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ホロコースト(英語: The Holocaust、ドイツ語: Holocaust、イディッシュ語: חורבן אייראפע、ヘブライ語: השואה)は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を指す。元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で[1]、のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった[2]。英語では、ユダヤ人虐殺に対しては定冠詞をつけて固有名詞 (The Holocaust) とし、その他の用法を普通名詞 (holocaust) として区別している。動詞としても使用されることがある。
1933年のナチ党の権力掌握以降、反ユダヤ主義が国是となったナチス・ドイツにおいては様々なユダヤ人、共産主義者に対する迫害が行われていた。第二次世界大戦の勃発後、ナチス内部には「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」を行おうとする動きが強まり、ドイツ国内や占領地のユダヤ人を拘束し、強制収容所に送った。
収容所では強制労働を課すことで労働を通じた絶滅を行い、また、占領地に設置された絶滅収容所においては銃殺、人体実験、ガス室などの直接的な殺害も行われた。1943年以降、絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。親衛隊は強制収容所の管理を担うとともに各地でユダヤ人狩りを行い、東部戦線ではアインザッツグルッペンが活動した。
ドイツ国防軍は、親衛隊や中央官庁の要請に従ってユダヤ人狩りへの協力を行った。軍需省や四カ年計画庁、一部の企業は工場において強制労働を行わせ、虐殺した。また、ヴィシー政権下のフランスをはじめとする占領地での「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施された。
「ユダヤ人絶滅」が戦前からの計画の目的であったのか、戦争突入後の状況変化によって発生したものであったのかは研究者によって意見が分かれる。ホロコースト研究家の一人ラウル・ヒルバーグは「公式な法令としてユダヤ人殺害が命令されたことはなく、担当閣僚や特定の官庁も存在せず、特定の予算が割かれたこともなかった[# 1]」と、計画性や統合性のなさを指摘している[# 1]。
政権獲得後、ナチスはドイツ国内にいるユダヤ人への迫害を開始するとともに、ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によって追放するという計画(マダガスカル計画など)を立案していた[3]。しかしドイツの勢力が拡大すると、ドイツ国内に居住するユダヤ人の数はさらに増大し、ポーランドの占領によってさらに200万人のユダヤ人を抱え込むことになった[3]。ドイツは占領地やドイツ国内のユダヤ人をポーランド国内のゲットーに移送し、独ソ戦の開始後はロシアの東方への移送をも考えていた[3]。しかし独ソ戦の戦況によってそれが不可能になると、1942年7月から開始された強制収容所における強制労働を通した絶滅および、毒ガス・一酸化炭素・排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更された[3]。
ナチスによるユダヤ人虐殺は大戦後期の連合国による元ドイツ占領地およびドイツ本土の占領過程で明らかにされ、ニュルンベルク裁判では「ユダヤ人の大量虐殺」計画が罪状の一つとして認定された。戦後にはゲラルト・ライトリンガー(ドイツ語版、英語版)、ラウル・ヒルバーグ、ウィリアム・シャイラー等の歴史家によってこの時代のユダヤ人の運命についての通説が確立した。
ナチスによるホロコーストで犠牲となったユダヤ人は少なくとも600万人以上とされている。また、同時期にナチス・ドイツの人種政策(英語版)によって行われたロマ人に対するポライモス、成人の精神障害者へのT4作戦、反社会分子とされた人々(労働忌避者、浮浪者、シンティ・ロマ人など)や障害者、同性愛者(ナチス・ドイツによる同性愛者迫害(英語版))、エホバの証人、スラヴ人に対する迫害などもホロコーストに含んで語られることもある。主に独ソ戦における戦争捕虜、現地住民が飢餓や強制労働による死亡者に対しても「ホロコースト」の語が使用されることがあるが、この語をユダヤ人以外にも拡大して使用することに反発する個人・団体がある[要出典]。こうした広い概念でとらえた場合の犠牲者数は、900万から1,100万人にのぼるとも考えられている。
一方で、「ナチスがユダヤ人を差別し、迫害したこと」自体は認めながら、ホロコーストの規模、犠牲者数、殺害手段に関する通説的見解を批判的に検証したり、ソ連やシオニストの流したプロパガンダもあったとして批判する「ホロコースト否認」と呼ばれる動きもある。これはイスラム世界に属しイスラエルと対立関係にある地域などでも論じられている。ヨーロッパではホロコースト否認を法律で禁止する動きもある。
ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」、「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし[4]、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、すなわち燔祭を意味していた[4][1][# 2]。こうしたことから殉教のための犠牲をも意味するようになり[4]、また、ここから派生した意味に「火災による惨事」があり、一般的にはこちらの方が主に使われていた。例えばアルフレッド・ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』では劇中タンクローリーの炎上事故を伝える新聞の見出しで「Holocaust」という言葉が使われていた。日本では永井隆が長崎への原爆投下を「神の大きな御摂理によってもたらされた」とし、原爆投下を「大いなる燔祭(ホロコースト)」と解釈したこと[5]が論評されている(浦上燔祭説参照)。
この言葉がナチスによるユダヤ人大量殺害を意味するようになったのは、大戦中から大戦後しばらくの間、ユダヤ人の間で、「ドイツはユダヤ人を生きたまま火の中に投げ入れて焼き殺している」との言説が広く信じられたことを起源に持ち[# 3]、エリ・ヴィーゼルが使い始めたと言われるが、ヴィーゼルはのちに撤回したがっていたと言われる[6]。英語圏では「ジェノサイド」などが用語として一般的であったが、1978年アメリカで放映されたテレビドラマ『ホロコースト』[# 4]によって流行語となり、「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。また、この作品がドイツを含む多くの国々で放送された結果、第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人迫害、特に民族絶滅政策の実行の過程を「ホロコースト」と呼ぶことが定着した。『夜と霧』などの戦争直後に出版された書籍に「ホロコースト」という語が見られないのは、こうした事情による。
ただしユダヤ教徒の中には、神聖な儀式である「ホロコースト」の語をドイツのユダヤ人迫害を指す言葉として使用することを批判する声もあり、プリーモ・レーヴィは「虐殺行為を預言者ぶって解釈してみせる過激な宗教家」には怒りを感じると語り[6]、また、ジョルジョ・アガンベンはジェノサイドでもなくポグロムでもなくホロコーストという語を使用することはユダヤ人犠牲者を神への犠牲、ナチスを祭司、焼却炉を祭壇として扱うことにむすびつき、結果としてナチによるユダヤ人殲滅政策を正当化することになると批判し、「この語(ホロコースト)をあいかわらず使う者は無知か無神経(あるいはその両方)」と批判している[6]。
燔祭に相当するヘブライ語は「オラー (ヘブライ語: עלה、英語: olah)」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した[7]。一方で特に「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合は“惨事”を意味するショア (השואה) が用いられる。フランスのユダヤ系映像作家クロード・ランズマンによるドキュメント映画『ショア』が制作され、日本では1995年に上映されて以降、「ショア」という用語も用いられるようなった。
キリスト教が普及したヨーロッパにおいて、ユダヤ人は(歴史的事実であるか否かはともかく)キリストの磔刑に関与したとされたため、キリスト教徒から「神殺し」とみなされ、キリスト教への改宗を拒んで追放されるなど、中世以来たびたび迫害を受けてきた。11世紀まではユダヤ人はシリア人と呼ばれた近東の民とともに通商の担い手であったが、中世後半期には次第に土地所有も交易に従事することも制限されるようになった。11世紀以降にギルド制が発達すると、ユダヤ人の職業選択の幅は著しく狭まった[8]。第4ラテラノ公会議(1215年)ではユダヤ人の隔離や公職追放の方針が決められた。こうしたことからユダヤ人は職工や農業といった生産的な職業に就くことができず、質屋などの消費貸借専門の金融業や両替商がユダヤ人の主な職業となった。このため、ユダヤ人を堕落した人間と見る風潮があった[9]。ユダヤ人はキリスト教社会から疎外され、ゲットーと呼ばれる場所に隔離されるなどしたが、かえってそれぞれのコミュニティを強化し続けていった[10]。
18世紀以降、啓蒙主義の浸透によって、ユダヤ人の解放と社会的地位向上が唱えられるようになった。1848年革命ではユダヤ人の解放も唱えられたが、一方でこれは自由主義に反発する者の間に、「ユダヤ人は体制の破壊者である」という見方が醸成されるようになった[11]。また、ユダヤ人が新聞などのメディアを支配しているという見解もこの頃からあらわれるようになった[11]。西欧社会への同化が進むにつれて、反ユダヤ主義は宗教的なものから人種主義的な「反セム主義」へと変質した。19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によって引き起こされた「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種主義によって組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。すでにユダヤ人は血統的・言語的に居住国に同化している場合がほとんどであることから、あくまで“疑似”人種・民族論である。こういった運動を行った者としては、ゲオルク・フォン・シェーネラーやカール・ルエーガーがいる[12]。
