出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2013/11/15 09:24:06」(JST)
「科学」のその他の用法については「科学 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
科学シリーズ記事からの派生 |
自然科学
天文学 生物学 化学 地球科学 物理学 |
社会科学と行動科学
人類学 · 考古学 |
応用科学
工学 健康科学 |
形式科学
計算機科学 |
関連項目
学際 科学的方法 |
表・話・編・歴
|
科学(かがく)という語は文脈に応じて多様な意味をもつが、おおむね以下のような意味で用いられている。
他にも以下の意味で用いられることも多々ある。
「科学」なるものが何であるかについて論ずるのは、歴史的なコンテクストに依存していて、容易なことではない[2]。一言で言えば、歴史とともに「科学」の意味は変遷してきている[2]。 また、どのような知識内容が「科学的」であるか(あったか)を定めるそれなりの基準を設定しようと努力することはそれなり意味はあるが、厳密な境界設定は実際上はほとんど不可能である[2]、ともされる。 ただし、だからといって「科学」とは何であるか議論したり追究することが無意味というわけではない[2]。人々が、ある種の知識を「scientia」「science」あるいは「科学」と呼び、それに一定の権威を認めて、その知識の拡大と深化に努力してきた事実は残っている[2]。
「科学」という語の意味は多様であるが、たとえばそれを「自然についての体系的知識」と限定的に解釈する場合でも、それを俯瞰的にみると、世界の各地域にそれはあったのであり、それをたとえば西洋科学と非西洋科学とに分かれていると見なすことも可能である。そして西洋科学は時代ごとに古典科学、近代科学に分かれていると見なすことも可能である[1]。
西洋科学と非西洋科学の関係を俯瞰し、あえて図に現すとしても、それは優劣が比較できるような直線的な図であらわされるようなものではなく、網状の複雑な地形図になるであろう[1]。また、そもそもそれらを共通の尺度で測るということ自体が無理なのである。そのようなことを、科学史家のトーマス・クーンは「incommensurable通約不可能」とか「通約不可能性」と呼んだ。西洋の科学と非西洋の科学では、それぞれ異なった言語ゲームを行っており、相互に通約することは不可能なのである[1]。
本記事では、まず西洋の科学を時代順に古典科学、近代科学の順で解説し、つづいて非西洋科学について解説し、そして日本の科学事情や現代科学について解説する。
ただし、科学について解説するとは言っても18世紀ないし19世紀ごろになるまでは現代の意味での「科学」という言葉があったわけではなく(後述)、厳密に言えば当時の人々は学問をもっぱらphilosophiaフィロソフィアという言葉で把握し実践していたので、結局、その広範囲で様々な性質を備えた知的営みの中から、現代の科学史家らが「科学」に分類されると判断し、部分的に、そして恣意的に抽出したことを解説することになる。(よって、そのもともとの位置づけや性質を正確に理解するには、philosophia(哲学)やphilosophia physica(自然哲学)の記事も併せて読むことが望ましい)
「哲学」および「自然哲学」も参照
古代ギリシャ以降、近代ヨーロッパまで、知の探求全般は、古典ギリシア語: φιλοσοφια(フィロソフィア)と呼ばれていた(直訳すれば「愛知」。知を愛すること。[3])
古代から中世にかけての知識のうち、科学史家などによって科学に分類されるものは、現在では「古典科学」と呼ばれることがある[4]。
現在の英語やフランス語等のscienceという語は、ラテン語: scientia に由来したもので、scientiaスキエンティアは単に「知識」という意味でしかなかった [5]。このようなscientiaの用法は、18世紀まではごく普通に流通し、さらに19世紀のある時期までも存続しつづけていたようだ[5]という。[6]
「論証的学問」や「厳密な証明を伴った学問の性質をそなえた」という意味での表現ならば、古代や中世からすでに存在し、ギリシャ語では「エピステーモニコス」という語が用いられていた[7][8]。
