出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2013/06/08 17:11:13」(JST)
「インド」のその他の用法については「インド (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
この項目にはインド系文字が含まれています。環境によっては、フォントをインストールしていても、母音記号の位置が乱れたり結合文字が分かれたりします(詳細)。 |
(国旗) | (国章) |
公用語 | ヒンディー語(連邦公用語) 英語(連邦準公用語) |
||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
首都 | ニューデリー[1] | ||||||||||||||||||||
最大の都市 | ムンバイ | ||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
独立 - 日付 |
イギリスより 1947年8月15日 |
||||||||||||||||||||
通貨 | ルピー(INR) | ||||||||||||||||||||
時間帯 | UTC (+5:30)(DST:なし) | ||||||||||||||||||||
ISO 3166-1 | IN / IND | ||||||||||||||||||||
ccTLD | .in | ||||||||||||||||||||
国際電話番号 | 91 |
インド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India)、通称インド(India)は、南アジアに位置し、インド亜大陸を占める連邦共和国で、イギリス連邦加盟国である。パキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。
目次
|
南アジア随一の面積と世界第2位の人口を持つ大国である。12億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。州境を越えるとまったく違う言語が話され、それぞれの文化芸術があるため欧米ではよく「インドは国と言うより大陸である」と表現される。連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21である。また、識字率は74.04%である。中央政府とは別に各州に政府があり大臣がいる。主な言語だけで15を超えるためインド政府が発行する紙幣には17の言語が印刷されている。ヒンドゥー教徒が最も多く、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度の影響は今でも残っており、複雑な身分制社会を形成している。1日2ドル未満で暮らす貧困人口は8億人を超えており[4]、極度の貧困に苦しむ人が多い国ではあるものの[5]、近年の経済発展のおかげで低所得者層の生活も以前よりは改善されつつあるとの見方もある[6]。 1947年のイギリスの植民地からの独立の際、それまでのインドは、インドとパキスタンに分裂した。その後、パキスタンの飛び地となっていた「東パキスタン」が1971年にバングラデシュとして独立している。国民総背番号制の為、貧困層は減ってきている。
インド憲法によれば正式名称はヒンディー語の भारत(ヘルプ / リンク) (ラテン文字転写: Bhārat, バーラト) であり、英語による国名は India (インディア)である。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य (ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya) 、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、憲法その他の法的根拠に基づくものではない。漢字表記は印度。印度の語は7世紀以降中国で使用が始まったもので、その以前は天竺、また身毒という表記もある。サンスクリット語の"Sindhu"を音写した「印度」の表記を提唱したのは三蔵玄奘という[7]。歴史的に哲学が盛んな国であり、多くの優れた哲学者を生んだ。そのため聖賢の国とも呼ばれている。
詳細は「インドの歴史」および「南アジア史」を参照
紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族等。ここでのアーリア人とは、現ヘラートを中心とするアレイヴァ(英語版)人のラテン語表記でアフガニスタン人の古称であり、アーリアン学説とは無関係である。)がパンジャーブ地方に移住(en:Indo-Aryan migration)。後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語:भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年頃に始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征(en:Iranian invasion of Indus Valley)で敗れ、パンジャブ・シンド・ガンダーラを失った。紀元前330年頃、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行なわれたヒュダスペス河畔の戦いでパウラヴァ族(英語版)が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット: पाटलिपुत्रः、現在のパトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年頃にディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。紀元前265年頃、カリンガ戦争でカリンガ国(現オリッサ州)を併合。この頃、初期仏教の根本分裂が起った。紀元前232年頃、アショーカ王が死去すると、マウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。
ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄(海のシルクロード)。3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原のカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。
これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。サンスクリット文学がさかんになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達し、仏教弾圧が行なわれたことによってグプタ朝は衰退し、550年頃に滅亡した。7世紀前半頃、玄奘三蔵がヴァルダナ朝を訪れ、ナーランダ大学で学び、657部の経典を中国(唐)へ持ち帰った。7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現バングラデシュ)が建設され、近隣諸国のパガン仏教寺院・アンコール仏教寺院・ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。
11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。
一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には北宋との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。
13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルタン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き北インドを支配した。バルバンの治世からモンゴル帝国の圧力が始まった。14世紀初頭にデリー・スルタン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。アラウッディーンの治世にはチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。デリー・スルタン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後ムスリム5王国(英語版)に分裂した)へと覇権が移った。
14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルタン朝から独立したヴィジャヤナガル朝が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王(位1509~1529)の統治のもと、王国は最盛期を迎えた。
