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日本人、日本民族 | |
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紫式部 • 織田信長 • 徳川家康 • 明治天皇 |
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総人口 | |
約1億2692万人[1]日本 121,500,000人 海外に住む日系人4,010,000人以上 |
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居住地域 | |
先住地 日本列島( 日本) |
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ブラジル | 1,600,000[2] |
アメリカ | 1,404,286[3] |
中華人民共和国 | 140,134[4] |
フィリピン | 120,000[5][6] |
カナダ | 109,740[7] |
ペルー | 100,000[8] |
オーストラリア | 71,013[9] |
イギリス | 63,017[10] |
タイ | 45,805[9] |
ドイツ | 36,960[9] |
アルゼンチン | 34,000[11] |
フランス | 30,947[9] |
ニューカレドニア | 8,000[12] |
韓国 | 28,320[9] |
シンガポール | 23,000[13] |
香港 | 21,297[4] |
中華民国 | 20,373[9] |
ミクロネシア | 20,000[14] |
メキシコ | 20,000[15] |
ボリビア | 14,000[16] |
ニュージーランド | 13,447[9] |
イタリア | 12,156[9] |
インドネシア | 11,263[9] |
ベトナム | 9,468[9] |
マレーシア | 9,142[9] |
スイス | 8,499[9] |
バングラデシュ | 8,114[17] |
スペイン | 7,046[9] |
オランダ | 6,616[9] |
ベルギー | 6,519[9] |
マーシャル諸島 | 6,000[18] |
インド | 5,556[19] |
言語 | |
日本語族(日本語、琉球語)、アイヌ語 | |
宗教 | |
神道、仏教 |
日本人(にほんじん、にっぽんじん、英: Japanese)は、日本の国籍(日本国籍)を持つ日本国民。または祖先が日本列島に居住していた民族集団を指す。
主に日本人という語は、日本国の法律で「日本国民」と呼んでいる日本国に国籍を有する人々の呼称として用いられる場合と、日本列島に起源をもつ民族集団を指す場合に用いられている。
以下は、『世界大百科事典』の「日本人」の項目による[20]。
一般的に皮膚の色が黄色、頭髪は黒色、直毛で、体毛はうすく、髭は少ない。身長は中位、手足は短く、胴長である。頭の形は比較的丸く、顔は扁平、蒙古ひだがみられる。また幼児期には強い蒙古斑が現れる。以上のような点からみて日本人がモンゴロイド大人種に属していることは疑いない事実である。しかしモンゴロイドはいくつかの集団に分かれており、これらの集団が日本列島において混じり合い、現在の日本人が形成されていった過程は、必ずしも単純なものではない。[20]
平均身長は1940年代末ごろから伸びてきており、男性は171cmになっている[21]。成人女性は通例として、成人男性より平均身長がほぼ8%低い[21]。
日本人は18世紀に始まった初期の人類学によってモンゴロイドに分類されたため、長らくモンゴロイドの特徴とされたものがそのまま日本人の特徴であると認識されてきた。しかし、近年の分子人類学の発展によって実際の遺伝集団を表すY染色体ハプログループが判明したことにより認識に変化が起きている。
『世界大百科事典』によると、主要に日本人を形成したのは、「ウルム氷期の狩猟民」と「弥生時代の農耕民」とが渡来したことだった[22]。「ウルム氷期にアジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代人は、縄文人の根幹をなした」という[22]。「ウルム氷期直後の厳しい自然環境」が改善され生活が安定化していくと、「日本列島全域の縄文人の骨格は頑丈」となり、独自の身体形質を得ていった[22]。そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、「再びアジア大陸から新石器時代人が西日本の一角に渡来」した[22]。その地域では急激に新石器時代的身体形質が生じたが、彼らが直接及ばなかった地域は縄文人的形質をとどめ、その後「徐々に均一化」されていった[22]。「地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文化の変革による身体形質の変化はあっても、現在なお縄文人的な形態をとどめている」とされる[22]。
近年、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類による「モンゴロイドの2型」を用いている[22]。すなわち「古モンゴロイド」と、寒冷に適応した「新モンゴロイド」である[22]。「初め日本列島に渡来した後期旧石器時代人ないし縄文人は古モンゴロイド」であり、「縄文時代終末から弥生時代に渡来した新石器時代人を新モンゴロイド」と呼ぶ[22]。「新モンゴロイドの影響がまったく及ばなかったアイヌや南西諸島住民は、古モンゴロイド的特徴を今もなお残している」と解されている[23]。
かつては約3万年前に大陸から渡来して先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により完全駆逐説は否定され、混血説が主流となっている[24]。
日本人は、次のような幾つかの考え方により定義、分類が可能である。
以下、上記民族的分類による日本人について概説する。なお、近年の科学的研究の進展により従来の見方は大きく見直しが進んでおり、先史時代の日本人の形成については流動的な状況にあることに留意されたい。
石器時代の日本列島には下記の人々が活動した記録がある。