また、ロシア帝国においてはアレクサンドル2世の暗殺以降、保守化が進行し、ユダヤ人迫害である「ポグロム」が激化するようになった[13]。20世紀初頭には「シオン賢者の議定書]」と呼ばれる反ユダヤ主義パンフレットが流布された。これはバルト・ドイツ人であったアルフレート・ローゼンベルクによってナチ党に紹介されることになる[14]。
第一次世界大戦時、ドイツ帝国においては中央協会などのユダヤ人団体もドイツ政府に協力したが、反ユダヤ主義者たちによってユダヤ人が戦争に非協力的であるというプロパガンダが行われた[15]。ドイツ帝国軍はこれを承けて軍部内のユダヤ人の統計を取り、反ユダヤ主義者の言い分が正当であると証明しようとしたが、結果はその逆であったために公表されなかった[15]。ドイツが敗北すると、敗戦はユダヤ人や社会主義者による「背後からの一突き」が原因であるという見方が広まった[16]。こうしたドイツの風潮の中で生まれてきたのが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)である。
ナチ党はその創設時から反セム主義としての反ユダヤ主義を唱えていた。ヒトラーの著書『我が闘争』では「ユダヤ人問題の認識と解決なしには、ドイツ民族体再興の企ては無意味であり、不可能である」と書かれている。ヒトラーは入党前に記した最初の政治的書簡で「ユダヤ人とは即ち、無条件に人種であり、決して宗教団体などではない」という認識を示していた[17]。
ナチズムではユダヤ人は、「すべての反ドイツ的なものの創造者」であるとされた。つまり第一次世界大戦の張本人であり、民主主義、議会主義、マルクス主義、ボルシェヴィズム、自由主義、平等主義などを生み出し、ドイツに敵対する国家の背後で糸を引きながら、ドイツ人を含むすべての民族の破滅を狙っているとされた[18]。世界支配の権利を持っているのは疑いなくドイツ民族であるが、その最大の障害がユダヤ人であり、「アーリア人の勝利か、しからずんばその絶滅とユダヤ人の勝利か」の二つの可能性しかあり得ないとしていた[19]。
また、ナチズムは、ドイツ民族の血によって結びつけられる「民族共同体」が自らの存立する世界観であると定義しており[20]、ナチズムの人種学では、ハンス・ギュンターらの提唱する、白人、中でも北方人種の要素を多く持つ民族が優れた民族であると考えられていた[21]。ナチズムにおいてはドイツ民族の血統改良(ドイツ語: Aufartung)が重要であるとされ、北方人種化(ドイツ語: Aufnordung)の一方で、遺伝病や精神病などの「質的欠格者」や、「劣等人種(英語版)」との混血を回避する必要があるとされた[17]。
ヒトラーは演説でこう述べている。「我々の社会は危機に瀕している。徒に弱者や病気の者に助けの手を差し伸べて、適者生存の原理に背いてしまったためだ。」この考えに基づいて推進された政策の一つが、身体障害者や精神障害者の断種や、「生きるに値しない命」 (Lebensunwertes Leben) と見られた成人障害者を安楽死させるT4作戦であった。T4作戦で安楽死を担当した技術者たちは、のちにホロコーストにおける絶滅収容所でその技術を用いることになる。
ナチズムにおいてはユダヤ人は人種として扱われたが、時期によって扱いはやや異なる。1933年4月11日の『職業官吏再建法暫定施行令』では、両親・祖父母のうち一人でもユダヤ教を信仰したことがある者がユダヤ人と規定され、先の『職業官吏再建法』の「アーリア条項」でいう「非アーリア人」に該当するとされた[22]。9月29日の『ライヒ世襲農場法』では先祖にユダヤ人がいたというだけで「アーリア人」から外された[23]。
ニュルンベルク法の一つである「帝国市民法」は「ドイツ人あるいはこれと同種の血」を持つ帝国市民にユダヤ人は含まれないとしている。さらに「帝国市民法第一次施行令」では、祖父母のうち3人以上が「人種上の全ユダヤ人」であれば、当人の信仰によらず「完全ユダヤ人」として扱われた[24]。また、この施行令では、ユダヤ人と婚姻していた者もユダヤ人となり、「非ユダヤ教徒ユダヤ人」という扱いも存在した。さらに血統上は疑いなくドイツ人であっても、何らかの都合によってユダヤ教会に属した者も「ユダヤ教会への所属は、通例、ユダヤ的なるもののへの確固たる信仰告白」であり、「その者の子孫もかかるユダヤ的態度を受け継ぐことが当然予想される」ため、ユダヤ人として扱われた[25]。また、二人の祖父母がユダヤ人であった場合には「第一級混血児」、一人の場合は「第二級混血児」として扱われた。混血ユダヤ人は帝国市民として扱われたものの、混血児同士の結婚や、第一級混血児がドイツ人と結婚することは原則として認められなかった[26]。
ヒトラーはこれら「ユダヤ人」が人類学的には「単一人種としての特徴を示す共通の標識をもっていない」という認識を示しながらも、「にもかかわらず、疑いもなく、どのユダヤ人も、我々が特にユダヤ人の血と呼ぶところの数滴の血液を血管の中に隠し持っている」としている[27]。当時は左耳の形でユダヤ人であるかどうかわかるとされており、身分証明書では左耳がはっきりと分かる形の写真が掲載された[28]。ヒトラーもこの方法を信じており、後にヨシフ・スターリンの耳を撮影させて、ユダヤ人ではないと判定している。
ヒトラーは1919年の段階で「ユダヤ人全体を断固除去することが最終目標」であるという書簡を記しており[29]、その後もしばしばこれに類した演説を行っている。ヒトラー内閣成立後の1933年3月28日には党組織に対してユダヤ人に対する大規模なボイコット命令『反ユダヤ主義的措置の実行に関する指令』を発し、4月1日から三日間にかけて行われたこのボイコットでは、私服のナチ党員がユダヤ人の経営する会社や商店の営業を妨害し、店舗の破壊やユダヤ人経営者への暴行を行った。警察はあらかじめその場をパトロールしないように措置されていた[30]。この全国的な運動は、それまでユダヤ人がほとんど住んでおらず、反ユダヤ主義と無縁であった地域にまで反ユダヤ主義が国家の基本方針となったことを知らしめるようになり、ユダヤ人たちは徐々に地域社会から疎外され始めた[31]。4月7日には『職業官吏団再建法』が制定され、共産主義者等の左翼と併せて、ユダヤ人を含む非アーリア人とされた人々が公職追放された[32]。その後、弁護士や大学教授、医師、徴兵対象者など、官吏以外の職にも次々と適用された[33][34]。一部のユダヤ人は国外に逃れるようになり、毎年2万人から4万人のユダヤ人がドイツ国外に脱出していた[35]。
1935年9月に制定された一連の『ニュルンベルク法』によって、ドイツ国民であったユダヤ人は「国籍を保持するが、帝国市民(ライヒ市民)ではない」という存在となり、ドイツ人および類縁の血を持つ者との婚姻と婚外交渉が禁じられた[36]。1937年12月からは経済・商工業分野における「アーリア化」が開始され、ユダヤ人資本の企業や工場は解散や譲渡を余儀なくされた[37]。1939年9月1日以降にはは独立した経営を行ったり、責任者になることすら禁じられた[38]。また、1938年8月17日からは、国民およびドイツ国内に滞在するユダヤ人は、姓を「ユダヤ人らしくない」姓に変更することができなくなり、また、名前も「イサク」や「ラケル」など当局が指定した「ユダヤ人らしい」名前を名乗るよう義務づけられ、それ以外の名前を持つ者には「イスラエル」や「サラ」といったミドルネームをつけることが義務づけられた[39]。12月31日からは身分証明書にユダヤ人であることを示す「J」の文字が記入されるようになり、1939年4月にはユダヤ人が持つ旅券がすべて無効となり、「J」の字が刻印された旅券が新たに交付された[40]。
しかし、ヒトラーやヘルマン・ゲーリング、ヨーゼフ・ゲッベルスらといったナチ党幹部にとって、これらの措置はまだ生ぬるく感じられた。それらが解き放たれるきっかけは、1938年11月7日に発生した、駐フランスドイツ大使館員エルンスト・フォム・ラートがユダヤ人青年に殺害された事件であった。11月9日、ユダヤ商店・百貨店、シナゴーグなどが突撃隊員たちによって破壊・略奪された。この事件は「水晶の夜」とよばれる[41]。11月10日には親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーが兵器および武具を持ったユダヤ人を拘束する命令を出し、11月11日にはユダヤ人の兵器所有が禁じられた[42]。
11月12日には事件の後始末についての会議が行われ、その結果を踏まえてゲーリングによって三つの命令が下された。その内容は事件によってドイツ国が被った総額10億ライヒスマルクの損害を「ユダヤ人」に賠償させるというものであった[43]。1939年4月にはドイツ国籍および無国籍のユダヤ人はその全財産の20%を賠償として国に支払うこととなり[43]、さらに破損した店舗や施設の修復も義務づけられただけでなく、損害を申請して保険金を受け取る権利すら奪われた[44]。この決定が行われた同日、ゲッベルスはライヒ文化協会会長の権限でユダヤ人の文化・娯楽施設への入場を禁じ、ミュンヘンでは一週間あたり引き出し可能額が100ライヒスマルクに限定された。11月13日の冬季援助活動の集会で、ゲッベルスは「ユダヤ人問題は今後ごく短期間のうちにドイツ民族の感情を満足させる解決策を見いだすことであろう」と演説した。翌日の「フェルキッシャー・ベオバハター」は「ユダヤ人問題の最終解決」という見出しの記事でゲッベルスの演説を掲載し、次のように警告した。「すべてのユダヤ人は今後一切の慈悲無しに取り扱われることになるだろう。そのことを欲したのは彼ら自身なのだ。[45]」この後もドイツ人学校からのユダヤ人生徒の排除、運転免許の剥奪、毛皮・宝石類・伝書鳩・自動車の保持禁止、第一次世界大戦の恩給停止、ベルリン市内の大規模なユダヤ人立ち入り禁止区域の設定、寝台車や食堂車の使用禁止などの措置が矢継ぎ早に行われた[46]。 しかしこれらの措置も、新たなユダヤ人迫害のための準備作業にすぎなかった[46]。