しかし、1565年ターリコータの戦いでムスリム5王国(英語版)に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586~1614)の奮闘もむなしく、その没後王国は滅亡した。ムスリム5王国も、その後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。
16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝(ロディー朝)を倒して1526年ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。
だが、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法シャーリアに基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール(英語版)王国・メーワール(英語版)王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(後にマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国ビジャープル王国(1686年滅亡)・ゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。
しかし、アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策の反動で帝国は急激に衰退した。
1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪し、1509年にディーウ沖海戦(英語版)でオスマン帝国からディーウを占領し、1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年-1961年)を築いた。1623年のインドネシアで起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。そのような状況で、ムガル帝国が没落しイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。1757年のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた結果、イギリス東インド会社がベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権, Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化が進行した。1760年のヴァンデヴァッシュの戦い(英語版)でフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れ、翌1761年にパーニーパットの戦い(英語版)でマラーター同盟がドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北すると、イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争・マラーター戦争(英語版)・シク戦争(英語版))を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。
19世紀前半にはイギリスの対インド貿易は自由化されると同時に、産業革命の影響でイギリスから機械製綿織物がインドへ流入し、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、1824年の英蘭協約でイギリスがマラッカ海峡の制海権を確立すると、インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争が行われて三角貿易体制が形成された。近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた一方で、タタ財閥等が誕生するなどした。
インド大反乱(1857 - 1858)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法(英語版)を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世をビルマに追放してムガル帝国を滅亡(1858年)させた。
その後、旱魃によるオリッサ飢饉・ラージプーターナー飢饉・ビハール飢饉(英語版)・大飢饉(英語版)(イギリス統治期間のインド主要飢饉の時系列(英語版))が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。
インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。この時、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ(英語版)」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。
イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、かえって分割への憤りなどから反英機運が一層強まった。イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図って1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。
第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。
1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ(英語版))は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させ、1930年には塩の行進が行なわれた。ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも存在した。
1945年7月5日にイギリスで総選挙が行なわれアトリー内閣が誕生。戦後、インド国民軍の将兵を国王に対する反逆罪で裁判にかけたが、これが大きな反発を呼び各地で暴動が勃発した。1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺(Great Calcutta Killings)が起こった。この暴動を受けて、イギリス本国が第二次世界大戦により国力が低下していた為、アトリー内閣はインドをこれ以上植民地下に置くことはできないと判断し独立を容認することとなった。
初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはサルダール・V.J.パーテルが就任し、この新内閣が行政権を行使した。また、1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。こうして憲法施行とともに政治の大権は国民の側に移された。
独立当初はイギリス国王を君主に戴く英連邦王国(インド連邦)であったが、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。前日には、インドを東西から挟むパキスタンが誕生していた。
1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義『民族義勇団』(RSS)の活動家のナートゥーラーム・ゴードセー(英語版)によって、同じヒンドゥー教のマールワール(英語版)商人ビルラの邸で射殺された。
1948年9月13日、ポロ作戦(英語版)でインドがニザーム王国を併合。
政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、1950年1月26日に共和制に移行した。憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。独立後は他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、近年においても小学校さえ行けない子も多く貧富の差も激しい。
1954年、フランス領インド(英語版)が返還されポンディシェリ連邦直轄領となった。 1961年12月、インドのゴア軍事侵攻(英語版)が起き、領土は1961年12月19日にインドに併合された。1962年、中印国境紛争。
1966年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディーの国民会議派が政権を担った。東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、カシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)にはソ連とインドが共に東パキスタン(英語版)を支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立やニクソン大統領の中国訪問(1972年2月21日)へも大きな影響を与えた。1972年7月2日、シムラー協定(英語版)でバングラデシュ独立をパキスタンが承認。