太古の昔から、自分たちをとりまく自然の現象や自身のからだについて関心を持っていた文明もある。歴史上、古代オリエント、古代インド、古代中国をはじめとするさまざまな文明圏において、これらの関心対象を説明するための知識や経験が蓄積され、学問として体系化されていった[9][10][11]。古代に形成された学問の諸体系のなかでも後世に大きな影響力を残したのが古代ギリシアの哲学である。古代ギリシャの知識を直接に継承したのはヨーロッパではなくイスラム世界であった[12]。中世においてはイスラム科学が最も先進的な地位を占めることになった。後進地域にすぎなかったヨーロッパは、先進のイスラム諸国から科学や技術を輸入し、長い年月をかけて追いついた歴史がある[13]。
古代ギリシャでも自然哲学と呼ばれる自然に関する考察は行われていたものの、当時の知的探求フィロソフィアの主たるテーマは倫理的なものや社会的なものであったので、自然哲学はそれ単独で行われるというよりも、哲学の中の一部として行われており、知的活動としては脇役的な存在ではあった[14]。
タレスは神話的思考の伝統から断絶し、「万物のアルケーは水である」と見なしたという。コスのヒポクラテスは経験主義的医学を生んだ[15]。また徹底して根拠を求める思考習慣が、「論証」や「証明」を鍵とする、理論的形態の数学を生み出した。西欧的「合理主義」の源流はこのような思考形態に求められる[4]ともされる。
古代ギリシャの古典科学は、大きく分類して二つ(ないし三つ)の構成要素から成り立っている[4]ともされる。理論数学、および経験的自然学(および、それを基礎とした医学・医術)である。
ここでいう理論数学とは、議論の出発点に諸原理(定義や公理)を置き、そこから何らかの命題が真であることを論証してゆく形態の数学のことであり、演繹的に命題群を証明してできた体系を「公理論的数学」という。このような数学を、キオスのヒポクラテスが体系づけはじめ、紀元前300年ころには、ユークリッドが『原論』を編纂し、集大成した。ユークリッドの『原論』を幾何学の書とするのは誤解であり、算術を含んでいた。当時の純粋数学は、離散量についての理論的学科としての算術と、数直線から構成される連続量についての幾何学を含んでいた。離散量を扱う算術の応用に音階学(現在の音楽)があった。当時すでに幾何学は平面幾何学と立体幾何学を含んでおり、立体幾何学の応用部門として天文学が存在していた。
physica自然学は論理的・経験的方法で営まれた。今日その代表例と見なされているのがアリストテレスの『自然学』であり、日常的観察と徹底した論理的思索によって成っていた。尚、自然学では議論できない自然を超えた存在、超越的存在、自然現象を生じさせる究極の原因などは、アリストテレスの学問体系では『形而上学』において扱われた。数学と自然学の間の中間的な学問としては、視学(今日の光学)、機械学、および前述の音階学、天文学などがあると見なされていた。
古代ギリシャ科学を直接に継承したのは、ヨーロッパ世界ではなく、イスラームを基礎とし、アラビア語を共通言語として成立している世界(すなわちイスラーム世界)であり、地中海の広大な地域であった[12]。この科学は一般に「イスラーム科学」もしくは「アラビア科学」と呼ばれている。このイスラーム科学は9世紀から16世紀まで栄え、世界の科学をリードしもした[12]。
インド数字による計算法(今日の算用数字による計算法の起源)、Al-jabrアルジャブルという未知数を使った計算理論が、フワーリズミーによって数学理論に加えられた(これは現在の代数学(英: Algebra)へとつながるものである)。自然を実践的・実験的に操作する学問としてAl kimiyaが重視されていた[12](Al kimiya(錬金術)は化学の源流となった)。イスラーム科学には研究センターが存在しており、バクダードにバイト・アル・ヒクマ(知恵の館)があった[12]。
「イスラム科学」も参照
イスラームで発展した先進の諸知識(フィロソフィア、現代で言う「科学」を含む)は、12世紀ころになると、大量のアラビア語文献がラテン語に翻訳される形で中世ヨーロッパ世界に導入されるようになりはじめた[16](この大翻訳運動を12世紀ルネッサンスとも言う[16])。それによってイスラーム世界に継承されていた古代ギリシャの知識が流入するようになり、それまでヨーロッパの人々はアリストテレスを知らなかったのであるが、アラビア語からラテン語へ翻訳された形で接するようになった。(また、数は少ないが、直接ギリシャ語からラテン語に翻訳された文献も一部にはあった[16]。)
