出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2015/11/24 13:08:25」(JST)
医科大学(いかだいがく)とは、医師養成課程を有し、医学に関する研究・教育・臨床を行なう大学のこと。
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当初の「医科大学」は、帝国大学の分科大学を指すものであった。この定義は、1886年(明治19年)の帝国大学令から1919年(大正8年)の大学令までの約30年間用いられた(この定義での略称は「帝国医科」)。大学ではない医師養成機関には、官立である旧制高等中学校の「医学部」と、各府県立である「医学校」があった。これは、近代西洋医学を教えられる人材の養成に時間を要したため、教育できるレベルによって名称にも違いがあったことによる。1901年(明治34年)4月、官立の「医学部」が揃って医学専門学校となり、その後、「医学校」の流れを汲む病院を母体にした医学専門学校も設置された。
大学令により、帝国大学のような総合大学では「医学部」と言い、医学部のみの単科大学の場合は「医科大学」と言うようになった(この定義での「医科大学」の略称は「医科大」「医大」など)。すなわち、近代西洋医学を教育できる人材の増加によって、教育レベルよりも大学の体で名称がつけられることになった。しかし、この段階でも、全国の医師需要を満足させられるほどの大学医学部・医科大学を用意することは出来なかったため、各地に医学専門学校や大学専門部としての医学専門部などが存在していた。
医学部・医科大学(校)は日本に現在80校あるが、62校が戦後に設立されたものであり、全体の77.5%を占める。戦後設立のこれらの大学も単科の医科大学として設置されたが、その後、総合大学に合併されるなどし、現在は、単科の医科大学より大学医学部の方が多い状況になっている。ただし、現在の「医科大学」は、医学部・歯学部・薬学部・看護学部などの医療従事者を養成する複数の学部のある大学の体をなす場合もあり、「医学部を含む医療系総合大学」が「医科大学」ということも出来る。なお、医学部を含まない医療従事者養成の大学に「医療大学」と称しているものがある。
他国における、一般の大学を卒業した後に入る専門職養成学校・プロフェッショナルスクールの体を成している学校の場合には、日本で「医学校」という名称で用いられることがある。これは、英語の school of medicine や medical school を直訳したものである(→医学部参照)。しかし、医師の養成課程は国によって大きく異なるため、日本語での呼称にはやや恣意性が見られる。
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1886年(明治19年)の帝国大学令から1919年(大正8年)の大学令までの間は、「医科大学」は帝国大学の分科大学を指すものであった。医学部・医科大学(校)は日本に現在80校あるが、この時期に医科大学となったのは以下の4校があり、全体の5.0%を占める。
明治期の高等中学校(後の旧制高等学校)の医学部や、独立の医学専門学校では、各地の西洋医学の歴史のもとで教育を受けた教授陣により中等教育から高等教育にあたる医学教育がなされていたが、1877年(明治10年)に(旧)東京大学が設立されると、最高学府、すなわち大学レベルでの医学教育が始まった。1886年(明治19年)の帝国大学令以降は、西洋学問享受の窓口である東京大学(→帝国大学→東京帝国大学)、または先行帝国大学で教育を受けた教授陣を中心に医学教育がなされる「医科大学」が、各帝国大学の分科大学として設置された。1919年(大正8年)4月1日施行の大学令で、分科大学としての「医科大学」は「医学部」と改称した。なお、医科大学設置の際は、前身の医学教育機関の建物や病院を流用する例も見られたが、前身の医学教育機関の教授陣は異動となった。
この時期に医科大学となったのは15校あり、うち13校が日本にある。医学部・医科大学(校)は日本に現在80校あるが、この時期に医科大学となった日本国内13校は、全体の16.25%を占める。
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1919年(大正8年)、大学令公布とともに帝国大学令も改正された。改正後は、帝国大学の医学教育機関は「医学部」と称された。以下は、単科大学としての医科大学を経ないで帝国大学の医学部となった事例である。なお、帝国大学以外で、終戦前に「医学部」と称したものに、大学令に基く慶應義塾大学医学部(1920年(大正9年)設置)と日本大学医学部(1943年(昭和18年)設置)がある。