1974年5月18日、コードネーム『Smiling Buddha』が成功し、世界で6番目の核保有国となった。
1976年11月2日、en:Forty-second Amendment of the Constitution of Indiaにおいてen:Preamble to the Constitution of Indiaに書かれた正式国名が「Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic」に修正され、社会主義共和国を標榜している[8]。
1984年6月3日にブルースター作戦、10月31日にインディラ・ガンディーが暗殺。
1983年7月23日、隣国スリランカで黒い7月(英語版)が発生、スリランカ内戦が勃発。1987年、インド平和維持軍(英語版) (IPKF、1987年 - 1990年) を派遣し、スリランカ内戦に介入。1991年5月21日、ラジーヴ・ガンディーがタミル・イーラム解放のトラの自爆テロで暗殺された。
後任のナラシンハ・ラーオ政権では、1991年7月24日から始まった経済自由化(英語版)によってIT分野で急成長を遂げた。 1992年12月6日、アヨーディヤーのバーブリー・マスジドでバーブリー・マスジド倒壊事件(英語版)が起こった。
1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策を掲げてアジア諸国との関係も重視。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任。
1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を突如実施。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功し、日米がインド・パキスタン両国に経済制裁を課した。 1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、アフガニスタンに潜伏するターリバーンへの対テロ戦争が優先される形で、インド・パキスタン両国への経済制裁が解除される。以後はITサービス業を中心に経済成長を続け、ロシア、ブラジル、中国とともにBRICsの一角として注目を集める存在となり、IT分野においてはその技術力が欠かせない存在となっている。中立非同盟とはいえ、アメリカ、イギリスとも友好な関係をとっている。一方で、中国、パキスタンとは、緊張関係にある。
2002年2月27日、ゴドラ列車襲撃事件(英語版)。グジャラート動乱(英語版)(2月 - 6月)。
2004年の下院選挙は、4月20日に第1回の投票が行われ、5月13日に開票された。2004年12月26日、スマトラ島沖地震では震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域で、死者12,407人・行方不明1万人以上という激甚災害が発生した。
2008年11月26日、デカン・ムジャヒディンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。
インド下院(定数545)の議員を選ぶ総選挙が2009年4月16日にはじまり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得、連立による過半数獲得を模索している。インド人民党 (BJP) は116議席を獲得した。
2010年8月、インド北部ジャム・カシミール州で洪水が起きた。州東部のレー町の当局者は、死者が165人に達したと発表した。一方、軍当局者は9日洪水の行方不明者は外国人も含めて500人に達したと発表した。
2012年、インド集団強姦事件が発生。この事件を受けて、性犯罪に関する刑法が厳罰化された[9]。
2013年5月25日、en:2013 Naxal attack in Darbha valley。
詳細は「インドの地理」を参照
インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7000kmの海岸線をもつ。多くの地域では雨期が存在し、三つの季節、夏、雨期、冬に分けられ、雨期を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インド・中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野がひろがり、南インドのほぼ全域はデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611m)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598m)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。
「インドの歴代首相」および「インドの政党」も参照
インドの政治の大要はインド憲法に規定されている。
国家元首は大統領。実権は無く、内閣の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。
副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。
行政府の長は首相で、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。 内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。
議会は、両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)とで構成される。
上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。 下院は、545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(イギリス系インド人:植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は、5回にわけて行われる。 選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。
独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。
詳細は「カシミール」、「アクサイチン」、「印パ戦争」、および「中印国境紛争」を参照
カシミール地方のインドとパキスタン・中国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール州となっている。
これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は中国との間で領土紛争があったが中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。
宗教の違いや国境紛争で伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪い。 ムンバイ同時多発テロ以降、関係は悪化していたが、2011年には二国間貿易の規制緩和やインドからパキスタンへの石油製品輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。 2012年9月8日、イスラマバードで会談をして、ビザ発給条件の緩和について合意した他、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた[10]。
国境紛争を行った中華人民共和国とも関係は悪い。
詳細は「日印関係」を参照
近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みた者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。
第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでよく知られている。
1948年、東京裁判(極東国際軍事裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 - 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結された。インドは比較的親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものである。[11]
