出典(authority):フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「2014/12/08 00:31:18」(JST)
知能(ちのう、英: intelligence)は、論理的に考える、計画を立てる、問題解決する、抽象的に考える、考えを把握する、言語機能、学習機能などさまざまな知的活動を含む心の特性のことである。知能は、しばしば幅広い概念も含めて捉えられるが、心理学領域では一般に、創造性、性格、知恵などとは分けて考えられている。
いわゆる「社会性」という範疇に入る能力は「社会的知能(英語版)」と呼ばれ、子供の心の発達との関連で近年注目されている。もっとも、社会的知能は本質的にパーソナリティの問題であり、厳密な意味での知能とは区別する向きも多い。
このように、知能には実にさまざまな側面があるため、個人の知能を客観的に評価する場合には注意が必要である。各々の知能検査が考案されている。知能検査の結果を表示するのによく使われるのが知能指数である。しかし、一般社会で知的能力と考えられるものを全て計測することは、無論不可能である。しかしながら、ごく普通の人間集団に施行したときに、かなりの程度その人の社会的適応度と相関するのも事実である。
一人の個人の中でも、言語的知能は高いが数学的知能は低いなど、ある程度のばらつきがあるのは正常である。しかしある種の発達障害(特に自閉症など)では、知能の下位領域ごとに大きくばらつきがあることが多い。
知能は生涯を通じて一定のものではなく、変化していく。成長に従い伸びる知能もあり、逆に衰える知能もある。精神・神経疾患のうち知能低下が最も顕著なのは痴呆性疾患である。知能の発達が社会的に不十分な場合は知的障害と呼ばれる。
スピアマンは1914年に、知能には一般能力と特殊能力の2因子があると提唱した。ソーンダイクは1927年に、CAVDという4検査によって知能が測れると提唱し、知能4因子説を唱えた。Cとは文章完成テストであり、Aとは算数テストであり、Vとは語彙テストであり、Dとはさしずテストである。サーストンは1938年に、57種類のテストを大学生に実施し、知能には9因子があるという説を提唱した。
ギルフォードは、180の因子があるとしている。
近年、アメリカのガードナーは多重知能というものを提案して、話題になっている。彼の提案する知能は、言語的知能・論理数学的知能・空間的知能・音楽的知能・運動的知能・社会的知能・実存的知能といったものである。前3者以外は、従前は能力であっても知能ではないと考えられたり、知能が具体的に適用された状態のことと考えられたりしたものである。ただ彼の提案する7つの知能は彼の主観によるものであって、テストや因子分析による裏づけはなく、話題になっている割に学問的基礎は弱い。おそらくガードナーは、知能を知能指数などといったひとつの尺度で測定しようとする向きへの政治的なアンチテーゼとして、あえてこのようなものを提案したとも考えられる。
一方、因子分析で提案されたスピアマンの一般知能gを、主として前頭前野にかかわるものとして捉えなおすことで、一般知能という概念に確固とした基礎付けを行おうとする研究もある。この観点からすれば、言語的知能、数学的知能、空間的知能は、それぞれ前頭前野を強く使用するゆえにお互いに能力的に相関するといえる。一方音楽や運動では熟練した状態ではむしろ前頭前野は使用されず、いわゆる「知能」とは異質かもしれない。
知恵と知識という言葉があるが、どちらも知能と関連した重要な概念である。知恵は目的と状況に応じて(言い変えれば動的に)問題への対処法を考案する能力である。知識は過去あるいは他人の知恵の方法と結果を記憶もしくは伝達し、目的と状況に応じて有用であるその記憶を取り出す能力のことである。知恵なくしては知識は形成され得ない。それゆえ知恵は知能にとってより根源的である。
しかし、必ずしも問題に対処するのに知恵がいつも有効であるとは限らない。なぜなら知恵を用いて問題を解くのは一般的に言って困難であり、解決に長い時間を必要とする場合もあるからである。天才的な閃きが必要な場合もある。運が必要な場合もある。結局のところ、知恵と知識をバランス良く使いこなすのが実用的な意味でより知能が高いといえる。
さらには、問題に対処するとき知恵により対処すべきか、あるいは知識をもって対処すべきかを判断する能力が重要になってくるが、これは経験に依るところも多い。
知能は人間について考えるものではあるが、動物に対してこれを考える例もある。同様に人間に固有と考えられることがある文化に対して、こちらがより汎用的な概念であるだけに考えやすい面はある。
動物行動学においては、生得的な本能行動、経験や繰り返しで身に付く学習行動に対して、先を見通して判断したと見られるものを知能による行動と判断する。
たとえば動物と餌との間に柵を置き、しかもその両側を動物側にやや曲げた場合、動物は餌に向かって進めば柵に当たるし、左右に通り抜けの場を探しても見あたらない。餌にたどり着くには大きく回り道をせねばならず、これは経験では身につけがたい判断力を必要とする。鶏では柵に進んでそこで右往左往し、犬は突き当たると左右を見渡して柵の外を迂回出来る。つまり犬の方に知能的な判断力があると判断する。
人間における知能と同様な意味での知能を動物に考えることも多い。当然ながら「知能とは何か」という問題が曖昧である以上、議論は難しいが、様々なアプローチはある。
例えば次のような視点から論じられ、研究が行われてきた。
コンラート・ローレンツは高等なほ乳類は嘘をつくことがあることを述べている[1]。イヌは、例えば飼い主の帰宅した際に間違えて吠えてしまい、それがわかったとたんに隣家の犬に向かって吠えて見せ、「主人ではなくあのイヌに吠えていたのだ」というふりをしてみせるなど、明らかに嘘をつくことがあるという。それに対してネコはそのような嘘をつくことがないといい、これはネコが正直である、というのでなく、むしろネコよりイヌの方が遙かに知能が高いことの証拠だと言っている。
彼はさらに霊長類における嘘について実例を挙げ、彼らの場合、それが嘘であるという意味を知っているのだと述べている。
計算ができることは知能があることと同値であるとの判断が一部にはある。たとえば「カラスは1桁の足し算ができるかもしれない」という話は、カラスが高い知能を持つ、ということを言いたい表現である。実際に計算は人にとって大変な頭脳労働であり、知的に大変な作業である。これを代行するために計算機が考案され、記号論理学が理論を計算式に変えたことで、計算機が知能への道であるとの判断はより強められた。その意味で、電子計算機は最初から人工知能の問題をはらんでいた。電子頭脳、あるいは電脳という表現すらある。しかし、現在において、計算に特化した電子頭脳である電卓に知能を見いだすものはいないであろう。その意味で、人工知能の問題は、「どうやって知能を代行するか」より、「そもそも代行すべき知能とは何なのか」を問い続けた経過でもある。
ダグラス・ホフスタッターはその著書『ゲーデル・エッシャー・バッハ』で人工知能の発展についてまとめた中で、人間の精神活動で行われることを行えるようなプログラムが出来るたびに、人々はそれが「真の知能ではない」ことを見いだすことを繰り返してきた、と述べ、皮肉を込めて「人工知能とは、その時点で未だなされていないもののことである」といっている。
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