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1918年(大正7年)、原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4450万円の莫大な追加予算を以って帝国議会に提出され可決された。その計画では1919年(大正8年)から6年計画で、官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。
1919年(大正8年)の大学令施行以後は、帝国大学以外にも法的に大学設置が可能になり、医学教育を行う単科大学を「医科大学」と称するようになった。専門学校令(明治36年勅令第61号)に基き、この時期までに設立されていた旧制医学専門学校の内、仙台医学専門学校は既に東北帝国大学に包摂されていたが、それ以外が順次医科大学となった。
大阪と愛知の両医科大学は、後に帝国大学医学部となった。
以下の私立3校は、「(私立医大)御三家」、あるいは、「私立旧制医科大学」と呼ばれることがある[1]。また、この3校に第二次世界大戦中に設立された日本大学医学部を含めた4校を「私立旧制医科大学」と呼ぶ例も見られる[2]。
以下の官立6校は「旧六医科大学」(略称:旧六)と呼ばれている[2]。現在の大学間の交流としては、教育研究などの機能強化を目的とする包括協定を結び設立された連携コンソーシアムがある[3]。
傷痍軍人の治療には軍医があたるが、陸軍軍医学校および海軍軍医学校を卒業した医師以外にも医科大学や医学専門学校を卒業した医師も公募であたった。1937年(昭和12年)に日中戦争、さらに1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が始まると傷痍軍人の治療需要が増大し、医師の臨時養成が始まった。1939年(昭和14年)には旧制中学校(現在の高校に相当する教育機関)から進学できる臨時附属医学専門部(附属医学専門部)が帝国大学と医科大学に設置され、その後は医学専門学校が多く設置された。結果、大学・医専・医学専門部合わせて年間1万人以上の卒業生がいた年もあった[4]。1944年(昭和19年)末からは日本本土空襲が本格化し、民間人の傷病も増加することになった。
医専や臨時医専が数多く設置される中、例外的に以下の大学に医学部が設置された。
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終戦時、国内には医科大学が18校、医学専門学校が臨時医専を含めて50校、合計して68校の医学教育機関が存在した。戦後は医師臨時養成の必要が無くなったため、高度な医学教育を行う大学に一本化されることになり、また、厚生省が「人口10万当たり医師100人」との目安を持っていたため、入学定員は全校で2,800名程度に絞り込まれることになった[4]。そのため、臨時医専は廃止され、第二次世界大戦中に新設された旧制医学専門学校は選別されていくつかが廃校となった。存続となった医専は学制改革期に旧制の大学令によって予科を伴って医科大学となった(以下の設置年は本科の開設年)。医学部・医科大学(校)は日本に現在80校あるが、この時期に医科大学となったのは28校あり、全体の35.0%を占める。
官立の旧制医学専門学校を元にこの時期に医科大学となった6校、および、公立の旧制医学専門学校を元に公立医科大学となった後、この時期に国立大学に移管された2校(広島・鹿児島)を合わせて「新八医科大学」(略称:新八)と呼ばれている[2][※ 1]。この時期に国立大学医学部となったこれら8校以外の医科大学20校は、後の新設医科大学に対して「旧設医科大学」と呼ばれることがある。
1949年(昭和24年)に新制大学移行が始まるが、医学系では「旧帝国大学」「旧六医科大学」などが先んじて新制に移行し、その後、「新八医科大学」や「旧設医科大学」が移行した。
なお、公立の名古屋女子医科大学(現名古屋市立大学医学部)および私立の東京女子医科大学、大阪女子医科大学(現関西医科大学)は、大学令によって初めて認可された女子大学でもある。戦中までは、一部の女子専門学校が「大学」の名称を使用していた例はあるものの、大学令に基づいて女子大学が設立されることはなかった。
以下の官立6校は「新八医科大学」に含まれる。東京都では、旧制大学が各々新制大学に移行することが多く、東京医科歯科大学と合流する旧制諸校は無かった(以下の1948年設置の旧制大学は学部のみの構成)。