2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。
日本政府は「価値観外交」を進め2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結された[12]。
日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣(8月18日~26日の東南アジア訪問の一貫)、2005年に小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣(ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーとコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。
広島の原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したほどで、インドは極めて親日的な国家である。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ない。
2012年4月に日印国交樹立60周年を迎える。現在、日本とインドで様々な記念行事の実施が予定されている。[13]
詳細は「インド軍」を参照
インドの政治を軍事の面から見てみると、インドの軍事制度は非常に安定している。特に、シビリアン・コントロールがアジアでも有数と言えるほどに徹底されている。
この節には出典を明記した加筆が望まれています。 |
詳細は「インドの地方行政区画」を参照
インドは28の州と6つの連邦直轄領と、デリー首都圏 (National capital territory of Delhi) から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール州はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール州の一部とアルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交・国際政治の場で激しく争われている。
詳細は「インドの都市圏人口の順位」を参照
詳細は「インドの都市の一覧」を参照
都市 | 行政区分 | 人口 | 都市 | 行政区分 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ムンバイ | マハーラーシュトラ州 | 13,662,885 | 11 | ジャイプル | ラージャスターン州 | 2,997,114 |
2 | デリー | デリー | 11,954,217 | 11 | ラクナウ | ウッタル・プラデーシュ州 | 2,621,063 |
3 | バンガロール | カルナータカ州 | 5,180,533 | 12 | ナーグプル | マハーラーシュトラ州 | 2,359,331 |
4 | コルカタ | 西ベンガル州 | 5,021,458 | 14 | インドール | マディヤ・プラデーシュ州 | 1,768,303 |
5 | チェンナイ | タミル・ナードゥ州 | 4,562,843 | 15 | パトナ | ビハール州 | 1,753,543 |
6 | ハイデラバード | アーンドラ・プラデーシュ州 | 3,980,938 | 16 | ボーパール | マディヤ・プラデーシュ州 | 1,742,375 |
7 | アフマダーバード | グジャラート州 | 3,867,336 | 17 | ターネー | マハーラーシュトラ州 | 1,673,465 |
8 | プネー | マハーラーシュトラ州 | 3,230,322 | 18 | ルディヤーナー | パンジャーブ州 | 1,662,325 |
9 | スーラト | グジャラート州 | 3,124,249 | 19 | アーグラ | ウッタル・プラデーシュ州 | 1,590,073 |
10 | カーンプル | ウッタル・プラデーシュ州 | 3,067,663 | 20 | ヴァドーダラー | グジャラート州 | 1,487,956 |
1991年・2001年実施の国勢調査データを元にした2008年時点の推定予測値[14] |
詳細は「インドの経済」を参照
IMFによると、2011年のインドのGDPは1兆6761億ドル(約135兆円)であり、世界第11位である[15]。一方、一人当たりのGDPは1389ドルであり、最貧国ではないものの世界平均の15%に満たない水準である。アジア開発銀行によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民のおよそ70%にあたる約8億1000万人であり、世界最大の貧困人口を抱える[4]。国際連合開発計画が発表した2011年版の人間開発報告書によると、寿命、教育、生活水準などを総合評価したHDIは世界的に下位であり、イラクやカンボジアとほぼ同水準である[16]。
独立以降、重工業の育成を図り、国内産業保護を政策としていた。冷戦が終わり、1991年に通貨危機をきっかけとしてインド型社会主義の実験を終え、経済自由化に政策を転換した。外資の導入、財政出動などにより、経済は成長を遂げた。[17]。外貨解放政策の進展で、自動車や通信、ITなどに始まった外国系企業の投資は、半導体や鉄鋼業にも広がってきており、今後は小売りや金融などの分野に進むと予想されている[18]。2001年にはゴールドマン・サックスがレポートで、中国やロシアとともにBRICsと呼び成長を続ける新興国として注目されるようになる。2007年には同じくゴールドマン・サックスが「インド経済が今世紀半ばに米国を追い抜き、中国に次ぐ世界2位の経済大国に成長する」とのレポートを出した[19]。しかし、2008年には世界的な経済減速に加え、政府が経済政策に手をこまねいていた(政府債務の増加、進まない経済特区、過度の補助金による市場の歪みと生産性の低さ)ために、経済成長の減速と外資の流出を招いた[20]。
産業構造は、農業、サービス業の比率が高いが、農業が減少しサービス業が伸長する傾向にある。
貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易がGDPに与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が宝石や医薬品、輸入は宝飾製品や原油など。
ルピー (Rs, Rupee) とパイサ(Paisa、複数形はPaise)。1ルピーは100パイサ。25パイサ未満の通貨はほとんど出回っていない。 1万円は約5500ルピー(2009年2月現在)[21]。
生産量は多いものの、インフラの未整備や中間搾取などがネックとなっている。食料自給率は100%を超えている。また、生産物のうち約30%は廃棄されてしまうという[22]。
こうした中、政府は農業政策として法律の改正や商品取引所の整備、大規模な予算措置をとるなど、農業改革に乗り出している[22]。
1960年代から穀物の増産に成功し、緑の革命と呼ばれる。
製造業は、他の産業に比べ立ち後れていたが、政府の後押しもあり成長を始めた[23]。
また、同業種の工場が集まってクラスターを作る動きもある。津田義和教授(立教大学)の提案を元に生まれたクラスターは、品質管理、生産性の向上に一役買っているという[24]。
ただし、成長を続けるインドの製造業だが、課題も多い(#課題を参照)。また、品質についても先進諸国に比べるとまだ高いとは言い難いところがあり、「インド品質」とも呼ばれている。機能は問題が無くても、見た目や細かい部分でまだ品質に劣る。これは原材料の質に加えて、労働者の意識が品質について十分ではないことが要因としてあげられる[25]。
ヒンドゥスタン・モーターズやタタ・モーターズ、マヒンドラなどの地場資本の自動車メーカーの他、スズキやルノー、三菱自動車などが1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2010年には200万台規模へと急速に拡大する見通しで、原油高の流れにも乗って小型車輸出も順調に拡大している。業界第2位のタタが2008年に30万円程度の超低価格車を生産すると発表したことは、インドの技術力の一定の進歩と低廉な労働市場を世界へ改めて認識させる結果となった[26]。
インドというとITが有名だが、バイオテクノロジーの分野にも力を入れている。1986年にはバイオテクノロジー庁が設立された。
詳細は「:en:Energy policy of India」、「ONGC」、「アッサム州」、「グジャラート州」、「マハーラーシュトラ州」、「アーンドラ・プラデーシュ州」、および「タミル・ナードゥ州」を参照
1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[27]。
当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティング等の高度なサービス提供によって差別化を図っている[27]。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている[27]。
こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、またカースト制度に由来したエリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[27]。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25%という高い利益率となっていることを述べた上で、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[27]。
規模は2000年代半ばで3000億ドル超となっており、2017年には1兆ドルに迫ることが予想される[28]。外国企業も進出を行っているが、出店に対しては政府による法規制が行われている。背景には、多数の零細個人商店、行商人が職を失うのではないかという問題がある。これら既存の小売業者は、大規模スーパーをインドへ進出させようとしている外国企業(カルフールやウォルマートなど)に対し抗議運動を活発化させている[28]。
大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。
インド国内にはこのようなパラボラアンテナを備えた施設が国全体を取り囲むように州ごとに存在し、周辺地域へは光ケーブルを用いてサービスされている。しかし、建設工事の近代化は遅れており、STPI (Software Technology Parks of India) から周辺に敷設中の光ファイバーの工事現場では、建設重機が見当たらず、殆どが手掘りであった(2002年2月現在)。
17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。
イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社がもっていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治をあたえるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。
しかし非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。
第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。
インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、61年にはすでに10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していた、と記録に残っている。彼らの多くは英国にすでに移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスターそしてレスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。
インドは歴史的に反英感情が強いものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。
冷戦期の反米親ソ路線とは裏腹に、現在では経済交流を初めとして親米化し友好関係が深まってきている。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。
また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショア)。
一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが[誰によって?]、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。
英語の運用能力が高く人件費も低廉な為、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は区別し難いため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。
アメリカとの時差は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝。そのためにアメリカで発注かけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もあるとのこと。この言語と時差の特性を利用し、インドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。
ちなみにアメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフトの従業員の34%、IBMの従業員の28%、インテルの17%、ゼロックスの13%がインド系アメリカ人であり、インド系アメリカ人は100万~200万人台いると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。
またインド人学生はアメリカに留学する割合が高く、アメリカの留学生ランキングでは1位の韓国人学生に次いでインド人学生は多い。
また後述するようにアメリカ国内ではインド人に対する嫌がらせは基本的に見られず、強いて言うならばアメリカ同時多発テロの時にアラブ系と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。
南インドのオーストラリア総領事でインドはオーストラリアにとっての重要な輸出市場でオーストラリアは、市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、さまざまな分野にわたって提供しているという。インド工業連盟 (CII) は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源開発、鉱業、エネルギー、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画、メディア、エンターテインメント、小売り、金融、と活用されている分野を挙げた。
オーストラリアは移民政策としてアジア人を受け入れており、特にインド人は英語が話せるために多くが留学また移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民して、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行く事を選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウエア会社の存在なしには成り立たなくなっていた。
しかし移民政策の結果としてインド系移民が増えるにつれ、行き過ぎた多文化主義の反動として白豪主義が再燃し、オーストラリアの白人がインド人学生を狙う「カレー・バッシング」という暴力事件が起こり、オーストラリアでインド人留学生が暴行される事件が相次いで問題になっている。インド人留学生が襲われる犯罪は近年多発していている。また職種によってはインド人が独占する職場も見受けられるようになり、国内での新聞でも「カレー臭い」「シャワーを浴びろ」などインド人を差別する表現も目立つようになった。そのためかインド国内でもオーストラリア国内でもインド人差別に抗議するデモが発生している。
相次ぐインド人襲撃を受けて、ボリウッドの大物俳優アミターブ・バッチャンは、クイーンズランド大学から授与されるはずだった名誉博士号を辞退したほか、ブリスベンで行われる映画祭への出席も見合わせた。ケビン・ラッド首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。
ともにアジアの地域新興大国、そしてBRICsの一角として、インドと中華人民共和国は様々な面で比較されることが多い。しかし国境問題等もあって両国とも相手国への好感が低く、関係は悪い。
産業構造では、中華人民共和国は単純製造業の比率が高く、これが成長を牽引したといわれており、インドは製造業の比率が低いことがマイナス要因となっていた。両国ともに製造業は労働集約型である。しかし中華人民共和国は設計、開発が国外で行われた組み立て型が中心であるのに対し、インドは自国で設計、開発を行う知識集約型が主力商品に含まれている。また、中国よりもインドのIT関連技術者の英語能力の方が高く、同一のIT知識を有している技術者でも、アメリカをはじめとする先進諸国のIT産業の下請けとしては、インド人の英語能力に優位性が認められ、高く評価されている。またインド人自らもこれを自負している。
ともに移民(印僑、華僑)が多く、移民先で経済的成功を収め大きな影響力を発揮することが多い。ただし印僑は華僑に比べると他国での成功は劣っており、シンガポールとマレーシアでは華僑のほうが圧倒的に経済力が強い。またインドは中国よりも海外からの投資、外国人観光客数、経済成長率、都市整備がかなり劣っている。
