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価値(かち、value)とは、或るものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質[1]、あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。
殆どの場合、物事の持つ、目的の実現に役に立つ性質、もしくは重要な性質や程度を指す。何に価値があり、何には価値がない、とするひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う。[2]
倫理、哲学及び刑法学においては「価値」は「良いという性質」のこと。逆に、「悪いという性質」は「反価値」(刑法学の用語では一般に「無価値」)という。広義には、両者を併せて「価値」と呼ぶ。最も重要な用法は新カント学派(西南ドイツ学派など)によるもので、自然界と英知界の二元論的世界観のうち後者に重きを置き、価値が判断の際の必須条件であると考える。
現在経済学では商品市場で取引される価値(交換価値)を2つの面からとらえて研究がすすめられている。欲求の充足という消費面からのアプローチが効用価値説で、主に近代経済学で研究が進んでいる。もう一つが生産面からアプローチした労働価値説で、主にマルクス経済学で研究が進んでいる。この2つの価値説はアプローチが違うだけで、同じ経済学的価値(交換価値)を2つの側面からとらえたものである。
マルクス経済学における価値 (value) とは、資本主義的生産様式が支配している社会において商品に添加された価値のことである。マルクスによれば、商品は二つの価値、消費することによって人間の欲求を満たす(肉体的であれ精神的であれ)という意味での使用価値 (use-value)、他の商品と交換可能であるという意味での、交換可能な他の商品との量的比率で表される交換価値 (exchange-value) をもつ。なお、貨幣 (money) の一定量として表現された交換価値が価格 (price) である(貨幣については後述する)。この交換価値または価格の本質が、価値である。
商品生産社会においては、(存在する場合には貨幣を媒介として)二つの商品が交換される際には、等価交換が原則となる。すなわち、人々は交換される二つの商品が等しい価値となるよう意識し、これが商品交換を規制する。したがって、価値とは商品生産社会に必然的に発生する社会的観念である。
では、二商品が等価であるとは何を基準として測られるのか。言い換えれば、価値の実体は何か。それは商品の生産に費やした労働の量、しかも、使用価値を生産するための労働の具体性を捨象した、単なる人間の労働力の支出としての抽象的人間労働の量である。この量は客観的に、その商品を生産するのに社会的平均的に必要な労働時間によって測られる。マルクス経済学は、商品の価値は、商品生産に投下された労働量によって客観的に決まるとする労働価値説をアダム・スミス、リカードから継承している。
商品の価値は、物としての商品に予め備わる属性ではない。物としての商品に価値が予め備わっているという考えが、マルクスが批判した商品の物神性である。マルクス経済学で扱う価値とは、物が商品として社会的に取り扱われたときに、社会から受け取る属性である。たとえばここに味噌があり、これが商品として300円で販売され、売れれば、それは300円分の交換価値をもつ商品であると証明される。しかし同じ味噌が自家生産されて自分の家の食卓に消費対象として並んでいれば、本人の自己満足としての使用価値しか生ぜず、それは商品でもなく、従って経済的価値(交換価値)をもたない。
また、マルクス経済学では、価値=貨幣ではない。発展した商品生産社会では、すべての商品の価値は貨幣の一定量によって表現されるが、このことは価値=貨幣を意味しない。たしかに、貨幣はいかなる商品とも交換可能であり、すべての商品の価値を表現できる一般的等価物である。ここから、貨幣そのものが価値である、とする観念が生まれる(貨幣の物神性)。
マルクスによる貨幣の説明はこうである。どの商品も、自分の価値を単独で表現することはできず、等価関係におかれた他の商品の使用価値量でしか表現できない。ある商品の使用価値量でもって、他のすべての商品の価値を表現するとき、この特殊な役割の商品が貨幣となり、貨幣の役割をする商品には、他のすべての商品との交換可能性が与えられる。したがって、貨幣とは、社会の諸商品の価値を統一的に表現するために、ある商品に与えられた一般的等価物としての役割である。歴史的には、金 (gold) が貨幣の役割を担ってきた。貨幣に一般的等価物の役割を与えて、貨幣の使用価値量(金ならばその重量)でもって、他のすべての商品の価値を表現させ、価格表現を可能にさせるのは、商品生産社会である。したがって貨幣も社会的産物である。
このようにマルクス経済学における商品の価値とは、商品生産社会で必然的に発生する社会的観念である。等価交換の基準となる価値という社会的観念の存在は、商品の生産に必要な労働量によって、商品の交換価値または価格の変動が規制されることを意味する。これが価値法則である。貨幣商品の使用価値の一定量として、商品の価格として表現されるところの価値、直接には目に見えず価格として現象しながらも、価格の変動を規制する法則としての価値、これがマルクス経済学における価値である。
このようにマルクス経済学では近代経済学と違い、価値と価格を厳密に区別し、価値から貨幣と価格を説明する。
近代経済学では、価値の根源を人間の欲求・欲望(マルクス経済学でいうところの使用価値の源泉)に求める。欲求は主観的なものであり、異なる個人間での比較のための絶対的尺度とはなり得ない。交換が行われるのは、相互の欲求に差異があるからであり、交換により双方が利益を得て(消費者余剰、生産者余剰)、パレート効率を達成する。近代経済学では効用価値説を採用して、価値を商品固有の属性とは見なさないため、価値という用語の代わりに効用(こうよう)を用いる。効用は個人に特有で主観的なものであり、異なる個人の効用を比較することさえできない。そして、取引成立のための最終交換単位による効用の増加分(Marginal utility 限界効用)が価値(価格)決定に大きな役割を果たすことを明らかにし、古典派経済学で言う使用価値と交換価値とを、全部効用と限界効用によって消費面から統一的に説明した。
水は有用だが通常は安価であり、宝石はさほど有用とはいえないが、非常に高価である。これは「価値のパラドックス」と呼ばれ、これを説明することは、初期の経済学の難問であった。これを解決するため、交換価値と使用価値をはっきり区別し、直接の関連を否定して考えるようになった。すなわち、水は使用価値は高いが、交換価値は低い。また、宝石は使用価値は低いが、交換価値は高い。古典派経済学では価値の大小の理由として、希少性(使いたい量に比べて使える量の少ないこと)が考えられた。近代経済学(限界効用学派)では、全部効用と限界効用の区別により二者を消費面から統一的に説明することでこの問題を解決した。マルクス経済学では、商品としての水(たとえばボトルウォーター)および宝石に費やされた労働量を比較して、「ペットボトルの水の原料は、どこでも手に入るし製品化するのにさして労働力も必要としないため、価格は低い。」「宝石は原料が希少で、原料の探査・採掘に膨大な労働力がかかり、しかも研磨して加工し、商品にするためにも密度の高い労働力を必要とするから価格が高い。」と投下された抽象的人間労働の大小で価値の大小を説明し、生産面からこの問題を解決した。なお商品化されていない天然の水は価格をもたない。
水の価格(交換価値)は、砂漠などでは非常に高価となる場合もあるが、通常は安価である。その理由は、水がすでに豊富である(希少性に乏しい)場合には、水の追加1単位の価値(限界価値すなわち消費者の追加欲求)が低いことによる。(消費面からの説明)
水の価格(交換価値)は、砂漠などでは非常に高価となる場合もあるが、通常は安価である。その理由は、水がすでに豊富である場合には、水が消費されるまでに費やされる労働力は最小で済むことによる。(遠くの井戸から汲んでこなくても済む。)(生産面からの説明)
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