先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる[31]。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する人間を弥生人と呼んでいる。佐原真は弥生人について、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できるとした。ただし弥生時代において縄文文化のみを保持するものや渡来した後縄文文化を受け入れたものについては言及すらしていない[32]。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある。
倭、倭人に関する記載は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』と『論衡』にて登場するが、これらの記載は中国南東部の倭人のことを指しているとする説と日本列島の倭人のことを指しているとする説[33]があり、日本列島住民との関わりは不明である[34]。日本列島周辺の倭人について書かれた確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志で、百余りの倭人の国々が楽浪の海にあるとしている。この頃には近隣の漢民族が倭人を別民族として区別していたことがわかる。(詳しくは中華思想を参照。)また、朝鮮半島南部においても近年倭人の墓とされる前方後円墳が発見されており、1600年以上前には朝鮮半島南部も倭人の居住地だったとみられている。
古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。
「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」、「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。
大和盆地の大王を中心とした連合政権であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州、四国、九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九州の熊襲と呼ばれた諸部族は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族は隼人の反乱の失敗や坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は長年支配した朝鮮半島から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。
日本が近代ネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された併合地の先住民族を含む国籍的概念であった。大日本帝国が多民族国家であることは強く意識され、現在の日本国民に相当する人々は「内地人」と呼ばれた。ただし、当該の先住民族の間では「日本人」が内地人と同義として使われることが多かった。
南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。
以下、人類学的観点から、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。
形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人・弥生人や現在の日本国内に古くから住む住民がモンゴロイドに属する。むろん「モンゴロイド」という分類概念では漢民族などの東ユーラシア人全体が包括され、イヌイットやアメリカ先住民も含まれる。
だが遺伝子の研究が進むにつれ、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。モンゴロイド集団の分布は日本人形成過程の分析にとって今日もなお重要な手がかりである。
以下にミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統樹様にして表したものを記す。人類集団は常に混合しているため、多数の遺伝子を用いた分析においては一元的な系統関係は存在しないことに留意する必要がある。この図はあくまで他集団との類似性を示すものである。
下図左では、日本人に最も近いのは中国人であり、その次にカンボジア人であるという結果となっている。下図右では、日本人は中国人、マレーシア人、ポリネシア人などと近縁で、アジアのモンゴロイドに含まれるとされる。アジアのモンゴロイドと近縁なのがアメリンド、次いで、オーストラロイド、コーカソイドの順で、ネグロイドとは最も離れている。
多型マイクロサテライトによる人類集団の系統樹
近隣結合法による遺伝的近縁図
1980年代からのミトコンドリアDNAハプログループ(母系)の研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ参照)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えをしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。たとえば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推定できる。分析に用いられるのは、ミトコンドリアDNAの塩基配列のうち、遺伝子の発現に影響しない中立的な部分である。形態の生成等に関与せず、選択圧を受けないため、分析に用いることができる[35]。
ただし、ミトコンドリアDNAは稀に男性のDNAが混じることや、人間より検証個体の多いネズミのDNA測定では、ハプログループの分岐や時期が事実とは全く異なっていたから、あくまでもY染色体DNA等、他の資料と共に考察する必要がある。
日本人に特徴的なミトコンドリアDNAハプログループとして、ハプログループM7aがある[36]。琉球諸島・アイヌに比率が高く本州で比率が少なくなるという分布になっている。発祥地域については議論があるが、台湾付近で発生したM7aが日本を最大集積地(最も頻度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島中国北東部へ北上し、北上の上限がシベリアとなったとの見方がある。
これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南アジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想する一方、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している[37]。なお崎谷は上記の著書において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的で日本列島には及ばなかったと述べている[38]。
その他、日本人によくみられるタイプとして、ハプログループD (mtDNA)、ハプログループA (mtDNA)、ハプログループG (mtDNA)、ハプログループN9 (mtDNA)、ハプログループB (mtDNA)、ハプログループF (mtDNA)が挙げられる。
母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した[39][40][41]。ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す[42]。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない。
n | C | D | NO* | N | O | Q | R | |||||||||
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C1a1 | C2 | D* | D1a | D1b | O1a | O1b | O2 | |||||||||
O-M95 | O1b2 | |||||||||||||||
O-47z | O1b2 (xO-47z)[43] |
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日本 (Nonaka et al. 2007)[44] |
日本 | 263 | 2.3 | 3.0 | 0.4 | 38.8 | 0.8 | 3.4 | 0.8 | 25.1 | 8.4 | 16.7 | 0.4 | |||
日本 (Hammer et al. 2006)[45] |
アイヌ | 4 | 0 | 25.0 | 0 | 0 | 75.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
青森 | 26 | 7.7 | 0 | 0 | 0 | 38.5 | 0 | 7.7 | 0 | 0 | 27.0 | 3.8 | 15.4 | 0 | 0 | |
静岡 | 61 | 4.9 | 1.6 | 0 | 0 | 32.8 | 0 | 1.6 | 0 | 1.6 | 21.3 | 13.1 | 19.7 | 1.6 | 0 | |
徳島 | 70 | 10.0 | 2.9 | 0 | 0 | 25.7 | 5.7 | 1.4 | 0 | 2.9 | 24.3 | 5.7 | 21.4 | 0 | 0 | |
九州 | 53 | 0 | 7.5 | 0 | 0 | 26.4 | 3.8 | 0 | 0 | 3.8 | 28.3 | 3.8 | 26.4 | 0 | 0 | |
沖縄 | 45 | 4.4 | 0 | 0 | 0 | 55.6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11.1 | 11.1 | 15.6 | 0 | 2.2 | |
日本 (Sato et al. 2014)[46] |
長崎S | 300 | 3.3 | 5.3 | 0 | 30.0 | 1.3 | 0 | 1.0 | 23.3 | 10.7 | 23.7 | ||||
福岡A | 102 | 5.9 | 7.8 | 0 | 33.3 | 1.0 | 2.0 | 0 | 26.5 | 8.8 | 10.9 | |||||
徳島S | 388 | 5.7 | 5.9 | 0 | 30.6 | 1.0 | 1.8 | 2.1 | 23.2 | 10.3 | 17.8 | |||||
大阪A | 241 | 6.2 | 7.5 | 0.4 | 31.2 | 1.7 | 1.2 | 0.8 | 17.8 | 10.4 | 22.5 | |||||
金沢S | 298 | 3.4 | 6.4 | 0 | 32.6 | 2.3 | 0 | 3.7 | 21.1 | 11.4 | 18.5 | |||||
金沢A | 232 | 4.7 | 5.6 | 0 | 32.7 | 0.9 | 3.0 | 0 | 18.5 | 9.5 | 21.9 | |||||
川崎S | 321 | 5.6 | 5.9 | 0.3 | 33.0 | 1.6 | 0.9 | 0.3 | 24.3 | 10.0 | 17.8 | |||||
札幌S | 302 | 4.4 | 5.0 | 0.3 | 33.1 | 0.7 | 1.3 | 0.3 | 23.2 | 8.6 | 20.3 | |||||
札幌A | 206 | 3.4 | 7.3 | 0 | 35.0 | 1.0 | 1.0 | 1.9 | 19.9 | 7.8 | 19.9 | |||||
計 | 2390 | 4.7 | 6.1 | 0.1 | 32.1 | 1.3 | 1.2 | 1.3 | 22.0 | 9.9 | 19.7 | |||||
日本 (Tajima et al. 2004)[47] |
アイヌ(北海道日高) | 16 | 0 | 13 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||||
本州 | 82 | 5 | 1 | 0 | 37 | 0 | 20 | |||||||||
九州 | 104 | 4 | 8 | 0 | 28 | 2 | 24 | |||||||||
日本 (Seo et al. 1999)[48] |
宮崎 | 270 | 35.2 | |||||||||||||
日本 (Shinka et al. 1999)[49] |
沖縄本島中部 (読谷・勝連) |
61 | 30 | |||||||||||||
沖縄本島南部 (糸満・具志頭) |
99 | 45 | ||||||||||||||
八重山 (西表・波照間) |
27 | 4 | ||||||||||||||
東アジア (Hammer et al. 2006)[45] |
朝鮮民族 | 75 | 0 | 9.3 | 0 | 0 | 4.0 | 0 | 2.6 | 2.6 | 2.7 | 4.0 | 33.3 | 40.0 | 0 | 1.3 |