13世紀になると、上記のごとく流入してきたアリストテレス的学問がキリスト教的に解釈しなおされて、キリスト教的なアリストテレス主義の哲学(学問)体系が現れた[16]。これはスコラ哲学と呼ばれる。中世の学者らはアリストテレスの用語や概念で思索を行うようになったのである。
この中世ヨーロッパの学問(スコラ学)に含まれる(現代で言うところの)科学関連の知識を抽出したものは、それの記述に用いられていた言語(=ラテン語)にちなんで中世ラテン科学と呼ばれることがある[16]。
この「中世ラテン科学」の傑出した人物としてはアルベルトゥス・マグヌスとトーマス・アクイナスを挙げることができる[16]。同時代、イギリス側ではロジャー・ベーコン(1214 - 1294)が当時世界の最先端にあったアラビア科学の文献を読み、当時のヨーロッパとしては珍しく、実験や観察を重視した。ビュリダン(1295頃 - 1358)はインペトゥス理論を構築した。
前述のごとくscientiaないしscienceという用語は、もともと単に”知識”という意味であり、17世紀当時でもきわめて広義に用いられていたので、今日的な意味での「近代自然科学」の意味で使う人が現れた時期がいつなのか探るのは困難であり、せいぜい、"精密自然科学が成立したのと同時"というほかはないという[7]。つまり、その時期に現代で言うところの精密科学的な活動をする人が一部現れたのだから、scientiaという言葉がそれを指す場面もあらわれたのではないか、語にそういう意味が加わったと見なすことも可能ではあろう、という程度のことである。ごく一部、例えば学問基準を定めようとしていたトーマス・ホッブズが自著の中でscientificusという言葉を用いた時の用法が、現代風の精密科学という意味にいくらか似ているとはいう。だが、その事例ですら「論証的学問」という意味も引きずっていたといい、やはりはっきりしない[17][18]。
20世紀の歴史学者ハーバート・バターフィールドは、17世紀のヨーロッパにおいて、自然現象を単に眺めて考察するという状態から一歩進んで、自然法則が作用する環境をさまざまな撹乱要因を取り除いて人為的に作り出す試み、すなわち実験(冒険)という手法を採用して、実証的に知識体系を進歩させていくという知的営為が形成されたとした。バターフィールドはこれを「科学革命」と名付け、人類史上における一大画期であるとして高い評価を与えた[19]。
長らく西洋より高度な水準にあった中国科学は、天文学や物理学などの領域では17~18世紀頃に西洋科学に並ばれ、ついには追い抜かれもした。だが、対象が生命に関する領域や、有機体論的な性格を帯びた領域では、単純に西洋が優れているわけではない[20]。特に医学の領域である。そうした、中国の科学が優れた分野として、例えばニーダムは中医学の鍼療法を挙げている[20]。中国や日本における臨床結果から一定の効果があることが知られていて、症状によっては西洋医学でも治せないものが、鍼療法でなら治せるというものがあるが、西洋医学の理論体系では鍼療法がなぜ効くのかその原理をうまく把握することが出来ないでいる[20]。それがなぜ効くのかの解明は、中国・日本などの協力でなされなければならない[20]、と佐々木は述べた。
中国科学の体系を西洋科学では把握することができないのである。西洋医学は西洋的な考え方をし、東洋医学は東洋的な考え方をしているという。(素朴な人は“科学は事実を記述している”などと思うが、それは一種の幻想なのであって)考え方・理論が異なると、同じ症状を眼の前にしても、解釈が異なり、異なった姿が描き出されることになる[21]。症状が同じでも、考え方が異なると、そこに別の病気の実態を見ているのである[21]。他の理論体系を理解するには、まず、ものの見方・考え方によって森羅万象が異なった姿に見えてくる、ということに気付くことが第一歩になる[21]。それはちょうど、同じ風景を見て描いても描く人によって全然異なった風景画ができあがるのと同じようなことだという[21]。からだを見る見方にも、《関連する一連の構造物》と見なす観点と、《相互に依存しあう一連の機能》と見なす観点があるが、西洋医学は構造物と見てしまう傾向があり、東洋医学は機能に着目する傾向がある[22]。中医学は、構造にあまり重きを置かなかったおかげで、そのかわりにからだの諸機能同士の関係を明らかにしてきた歴史があり、そのおかげで患者の健康を増進させることができたのである[22]。
