出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2016/04/10 14:47:16」(JST)
丹波 康頼(たんば の やすより、延喜12年(912年) - 長徳元年4月19日(995年5月21日))は平安時代の医家。官位は従五位上・医博士、丹波介、左衛門佐。
丹波国天田郡(現在の福知山市)若しくは桑田郡矢田(現在の亀岡市)の出身。康頼以前の系譜は明らかでないが、出自には2つの説がある。1つは、渡来系の流れを汲む坂上氏の一族とするもので、遠祖は後漢の霊帝と称する。各種系図ではこの説を採るものが多い[1]。『姓氏家系大辞典』でも出自を坂上氏の一族である丹波史[2]の子孫とする。もう1つの説では尾張氏の一族で丹波国造家の丹波直の子孫とする[3]。
永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上した。これは、唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したもので現存する日本最古の医学書である。こうした功績をもって朝廷より丹波宿禰姓を賜り[4]、以来医家として続く丹波氏の祖となる。
亀岡市下矢田町には、康頼が住み、薬草を育てたとの言い伝えがある「医王谷」などの地名が残されている。
子孫は代々典薬頭を世襲し侍医に任じられる者を輩出、その嫡流は室町時代に堂上家となり錦小路家を称した。子孫のうち著名な者としては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられる。
薬学者の丹波敬三、また医家ではないが直系であり、鎌倉にある丹波家、分家である俳優の丹波哲郎・義隆親子や作曲家の丹波明が末裔にあたる。
この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 |
.