満州民族 | 52 | 0 | 26.9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5.7 | 5.7 | 5.8 | 0 | 3.8 | 38.5 | 0 | 7.7 | |
モンゴル | 149 | 0 | 52.3 | 0 | 2.6 | 0 | 0.7 | 8.0 | 0.7 | O1b*=1.3 | 22.8 | 2.7 | 4.0 | |||
漢民族(華北) | 44 | 0 | 4.5 | 0 | 0 | 0 | 2.3 | 9.1 | 0 | 6.8 | 0 | 0 | 65.9 | 4.5 | 2.3 | |
漢民族(華南) | 40 | 0 | 5.0 | 0 | 0 | 0 | 2.5 | 15.0 | 15.0 | 30.0 | 0 | 0 | 32.5 | 0 | 0 | |
イー | 43 | 0 | 2.3 | 0 | 16.3 | 0 | 2.3 | 30.2 | 0 | 9.3 | 0 | 0 | 32.6 | 0 | 0 | |
ミャオ | 58 | 0 | 3.4 | 0 | 8.6 | 0 | 0 | 0 | 6.9 | 10.3 | 0 | 0 | 68.9 | 0 | 0 | |
チベット | 105 | 0 | 1.9 | 3.8 | 46.6 | 0 | 0 | 2.9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 35.2 | 0 | 6.7 | |
台湾原住民 | 48 | 0 | 2.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 89.6 | 2.1 | 0 | 0 | 6.3 | 0 | 0 | |
東南アジア (Trejaut et al. 2014)[50] |
フィリピン | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4.8 | 0.7 | 42.5 | 3.4 | 0 | 15.0 | 0 | 4.1 | |
タイ | 75 | 0 | 0 | 1.3 | 2.7 | 0 | 0 | 0 | 5.3 | 42.7 | 0 | 29.3 | 0 | 1.3 | ||
東南アジア (Hammer et al. 2006)[45] |
ベトナム | 70 | 0 | 4.3 | 0 | 2.9 | 0 | 0 | 2.9 | 5.7 | 27.1 | 2.9 | 1.4 | 40.0 | 7.1 | 1.4 |
マレー | 32 | 0 | 0 | 0 | 3.1 | 0 | 3.1 | 0 | 6.3 | 34.4 | 0 | 0 | 31.3 | 0 | 3.1 | |
インドネシア(西部) | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 20.0 | 12.0 | 8.0 | 8.0 | 36.0 | 0 | 4.0 | |
南アジア (Thangaraj et al.2003)[51] |
オンゲ | 23 | 0 | 0 | 100 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
ニコバル | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 100 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
オセアニア (Hammer et al. 2006)[45] |
ミクロネシア | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5.9 | 0 | 0 | 11.8 | 0 | 0 | 5.9 | 17.6 | 0 | 0 |
北アジア (Tambets et al.2004)[52] |
ガナサン | 38 | 5.3 | 92.1 | ||||||||||||
ケット | 48 | 6.2 | 93.7 | |||||||||||||
北アジア (Duggan et al.2013)[53] |
ヤクート | 184 | 2.1 | 94.5 | 0.5 | 2.2 | ||||||||||
ユカギール | 13 | 30.8 | 30.8 | 30.8 | ||||||||||||
北アジア (Hammer et al. 2006)[45] |
アルタイ | 98 | 0 | 22.4 | 5.1 | 0 | 0 | 0 | 4.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.0 | 17.3 | 46.9 |
ブリヤート | 81 | 0 | 60.5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 30.9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2.5 | 0 | 3.7 | |
エヴェンキ | 95 | 0 | 68.4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18.9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4.2 | 1.1 | |
オロチョン | 22 | 0 | 90.9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4.5 | 0 | O1b*=4.5 | 0 | 0 | 0 | |||
北アジア (Lell et al.2002)[54] |
コリャーク | 27 | 0 | 59.3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 22.2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 18.5 | 0 |
チュクチ | 24 | 0 | 4.2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 58.3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 33.3 | 4.2 | |
