが一般的である。)。また、飛行機や船の場合も同様である。これらに関してはさよなら運転も参照の事。
ゲーム(オンラインゲーム、アーケードゲーム、パチンコ等)のプレイを止めることも、スラングで「引退する」と言い、オンラインゲームでの場合はゲーム内で引退式を開く者もいる。しかし、そのゲームが存続している限り自分の意思で復帰は自由であり、(極端に言えば引退式を行った翌日に)ゲームに戻ってくる者もいる。ただし、ゲーム自体が廃止になり最終日にプレイをしていて終了を見届けて止めたとしても引退とは言わない。
また、長年親しまれた、愛着のあった道具や機械が新型と入れ替わる場合も引退と言うことがある。
「引退」という言葉を直接用いず、その分野にまつわる道具・器具・場所などを用いた慣用句で置き換えて表現する場合がある。
例を挙げると、「マウンドを去る」(プロ野球投手)、「バットを置く」(プロ野球野手)、「土俵を去る」(大相撲)、「グローブを吊るす」(プロボクシング)、「スパイクを脱ぐ」(サッカー選手)、「永田町を去る」(国会議員)、「バッジを外す」(国会議員、弁護士、アメリカの警察官)、「白衣を脱ぐ」(医師、看護師)、「霞ヶ関を去る」(本省・本庁勤務の国家公務員)、「兜町を去る」「北浜を去る」(証券取引所関係者)、「マイクを置く」(歌手、アナウンサー)、「筆を折る」(書道家、画家)、「ペンを折る」(小説家、漫画家、記者)、「文壇を去る」(小説家)、「教壇を去る」(教授、教師)、「火が消える」(鉄溶鉱炉、窯、火力発電所)など。
また、警察・自衛隊・鉄道など制服を着用する数多くの職業や野球・サッカーなどユニフォームを着用する数多くのスポーツで、「制服を脱ぐ」「ユニフォームを脱ぐ」という表現が引退・退職の慣用句として用いられている。
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