インドと中国は両者共々古い文明を持つが、訪問外国人数ではインドは500万人に対し、中国は5000万人という差がある。
ともに冷戦期は東側に近く、社会主義計画経済政策をとっていた点は共通していて、これは上記の移民の原因の一つとなった。現在は市場経済を導入しているにもかかわらず、「社会主義の国」と今も憲法で謳っている点も同じである。インドは同じく非同盟国のキューバと同様、ソ連と友好協力条約を結び、ソ連製の装備が60%以上ものシェアを持ち、コルカタ、ヴィジャヤワーダ、ニューデリーにレーニン像が建っているくらい極めて親密であった。
ただし建国以来、一貫して共産党の一党独裁体制の続く中華人民共和国に対して、インドは多党制で形の上では普通選挙が行われている。
両国間のかつての貿易は並々ならぬものであった。例えば、タタ財閥(ジャムシェードジー・タタ)は清国との交易から始まった。
中華人民共和国が近い将来少子高齢化社会となるのに比べ、インドは少子化問題の懸念がずっと少ない。ただしインドは過剰な人口であるものの識字率は58.0%という低さであり、今でも増加している。そのため近年識字率90.9%の中国とはGDPで大きく差をつけられている。また、中印両国とも経済成長が著しく、G20のメンバーであり、G14に加盟する可能性がある。現在常任理事国である中国は日本の常任理事国入りは不支持であるのに対し、犬猿の仲とも言われるインドの常任理事国入りは支持している。インドにとって中国は最大の貿易パートナーであるため、貿易では非常に密接な関係である。
インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるために、医療関係でも英語圏との結び付きが強い。インドでは海外からの医療ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例55000人・成功率99.6%という実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安い事が魅力であり、医療費が高いアメリカとインドの手術費用を比較するとアメリカではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。 計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5%が先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師がアメリカやイギリス、カナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師と弁護士の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40%がインド人医師で占められ、アメリカに於いても10%を超える外科医がインド人医師である。
インドの経済については、以下の課題が指摘されている。
インフラ整備等(電力不足、湾港施設のお粗末さなど)の事業環境に、各都市間で格差がある。世界銀行のレポートによれば、首都であってもインフラ整備は十分ではないという。首都デリーを含むインド全土で毎日停電が頻発しているため大きな工場やオフィスは自家発電設備を備えている。また大都市近辺では車両の増加に道路整備が追いつかず、定常的に渋滞が発生している。
それに対して、行政府は外国企業の誘致をさらに進める意向であるとともに、事業環境が十分ではない状況を改善する意向を持っている。
2007年度予算案では、インフラ整備への予算配分を増加。投資額は前年度40%増の1兆3400億ルピーとなっている。また、経済成長持続に向けてさらなる投資が必要としている。「インドは今後5年間で道路や空港、港、鉄道などのインフラ整備に向けて14兆5000億ルピー規模の投資が必要としている」[29]
また、経済特区を設置し、障害が最小限のレベルですむようにすることによって、海外企業の工場進出を促した。2007年現在、約300の経済特区がある[23]。
インドでは、7億人が農業に従事しているため多くの土地が農地となっており、大規模な工場を建設する余地が乏しいという。そのため、各地で工場を建てたりなどで土地が必要な企業と、農地を奪われる形となる農民との間でデモや衝突が起こっている[30]。以下に一例を挙げる。
健康被害をもたらす大気中の微粒子状物質の濃度が首都ニューデリーで、400マイクログラムを記録している。インド最高裁が1998年、タクシーやバスの燃料をディーゼルから天然ガスに転換するよう命じた後、大気汚染は改善したが、その後の自家用車の普及で再び悪化の一途を辿っている。ニューデリーでは、視界不良で信号が見えず、交通事故が多発している[31]。アメリカのNPO、健康影響研究所によると、インドの大気汚染が原因とみられる年間死者数は2010年に67万7000人となり、2000年から6倍に増加した。死因別では高血圧、石炭や薪など固形燃料使用による屋内の空気汚染、喫煙、栄養不足に続く5番目だという。インド政府機関の科学環境センターは、大気汚染測定時の指標となる微小粒子状物質、PM10の測定値が国内の全都市の78%に当たる141都市で国の環境基準を上回っており、うち26都市は基準の3倍以上に達する「危機的状況」にあるとしている。政府機関のインド医療研究評議会幹部は、2011年の政府調査で67%の家庭が固形燃料を使用していると指摘。「屋内の空気汚染による死者数も年100万人を超えている恐れがある」と警告を発している[32]。
「インダス川」も参照
イギリス領だった影響から、左側通行である。
高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー・コルカタ・チェンナイ・ムンバイを結ぶ延長約5800kmの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7300kmの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、所々に料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十km郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。
詳細は「インドの鉄道」を参照
現在では鉄道が移動の主体となっている。貧富の差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う。例)ムンバイ、デリー間。飛行機の外国人料金: 6000ルピー。二等の寝台: 400ルピー。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。
かつて旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社が多数設立され、それに併せて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。
航空会社としては以下のものがある。
首都・ニューデリーにはインディラ・ガンディー国際空港がある。その他の空港についてはインドの空港の一覧を参照。
2007年の人口は1,131,043,000人。2011年の人口は12億1,000万人以上で人口増加率17.64%。 2013年、現在は12億3900万人。[33]インドの人口は1950年以降、毎年1,000万~1,500万人の勢いで増加し続け、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加し、2030年代に中華人民共和国を追い抜く可能性が高い。中華人民共和国が一人っ子政策を見直さない限り2030年代で人口が頭打ちになるのと比べ驚異的な伸びといえる。ただし2030年代以降は毎年500~700万人増と人口増加はやや鈍化する。とはいえ2050年には16億人に達し、その後も増加し続け、2100年には18.2億人近くになるというのが大方の専門家の見方だ。またインドは人口構成が若いのが特徴で、2000年の中位年齢は23歳、2050年でも38歳と言われている[誰によって?]。
年 | 人口(万人) | 増加率 (%) |
---|---|---|
1950 | 3億5756 | × |
1960 | 4億4234 | 2.2 |
1970 | 5億5491 | 2.3 |
1980 | 6億8885 | 2.2 |
1990 | 8億4641 | 2.1 |
2000 | 10億0169 | 1.9 |
2005 | 11億0337 | × |
2007 | 11億3104 | × |
2010 | 11億7380 | 1.4 |
2020 | 13億1221 | 1.1 |
2030 | 14億1657 | 0.8 |
2040 | 14億8571 | 0.5 |
2050 | 15億9000 | 0.3 |
2100 | 17億9000 | 0.3 |