ニヴフ | 17 | 0 | 47.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11.8 | 35.3 | 0 |
日本人のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」[55]で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルート[56]で到達したとする説がある。D1b系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。日本人全体で見るとD1b系統が約35%、O1b2系統が約30%、O2系統が約20%の順となっている。
崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万-3万年前に大陸からやってきたD1b系統である[71]。D1bは日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県約50%(4% - 56%)[49][47][44]、本州約36% (31% - 39%)[49][47][45][44]で、東アジアではほとんど存在しない。遠縁のD1aが多数のチベット人で見られるほか、少数のウイグル人、モンゴル人、アルタイ人、イ(彝)人、ミャオ(苗)人、ヤオ(瑶)人、漢人などでも確認されている。D1系統は4万年程前に二つのグループに分岐し、東進して日本列島に至り誕生したのがD1bであり、アルタイ-チベット付近にとどまったグループがD1aであると考えられる。
渡来時期については諸説あるが、後期旧石器時代及び新石器時代のヨーロッパ(クロマニョン人)、そして少数の現代ヨーロッパ人[72]、ベルベル人、アルメニア人、ネパール人[73]でわずかに見られるC1a2と姉妹系統のC1a1系統もかなり古い時代に日本列島に入ってきたと考えられる。崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている[74]。渡来年代についてはD1bより早い4万年以上前という説もあり、C1a1が日本列島最古層という可能性もある。現代日本人男性の約20人に1人(5%)がこのC1a1系統に属していると見られ[45][75][44][46][67]、朝鮮半島南方海上に浮かぶ済州島の男性1人から検出されたほか[76]、日本人以外で観察された例がない。
同時期にシベリアの狩猟民であるC2系統が、バイカル湖周辺からアムール川流域および朝鮮半島を経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた九州北部に達した(1.5 - 2万年前)。[要出典]また、一部はサハリン経由で北海道に達した。崎谷はC2系統は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。現在、C2系統はカザフ人、モンゴル人、エヴェンキ人等のアルタイ系諸族、極東ロシア(ニヴフ人、コリャーク人等)及び北アメリカ大陸北西部の原住民(例えば北部アサバスカ諸語話者等)に多い。ただし、C2系統も渡来時期については諸説あり、朝鮮民族などの周辺民族にも一定頻度見られることから、後述のO1b2系統やO2系統と共に渡来してきた可能性もある。ちなみにアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)で高頻度なC2系統はC-M407という若いサブクレードに属すものを除けばほぼ全てC-L1373系統であるが、日本人や漢民族、朝鮮民族などで観察されるC2系統はC-F1067系統が大半で、C-L1373はわずかである[77]。また日本列島固有のC2a (C-M93) もあり、一概にC2系統といっても、そのルーツや渡来時期は複数存在したことが想定される。現代日本人に於けるC2-M217の頻度については、各研究によって差があり、少ないものでは2%[75]、3%[45][44]ほど、多いものでは6%[46]、7%[76]ほどとなっている。
O1a系統(O-M119)は台湾の原住民の男性に非常に多いので、新石器時代の台湾または対岸の中国本土沿岸部が起源であろうと推測されている。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾と近いにもかかわらず、日本列島の男性ではO1aは全体の約1%(0%~3%)に過ぎない。中国復旦大学・黄穎、李輝、高蒙河らの研究によれば、中国春秋時代・百越(粤)のY染色体は、O1a系統である[78]。
O1b1系統の下位系統の一つであるO1b1a1a(O-M95)は現代の東南アジアの男性に多いけれども、元々は新石器時代の中国から拡散していったと見られている。[70] O1a-M119と同様、現代日本人の全体の約1%(1%~4%)がこのO1b1系統に属していると見られる。
O1b2系統(O-M176)について、崎谷満は長江文明の担い手だと考えている。O1b2系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、中国東北部、朝鮮半島から日本列島へ渡ったと崎谷満は主張している。O1b2系統は中国江南から水稲栽培を持ち込んだと考えられ、日本列島への流入は弥生人と関連し、則ちO1b2系統の到来と共に縄文時代から弥生時代へ移行しはじめたと考えられる。O1b2系統は日本本州の他、朝鮮半島や中国東北部でも比較的多く見られる。
O2系統(O-M122)について崎谷は、その一部は縄文時代~弥生時代にミレット農耕をもたらしたが、大部分は弥生時代よりも更に後、特に4世紀から7世紀頃に中国大陸及び朝鮮半島から到来した渡来人による流入が多かったであろうとしている[79]。O2は現代の漢民族及び朝鮮民族に最多の系統である。
N系統(N-M231)はウラル系民族に高頻度で、日本には0-8%見られるが、具体的な渡来経路などは明らかでない。N1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が青森で7.7%観察され[45]、遼河文明の遺跡人骨からもN1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が高頻度で見つかっており[80]、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている[81]。