《構造物》にばかりこだわる者たちは、無思慮なことに、大切な免疫器官を破壊してしまったのであり、《機能》を重視する東洋の医学者・科学者は、それらの器官の有益な働きを増強する具体的な方法を開発した[22]とワイルは指摘した。
また、西洋でデカルトなどが主張した結果18~19世紀に人々に広まってしまった(内的な力を無視し、外的な力ばかりにこだわる思考様式としばしば関連のある[23])機械論というパラダイムに問題があると指摘されることもあり[24]、さらに機械論に加えて西洋医学の還元主義というパラダイムも問題だと指摘されており、(還元主義は、ただの絵空事のドグマ(=教義)としては成立するかも知れないが[25])本物の生命を相手にする臨床の場においては全然間違っていて、非常に問題があるものだ、との指摘されることもある[25]。
「科学」という語は、中国では、12世紀に南宋の陳亮という人が科挙で試される学問「科挙之学」の略語として使ったことが知られている。しかし科挙の意味は、科目ごとの試験によって官吏(かんり)を選ぶという意味であった。 これが日本に入ってきたと言われている[26]。
幕末から明治にかけての日本では、中国語を借りて「科學」という語が使われはじめた。井上毅(『学制意見案』1871年)、福沢諭吉(『学問のすすめ』)1874年、西周(『明六雑誌「知見四」』1874年)に「科學」という言葉が使われている[26]。 (字体は新字体の採用により「科学」と書くようになった。) ただし日本語で「科学」という用語は、自然科学のために排他的に使われた言葉ではなく、一般に「個別学科」を意味していた[27]。
明治元年には福澤諭吉が執筆した日本初の科学書である『窮理図解』が出版されている。また、明治時代に science という語が入ってきた際、啓蒙思想家の西周が、その訳語として「科学」を当てた[28]。
明治が進み、日本で学問教育体制が整うにつれて、「科学」という用語は、今日的な意味での「近代自然科学」という意味で用いられ定着していった。 更にその使い方が中国に伝播して、中国でもサイエンスの意味に使われるようになったと考えられている[29]。
英語、フランス語のscienceの訳語としては、「理学」という言葉も用いられた。これは、近代日本で自然科学の高等教育を授ける場の「理学部」、学位の「理学博士」などの制度的名称として残っている(尚、フランスで教育を受けた中江兆民はphilosophie(philosophyのフランス語)に「理学」という訳語を与えたが、他の訳語の「哲学」のほうが定着した)。
また、明治時代の日本では「理学」は、(今日で言う)自然科学と工学を総称する言葉であった[30][27]のであり、今日で言う「科学技術」に似た意味を持っていたことになる[27]。東アジアに西欧近代科学が体系的な形でもたらされたのは19世紀後半であったが、ちょうどこの時期ヨーロッパやアメリカでも科学と技術の融合が進み、そのような状態で科学と技術を受容した東アジア諸国の人々は科学と技術を簡単には識別できなくなった[31]。
自国において科学を成熟させ、制度化して専門分化させてきた西洋諸国(特にドイツ)と違い、明治政府はそれらの「科学」(すなわち「分科の学」)を導入していった経緯を持っている[32]。
当時の日本の国家戦略が確定した経緯として、伊藤博文が起こした「明治十四年の政変」がある。 これは当時、イギリスとフランスをモデル国家にしようとしていた自由主義派と、ドイツ帝国、中でもプロイセンをモデル国家にしようとする、天皇制絶対主義派があり、伊藤博文が主導して自由主義派を追い落とした政変で、これにより日本はドイツのプロイセンをモデルとする方向に定まった。 明治政府は近代国家をめざして、1877年に東京大学を創立し、1886年には、それを西欧科学導入を目的として「帝国大学」の名で再編したが、その際「ドイツ近代大学」がモデルとされたのはそういう理由からである[33]。
イギリスでは別の学問モデル(個別学問分野での専門的研究を中心とするのではなく、全人教育)を採用していたのに対して、ドイツ学者は自分が従事する学問の意味を深く問うこともなく、特定分野で業績をあげることばかりを追求し、他の学問分野については驚くべき無知さをあらわにしつつあった(と当時のイギリス人が観察していた)[34]。
ヨーロッパでは、文化・学問はしっかり根があり、系統立っている(ササラ型の)構造であるのに対し、日本では、共通の根を切りすててしまい、狭い分野に独立して独創的研究で成果をあげる事が求められる(タコツボ型の)構造になっているのには上記のような歴史的事情による[35][34]。