1939年1月24日には四カ年計画全権としてのゲーリングが、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し、「ドイツ国内からのユダヤ人の国外移住を全力をもって促進すべき」として、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒの指揮下に「ユダヤ人国外移住のためのライヒ中央本部」を設置することを命じた[47]。ユダヤ人の財産の剥奪や移動手段の制限はこうした「移住」を効率的に実行するための措置でもあった[48]。しかしこのころから、ユダヤ人を受け入れてきた南米諸国など各国が難色を示すようになり、第二次世界大戦の勃発はさらにこうした移住を困難なものとした[49]。
ユダヤ人をドイツ国外へ追放するという考え方は古くからあり、ヒトラーも結党間もないころの演説では「ユダヤ人にとっとと(ドイツから)出て行ってもらう」とたびたび語っている[50]。ナチ党の幹部でもあるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書『Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten』の中で、「ドイツのユダヤ人の集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」 (p. 153) と述べている。
しかし一方で、ヒトラーおよびナチ党員は、ユダヤ人問題の解決策としての大量殺戮をほのめかす発言をたびたび行っている。「シュテュルマー」の編集主幹であったユリウス・シュトライヒャーはこう述べている。「最後のユダヤ人がドイツから去ったとしても、(ユダヤ人問題は)解決されたことにならない。世界中のユダヤ人が殲滅された、その時初めて解決されたと言えるのである。[51]」『我が闘争』の中には「これらヘブライ人の民族破壊者連中を、一度毒ガスの中に放り込んでやったらとしたら、前線での数百万の犠牲も決して無駄ではなかったであろう」という記述があり、ナチ党の地方幹部であったヘルマン・ラウシュニングは、ヒトラーが「(ユダヤ人の)人種単位の除去が私の使命である」「望ましくない人種を、体系的に、比較的苦痛もなく、ともかく流血の惨事もなく、死滅させる多くの方法がある」と語ったとしており[52]、1939年1月30日の国会演説は、さらにそれを直接的にしたものであり、ヒトラーがたびたびこの演説を引用したこともあって[53]、時に大量殺戮によるホロコーストを予告したものとされる。
今日私は再び予言者となろう。即ち、もし国際主義的ユダヤ人金融資本家どもが、ヨーロッパの内外で、再び諸民族を世界戦争に引き込むことに成功したとしても、その結果は地球のボルシェヴィキ化、ユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の殲滅となるであろう。
—1939年1月30日のヒトラー国会演説、(南 1995b, p. 187)
1939年9月のポーランド侵攻に先立つ9月21日、ハイドリヒはユダヤ人問題の「最終目標」として、ドイツ領となるべきポーランド占領地域に住むユダヤ人をできるだけ追放し、ごく少数の都市に集中収容するべきであるという報告書を作成した[54]。ポーランドが占領されると、12月から移送が開始され、ユダヤ人とポーランド人あわせて87,000人が、占領地域からワルシャワなどの各都市のゲットー(ユダヤ人街)へ送致された。翌1940年11月には、400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断された。これはワルシャワ市の全人口の30%に相当するが、ゲットーそのものの敷地はたった2.4%であった。各部屋に平均9.2人が住んでいたという。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に、移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情からすでにこの期間に多くの犠牲者が出ている。1941年だけでも、ワルシャワ・ゲットー住人の10人に1人(4万3千人)が腸チフスなどで死亡した。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。
1940年5月頃には外務省参事官フランツ・ラーデマッハーが西方ユダヤ人をマダガスカル島に送ることを提案した。この案は同年6月18日のヒトラーとムッソリーニとの会談で「マダガスカルにイスラエル国家を作ることも可能である」ということを述べているように、ヒトラーを含む上層部でも検討された。国家保安本部ゲシュタポでユダヤ人問題を担当するB4課長を務めたアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は戦争終結後に5年をかけて、ドイツ占領地域に住む600万人のユダヤ人をマダガスカルに送る計画に従事していた[55]。
しかし6月24日になって、ハイドリヒは国外移送は不可能であり「最終的領域的解決」が必要であるという報告を行った[56]。ラーデマッハーは8月になって計画が正式に中止されたという報告を行っているが[57]、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある。[# 5]。いずれにしても計画の断念後、「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従って、ユダヤ人の中で生産活動にとって無価値な老人・女子・子供は移送の後に殺害し、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。
ポーランド総督府はこれ以上のユダヤ人受け入れは不可能であると苦情を申し出たが、ヒトラーは「(総督領は)巨大なポーランド強制収容所でしかない」と拒絶した[58]。しかし1941年3月15日、ポーランドの親衛隊及び警察指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーは、これ以上総督領に対するユダヤ人の移送を行わないと伝達し、6月19日にはヒトラーは総督ハンス・フランクに対して「ユダヤ人は近いうちに総督領からいなくなる」と伝えている。これは3日後に勃発する独ソ戦の勝利によって、東方にユダヤ人を送る余地ができたということを示すものであった[58]。
このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に追随してハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツグルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、時には現地のラトヴィア人・リトアニア人・ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した[59]。この一連の作戦において最も悲惨な例が、1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでのユダヤ人の大量殺害である。ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告で無警戒に集められ、入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000人をアインザッツグルッペンが2日間で次々に射殺した。それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。また、8月1日にはヒムラーから武装親衛隊第二騎兵連隊に対して「すべてのユダヤ人を射殺し、ユダヤ人女性は沼へ駆り立てろ」という命令が下っている[60]。8月3日には489名のユダヤ人を殺害させた武装親衛隊第8連隊のフリードリヒ・イェッケルン親衛隊中将が、戦争の責任はユダヤ人にあり、ドイツ民族の生存を望まないユダヤ人は絶滅する必要があると演説している[61]。
銃撃による大量殺害は、銃撃する親衛隊員に過重な精神的な負担を負わせることとなった。たとえばオストログで8,000人のユダヤ人が殺害された際には、10名から15名の隊員が任務に堪えられないと申し出ている[61]。また、実際に銃殺を検分したヒムラーやアイヒマンも気分を悪くしたということも起きている[62]。このことから、ヒムラーはその他の殺害方法を検討するように命令した。アインザッツグルッペンBの司令官アルトゥール・ネーベは、かつて障害者の安楽死政策T4作戦に関与していた親衛隊員を召還し、殺害方法についての実験を行わせた。爆薬による爆殺は時間がかかりすぎると判定されたものの、一酸化炭素によって殺害するガス車(英語版)の実験や、9月18日には施設にガス室を設け、ツィクロンBによって精神障害者900人を殺害する実験が行われている[63]。ガス車を開発したヴァルター・ラウフ親衛隊大佐は、これによって兵士たちが重圧から解放されたと証言している[63]。
1950年代に親衛隊史についてまとめたハインツ・ヘーネはアインザッツグルッペンによって500万人のユダヤ人が殺害されたとしているが、その後の研究では敗戦までの間に国防軍が占拠した地域のユダヤ人は400万人程度であり、うち150万人程度はソ連支配地域に逃れたと見られ、殲滅に直面したのは250万人と見られている[64]。また、戦線の後方でのこれらのことは、悲惨な出来事を見聞きしたドイツ国防軍上層部、あるいはショル兄妹事件のように一般のドイツ人の中にも政権に対する疑問を拡大させることになった。
8月15日にはベルリンの国民啓蒙・宣伝省で、ベルリンのユダヤ人7万人をどう「処理」するかという諸官庁とナチ党機関の代表者を集めた会議が行われた。ヨーゼフ・ゲッベルスはユダヤ人が戦争を阻害していると主張し、一刻も早く東方に送付することを要求したが、配給食糧を減らすことが認められたのみであった[65]。ゲッベルスはヒトラーにも同様の主張を行ったが、結局ドイツ国内のユダヤ人にもポーランドのユダヤ人と同様の「黄色いユダヤ標章」をつけさせることのみが認められた[66]。この措置は9月1日に開始されている[66]。