HLAハプロタイプについては、日本人には大きく以下の4タイプの流れが認められる[82][83][84][85]。
1.は中国北部、モンゴルの一集団に高頻度のタイプで、国内では九州北部から本州中央部にかけて多い。
2.は満族、韓国人[86]に高頻度タイプで、国内では日本海側に多い。
3.は中国南部に多いタイプで、国内では沖縄や太平洋側に多い。
4.は国外では満族と韓国人[86]のみに多くみられ、国内には九州北部から本州中央部にかけて多い。このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も高頻度でみられる。
さらにこれとは別に縄文系と想定される別の複数のハプロタイプが南九州や北東北に存在する。またアイヌは日本人と異なる型が多いという。
ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値 (DA) 分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌと東アジア人クラスターが分岐、次いで中国人と東アジア人が分岐、次いで沖縄と本州とが分岐する[87]。
ヒトゲノムが解析されて[88]以来、人類集団間の遺伝的関係を推定するために大量のSNPを解析する研究が進展している[89]。日本列島の人類集団においても、このようなアプローチによる集団の歴史の解明、医療方面への応用が期待される。
遺伝子マーカーとしてのミトコンドリアDNA、Y染色体DNAとの違いは、①注目するDNA領域長、②遺伝的組み換えの有無、③遺伝様式などが挙げられる。
遺伝情報に基づいて系統関係を議論する場合、ハプロタイプ単位、あるいはマイクロサテライト、SNP単位での遺伝的多型に注目しているわけだが、遺伝的多型が必ずしも真の系統関係を示すとは限らない。なぜならば、遺伝的多型の実体である対立遺伝子頻度は、そのゲノム領域に依存した突然変異率、組換え率、さらに、遺伝的浮動、自然選択、集団間での個体の移住、個体群動態などの影響を受けるためである。この問題を避けるためには、互いに独立な関係にある座位を多数解析することが必要である。この点で、注目する領域が相対的に小さく、組換えのないミトコンドリア、Y染色体の遺伝子マーカーは得られる情報量が制限される。しかしながら、遺伝様式が常染色体とは異なることから、母系、父系の遺伝子系図を比較する議論ができるという長所もある。
ゲノム解析は中立進化をしている領域の他、転写されるコード領域も解析に含むため、適応進化の研究、個別化医療への応用も期待される。
上記詳細は太田(2007)[90]、斉藤(2009)[91]などを参照。
以下、日本列島人類集団を含む研究例をあげる。
International HapMap Consortiumの研究[89]では、東京由来の44名を含む人類集団サンプルを解析している。
Tian et al.(2008)[92]では、東アジア地域をカバーした集団サンプルを用いて、その遺伝的構造を議論している。主成分分析の結果からは日本列島人が単独のクラスターを形成することが見て取れる。同様のクラスターとさらに詳細な遺伝的多様性に関する研究は、HUGO Pan-Asian SNP Consortium[93]によってなされている。
日本列島内部集団の遺伝的構造を解析した例として、7001人のサンプルを解析したYamaguchi-Kabata et al.(2008)[94]では、日本列島の人類集団が琉球クラスターと本土クラスター に分かれることをゲノムレベルで示した。これはミトコンドリアやY染色体の解析からも予想されていた、日本列島人類集団の二重構造モデルを支持する結果であった。しかし本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかであった[95]。
しかしYamaguchi-Kabata et al.(2008)ではアイヌ人の集団サンプルを解析してはいなかった。最新の成果としては、斎藤成也ら総合研究大学院大学による大規模調査がある。これは、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人36個体分、琉球人35個体分を含む日本列島人のDNA分析を行った。
その結果アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。さらに、他の30人類集団のデータとの比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。また、アイヌ人はさらに別の第三の系統(ニブフなどのオホーツク沿岸居住民)との遺伝子交流があり、本土人との混血と第三の系統との混血が共存するために個体間の多様性がきわめて大きいこともわかった[96]。
また、この調査により、主成分分析およびfrappe分析から、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。
アイヌ人と琉球人は、東ユーラシア人の系統樹においてクラスターを形成しており、ブートストラップ確率(推定系統樹の信頼度)は100%であった。さらにこのクラスターは、系統樹上で、本土日本人とのクラスターを形成していた[97]。
集団遺伝学者の根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人の起源は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはわずかな影響しか与えていないという研究結果を出している[98][99]。分子人類学者の尾本恵市は埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説を批判しており、1995年に出した系統図では、日本人はチベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌとは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本州日本人はアイヌや琉球諸島、チベット、一部の台湾原住民と近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出している[100][101][102]。松本秀雄はGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している[103]。また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの研究結果が発表されている(台湾50、韓国70、日本80)[104]。