インド全体の人口増加率は、1971年から2001年まで、2%台から1%台の1.97%に落ちた[34]。
パンジャーブ地方に暮らす一部の民族は、起源をヨーロッパのロマ(ジプシー)と同じにする。そのほか、民族によって服装や生活様式の違いがはっきりと分かれていることが多い。またロマは先住民のドラヴィダ人ではないかという説も浮上している。
現在のインド人は先住民のドラヴィダ人と中央アジア方面からやってきたアーリア人との混血であるといわれている。Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している。[35][36]。
ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。
印僑は華僑・ユダヤ人・アルメニア人に並ぶ世界四大移民集団で、海外で成功を収めている。大英帝国の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏に圧倒的に多いのが特徴である。
1500万人とも言われる[誰によって?]膨大な数の在外インド人(NRI=印僑)は世界中に移住しており、その中の一部はインドへの投資も積極的である。
詳細は「インドの言語」、「インドの公用語の一覧」、および「インドの言語の話者数一覧」を参照
インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40%を占める。方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。1991年の国勢調査によると、178,598人(調査対象者の0.021%)が英語を母語にしており、9000万人以上(同11%)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人留学生にとって、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が留学先として圧倒的に人気が高いのである。
インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、現実には15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。ただし英語離れとでも言うべき動きは進んでおり、すでにボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市さえも、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語は未だ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。この様に北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりと共に、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなった後も、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身に付けられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティー等を除けば)日常語として話している人はほとんど居らず、またその複雑さ故に同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進める上で、また実際に行政運営を行う上で言語は常に重要な位置を占めている。当初独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があった。その流れを受けて、独立後制定されたインド憲法[2]の第343条では、ヒンドゥスターニー語の流れを汲むヒンディー語が連邦公用語として規定されている。これに対しては憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府はおりにつけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。
それ以外にもインド憲法条文(第8付則[3]、および憲法修正第92法[4]を参照)には以下列挙する「22の言語」が明記されている。しかし、これら22言語(通称「第8付則言語」)は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。例えば、サンスクリット語やシンディー語などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州の公用語の一つであるミゾ語などは、この22言語の中に含まれていない。
各州及び連邦首都圏・連邦直轄領で公用語(第二公用語は除く)となっている言語は以下のとおり。 憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字で示してある。
連邦首都圏と連邦直轄領
詳細は「インドの宗教」を参照
多くの人はヒンドゥー教徒で、それにまつわる身分差別であるカースト制度の影響は今でも残っている。インド軍内においても出身地別の部隊であったり、士官学校にいけるカーストが限定されているなど軍隊組織にもカースト制度の名残がある。
イスラム教徒もインド国内に多数おり、その数ではインドは世界第3位のイスラム教国となり、(1位インドネシア、2位パキスタン)ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで、暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。
インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)[37][38][39]
ヒンドゥー教は最大の信徒数を誇る。そのため、牛や猿を神聖化[40]する習慣やカースト制度などインド社会への影響は大きい。また、聖なる川、ガンジス川で身を清め、来世の存在を信じている。イスラム原理主義やイスラム過激派・テロ、またイスラム国家のパキスタンとの対立に刺激されて、ヒンドゥー教原理主義が登場している。インドでのヒンドゥー教徒の割合は1961年に83.4%であったが2001年には80.5%である[41]
詳細は「トマス派」を参照
インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルの交易による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗した。
詳細は「インドの仏教」を参照
仏教発祥の地であるが、5世紀から12世紀の間に衰退、13世紀初頭のイスラム教徒によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃をうけ、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。一説では東南アジア、東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したことが理由としてあげられる。
カシミール州のラダック地方、ヒマーチャルプラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。
1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。現在は日本人僧の佐々井秀嶺がアンベードカルの正式な後継者と認められ、インド仏教運動を継続している。近年、ヒンドゥー教のカーストを嫌う不可触民や下層階級の人々がヒンドゥー教から仏教に改宗する動きがあり、実質、5千万とも1億ともいわれるが、不可触民に与えられる保障や優先枠のため、選挙などの機会に作られる住民登録では不可触民として登録してしまうので、国勢調査の数字には表れていないとされる。公式統計では仏教徒は人口の0.7%(約700万人)に達している。インドでの仏教徒の割合は1961年に0.7%であったが2001年には0.8%である[41]
日本人が持つインドのイメージは一般的には食料品のカレーの国であり、暑く、階層があり、男性はターバンを女性はサリーをまとった人々が住む国と感じている場合が多い。この理由はインドを単純に南北に分けた場合、首都ニューデリーやガンジス川を含む北インドの情報が多く南インドの情報が少ないことに帰因している。
詳細は「インド哲学」を参照
インドにおいて発達した思想は、法(धर्म ダルマ)・利(अर्थ アルタ)・愛(काम カーマ)の三つ、あるいはこれらに解脱(मोक्ष モークシャ)を加えた四つを主題として展開してきた。法は主にヴェーダに述べられる祭式とそれにまつわるバラモン等の四つのヴァルナの正しい生き方に関わり、利は主にクシャトリヤの国王を中心とした国家の正しい運営方法あるいはあり方に関わり、愛は格好よさ・夫婦の生活・性交・遊女など広く男女の間柄についてのあり方に関わっている。また解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。