一方で占領地に存在する親衛隊からは、ユダヤ人を「餓死させるよりも素早く片付ける」ことを要求する声が強まりつつあった[67]。ロルフ=ハインツ・ヘップナーはソ連占領地域にユダヤ人を送る「最終的解決」をアイヒマンに進言し、セルビア軍事当局も同様の要求を行っている[68]。しかし戦況はそのような行動が許される状況ではなく、9月14日から9月15日にかけてヒトラーは、国内で争乱が予想される事態になった場合、強制収容所の生存者を一掃する必要があると述べている[69]。また、ヘップナーもユダヤ人を給養しておく余裕がなくなると警告し、「餓死させるままにしておくより素早く片付ける」べきだとも提案している[70]。9月17日にはヒトラーは大ドイツ国領域内のユダヤ人を東方に送る許可を出し、親衛隊もこれに従ったが、ユダヤ人を労働力として使用していた国防軍経済部などの経済当局や文民政府は難色を示した[71]。また、受け入れ先となるウクライナを管轄していた東部占領地域省 (Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete) もユダヤ人の受け入れを拒否した[72]。このため、移送されたユダヤ人の多くは「受け入れ先」で銃殺などの形で「処分」された[73]。
ヒムラーや、7月31日に「ドイツのヨーロッパ勢力圏におけるユダヤ人問題全面解決全権」とされた[74]国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒは「ユダヤ人問題の解決」に進展がないといらだちを募らせていた。
1942年1月20日、ベルリンの高級住宅地アム・グローセン・ヴァンゼーにある邸宅(現在ヴァンゼー会議博物館)で、ハイドリヒが主宰する関連省庁の次官級会議が開催された。そこでは「ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決」について討議された。アイヒマンが作成したとされる議事録によると、会議でヨーロッパに住むユダヤ人1,100万人という数がハイドリヒによって確認され、その「最終的解決」なるものが決定された。占領地域のユダヤ人を東方に送って労働させ、労働不能な者はテレージエンシュタットに送るというものである。これはユダヤ人を労働力として用いる中で、自然的淘汰を行うことを目的とするが、生き残った者はユダヤ人の頑強な核であるため、「相応に取り扱われなければならない」というものである[75]。また、この会議では占領地域のみならず、イタリアなどの同盟国や、ポルトガルなどの中立国にいるユダヤ人の扱いも討議されている[75]。アイヒマンによって作成された公式な議事録には直接的に殺戮を意味する表現はまったく使われていないが、その他のナチ党関連文書においても使用されている「強制移住」「特別措置」などの語を大量殺戮を意味する隠語と解釈するのが通説である。
しばしばこのヴァンゼー会議がホロコーストの決定を行ったと解釈されるが、次官級である彼らには政策を決定する権限はなかった[76]。しかしこの会議はナチス・ドイツにおけるユダヤ人の追放政策が、労働可能なユダヤ人を搾取し、労働不能になった時点で殺害するという労働を通じた絶滅に転換したことを示すものと見られている[77]。また、諸官庁の調整がついたことで、移送や受け入れなどの各措置がスムーズに行われるようになった[78]。1月末、アイヒマンはこの会議こそが「最終的解決」のはじまりだと宣言している[79]。また、3月からは殺害専門の絶滅収容所を設置してユダヤ人を効率的に殺害する「ラインハルト作戦」が始動し、ベウジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の三つの絶滅収容所が稼働し始めた[80]。
1942年7月19日に親衛隊全国指導者ヒムラーは強制移送の命令を下すが、その後わずか60日足らずでワルシャワ・ゲットーの住民30万人が強制収容所へ移送され、多くのゲットーは空になった。ユダヤ人たちは占領に対する抵抗活動を行うが、1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープの指揮下で第二次移送が行われることとなった。これに対してワルシャワ・ゲットー蜂起が起こるが、ドイツ軍によって鎮圧され、ワルシャワ・ゲットーは消滅した。残ったユダヤ人たちも収容所に移送され、ドイツ政府はこれを「東への移住」と呼んだ。
また、1943年にイタリアの休戦によってイタリア社会共和国が成立し、1944年3月19日のマルガレーテI作戦によってハンガリー王国がドイツの占領下となると、それまでユダヤ人を保護していたイタリアやハンガリーからのユダヤ人移送も開始された。中でも、アイヒマンが派遣されたハンガリーでのユダヤ人狩りは過酷であり、40万人に及ぶユダヤ人が移送された。ハンガリーに残存したユダヤ人にも虐殺が続けられ、総計56万4000人のユダヤ人が犠牲となっている[80]。また、8月にはラインハルト作戦が終了し、3つの絶滅収容所は解体され、ユダヤ人の囚人たちは残らず処分された[80]。
ドイツはホロコーストについて一切公式の発表をしなかったが、ドイツ占領下にある地域のユダヤ人が大量に消息を絶ったことは連合国にも漏れ伝わっていた。1942年5月のニューヨーク・タイムズ紙はバルカン半島において10万人のユダヤ人が殺害されたと報道し、6月26日のボストン・グローブ紙はポーランドにおいて70万人以上のユダヤ人が殺害されたと報じた[81]。また、ロンドンのポーランド亡命政府もユダヤ人殺害に抗議を行っている[82]。6月29日には世界ユダヤ人会議が100万人以上のユダヤ人が殺害されていると発表し、ナチス・ドイツによる「ユダヤ人絶滅計画」の存在を訴えた[83]。世界ユダヤ人会議の報告書を見たアメリカにおけるユダヤ人指導者の一人スティーヴン・サミュエル・ワイズは、国務次官補に救済を求めた。11月24日、国務省はワイズに報告書が正しいと認め、ワイズはこの報告書を公表し、ホロコーストがアメリカで公式に知られるようになった[83]。この報道はアメリカのユダヤ人社会に衝撃を与え、かねてから高まっていたシオニズム運動、つまりパレスチナでのユダヤ人「コモンウェルス」建設の動きを加速させ、アメリカ政府による「イスラエル建国」承認につながることとなった[84]。12月17日には西側連合国が「ドイツ政府がヨーロッパにおいて野蛮なユダヤ人絶滅政策を行っている」と公式に批判したが、国際世論に与えた影響はほとんどなかった[82]。
ただし、これらの公的な動き以前に、ドイツ警察の無線を解読していたイギリスやアメリカにホロコーストに関する情報が渡っていたが、彼らがさまざまな事情からその阻止に動かなかったという指摘も行われている[85]。また、ハンガリー占領後にはユダヤ人移送政策が明らかとなり、教皇ピウス12世、スウェーデン国王グスタフ5世、国際赤十字社連盟総裁などが非難・懸念をする声明を行っている[86]。
ドイツ国内においては一般国民のおよそ三分の一が、ユダヤ人が大量に犠牲にされているという情報や噂を聞いていたとも言われている[87]。たとえばスターリングラード攻防戦後には、「ユダヤ人大量虐殺(ジェノサイド)の報復として、ソ連軍が捕虜を殺害する」という噂が流れている[88]。大戦後に行われた市民に対する調査では、これらの「犯罪行為」をニュルンベルク裁判開始後にはじめて知ったという回答が全体の3分の2を占めた[89]。
ユダヤ人関連団体の中にはユダヤ人を救出するため、ドイツと交渉する者もあった。ブダペスト・ユダヤ救済委員会は、100万名のユダヤ人を救出する見返りとしてトラック1万台などの物資提供を申し出た[90]。アイヒマンはヒムラーの支持を受け、この交渉に乗ったが、ユダヤ救済委員会のメンバーが連合国によって拘束されたために交渉は頓挫した[90]
1944年中頃には、「最終計画」はおよそ完成していた。ナチスが容易に手の届く範囲のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅された。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。5月にヒトラーは、「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と演説している。1944 年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなった。ドイツ軍はソビエト連邦やバルカン半島・イタリアから撤退を余儀なくされ、同盟国の日本とイタリアも敗色が濃厚になった。ソ連軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移された。すでにドイツのインフラは崩壊寸前であり、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく冬の中を無理に徒歩で移動させられた(死の行進 (ホロコースト)(英語版))が、その過程でさらに10万人が犠牲となった
収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、また、しばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビボルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所も、アウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。90万人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠はほとんど隠滅されていたと言われる。ベルゲンベルセンでは捕虜6万人が保護され、死体1万3千体が遺棄された状態で発見された。また、ダッハウ強制収容所を占領したアメリカ軍は、その凄惨さを見て看守たちを殺害するという事件が起きている(ダッハウの虐殺)。その後アメリカ軍は、強制収容所内部を地域住民に強制的に見学させた。
戦後におけるイスラエル建国も、ホロコースト被害者であるユダヤ人に対する同情が後押ししたという意見がある[84]。戦後イスラエルや各国のユダヤ人はホロコーストに対する研究と、ホロコーストの広報活動を活発に行っている。ドイツの多くの町や村においては毎年11月9日に、かつてシナゴーグが存在した場所で追悼式典が行われている[87]。アメリカ合衆国においては1978年の『ホロコースト 戦争と家族』の放送以降、特にホロコーストに対する関心が高まり、大統領がホロコーストの記憶を保ち続けるよう要請した。ジミー・カーター大統領は「ホロコーストに関する大統領諮問委員会」の設置を命じ[91]、毎年「ホロコースト犠牲者を記憶する日」の式典が行われ[92]、各地にホロコースト博物館が建設され、大学などでの講座も増加した[93]。2005年には国際連合において、毎年1月25日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」とするという決定が行われている[91]。同様にヨーロッパ各国にもホロコーストを記念する日が存在する[91]。
