出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2013/06/27 21:52:47」(JST)
橋本 宗吉(はしもと そうきち、宝暦13年(1763年) - 天保7年5月1日(1836年6月14日))は日本の蘭方医、蘭学者。初名は直政、のちに鄭。字は伯敏。号は曇斎。門弟に中天游、伏屋素狄、各務文献、斎藤方策、大矢尚斎、藤田顕藏、中川元吾、中川量平。交友に大高元恭。
目次
|
阿波に生まれる(一説には大坂の生まれ)。大坂で傘職人をしていたが、京都の蘭方医小石元俊と天文学者間重富に才能を見出され、ふたりの紹介と経済的支援を得て27歳で江戸に遊学する。江戸滞在はわずかな期間であったが、大槻玄沢の芝蘭堂に学び、わずか4ヶ月で4万語のオランダ語を習得したといわれ、玄沢四天王(芝蘭堂四天王)に数えられたという。
大坂へ戻ると小石らのため蘭書を翻訳し、医院と学塾を兼ねた私塾である絲漢堂を開き診療と教育活動に務める。また、エレキテルの研究も行っている。文政10年(1827年)大塩平八郎による大坂切支丹一件が発生すると弟子の藤田顕藏が逮捕されたため、宗吉も過酷な取調べを受けることになり、絲漢堂も閉鎖に追い込まれた。その後、無実が証明され釈放されたが、シーボルト事件の影響で蘭学者への風当たりが強まると宗吉は一時広島県竹原に隠棲した。後に帰阪し私塾を再開する。天保3年(1832年)天保の大飢饉が発生すると事態打開を図り奔走するがその最中、病の床に就く。一時は回復をみせるも天保6年(1835年)3月26日、看病を続けてくれた1番弟子中天游が突如この世を去り、自身も天保7年(1836年)5月1日死去。享年74。
大阪市天王寺区上本町の念仏寺に墓が再建され置かれている。
西洋医学翻訳書『解体新書』を刊行した江戸の杉田玄白らと交友し、小石元俊とともに東西の蘭学を結ぶ人物と位置づけられ、大坂蘭学の基礎を築いた人物と評されている。
全文を閲覧するには購読必要です。 To read the full text you will need to subscribe.
.