今日、「科学」の語は、人文科学、社会科学といった、自然科学の領域には入らないものも含めて指すためにもしばしば用いられている。
科学的手法とは、ある事物や現象を説明するにあたり、考えられる様々な仮説から、再現性を持つ実験や観測を行い、その結果に矛盾しない説明を選びだすプロセスの事である。 科学的説明には、用いた実験方法や測定方法が公開され、第三者に検証される事が重要である。 また、実験や測定には、ある程度の精度がある事が望ましいとされる。
「科学的方法」も参照
何が科学で何が科学でないのか、数世紀におよぶ議論は混沌としていたが、20世紀前半の科学哲学者カール・ポパーが反証可能性の概念を提示し、それを条件とすることで理論が科学(彼が考える狭義の科学)に属するかそうでないかを線引きできることを示してみせた。混沌とした議論に悩まされ続けていた科学者らの中には反証可能性の概念や反証主義をひとつの解決策として歓迎する人が多かった。現在でも、これを科学と疑似科学とを区分する基準として採用する人は多い [36]。
(ただし、ポパー流の視点に基づけば、「光の速度は不変である」という仮説をおくことは、観察によって反証することが可能なので、科学たりうる。一方、ジークムント・フロイトの精神分析学やカール・マルクスのマルクス経済学は、観察によって反証するすべを持たないので、これら科学とは呼べないことになる。)
こうしたポパーの科学観に対しては1960年代から批判が加えられるようになった。その代表は科学史家トーマス・クーンのパラダイム論である。パラダイム論によれば、観察は、データを受動的に知覚するだけの行為ではなく、パラダイムすなわち特定の見方・考え方に基づいて事象を能動的に意味付ける行為である。従って、パラダイムそのものは個別の観察によって反証されるのではなく、別のパラダイムの登場によって「パラダイムシフト」の形で覆される。
また、科学に属する諸学問は科学的であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。
なお、論理実証主義をベースにし、「検証できないものは科学ではない」と考える科学者も未だに少なくないが、これには論理実証主義それ自体の検証が非常に困難であることをはじめ、数多くの理論的困難に出会い頓挫するため、これを境界の根拠にするのは難しい。
詳細は「線引き問題_(科学哲学)」を参照
科学の根本的な原理については一部の著名な科学者や科学哲学者らによって活発な議論が行なわれたわけだが、科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを発達させてきた。
物理学や無機化学は、対象の無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。 天文学や考古学など、実験や冒険による実証が困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。
近代の経済学者たちは、経済学を、ただの蓋然的言説ではなく科学的なものとしようと試みてきた[37]。
生体によって引き起こされる現象を扱う医学、薬学、心理学や、人々の巨大な社会集団を扱う経済学、社会学は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させてゆくものがあり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような手法に加え、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。
現代における科学的方法に関する一つの指針としては、全米科学振興協会による「すべてのアメリカ人の科学」がある。
詳細は「科学的方法#現代における指針の一例」を参照
科学は過去の知見を元に未来を予測する性向を強く持つ(自然の斉一性)。このため予測が「科学的」といえども、絶対的な確信は危険である。論理の前提とすべき命題の不知、確率的現象やカオスの存在により、しばしば裏切られるからである。
詳細は「バタフライ効果」、「カオス理論」、および「複雑系」を参照
「自然科学」も参照