一方で戦後、ナチスの旧軍人を中心に「ホロコーストは虚構である」という主張がなされている他、イスラエルがホロコーストを利用して国際社会での優位を得ているという批判や、アメリカのユダヤ人がホロコーストの歴史を乱用しているという批判[94]も生まれている。2000年にはアメリカのノーマン・フィンケルスタインが世界ユダヤ人協議会などがホロコーストを金をゆすり取る手段、つまり「ホロコースト産業」であると批判し、各国での論争を招いた[95]。また、ホロコーストの犠牲者の数に関しても議論が続いている。
犠牲者について正確な資料が残されていない。ドイツ降伏直前や収容所の解放直前、戦犯追及を恐れる関係者によって総括書類が破棄されたことが理由の一つとされる。ソ連・ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキア・ルーマニアといった東ヨーロッパの国々に犠牲者数が多い。一方で古い調査はプロパガンダもあり、被害者数が大きく見積もられる傾向もあった。また、ソ連は自国での大量殺戮事件であるカティンの森事件、ヴィーンヌィツャ大虐殺もドイツの犯行であると主張していたが、ニュルンベルク裁判では証拠不十分で告発されていない。著名な犠牲者はCategory:ホロコースト犠牲者、収容されたものの死を免れた者についてはCategory:ホロコースト生還者参照。
残存するドイツ側の資料としては、親衛隊の統計監察官であったリヒャルト・コルヘア(ドイツ語版)が提出した資料があり(コルヘア報告書(ドイツ語版))、これによると1943年3月末までに250万人のユダヤ人が殺害されたとされている[96]。また、独ソ戦初期のアインザッツグルッペンの報告を統計すると、アインザッツグルッペンが1943年5月の時点で53万5000人を殺害していることが明らかである[96]。しかし戦争後期の犠牲者の数を推測するのは困難である。
また、アイヒマンは1944年にヴィルヘルム・ヘトゥル親衛隊中佐に対し、400万人のユダヤ人が強制収容所で、200万人がその他の方法で殺害されたと語っている。また、ヘトゥルの同僚ディーター・ヴィスリーツェニーは、アイヒマンが400万名という数字をよくあげ、時には500万人といっていたとしている。この二人は後にニュルンベルク裁判で証言を行っている[97]。
ニューヨーク・ユダヤ人問題研究所は、戦前戦後のユダヤ人人口から、580万人という推計を行っている[98]。また、『ホロコースト百科事典』は各国の専門家の統計を合計し、559万5000人から586万人という数字をあげている[98]。また、芝健介は600万人は下らないであろうと見ている[98]。
マーティン・ギルバート(英語版)は、戦前と戦後期のユダヤ人人口を比較して、1982年にホロコースト犠牲者の分布地図を作成した[99]。ギルバートが推定した合計犠牲者は575万人である[99]。最も犠牲者が多い地域はポーランドであり、およそ300万人が犠牲になったと言われる[99]。ドイツの占領下にあった地域で最も犠牲者が少ないのはデンマークであり、7000人のデンマークユダヤ人のうち約99%がホロコーストから逃れることが出来た。これはドイツの占領責任者であったヴェルナー・ベストが極めて融和的な政策をとり、親衛隊のユダヤ人狩りにおいても情報を漏らすなどして、ホロコーストに非協力的な姿勢を取ったためである。
国と地域 | 推定犠牲者数 | 関連記事 |
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ドイツ本国[# 6] | 160,000 | |
オーストリア | 65,000 | |
チェコスロバキア[# 7] | 217,000 | |
メーメル(現クライペダ) | 8,000 | |
自由都市ダンツィヒ | 1,000 | |
ポーランド | 3,000,000 | ポーランドにおけるホロコースト |
デンマーク | 77 | |
ノルウェー | 728 | |
ルクセンブルク | 700 | |
ベルギー | 24,387 | |
オランダ | 106,000 | |
フランス | 83,000 | |
ユーゴスラビア | 60,000 | |
マケドニア | 71,222 | |
ギリシャ | 65,000 | |
クレタ島 | 260 | |
コス島 | 120 | |
ロドス島 | 1,700 | |
イタリア領リビア | 562 | |
ルーマニア[# 8] | 40,000 | |
トラキア | 4,221 | |
ブルガリア | 11,000 | |
ソビエト連邦[# 9] | 1,000,000 | |
ブコヴィナ | 124,632 | |
ベッサラビア | 200,000 | |
リトアニア | 135,000 | リトアニアにおけるホロコースト |
ラトビア | 80,000 | |
エストニア | 1,000 | |
フィンランド | 11 | |
イタリア | 8,000 | |
アルバニア[# 10] | 200 | |
ルテニア[# 11] | 60,000 | |
北トランシルヴァニア[# 12] | 105,000 | |
ハンガリー | 200,000 |
ドイツにおいては強制収容所の囚人や、戦時捕虜などが強制労働に従事させられ、私企業にもその労働力が提供されるなど、経済面でも重要な価値を持っていた。1942年3月3日、親衛隊経済管理本部長官オズヴァルト・ポール親衛隊大将は「労働力の搾取は、労働が最も高い生産性に達するよう、可能性の限界まで押し進められなければならない」と言う指令を発し、強制労働はいよいよ苛酷なものとなった[100]。また、ゲッベルスも「労働を通じた抹殺こそは、最も優れた、最も生産的な方法である」と賞賛している[101]。ユダヤ人の扱いは戦時捕虜であったロシア人の扱いよりもさらに苛酷なものであり、日常的な殴打や殺害が横行した[102]。フロッセンビュルク強制収容所では、日曜日の朝の食事がラード20グラムであったという[102]。各収容所では飢餓・虐待・病による数万人単位の犠牲者をそれぞれ出している[103]。ポーランド当局の統計によると、マイダネク強制収容所の囚人50万人の内、20万人が死亡したが、死因の六割は飢餓・病気・衰弱・拷問であり、後の4割がガス殺や銃殺であるとしている[104]。
ホロコーストのシンボルとして扱われるガス殺であるが、その割合は圧倒的なものではない。マイダネク強制収容所では7つのガス室をもうけ、ガス車をも利用したガス殺を行ったが、これが行われたのは一年ほどである[103]。ガス殺導入後でも銃殺はかなりの割合を占めており、1943年11月3日にはマイダネクで機関銃によって1万7千名のユダヤ人が殺害されている[105]。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所では1941年9月3日にソ連軍捕虜とポーランド人にたいしてツィクロンBによる殺害が行われた[106]。これは害虫駆除のために用いたストックが十分に存在していたためであり、停止までアウシュヴィッツではツィクロンBが用いられ続けた[107]。しかしラインハルト作戦で設置された三つの絶滅収容所では一酸化炭素が用いられている[106]。
一部の収容所では、収容者に対して実験が行われたことで知られる。多くの被験者は死亡するか、重篤な後遺症に苦しんだ。このような行為に携わった医師としてはヨーゼフ・メンゲレが著名である。双子についての実験も行われていた。
戦争後期になると交通事情は逼迫しており、ソ連軍が迫った収容所にいたユダヤ人たちは、ドイツ勢力圏内の収容所まで徒歩で移動することを強いられた。彼らは休息や栄養も与えられず、悪路を休み無く歩かされた。
亡命せず、国内に残留したユダヤ人がすべて収容所に送られたわけではなかった。国際的な哲学者カール・ヤスパースの妻ゲルトルートなど、迫害を受けながらも収容所送りをかろうじて免れた者もいる。当時健在であった作曲家リヒャルト・シュトラウスの息子の妻はユダヤ人であったが、妻本人もその子供(リヒャルトの孫)も強制収容所に送られることはなかった。伝説的な大作曲家であるリヒャルト・シュトラウスの名声をナチスがはばかったためとも、リヒャルトがナチスに協力した代償とも言われている。ヒトラーの料理人を務めていたマレーネ・フォン・エクスナーの家族は、アーリア人認定を受けて収容所送りを免れた。
ドイツ国内には、すでに戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在したが、それらの収容所は当初は比較的小規模であり、政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていた。のちに収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を超えることになる。特にダッハウは薬草農園労働と生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付きガス室が建設されたが、完成せず実用には至らなかったと言われる。しかし、このことはダッハウにおいてガス処分がなかったことを意味するのみで、墓地その他の調査によれば、実験による感染・郊外での銃殺などにより、労働強制収容所であったはずのダッハウから数万人の組織的大量虐殺(ホロコースト、ただしユダヤ人以外をも多く含む)が始まった事実は揺るがない。
絶滅を目的とした収容所としては、1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所・トレブリンカ強制収容所・マイダネク強制収容所・ベウジェツ強制収容所・ソビボル強制収容所などの収容所が次々と完成し、ゲットーや占領地域から多くのソ連兵捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地に建設され、収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所では、ほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ90万人がそこで殺されたという。
収容所のなかで最大規模であったアウシュヴィッツ収容所を解放したソ連は、しばらくの間、連合諸国によるアウシュヴィッツの調査を許可しなかった。そのために、死亡者数については色々な説がある。ニュルンベルク裁判ではソ連検察が「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と主張し、ニュルンベルク裁判においてソ連・ポーランド調査委員会はアウシュヴィッツで400万が死亡したと告発し、イギリス軍の裁判でも450万人が死亡したと告発されたが[108]、収容所長ヘスの裁判の際には最大でも150万人を超えないと認定された[109]。