京都大学ウイルス研究所の日沼頼夫はALT(成人T細胞白血病)レトロウイルス (HTLV) のキャリアが多い地域を縄文系の人が色濃く残存する地域と考えた[105]。ATLのウイルスキャリアは日本人に多数存在するが、東アジアの周辺諸国ではまったく見出されず、アメリカ先住民やアフリカ、ニューギニア先住民などで多い。日本国内の分布に目を転じると、九州や沖縄、アイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方の太平洋側、隠岐、五島列島などの僻地や離島に多いことが判明している。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されている。HTLVはかつて日本列島のみならず東アジア大陸部にも広く分布していたが、激しい淘汰が繰り返されて大陸部では消滅し、弥生時代になってウイルス非キャリアの大陸集団が日本列島中央部に多数移住してくると、列島中央部でウイルスが薄まっていったが、列島両端や僻地には縄文系のキャリア集団が色濃く残ったものと考えられている。
日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析などが古典的な方法としてある[106]。形質人類学的な手法は、「ヒト集団の系統関係の把握」という用途に用いるにはかなり限界があるとの指摘が聞かれてきたところであり、この用途に限って言えば、完全に主役の座を分子人類学に譲り渡した感が強い。もっとも、遺跡発掘骨の年代推定は、発掘物のAMS放射性炭素年代測定法によりかなり正確に推定できる利点がある。
東大人類学教室の長谷部言人、鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。
それに対して、現代日本人は日本の先住民族に置き換わって成立したという「置換説」も、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。エルヴィン・フォン・ベルツは日本人でも長州藩出身と薩摩藩出身では顔に形質的な違いがあるとして「混血説」を提唱した。京都大学の清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表立って主張されにくい傾向があったが、同じ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人の混血であるとする「二重構造説」を唱えたが、近年分子生物学の研究が進むにつれて「縄文人」も北方系であるとする研究結果が多数出るに至っている。
考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器が玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、弥生人(渡来系)の人数を1割程度に見積もる研究者が多い[107]。一方で、人類学者による研究では大量の渡来があったとされ(埴原和郎で100万人、宝来聰で65%が渡来系)、人類学者の中橋孝博らによる人口シミュレーションによると、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高く、渡来が少数でも数百年で大きく数を増やす可能性も示された[107][108]。ただし弥生時代の遺跡で出土した人骨では、北九州や山口県をのぞく地域では縄文系とされる人骨の方が多く、弥生時代に実際に稲作を行っていたのは縄文人の系譜を引く人々の方が多いと思われる。特に東日本においては渡来系の特徴を持つ人骨の比率は2割に満たない。そのため現在では、圧倒的多数の縄文人が比較的少数の渡来人の文化を主体的に受け入れて弥生人に変化していったと考えられている。
日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在しているが、稲作以前から日本列島には人が住んでいたことと、移民してきた少数の稲作耕作者から稲作が原住民に伝搬された可能性とを考えれば、稲作伝搬が必ずしも大規模な移民を裏付けるものではないことに注意が必要である。
かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。 上記項目にて詳述。
人類学者の鳥居龍蔵は、アイヌ、固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)、インドシナ族(苗族)、インドネシア族(隼人)を主な構成要素として日本民族が形成されたと考えた[109]。
民族学者の岡正雄は、先史時代の日本列島には少なくとも以下の5つの種族文化が渡来したとしている[110][111]。
1. は縄文中期はじめ頃日本に流入。メラネシア原住民の文化と著しく一致(乳棒状石斧、棍棒用石環、石皿、土器形態と文様、土偶、土面、集団構造)。男性秘密結社の祭り(ナマハゲ)、タロ芋の一種であるサトイモを祭事の折の食物にする。
2.は縄文末期に日本に流入。狩猟生活とともに山地丘陵の斜面の焼畑において陸稲を栽培した。(太陽神アマテラスの崇拝、家族的、村落共同的シャーマニズム、司祭的女性支配者)
3.は弥生初期に満州、朝鮮方面からツングース系統のある種族によって日本に流入。粟、黍を焼畑で栽培しながらも狩猟も行った。アルタイ語系の言語を最初に日本に持ち込んだのはこの種族。(櫛目文土器、穀物の穂摘み用半月系石器)。日本語のウカラ、ヤカラ、ハラカラなど同属集団を意味する言葉ハラ=カラはツングース諸語において外婚的父系同属集団を呼んだ語ハラ (Hala) に系統を引く。
4.は紀元前4世紀から5世紀頃、揚子江の夏口地方よりも南の沿岸地域から呉、越両国滅亡に伴う民族移動の余波として日本に渡来したもの。弥生文化における南方的と言われる諸要素を日本列島にもたらした。アウストロネシア系の種族文化。(水稲耕作、進んだ漁撈技術、板張り船)若者宿、娘宿、寝宿、産屋、月経小屋、喪屋など機能に応じて独立の小屋を建てる慣習も年齢階梯制(年齢や世代の区分で社会を階層づける社会組織)によるもの。