19世紀後半以降、science という語は狭義において「自然科学」の意味で用いられるようになった。今日では、多くの局面において「科学」と言えば暗黙裡に「自然科学」を指していることも多い。自然科学は、自然の成り立ちやあり方を理解し、説明・記述しようとする学問の総称である。物理学、化学、生物学などの理学と呼ばれる分野と、医学、農学、工学などの応用科学と呼ばれる分野とを含んでいる。なお、今日では便宜上、19世紀以前の自然哲学の諸研究も、自然科学の一部として分類し扱っている。
この背景として、第1に、自然科学においては科学的方法を適用しやすい点があげられる。ただし、科学的方法が適用可能なのは自然科学のみとは限らない。また、一般的には数学は自然科学の一分野として認識されることが多いが、現代の数学は公理を前提とした演繹手続きとして定式化されており、実験や観察を伴わないことから、科学には含まれないとする見方もある。
第2に、産業革命以降、自然科学の一部が技術と結びついた点があげられる。歴史的には、科学は自然の探求として科学者によって担われ、技術は生活の利便を向上させるものとして職人階層によって担われてきた。しかし産業革命以降、自然科学の知識と手法を応用することで、技術は科学技術へと進化し、工業生産性の向上、公衆衛生水準の向上、そして軍事上の優位など、社会に対して巨大な実用的利益をもたらした。同時に、技術進歩のニーズによって科学研究も大いに刺激を受けた。
第一次世界大戦と第二次世界大戦では、科学者は国家によって動員され、化学兵器や核兵器の開発によって戦争の帰趨に影響を与えた。戦後、科学技術政策は国家政策においても重要な要素として取り込まれている。また科学技術の一層の進歩により、科学は社会から遊離した純粋な知的営為として位置づけることは困難となっている。
この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。議論はノートの「現代科学の問題について」節を参照してください。(2010年7月) |
池田清彦によれば、18世紀ごろまでは、科学はアマチュアによって行われており、「科学者」という職業はなかった、と言われている。19世紀の終わりから20世紀にかけて、大学に科学系の学部が設置された。 19世紀になると、フランスのエコール・ポリテクニークに代表されるように、科学技術教育の制度化が一部で行われるようになったが、まだ科学は基本的には一部の(大学の専門教育制度を経ていない)天才的な者(ベンツ、デュポン、エジソンなど)によって担われていた。 だが、20世紀になると、軍事力強化、富国強兵などを目指す国家は国策として、科学技術の興隆に力を入れ、それにより若者が高等教育機関に吸い寄せられ、養成機関を経て科学者や技術者になる者ができる制度ができた(科学の制度化)。それにより科学の探究が職業化するという現象が起き(科学の職業化)、同時に科学に「天才の科学」から「凡人の科学」への転換が起きたという。 つまり、科学をあくまで「身すぎ世すぎ」(生活費を稼ぐこと)のための道具とする人々が出現することになった。科学に必要な興味が無くなっても、才能が枯渇しても、そもそも才能が足りなくても、おいそれとは研究をやめるわけにはいかないというような人々が出現したのである[38]。
20世紀を通して成長した科学は、技術と一体化し、エレクトロニクス、情報通信技術、生命科学技術などの分野でそのメリットが認められ、拡大の一途をたどってきた。それにともない、科学研究に投入される資金の額は増加の一途をたどってきた。科学コミュニティのメンバーの数がみるみる増大し、各メンバーが使う資金や各メンバーの人件費の総額も加速度的に大きくなってきたのである。だが、その結果、社会・国民が供給可能な資金・資源には限界があることは直視せざるを得ないようになっている。科学研究を行うということは資源や資本の使用が伴うが、現代の科学が使っている資源・資本の量はすでに社会が供給できるものの限界に迫りつつある [39]。
池田清彦は「科学は資金面に関しては、社会の寄生虫のようなもの」と表現している[40]。 また、「現代科学は、自己増殖という欲望をもつ生命体に似ている。ひとたび科学のある専門分野が巨大化の道をたどり始めると、これを止めるのは容易ではない。(科学が巨大化すると)そこにつぎ込まれるカネが膨大になるわけだから、それで食ってる奴が大勢でてくる。関係者にとってみれば、巨大科学がつぶれるかどうかは死活問題であるから、さらなる巨大化のために、あらゆる努力を惜しまないことになる」とも述べている [41]。