1990年までアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡の記念碑には400万と書かれていた。ソ連崩壊後の1995年には完全にソ連側の主張が否定され、公式の記念館も全て150万に書き換えられた。1999年の検討では110万人と見積もられている[109]。ラウル・ヒルバーグは、アウシュヴィッツで死亡した収容者は「125万人」と推計。ユネスコは犠牲者「120万人」としている[# 13](アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に詳細あり)。
戦後のニュルンベルク裁判でホロコーストの審理が行われ始めたのは1946年2月8日以降であった。国家保安本部長官であったエルンスト・カルテンブルンナーの弁護人は、彼がアウシュヴィッツを訪れておらず、従ってホロコーストを知らなかったということを立証しようとして、アウシュヴィッツ収容所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスを証人として法廷に招致した。4月26日、証人台に立ったヘスは、アウシュヴィッツの実態や、ホロコーストの命令がヒムラーの直接命令であり、その命令はヒトラーの命令に基づいていたと証言した[110]。これまでの審理でホロコーストの存在を知らないと証言していたカルテンブルンナーやヘルマン・ゲーリングに対する致命的な反証もあり、両者の有罪につながった。ニュルンベルク継続裁判のポール裁判(英語版)やIG・ファルベン裁判(英語版)でもヘスは証言を行い、「ツィクロンB」の製造や使用に関わった人々が有罪となった[108]。
また、1961年4月11日からイスラエルで行われ、アドルフ・アイヒマンを裁いた「アイヒマン裁判」は、広く世界の注目を集めた。1963年12月20日から1965年8月10日までフランクフルトで行われたフランクフルト・アウシュビッツ裁判では、ホロコーストに関わった収容所の幹部ロベルト・ムルカ(de:Robert Mulka)らをドイツ人自身によって裁いた。この裁判はニュルンベルク裁判において裁かれなかったナチスの過ちに対する責任が問われたことがきっかけで行われた。
ホロコーストがなぜ起こったか、ということはホロコースト研究の中でも重要な争点である。この研究はナチ体制の意志決定についての考察を深めることになった[111]。
ヒトラー自身の反ユダヤ主義的意志やイデオロギーがホロコーストを最初から目指していたという考えは「意図派」や「プログラム派」と呼ばれる[112]。また、マルティン・ルターやリヒャルト・ワーグナーなどの反ユダヤ主義の系譜がホロコーストにつながったという考えも広義の意図派にふくめられる[112]。また、ダニエル・ゴールドハーゲンはナチスではない一般のドイツ人もユダヤ人絶滅を意図していたと主張し、激しい論争を呼んだ[113]。この説は1970年代中頃までは中心的な学説であった[114]。
一方で、ナチスのユダヤ政策は紆余曲折があり、独ソ戦の状況の中で、党や政府の官僚機構がユダヤ人政策を模索する中で、ホロコースト政策に行き着いたという考え方は「構造派」と呼ばれる[114]。この考えは1977年にマルティン・ブロシャート(英語版)が唱えたものであり、ホロコースト研究の流れを大きく変えた[115]。その後は各組織を大きく評価するブロシャートの説に対して、ヒトラー自身をもっと大きく評価するべきであるという新しい構造派とも呼ばれる説も出ている。
構造派の中では最終的解決が政策として決定された時期について見解は分かれている。ヘルムート・クラスニックは1941年3月、セバスティアン・ハフナー(英語版)は1941年12月を決定の時期と見ている[116]。また、ハンス・モムゼン(英語版)のように、決定は行われず、ユダヤ人政策が進展する中で絶滅政策に進化していったという累積的急進化という考え方もある[116]。ラウル・ヒルバーグも一歩先以上を考えられない官僚組織が、行政の仕事として一歩一歩絶滅政策へと進んでいったとし、ホロコーストの全体像を構築するものはなかったとしている[117]。
ホロコーストについては、その実在や規模を疑問視する声が存在する。たとえばニュルンベルク裁判においてヘルマン・ゲーリングなどの被告は、虐殺があったことは間違いないだろうが自分たちは大量虐殺に関与していないし、そんな事実も知らなかったとして無罪を主張していた。また、戦後には主に在野の歴史研究家や政治活動家の間からホロコーストに対する疑義が唱えられるようになった。しかし否認論者の主張は学界では認められておらず、人種主義的な反ユダヤ主義、反イスラエル、もしくはナチズムの復興をはかる政治的な動きと見られている[118][119]。こうした立場は、「ホロコースト否認(否定)」、あるいはより広い意味を包含する目的で「ホロコースト・リヴィジョニズム (Holocaust revisionism)」と呼ばれている。日本でこうした立場から単行本を出版している論者(西岡昌紀、木村愛二)は、「ホロコースト見直し論」という訳語を使っている。また、こうした立場を取る日本の歴史家加藤一郎(文教大学)は、「ホロコースト修正主義」と言う訳語を使用している。日本におけるホロコースト否認論の批判者は、「ホロコースト修正主義」という訳語を好む傾向が強い。
主な主張には、1988年にアウシュヴィッツを訪れ、同地で公開されている「ガス室」が本当に処刑用のガス室であったか否かを検証した『ロイヒター・レポート』、当時マックス・プランク研究所で化学による博士課程にあったゲルマー・ルドルフのルドルフ・レポート(1993年)がある。また、歴史家であったデイヴィッド・アーヴィングも「ナチス政策の正当化とホロコースト否定」について著書を記しているが、1996年にはアメリカ人の歴史学者デボラ・リップシュタット(英語版)は、アーヴィングが意図的に事実をゆがめて書いていると非難した。アーヴィングはリップシュタットと彼女の書籍を出版した会社を名誉毀損で訴えたところ、イギリスの裁判所ではリップシュタットの主張が正しいと認定される事件が起きている(アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件(英語版))。2006年、アーヴィングはオーストリアの裁判所によってホロコースト否定の罪によって起訴され、この場で「私は1989年にホロコーストを否定したが、1991年にアイヒマン論文を読んでからは認識を改めた」「ナチスは数百万人のユダヤ人を殺した」「具体的な数字は知らない。私はホロコーストの専門家ではない」と、自らの否定説を撤回するような発言を行ったものの、3年の懲役刑を受けた[120]。
また、日本では、一連のユダヤ陰謀論書籍で知られる宇野正美がアンネの日記は捏造であると述べたフランスのロベール・フォリソン(フランス語版)などの説や、ロイヒター・レポートを引用してたびたびホロコーストを否定する書籍を出版している[121]。また、社会問題となったものとしては、医師の西岡昌紀がロイヒター・レポートなどを引用して書いた、「『ガス室』はなかった」という記事が、月刊誌「マルコポーロ」(1995年2月号)に掲載されたマルコポーロ事件が特に著名である。この記事は寛容博物館(英語版)の運営団体にあたるサイモン・ウィーゼンタール・センターによって激しい抗議を受けた。出版元であった文藝春秋は当時の社長・田中健五が公式に謝罪して退任するとともに、マルコポーロそのものの廃刊と編集長の花田紀凱の解任を決定した。1997年には自らの否定説を梶村太一郎と金子マーティンによって批判された木村愛二が、掲載誌の『週刊金曜日』と著者の二人を名誉毀損で告訴しているが、1999年2月に全面敗訴している。この際裁判所は「ホロコーストは世界にあまねく認められた歴史的事実」という認定を行っている[121]。
2006年3月6日、イラン国営日刊紙Jomhouri-e Eslami(Jomhouri Islami/ジョムホーリ・イスラーミ)の準公式的記事は、元ドイツ連邦共和国首相ヘルムート・コールがドイツにおけるイラン人ビジネスマンたちとの夕食会の席で、イラン大統領マフムード・アフマディーネジャードの発言「ホロコーストは作り話」という件に関し「心底賛成する」と述べ、また、「アフマディネジャド大統領が言ったことは、我々が胸に深く秘めていたことだ。我々はこのことを長い間言いたかったが、言う勇気がなかった」とも述べたと伝えた。[# 14]。しかし後にコール自身が公式にこの発言を否定し、その根拠も存在するため、これは誤報であったことが判明した。[122]。同年の12月11日にはホロコースト・グローバルヴィジョン検討国際会議という否定論者を集めた国際会議がテヘランで開催され、欧米諸国などから強い批判を受けた。
2008年11月、聖ピオ十世会の司教リチャード・ウィリアムソンは「ユダヤ人600万がガス室で殺害されたことは史実ではない」と語り[# 15]、ユダヤ人の死亡者総数は約20万から30万人だと主張した(これは歴史修正主義者の説とほぼ一致する数である)。ウイリアムソンら聖ピオ十世会の聖職者は1988年に叙任問題で自動破門されていたが、教皇ベネディクト16世は聖ピオ十世会との宥和を目指すため、2009年1月に彼らの破門を解除した。バチカンは破門解除にあたってウィリアムソンの発言を知らなかったと釈明している。ベネディクト16世はホロコースト否認をくりかえし非難しており、ウィリアムソンは後に聖ピオ十世会からも追放された。
ドイツ[# 16]、フランス[# 17]、オーストリア[# 18]、ベルギー[# 19]、ルクセンブルク[# 20]などでは「ナチス(政権下におけるドイツ)の犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されている。2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。
また、フランスの人種的憎悪教唆罪など、人種差別禁止法律に抵触して「ホロコースト否定」が裁かれる事例もある。これらの罪で有罪判決を受けたホロコースト否認論者ロジェ・ガロディはこれらの法律が欧州人権条約に違反しており、権利を否定されたとして欧州人権裁判所に訴えた。1998年に同第四小法廷はこの訴えを不受理とし、ガロディの主張が明白な人種主義によるものであると裁定した[119]。
