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学歴(がくれき)は、個人の学業上の経歴[1]。
学業の形態は様々であるが、小・中学校、高等学校、専門学校、高等専門学校や、短期大学、大学の学部・大学院等の教育機関における学業上の経歴を指すことが多い。
短期大学、大学の学部・大学院の各課程の修了者には、学位が授与される。短期大学の卒業者には短期大学士の学位、大学学部の学士課程修了者には学士が授与される。大学の大学院における修士課程あるいは専門職学位課程修了者には修士号あるいは専門職学位が授与される。博士課程を修了し、論文が認定された者には博士号が授与される。短期大学及び大学学部の学位を初級学位(First Degree)、大学院のそれを上級学位(Advanced Degree)と呼ぶ。学位は世界的通用性を持ち、世界的に最も一般的な学歴の基準である。厚生労働省の発表では学歴別の男女計の平均初任給は大学院卒が22万8千円、大学の学部卒が20万2千円、高専・短大卒が17万5千円、高校卒が16万円となっている。[2]
近代以前の社会においては、人々の社会的地位や職業はその身分・家柄・財産によって定められ、世襲や血縁、地縁などを加味して人材の選抜・配置が行われていた。
ところが、18世紀から19世紀ごろにかけて、近代的な官僚制度が生じ、官僚たちが試験によって任用されるようになり、また同じころ、専門的知識・技術が必要とされる職業についても試験制度が取り入れられ、学歴もそれらの職業につくための基礎資格として徐々に重要性を増していった[3]。
産業革命と市民社会が進展したイギリスにおいて、1853年に東インド会社によってインド高等文官の任用が会社理事による推薦から公開競争試験に移行し、1870年にはイギリス本国高等文官にも同様の試験が導入され、試験による人材の選抜・登用が官僚のみならず各種専門職などでも行われるようになった。このような人事制度は、「人々の能力・業績を公平かつ客観的に図る方法」などと謳われつつ導入され、「身分制社会から社会を解放して社会問題を解決する手段」として各国に普及した。ノーバート・ウィーナーは学歴社会を「統治者は永久に統治者であり、兵士は永久に兵士であり、労働者は労働者に運命づけられている」と定義づけている[4]。
日本でも明治時代以後、試験による選抜が行われるようになった。それでも明治初期は、農民層は学問を必要なものと感じておらず、その他の層も読み書きさえ出来ればよいとする考え方もあった[5]。
1900年代に入ると官僚的な組織を持った企業が増加した。しかし大半の企業は初等教育を終えたばかりの年少者を教育して手代、番頭へと昇進させる伝統的な人事制度をとっていて、財閥企業である安田銀行ですら14歳前後の年少者を採用して教育する採用を自慢していた[5][6]。
先進国においては、社会の高学歴化が起きた(後述)が、そうした仕組みの中で、大量の人々に学歴が与えられるようになり、学歴のインフレーションが進んだ。つまり高学歴を持っている人の数が非常に増え、相対的に高学歴者の価値は下がった。(例えばフランスなどもそうである[7]。)。
総務省の統計調査に用いる、最も高い教育の経歴を「最終学歴」(さいしゅうがくれき)という。通常は、最終学歴に「中退」は含まれず、直前に卒業した学校が最終学歴になる[8]。日本では短縮した呼称があり、中学校卒業の場合を「中卒」(ちゅうそつ)、高等学校卒業の場合を「高卒」(こうそつ)、専修学校専門課程卒業の場合を「専門卒」(せんもんそつ)、高等専門学校卒業の場合を「高専卒」(こうせんそつ)、短期大学卒業の場合を「短大卒」(たんだいそつ)、大学の学部(学群等を含む)の学士課程修了の場合を「大卒」(だいそつ)または「学卒」(がくそつ)、大学の大学院修士課程または専門職学位課程修了の場合を「院卒」(いんそつ)もしくは「院了」(いんりょう)、「中途退学」を「中退」と略して呼ぶ[9]。大学院の博士課程の場合、在学中に博士号が取得出来れば修了となるが、学位取得がなく、研究指導や講義科目の単位修得のみで在学期間が終わる場合は、退学(通称「満期退学」)になる。
学歴社会という事象は、歴史の節で説明したように、学歴が特定の職業的地位を獲得するための手段となったときに始まったと見ることができる[3]。学歴社会が生まれた要因としては、体系的な学校制度の進展と近代官僚制の成立により、いわゆる「ホワイトカラー」が誕生したことがあげられる[3]。学校教育制度について言えば、上級学校への進学者に対して一定の学歴を求める傾向が強くなったことと、多くの人々に学歴が賦与されるようになった[3]。企業組織の官僚制化ということに関して言えば、20世紀には大企業が多数出現した。これら大企業ではホワイトカラーの従業員の供給源を学校卒業者に依存する傾向を強めた[3]。かくして、18-19世紀に官僚になったり専門的職業に就く時だけ必要とされた学歴が、次第に様々な組織での任用の基礎的な資格として用いられるような状況になり、学閥を形成したのである[3]。
学歴が、特定の専門職に必要な知識の一指標として用いられている限りは、学閥として合理性を有してはいるといえる[3]。もっとも、今日では技術の進歩は速く、学歴は過ぎ去った過去に習得された古い技術の指標にすぎないにも関わらず、学歴が学閥として派閥活動の元になり、一生にわたって人々の能力評価の尺度とされることもしばしばある[3]。このような学歴の持つ有害な側面(学歴コンプレックス)は社会にとって不要なものであることから、2018年問題を好機として、学歴社会を解消する為に、ICTを利用し、スマートフォンなどでも教育を利用できる放送大学をより発展的に拡大し、貧富の差がなく、学歴を意識せずとも、高等教育が社会のあらゆる層に満遍なく行き渡るよう通信教育を広げる文教政策が取られ始めている。
筑波大学の後藤嘉宏によると、日本は他の国に比べ学歴による格差が小さく、学歴の重要度は他の国に比べ小さい[10]。[出典無効]
後藤によると「日本は学歴社会だ」というのは神話にすぎない[10]。むしろそのような神話があったことによって、社会階層の再生産化(つまり社会階層が固定化してしまうこと)が起きている、という[10]。“誰でも努力すれば、良い教育を受けられるし、いい学歴を得れば誰でも良い職業を得られる” などという考えは神話にすぎない、事実ではないという[10]。実際には、高学歴の親を持つ子が高学歴となり、学歴が低い親を持つと子は学歴が低くなってしまう傾向があるという不平等が実際にあるにもかかわらず、神話によってそうした現実が隠蔽されてしまっていたのである[10]。また「学歴によって生まれ変われる(階級を超えられる)」などとする神話は、あくまでブルーカラーからホワイトカラーへの移動について妥当なだけで、学歴ではその先のホワイトカラー同士の階層、ミドル階層と資本家(経営者)階層の間の社会階層差は乗り越えることができないと後藤は指摘している[10]。
日本では就職・転職時に用いられる履歴書に学歴欄があり、学歴を記入するのが原則となっている。中途採用なのでの経験者採用の場合、応募者は一般に履歴書と職務経歴書を用意し応募するが、学歴は履歴書のほうに記入し、職務経歴書のほうには原則的に学歴は書かない。厚生労働省設置法23条に基づき設置される公共職業安定所の求職申込書等においても学歴欄がある。
日本のサポート校や通信制学校など、学校法人が掲出している広告に「大卒資格取得できます」や「高卒資格も取得可能」などの謳い文句が書かれていることもあるが、大卒や高卒とはあくまでも「学歴の一種」であり、資格として有するものではないため、これは誤った用法である。
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