また、「巨大科学は、なんだか日本の公共工事に似ている」とも述べている。かつてはそれなりの経済効果があったが、最近では意味がないものが多く、借金だけが累積するという最悪の構造になっている。(土木事業の例だと)もうかるのはゼネコンとそれに癒着した政治家だけであり、国と地方自治体の借金は膨大になっており、国民が税金を徴収される形でそれを払わなければならない状態であり、「大多数の国民にとってメリットよりデメリットの方がはるかに大きい」と述べている。一度、制度として作られたものを変化させることは、いかなる制度であっても容易ではなく、「公共事業が大変なお荷物になったのと同じように、巨大科学もまた、やっかいなお荷物にならない保証はない」と述べられている [42]。
巨大科学の成果が、(一部の科学関係者にとっての満足を除けば、)普通の人々にとっても、莫大な資金・資源を費やすほどの価値のあるものであるかということは自明ではないとされる。例えば、素粒子の発見などに使うカネがあったら、今この瞬間も苦しんでいるアフリカの難民たちの命を救うべく援助するべきだろう、と普通の人々は考えているかも知れないのであり、巨大科学などに費やしたりせず、「(そもそもは自分のお金であった)税金を返せ」と普通の人は思っているかも知れないのである [43]。
科学者には、"学術雑誌に沢山論文を書いた学者に、地位と報酬を与えるのは当然だ"といった考えが深く染み付いているのだろうが、それはあくまで科学者仲間の内部にしか通用しない理屈であって、科学のパトロン(特別なこととして資金を提供している側)である社会・国民は、それで納得するとは限らないとも指摘されている [44]。
また、「科学」という名のシステムの内部でパイの奪い合いが起きている[45]とされている。
池田清彦は次のように説明する。(税金の名目で)国家(政府)に集められたお金が支出されるとなると、このお金を誰が使うか、誰が自分の懐に入れるか、ということについて競争が起きる。名目上(あるいは建前として)このお金は国民の福祉に使われることになっている。すると、もっともらしいお話が作られなければならないなどと考える者が出てくる。「直接的な市場価値を有さない基礎科学の場合、これはほとんどウソつき競争のようになってくる可能性が高い」と池田清彦は述べている。例えば、発生学の研究者が"自分の研究が将来、ガンの治療や老化の防止に役立つ"と言って、(元は国民が払った税金の)研究資金を得て、研究を行い、後でその研究がガンの治療や老化の防止に全く役立たない、と判明しても、解雇もされないし、咎められない(このような事は民間企業では許されない)。 おまけに、この資金で論文を数篇書けば、科学者仲間では評価が高くなるのだという。だが、このような社会をゴマかすやり方、国民全体を欺くようなやり方が、いつまでも通用するかどうかは明らかではないと池田清彦は述べている [46]。
上述のとごく、社会(国民)が供給できる資金には限りがあり、その資金で雇うことのできる科学者の数、ポストの数は限られている。ところが、科学システムの拡大を指向する科学コミュニティはメンバーを累増させるべく様々な活動を行い、大学は大学院生の数を増やし続けてきた。その結果、科学者になろうと計画し大学院を出た者の多くは容易に職に就くことができず、数年ほどポストドクターとして働くことはできても、その後の未来が不透明な状態になっている。
このような者たちは、“専門家として生き残るためには、何らかの「業績」を示し、それにより評価されることで研究資金を供給されなくてはならない” などと考えることになる。現代の制度化された科学システムは、一度糸口をつかむと、流れに乗ることができるような構造があるが、成果は必ずしも努力に見合うような形で得られるものではない。このような状況で焦りに駆られて、研究におけるデータの偽造やねつ造を行う研究者が、近年目立つようになっている[47]。
研究者が、科学の研究において行うデータの偽造や研究の捏造は「科学における不正行為」と呼ばれている。
[ヘルプ] |
ウィキペディアの姉妹プロジェクトで 「科学」に関する情報が検索できます。 |
|
ウィクショナリーで辞書項目 | |
ウィキブックスで教科書や解説書 |
|
ウィキクォートで引用句集 |
|
ウィキソースで原文 |
|
コモンズでメディア |
|
ウィキニュースでニュース |
|
ウィキバーシティで学習支援 |
全文を閲覧するには購読必要です。 To read the full text you will need to subscribe.
リンク元 | 「science」「サイエンス」 |
拡張検索 | 「科学技術的」「科学文献」「科学論文」 |
.