2006年5月16日、ルクセンブルクで開催されたドイツを含む関係国11か国と赤十字国際委員会 (ICRC: The International Committee of the Red Cross) による年次総会で一般公開に関する合意が得られ、ナチス政権下におけるドイツ政府の公文書が一般公開されることが決まった[# 21]。この文書は最大5000万件にも達するもので、アメリカ、ポーランド、ドイツ、イスラエルを始めとした11か国とICRCがドイツ中部のバート・アーロルゼンにある国際追跡事業(英語版)という名前の公文書館で共同で管理している。
公文書には強制収容所に収容されたり虐殺された人々約1750万人の個人情報が、収容された経緯やその後の処置なども含めて詳しく記載されているものがあるという。
同公文書はドイツの行為の直接被害を受けた者あるいはその遺族だけが特別に閲覧を許されてきた。同公文書館には毎年15万件もの問い合わせがあったというが、一般閲覧できる資料が限られていたため、研究者にとっては調査の障害となっていた。
ドイツ政府は国家賠償問題が新たに発生することを懸念して、プライバシー保護を建前としてこれまで一般公開を拒んできたが、その他のITS管理者、つまり関係10か国と赤十字国際委員会は一般公開を希望していた。アメリカやフランスなど関係国の圧力と、戦後60年という歳月が流れた事実が、ドイツが一般公開を受け入れることになった要因となったとされる。
2005年5月12日、ベルリンのブランデンブルク門の南に「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 Denkmal für die ermordeten Juden Europas」(通称ホロコースト記念碑)が一般公開された[123]。[124]。設計したのはアメリカ・ニューヨーク在住のピーター・アイゼンマン。建設計画はドイツ再統一前の1988年に、開始されたが[125]、慰霊対象者をユダヤ人に限定するのか、それとも戦争犠牲者、シンティおよびロマ、同性愛者、強制労働者、障害者などの犠牲者全体を対象とするか、また、なぜこのような巨大な記念碑を建設する必要があるのかで激しい論争が起きた。1999年、連邦議会は、対象をヨーロッパのユダヤ人に限定することが可決。2003年4月から建設が開始されるが、コンクリートの液化装置と石碑の落書き防止に関わっていたデグサ (Degussa) 社が、ナチス時代に強制収容所で使用されたツィクロンBの製造会社の姉妹会社であることが判明し、同年10月に工事は一時停止される。建設責任者のレア・ロッシュ(英語版)は非難されたが、結局、デグサ社への委託は続けられ、同年末に工事が再開され、第二次世界大戦終結および強制収容所解放60周年、ドイツとイスラエルの国交樹立40周年である2005年の完成に至った。
なお、ユダヤ人以外のシンティとロマ、同性愛者といった犠牲者のための記念碑は、連邦政府がすでに建設案を決議し、現在建設計画中である。
イスラム世界では、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へとつながったとする反発から、ホロコーストを否定又は過小評価しようとする意見も根強い(特に、エジプトはファールーク1世王当時から親ナチであった)。2005年にイランのアフマディネジャド大統領が「ホロコーストはなかった」と発言。2006年12月にはイランでホロコーストをイスラエルなどの捏造だと考える世界の歴史研究者が集まり会議が開かれ、欧米諸国は言論を弾圧しデマで真実を覆い隠していると非難声明を出した。
2009年現在、イスラエル本国でもホロコーストを信じないアラブ系イスラエル人が増加している。ホロコーストは実在しなかったと信じるアラブ系イスラエル人は40.5%にのぼり、2006年の調査時の28%を大幅に上回った[# 22]。
2008年2月29日、イスラエルのマタン・ヴィルナイ国防副大臣は、パレスチナ過激派のハマースによるロケット弾攻撃に対して、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模な השואה(shoah、ショアー)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[126]と述べ、「ショアー」という表現をあえて使った。この発言について、イタン・ギンツブルグ国防副大臣などは「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[# 23]と火消しした(パレスチナ問題も参照)。
イスラエルによるパレスチナへの攻撃に対し、パレスチナ側などから「イスラエルによるホロコースト」という批判を受けている。ヴィルナイ発言は、その批判に拍車を掛けることになった。
2014年のガザ侵攻では、オランダ人男性がイスラエル政府に授与された「諸国民の中の正義の人」称号を返上した事件があった。家族で戦時下にユダヤ人少年2人を危険を冒してかくまったことに対して、戦後イスラエル政府が授与した物であった。しかし、この男性の甥の娘がガザ地区のパレスチナ人に嫁ぎ、イスラエル国防軍の攻撃で一家6人が殺害されたため、抗議のためにイスラエル大使館に出向き、称号とメダルを返上した[127]。男性は『ハアレツ』紙の取材に、「イスラエル国家に授与された名誉を持ち続けることは、(ユダヤ人を保護するため)人生を危険を冒した、勇敢な母に対する侮辱になる」と答えた。[128]。
イスラエルなどでは、「ホロコーストはパレスチナ指導者のアミーン・フサイニーがヒトラーを唆した」あるいは「フサイニーはヒトラーの共犯者」という主張が行われている。
イスラエルのネタニヤフ首相は、2012年にクネセト(国会)で、ヒトラーはユダヤ人の追放を望んでいただけであり、パレスチナ指導者のアミーン・フサイニーに虐殺を唆されたと主張した[129][130]。ネタニヤフは同様の主張をその後も続けた[131]。
ネタニヤフはさらに2015年10月20日、世界シオニスト機構で次のように述べた。「ヒトラーはユダヤ人を一度に絶滅させるつもりは無かった。ユダヤ人の追放を望んでいただけでした。しかし、大ムフティーであるアミーン・フサイニーはヒトラーに言った、『あなたがかれらを追放した場合、また(復讐しに)来るでしょう』、ヒトラー『私達はどうすべきか』『焼き尽くせ』。これはアミール・フサイニーが言った物です[132][133][134]」。
フサイニーがヒトラーと会談したことは事実である。しかし、フサイニーとヒトラーの会談は1941年11月であり、同年9月にはヒトラー政権によって、キエフ郊外のバビ・ヤールで3万人を超すユダヤ人の虐殺が行われていた(バビ・ヤールの虐殺)。「ヒトラーはユダヤ人の追放を望んでいただけ」とするネタニヤフの主張の根拠は不明である。『ハアレツ』のChemi Shalev記者は、「これがもしネタニヤフでなければ、サイモン・ウィーゼンタール・センター、ADL(名誉毀損防止同盟)、ヤド・ヴァシェムらはすでにホロコースト否定論だと叫んでいただろう」とネタニヤフを批判した[135]。また『ハアレツ』はヴォルフガング・G・シュヴァニッツとバリー・ルビンの"Nazis, Islamists, and the Making of the Modern Middle East"を引き、ネタニヤフが主張するようなヒトラーとフサイニーのやりとりはそもそも無く、ヒトラーがユダヤ人絶滅を決意したのは会談前と指摘した[130]。しかし一方で、アメリカのシンクタンク「中東フォーラム」によると、同フォーラム所属のシュヴァニッツは、「アル・フサイニーがアドルフ・ヒトラーとホロコーストの中で重要な役割を果たした共闘者であり、共犯者であったことは歴史的事実である」と主張した。ただし、ネタニヤフが主張したような二人のやりとりはなかったという[136]。
ネタニヤフの一連の発言に対し、相次いで批判が行われた。パレスチナ解放機構のエレカト事務総長は、「イスラエル政府の指導者が、隣人をあまりに憎むあまり、ユダヤ人600万人を殺した史上最大の極悪人さえ免罪してもかまわないという。歴史の上で悲しい日だ」と声明を発表した。国際連合のファルハン・ハク報道官は10月21日の記者会見で「ホロコーストがナチス以外のパレスチナ人やイスラム教徒に触発されたものだという主張は全く論外だ」と述べた[137]。同日、ドイツのアンゲラ・メルケル首相はネタニヤフとの共同記者会見で、「この問題について歴史認識を変える必要性を感じていない。われわれはドイツとして『ショーア(ショアー)』に対する自分たちの責任を受け入れている」と事実上ネタニヤフ発言を否定し、ネタニヤフも「ホロコーストはヒットラーの責任だったと誰も否定してはならない」と述べた[138]。
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A hoax is a deliberately fabricated falsehood made to masquerade as truth.[1] It is distinguishable from errors in observation or judgment,[1] or rumors, urban legends, pseudosciences or April Fools' Day events that are passed along in good faith by believers or as jokes.[2]
The English philologist Robert Nares (1753–1829) says that the word hoax was coined in the late 18th century as a contraction of the verb hocus, which means "to cheat",[3] "to impose upon"[3] or "to befuddle often with drugged liquor".[4] Hocus is a shortening of the magic incantation hocus pocus,[4] whose origin is disputed.[5]
Robert Nares defined the word hoax as meaning "to cheat", dating from Thomas Ady's 1656 book A candle in the dark, or a treatise on the nature of witches and witchcraft.[6]