詳細は「インド料理」を参照
詳細は「インドの教育」を参照
インドでは最近にかけて英語の授業が早く行われるようになった。インドの私立高校はすでに初等教育から英語で行われている。ニューデリーでは公立学校の初等教育で英語が行われている。インドは現地の言語と英語で行われている。小学校、中学校の授業料は無料、しかしインド全体での字が読めない人の割合は半分以上である。高等教育では2年制と4年制で分けられており、大学へ進学するためには、4年制で学ばなければいけない。 インドの学校は日本と同じ4月入学を採用している。
詳細は「インドの映画」を参照
インド国内では各地方の言語でそれぞれ独自に映画が制作されていることもあり、インドは世界で最も多くの年間映画制作本数をほこる国である。また同様に音楽も各言語ごとにアーティストがおり、独自のアルバムが制作される。それぞれの言語(州)ごとに音楽や映画の活動家が存在する。
特に北部を中心にインド全土で上映されるヒンディー語による娯楽映画は、その制作の中心地であるムンバイの旧名ボンベイとアメリカのハリウッドをもじって「ボリウッドフィルム」と呼ばれている。様々なタイプの映画があるが、多くはミュージカル要素を含んだ映画で、これらは日本で「マサラムービー」と呼ばれ親しまれている。インドだけではなく西アジア・アフリカ・東南アジア諸国で大変な人気があり、重要な輸出産業のひとつとなっている。欧米でもインド系住民が住む大都市部を中心に人気が広がっている。
おしん、七人の侍などの日本映画も知られている。日本テレビ系番組ウッチャンナンチャンのウリナリ!!にてインド映画を紹介したり、自ら主演する企画があった。この後日本でインド映画が上映されることが多くなったことがある。
詳細は「インドの世界遺産」を参照
インド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が21件、自然遺産が5件ある。
法律で決められ、全国一律に実施される祝日は下記3日。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月26日 | 共和国記念日 | Republic Day गणतंत्र दिवस | 1950年の憲法発布を祝う日 |
8月15日 | 独立記念日 | Independence Day स्वतंत्रता दिवस | 1947年にイギリスから独立した日 |
10月2日 | ガンディー生誕記念日 | Gandhi Jayanti गांधी जयंती |
他に各州によって祝祭日が設けられている場合があり、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の祭礼日がある。各企業では法律上の3日を含めて年間10日程度の休日を設けているが、どの日を休日にするかは一律でない。またヒンドゥー教に由来する祭日は太陽暦ではなく、インド特有の太陰太陽暦に基づいており、太陽暦上では2週間程度前後する。各地域で休日とされる日程のうち太陽暦に準拠する日は3回。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | New Year's Day | 日本と違って休みは1日のみ |
9月17日 | ヴィッシュヴァカルマ祭 | Vishvakarman Pooja विश्वकर्मा पूजा | 各地の工場で物造りの神ヴィシュヴァカルマンを讃える祭り。ヒンドゥー教で唯一太陽暦に準拠(アーンドラ・プラデーシュ州など一部地域のみ)。 |
12月25日 | クリスマス | Christmas | 全国的に休みとなる |
太陰太陽暦に基づく祝日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月 | ポンガル(タミル・ナードゥ州など南部)/マカラ・サンクラーンティ(主に北インド全般) | Pongal பொங்கல்/Makara Sankranti मकर संक्रांति | 冬至の時期に行われる収穫祭。 |
3月 | ホーリー | Holi होली | インド3大祭りに上げられる春祭り |
4月 | ラーマ降誕祭 | Ramnavmi रामनवमी | ラーマ神の誕生日を祝う |
7~8月 | ラクシャー・バンダン | Raksha Bandhan रक्षाबंधन | 女性が兄弟の手首に飾り紐を巻きつけて加護を願う祭り |
8月 | クリシュナ・ジャナマーシュタミー | Krishna Janamashtami कृष्ण जन्माष्टमी | クリシュナ神誕生日、北インドで盛大な祭り |
8~9月 | ガネーシャ祭 | Ganesh Chaturthi गणेश चतुर्थी | 西部のマハーラーシュトラ州で盛んな祭り。 |
10月 | ダシャーラー | Dassera दशहरा | インド3大祭りの一つ、ラーマ王子が悪魔に打ち勝った日を祝う |
10~11月 | ディーワーリー | Diwali दीवाली | インド3大祭りの一つ、富と幸福の女神ラクシュミーを祭る |
11月 | グル・ナーナク生誕祭 | Guru Nanak Jayanti गुरु नानक जयंती | シク教の開祖グル・ナーナクの誕生日 |
またキリスト教の Good Friday(3~4月)も休日として扱われる。この結果一つの会社内でも本社・支店・工場で休日が異なることが多い。8月のクリシュナ祭がデリー本社は休日だがムンバイ支店は営業日で、ガネーシャ祭は逆になるという事が起こる。
インドの国民的スポーツはイギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーで、インドホッケー連盟がナショナルチームを初めとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金が8個、銀1個、銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年よりプレミア・ホッケーリーグがあり、テレビ中継が開始されている。
国民の人気と言うことではクリケットの人気が高い。ナショナルチームが1983年クリケット・ワールドカップでの優勝などの実績を持つ。インド・クリケット協会 (Board of Control for Cricket in India, BCCI) が国内組織を統轄しており、国内大会はドゥリープ杯、デオダール杯などがあり、またトゥエンティ20ルールで運営するインディアン・プレミアリーグ (IPL) 、インド・クリケットリーグ (ICL) のプロリーグがある。クリケット・ワールドカップも1987年と1996年大会をインドで開催し、2011年大会も開催予定している。
近年テニスもデビスカップインド代表の人気もあり、急速に人気を博している。
北東インド、ベンガル、ゴア、ケララではサッカーも大変人気で、ナショナルチームは南アジアサッカー選手権で何度も優勝している。2007年には、プロサッカーリーグのIリーグが発足した。
インドの伝統的なスポーツであるカバディ、コーコー (kho kho) 、ギリ・ダンダ (Gilli-danda) なども全国で広く競技されている。またインド南部ケララ地方古来の武術であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライも行われている。
2008年に開かれた北京オリンピック・男子エアライフルでアビナブ・ビンドラーが優勝、個人競技で初めての金メダルを獲得した。
インドはデリーで、1951年アジア大会と1982年アジア大会を開催し、また2010年コモンウェルスゲームズを開催予定している。
2011年には、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを予定している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まってゆき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年と2007年はウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。その後、2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤがインド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックがヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューした為、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。
ウィキメディア・コモンズには、インドに関連するメディアおよびカテゴリがあります。 |
|
|
|
|
リンク元 | 「Indian」「インディアン」 |
関連記事 | 「インド」 |
.