5.は支配者王侯文化・国家的支配体制を持ち込んだ天皇氏族を中心とする部族の文化。4の文化と同系同質の種族が、西から来たアルタイ系騎馬遊牧民によって征服され国家に組織されることによって、満州南部に置いて成立したが1世紀前から南下し始め朝鮮半島南部に暫く留まり3 - 4世紀頃に日本列島に渡来。大家族、「ウジ」族、種族のタテの三段に構成される種族構造。「ウジ」父系的氏族、軍隊体制、王朝制、氏族長会議、奴隷制、氏族職階製、各種の職業集団、鍛冶職集団などを所有。氏族や種族を五つの部分に区画する「五組織」的な社会及び軍事の構造もこの文化。天神崇拝、父系的祖先崇拝、職業的シャーマニズムなどの宗教要素もこの文化。ユーラシア・ステップ地域の騎馬遊牧民の文化と本質的に完全一致する。
歴史学は資料の存在を必要とするため新しい年代の議論に限定される。ヤマト王権の起源については伽耶や百済、高句麗、夫余に求める見方がある[112]。
古代史、文化人類学研究者の鳥越憲三郎は「倭族」仮説(倭族論)を提唱している[113]。鳥越の定義では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である[114]。古代日本列島における倭人・倭国については『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝倭人条)が有名であるが、鳥越は他の史書における倭人の記述(『論衡』から『旧唐書』に至るまで)を読解し[115]、長江(揚子江)上流域の四川省・雲南省・貴州省の各省にかけて、複数の倭人の王国があったことを指摘した。その諸王国はたとえば『史記』にある以下の諸国である[116]。
さらに鳥越は、倭族の起源地を雲南省の湖・滇池に比定し、水稲の人工栽培に成功したというシナリオを描く。以降、鳥越は古代史的な文献研究と現場調査を交差させ、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったことを示した。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族(古代での和夷に比定。またタイではアカ族[117])、タイ族、ワ族[118]、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある[119]。ほか鳥越は、高床式建物、貫頭衣(和服)、注連縄などの風俗を比較している。
また諏訪春雄は倭族を百越の一部としている[120]。
いずれにせよこの倭族論(倭族仮説)は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論や近年の稲作の渡来とも重なっている。
日本語の起源を解明することで、日本人のルーツを明らかにするという研究もある。
日本語の起源は、従来、アルタイ諸語やオーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。現在の所、日本語の起源については、いくつかの説が出ているが決定的な物はない。
平成17年(2005年)度から21年(2009年)度にかけて、日本学術振興会による共同研究「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」が行われ、2010年2月20日には国立科学博物館にて公開シンポジウム「日本人起源論を検証する:形態、DNA、食性モデルの一致、不一致」が開催され、また雑誌『科学』(岩波書店、2010年4月号)では同内容が掲載された[121]。研究代表者の溝口優司は、研究班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れなかったと断ったうえで、日本列島へのヒト渡来経路は現時点では次のようになるとしている[122]。
また同研究では、北海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという仮説、縄文時代人の祖先は東南アジア・中国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地域の後期更新世人類の中から探さなければならないという指摘、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道 - 九州地方の縄文時代人とは下顎形態に多数の相違点が見出され、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされた[124]。
前者は日本男性、後者は日本女性を指す。武士道、武芸、日本的道徳、教養、芸術、和裁、日本料理の技能などを備えていることの誉め言葉としてよく使われる。国際スポーツ大会で活躍した日本チーム・選手は、20世紀末からは「サムライ○○」と呼ばれるようになった。(例)サムライブルー、サムライジャパン。
アイヌ語で、アイヌ人以外の日本人を、「自分のそば」「隣人」という意味のシサムという。それ以外の言語では、おおむね「漢語の日本の現地発音、ジパングに類似した固有名詞」+「国民、住民を表す接頭語、接尾語」で表現される。
中国語では、日本または日本人のことを小日本という蔑称で呼ぶことがある。
この節の加筆が望まれています。 |
日本人の殆どが日本語を話す。他、琉球民族では琉球語(琉球方言)が話されるが、伝統的な方言は殆ど衰退している。そもそも琉球語を個別言語とするか日本語の方言とするかで議論があり、琉球語の下位方言をさらに独立した言語とする場合もある。
アイヌの母語はアイヌ語であるが、母語話者はほとんど現存していない。
日本人の特定の宗教の信者数は、文化庁が宗教法人に対する宗教統計調査では、神道系が約9,126万人、仏教系が約8,690万人、キリスト教系が約294万人、その他約906万人、合計1億9,017万人と日本の人口の約1.5倍になっている[125]。一方、国民へのアンケート調査からは、「何らかの信仰・信心を持っている、あるいは信じている」人の割合は20% - 30%という結果が出やすい[126]。河合隼雄は『対話する生と死』の中で、日本人は宗教を毛嫌いしたり無宗教であることを公言する人が他国に比較し多いことを指摘し、キリスト教やイスラム教信者の信仰心は日本人の想像を超えるものであると述べている。また、日本では戦時中に宗教が国家権力と結びつき悪用されたことやもともと日本人は日常生活の中に、宗教性を入れ込んで生きる姿勢を保持していたため、特定の宗教を他の一神教の信者らが「信じる」ような態度で信仰しなかったと指摘している[127]。
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