The term hoax is occasionally used in reference to urban legends and rumors, but the folklorist Jan Harold Brunvand argues that most of them lack evidence of deliberate creations of falsehood and are passed along in good faith by believers or as jokes, so the term should be used for only those with a probable conscious attempt to deceive.[2] As for the closely related terms practical joke and prank, Brunvand states that although there are instances where they overlap, hoax tends to indicate "relatively complex and large-scale fabrications" and includes deceptions that go beyond the merely playful and "cause material loss or harm to the victim".[7]
According to Professor Lynda Walsh of the University of Nevada, Reno, some hoaxes—such as the Great Stock Exchange Fraud of 1814, labeled as a hoax by contemporary commentators—are financial in nature, and successful hoaxers—such as P. T. Barnum, whose Fiji mermaid contributed to his wealth—often acquire monetary gain or fame through their fabrications, so the distinction between hoax and fraud is not necessarily clear.[8] Alex Boese, the creator of the Museum of Hoaxes, states that the only distinction between them is the reaction of the public, because a fraud can be classified as a hoax when its method of acquiring financial gain creates a broad public impact or captures the imagination of the masses.[9]
One of the earliest recorded media hoaxes is a fake almanac published by Jonathan Swift under the pseudonym of Isaac Bickerstaff in 1708.[10] Swift predicted the death of John Partridge, one of the leading astrologers in England at that time, in the almanac and later issued an elegy on the day Partridge was supposed to have died. Partridge's reputation was damaged as a result and his astrological almanac was not published for the next six years.[10]
It is possible to perpetrate a hoax by making only true statements using unfamiliar wording or context, such as in the Dihydrogen monoxide hoax. Political hoaxes are sometimes motivated by the desire to ridicule or besmirch opposing politicians or political institutions, often before elections.
A hoax differs from a magic trick or from fiction (books, movies, theatre, radio, television, etc.) in that the audience is unaware of being deceived, whereas in watching a magician perform an illusion the audience expects to be tricked.
A hoax is often intended as a practical joke or to cause embarrassment, or to provoke social or political change by raising people's awareness of something. It can also emerge from a marketing or advertising purpose. For example, to market a romantic comedy movie, a director staged a phony "incident" during a supposed wedding, which showed a bride and preacher getting knocked into a pool by a clumsy fall from a best man.[11] A resulting video clip of Chloe and Keith's Wedding was uploaded to YouTube and was viewed by over 30 million people and the couple was interviewed by numerous talk shows.[11] Viewers were deluded into thinking that it was an authentic clip of a real accident at a real wedding; but a story in USA Today in 2009 revealed it was a hoax.[11]
A borderline case between fiction and hoax is a 1938 radio broadcast by Orson Welles describing a Martian invasion of earth. Many people who tuned in without hearing the introduction of the program as fiction were concerned that the invasion was real. It has been suggested that Welles knew the schedule of a popular program on another channel, and scheduled the first report of the invasion to coincide with a commercial break in the other program so that people switching stations would be tricked.
Governments sometimes spread false information to assist them with aims such as going to war; the "Iraq dossier" is an example of this; these often come under the heading of black propaganda. There is often a mixture of outright hoax and suppression and management of information to give the desired impression. In wartime and times of international tension rumours abound, some of which may be deliberate hoaxes.
Examples of politics-related hoaxes:
Psychologist Peter Hancock has identified six steps which characterise a truly successful hoax:[12]
Hoaxes vary widely in their processes of creation, propagation, and entrenchment over time. For example, :
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But today, we can tell you: it's definitely a hoax. Chloe and Keith are actors named Josh Covitt and Charissa Wheeler. They're not married.
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