学制改革期に国立移管した広島および鹿児島の2校が「新八医科大学」に含まれる。両者以外は「旧設公立医科大学」とも呼ばれている。
以下の大学は「旧設私立医科大学」とも呼ばれる。
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新設医科大学は、1970年代に新設された医学部または医科大学・大学校である。医学部・医科大学(校)は日本に現在80校あるが、新設医科大学は34校あり、全体の42.5%を占める。
戦後、厚生省の「人口10万当たり医師100人」との目安に沿った医師数とするため、各医学部・医科大学の定員合計は約2,800人とされ[4]、1955年(昭和30年)でも2,820人[5]であったが、1961年(昭和36年)の国民皆保険達成などで患者数が増加し[6]、また、無医村解消などの政策目標もあって1960年代初頭から医学部定員合計の増員議論が始まった[4]。結果、1969年(昭和44年)には医学部定員合計が4,040人にまで増員された[6]。
1970年(昭和45年)、医療行政を担う厚生省は大学を管轄する文部省に「1985年(昭和60年)までに人口10万人対医師数を150人程度とするために、医学部定員を6,000人程度とする」ようさらに依頼[5]。この数値を達成するには単純計算で60校程度あれば済むため、既存の46校に加えて15校程度新設すれば事足りる。1970年(昭和45年)に4校、1971年(昭和46年)に3校、1972年(昭和47年)に6校、1973年(昭和48年)に6校が設立されて計19校の新設医科大学が生まれると、厚生省が要求した医学部定員を超えた。1973年(昭和48年)、田中角榮内閣は「一県一医大構想」を提唱し、5校が新設された1974年(昭和49年)の翌1975年(昭和50年)からは医大が無い県(9県)および政令指定都市(北九州市[※ 2])にのみ設立が続き、今度は厚生省の計算で将来の医師過剰が予測される事態となった[5]。1979年(昭和54年)、返還間もない沖縄県に琉球大学医学部が設置されると、都道府県および政令指定都市の全てに医大が設置され、新設ラッシュは終了した[※ 3]。
厚生省の医師過剰の予測から、最後の新設医科大学である琉球大学医学部設置3年後の1982年(昭和57年)をピークに定員削減が始まった(昭和50年代末に人口10万人対医師数が目標の150人を超えた[7])。このとき新設医科大学の過剰設置が原因として新設医科大学の定員削減を大きくすることなく、ほぼ一律に各校の定員を削減した。近年、勤務医不足に伴う僻地の医師不足や診療科による医師の偏在などの問題が顕在化しているが、医学部の新設ではなく各校の定員増で対応している。
新設医科大学には前身の医学教育機関がないため、旧帝国大学・旧六医科大学・公私立旧制医科大学を中心とする他大学出身者が教授陣として赴任した。また、歴史が短いため、現在も自校出身の教授が少ない大学が多い。設置目的もあって、研究者志向よりも開業医志向の方が強いが、研究実績も上がっている。
なお、国立の新設医科大学の大学病院の病床数は本来800床との認識が国にはあったものの、大学病院600床、足りない分は関連病院で対応との方針になったため[8]、全17校中800床を実現出来たのは筑波大学附属病院のみで、他の16校は今でも600床から618床の範囲にある[9][※ 4]。一方、私立の新設医科大学の大学病院は、892床の金沢医科大学病院を例外として[※ 5]、その他は本院のみ、あるいは、本院・分院を合わせて1,000床を超える大病院(群)を擁する。
大学校は学校教育法に規定される大学ではないため、防衛医科大学校設置の際、同大学校卒業生に医師法に規定される医師国家試験の受験資格を与えるかどうかの議論が国会であったが、防衛庁設置法によって受験資格を与えることになった。このため、この記事では防衛医科大学校も医科大学と見なして記載した。
このうち自治医科大学と防衛医科大学校は、大学側が学費を負担する。防衛医科大学校は自衛隊医官、自治医科大学は僻地医療および地域医療の育成といずれも特定の職業に就く医師の養成を目的としているためである。学生は卒後に特定の分野への就職が義務付けられているため、それを拒否すると在学中にかかった費用を返還しなくてはならない。なお、その義務年限はいずれの大学でも9年間となっており、以降は自分の進みたい分野に進んでも学費を返還する必要はなくなる。
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